旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(人形芝居・桂木座)

2013年05月30日 09時02分19秒 | 地域の伝説
村の観世音堂(建花寺址)を守る友人の父親か祖父のお話です。

建花寺の古野には浄瑠璃にあわせて人形をあやつる一座があって、村人に伝えられていた記録がないのではっきりしないが、70年~80年前、村瀬甚次郎という人がいて浄瑠璃が好きで、また人形を扱うことが器用であった。

この人が主となって粕屋郡伊賀のあやつり師(姓名不祥)を招き同好の士とこれを習ったのがはじまりらしい。

後熊本県出身で鞍手郡若宮町に住む大西岩吉なる人を師としていよいよ研究し、最盛期を作りあげた。

そのころは地元の人で浄瑠璃を語らない人はないというくらいで、また三味線を弾く人もいたが飯塚や伊岐須にも浄瑠璃が好きでぜひあやつり人形をまわしてほしいという人もあって,この人たちは引き幕や舞台のうえの垂れ幕などを寄贈した。

これによって「建古座」ともいったことがわかる。

 

巡業は嘉穂郡内はもちろんのこと、直方・宮田・田川までいき,ことに日鉄二瀬の山神杜祭りや大隈では毎年演じてたいへんに喜ばれたものである。また遠くは佐賀県岩屋までいき三日間も開演したこともある。

村内でも春秋の祭りや,先祖の追善供養などにも農閑期にはほとんど家にいたことがない。zzzzz

出し物は太閤記十段目先代萩三十三間堂阿波の鳴門、御所桜、忠臣蔵など多彩で、人形も30体ほどあり、他に八尾の狐、馬、鼠、などの動物と、箱下駄、建具(35枚)、見台、引き幕などもあった。

演出者も義太夫,三味線を除いても15人ほどもおり、なかなかにぎやかであった。

このような立派な文化財も,浄瑠璃を語る人もなくなり,人形をあやつる人もだんだん少なくなって現在ではわずかに2人を残すばかりである。また人形もこわれ、衣装も破れ、狐、馬、鼠などの動物、箱下駄、建具、見台も散逸し、残ったものの維持にも困るありさまとなっている。

現在では三番そうを酒宴などに披露する程度にすぎず、これが衰微の一途をたどっているのは数少ない村の文化財としてまことに残念なことである。

先人たちが作った、伝統芸能であるが後継者が居らず、今は、人形の首や幕が残っているだけで・・ほとんど廃ってしまっている。(先人たちの心の豊かさ・娯楽の無い時代の潤いを感じています。)

旧・鎮西村(神社と祭神・八幡宮・・大日寺)

2013年05月24日 12時00分16秒 | 神社と祭神
八幡宮(大日寺)


  

一.鎮座地 鎮西村大字大日寺字宮

二.祭 神 

応神天皇

神功皇后

仲哀天皇

武内宿弥

日本武命

天照大神

玉依姫命

三.祭 日 九月九日

四.社 殿
 
(イ) 神殿 横二間一尺、入一間四尺
  
(ロ) 渡殿 横二間、入一間
  
(ハ) 拝殿 横三間三尺、入二間一尺

五.境 内 一、三四〇坪

六.由 緒 境内杜伊弊諾神杜の欄に詳記する。
      神饌所兼杜務所は明治四四年(一九一一)三月十七日建設。
      大正八年(一九一九)九月十八日神饌幣帛供進神杜に指定された。

     (創 立 白鳳元年(六七三年)となっており歴史ある神社であることがわかる。)

七.境内神杜
(イ)伊弊諾神杜 祭神 伊弊諾命 建物 木造、 横二間、入二間半
「此杜もと妙見杜と称し、古来より鎮座ありて産神なりしが宗像氏の臣石松但馬此村に住し八幡宮を妙見杜の本社に立て、後世遂に産神とせり。

昔は神幸ありしと見て頓宮の趾本杜の東方六町許にあり松の元と云ふ、叉妙見田、三月田・二月田など之字残れり、神領は秀吉公没収せらる。」と郡誌にある。

里人もこのように語り伝えている。

   

(口)若八幡宮 祭神 仁徳天皇 由緒 不詳 
建物 横五尺、入五尺 と青柳氏蔵神杜明細帳にあるがこの杜と思われる建物は若八幡と名づけ応神天皇を祭ってある。



(ハ)老松神杜 祭神 菅原神、由緒 不詳、建物 横五尺、入五尺、昭和二十四年(一九四九)改築



(ニ)須賀神杜 祭神 素蓋為命、由緒 不詳、建物横五尺、入五尺、須佐神社と同一か?

(ホ)五穀神杜 祭神 保食神、由緒 不詳、建物横五尺、入五尺、昭和三二年(一九五七)七月吉日、赤間百兵衛氏古稀祝賀記念のため現在の石祠を寄進された。



(へ)稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、横5尺、入5尺、とあるが現在は石祠。



(ト)疫神杜 祭神 大巳貴命、昭和八年(一九三三)、ノケオより八幡宮にうつす、(ノケオは八幡宮裏二〇〇mの高地)石祠



(チ)貴船神杜 祭龗神 高龗神、闇龗神、昭和八年(一九三三)、井戸用からうつす。石祠



(リ)大山神杜 祭神 大山祇命、昭和八年(一九三三)、大日寺内尾からうつす。石祠

大日寺地区はむかしから区民が分担し小杜の管理維持にあたっている。
担当杜は当初の信仰別によったものと思われる。現在も多少の異動はあるが、
子孫によって受けつがれている。

古文書の一部を揚げれば 明治十六年二月■改訂(一八八三) 保長 岸田仁造在勤

字ノケ尾
疫神杜 梶原伴蔵、域丸次六、城丸末吉、城丸信吉
 
〔註〕八幡宮についてのすべての資料は赤間百兵衛氏からうけたものである。


大宰府神杜と大日寺村

嘉穂郡内には太宰府神杜の杜領と観世音寺の寺領とが相当に伸びてきていたようである。

郡、宝満の連山を境にして相隣接する地理的な関係からもその領地が郡内におよんだことは然考えられることであるが,特に地理的に近接する筑穂町、桂川町、碓井町から穂波町に拡っていてその一部は私たちの村にものびている。

太宰府天満官の杜務を支配した満盛院関係文書の中に,、大日寺と太宰府との関係を示す次のような記録が残っている。

太宰府天満宮宮師満盛院領之事
一、穂波郡内大日寺村之事  三十町

(県史1の下)

この記録は文永六年(一五二六)のものである。大日寺村を含む八カ所の寺領を記しているが、早良郡の戸栗、重富の二カ所に次ぐ大領である。

その他の五カ所はほとんど十町以下であることからみても大日寺村が室町時代においては太宰府天満宮領の内でも重要なものであったことがうかがわれる。

そのような関係から文永六年から七年後の天文二年(一五三三)には、九州に勢力を伸ばしてきた中国地方の大内氏と満盛院との間に大日寺領段ーのことで争いが起つている。

(県史一の下)

これらの記録から中世においては村内の一部が太宰府神杜の支配下にあったことが明らかである。

あるいは大日寺だけでなくて八木山にも太宰府天満宮の勢力がおよんでいたのではないかと思われる。

老松宮と天満宮とは太宰府神領の地に勧請される神杜であるが、大日寺が八幡宮境内に天満宮を祭っているように村内において八木山は老松宮を主祭し、さらに天満宮をあわせ祭っているのは因縁浅からぬ両者の関係を示しているようである。



天満宮, 老松杜勧請のことは筑穂町や桂川町一帯に明らかな事実であり、ともかくも中世における村の支配関係を知る一資料である。

この様な事象が起こっているとは、旧・鎮西村が重要な役割を果たしていたことの導ではないかと思うと、皆さんもロマンを感じるのでは。

旧・鎮西村〔神社と祭神・天照神杜・・蓮台寺〕

2013年05月24日 04時35分05秒 | 神社と祭神
天照神杜


 

     


1、鎮座地 鎮西村'大字蓮台寺字宮前

2、祭 神 
天照皇大神

瓊瓊杵命

猿田彦命

3、祭 日 9月9日

4、社 殿

(イ)神殿 横1間4尺、入1間3尺

(ロ)渡殿 横2間、入1間

(ハ)拝殿 横2間4尺、入2間3尺

5、境 内 360坪

6、由 緒 八額山(八面山とも云う)にある、八額山の峯八顆に分かれる。
      ゆえに八面神杜とも言う。由緒不詳,明治5年(1872)11月3日、
      村杜に被定される。

7.境内神杜
(イ)貴船神社 祭神 高龗神・闇龗神・
        建物 横1間、入5尺、
        由緒 不詳杜中に諾神が合祀してある。

(口)山の神 巡手より境内にうつす。天神さまを合祠詳細不詳、建物 横1間、入5尺

この神社に関しては、村人が残した記述が残っているので、紹介します。

何れが元祖か天照皇大神

筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社が祭られています。

八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。

処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。

池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。

天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。

天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。

瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。

昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。

それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。

昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻のわが家の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。

そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。

皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。

蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。

その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。

この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。

私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。

そして新しい発見をしたのでした。

新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。

その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。

処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。

その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。

その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。

村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。

これ即ち天照神社の誕生なり。

八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(五百年前)に再建されたといふ。

池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(二百四十九年前)に改築され、寛政三年十月(二百一年前)に幣殿が増築されました。

(村人の言い伝え・・・)


● 鳥居の写真を4枚掲載しているが、手前にあるのが天照皇大神・一段高いところにあるのが八面宮とある。(それと、もう一つの話・・・)

天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていない。この宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありましたよ。」驚いて、車を飛ばした。

飯塚市伊川の近く、蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。

(このときには分らなかったが、直近にもう一つの天照神社があるそうだ。)

この宮の宮司が、飯塚市伊岐須の高宮八幡宮の宮司ということで、少し引き返してお聞きした。祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。

「この並び方からすると、天照大神はニギハヤヒでしょうか。」・・・「可能性はありますね。」

青柳宮司の奥方はあっさりと答えられた。

このときに、三柱目の手力男命との関連で終に、天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。

男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。

古事記の「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。

瓊々杵命は天孫降臨の別働隊であって、確かに、竺紫の日向の高千穂の串振岳に天降ったのだろうが、この詔は饒速日命が笠置山に天降ったときのものと考えざるを得ない。

記紀は天孫降臨の主人公の詔を別働隊の弟の瓊々杵命のものに接木したようだ。

この話を元に結んでいくと・・・私たちが住んでいる筑豊平野・飯塚・宮若の地に大きなロマンを感じています。

旧・鎮西村(神社と祭神・宝満宮・・潤野)

2013年05月23日 11時24分10秒 | 神社と祭神
神杜と祭神

古来わが国民は「日本国は神国なり。」の信念を持ち、神杜は国家神道として尊崇(そんすう)された。

太平洋戦争終了後は、国家神道は神社神道にかわり、神社は一宗教として位置づけられ、わが国の歴史における一大変化で、転換期の概略を記して前書きとする。

義務教育においては、教科書から国家神道的色彩をもつものが一掃された。

行事においても四大節の、教育に関する勅語の奉読、祭興に代表児童の参拝、教師の指揮による学童の一斉拝礼学校設置区域に鎮座する産神の宮日の休業など,一切が廃止された。

その維持管理については、物心ともに、国家、町村の庇護が禁止され、関係者の自主的な意志によることとなった。現在は前の氏子が信者に変わっている。

此の現象のがマンネリズム的な一時現象として衰退をたどるか、自然発生的に昔のようになるかは、時勢の推移と信者の自主性によって左右されよう。

具体的には、祭典行事は、信者にかわった旧氏子たちが、従来どおり実施しているようであり、また維持費も負担している。

清掃維持は数人割りあて制、区域、全員など種々な方法によってなされている。


潤野宝満宮




1、鎮座地 鎮西村大字潤野字宮山

2、祭 神 

玉依姫命(神武天皇の母親)
     
天照皇大神

磐余彦命

葺不合命(神武天皇の父親)

火火出見命(神武天皇の祖父)

豊玉姫命(天孫・邇々芸命の娘)

3、察 日  9月9日

4、杜 殿 (イ)神殿、横2間1尺8寸 入1間4尺5寸
     
(ロ)渡殿、横6尺6寸, 入1丈2尺

      (ハ)拝殿、横2間1尺9寸2分 入2間1尺9寸2分

5、境 内 2,052坪

6、由 緒 福岡県地理全誌に「文明(1477)九年の棟札に奉再興満明神上檀一字御意趣者神徳益新国家安全特当所繁昌万快民楽善願成就而巳本願主筑紫民野田大膳亮藤原朝臣経久当所地頭武藤筑紫備中守藤原経勢文明九丁酉年(1477)二月十五日大宮司貞次諸神官貞吉等、神輿の飾に用ひし銅製流金の鳳の胴部(銘に勝屋次郎左衛門願主九月九日とあり社家にて長享年中と云へり、長享は後土御門院の年号なり、勝屋氏は今鞍手郡下村に子孫あり)ありしが文化元年(1804)甲子に焼失す、(鳳は腹のみあり)、探題行踊と云事あり,(真丸踊共云ふ)毎年八月新穀を供へ村民群参して是を行ふ、西京の輸踊とも云ものに同じ………」とある。

また太宰管内志に「筑前国穂波郡宝満明神者、振古乏名杜也、文明年中筑紫氏再造之、其時所揚之棟札今尚有之、然年所久文字漫減将失其真、予蒙君命巡邑之日、祀官請改書乏以為副遂不得辞書以与乏、其間唯一二不可解者如臼書後之者勿疑之、元蔵庚午仲秋十四日貝原好古判」とあってこの宝満杜と言うのは穂波郡潤野村にある。またこの杜の神輿の鳳形の銘に「宝満大菩薩云々脇屋次郎左衛門願主」とあり、「文化元年十一月(1804)朔日炎上して悉く滅せり。」と書いてある。現在の杜殿は昭和4年(1929)春吉日しゅん工式を行なったものである。

7.境内神杜

(イ)若八幡宮 祭神 品陀別命、息長足姫命、大鶴鵜命、由緒不詳例祭8月、
建物横1間3尺入1間3尺と(潤野青柳神官蔵神杜明細帳)にあるが
現在は建物はない。

(口)天満宮 祭神 菅原神 由緒不詳 例祭8月 
建物 横5尺入1間(神殿左側の建物か)

(ハ)厳島神杜 祭神 市杵嶋姫命 由緒不詳 例祭11月11目.・石祠

(ニ)飯祖神杜 祭神 稚産霊神、埴夜須神 由緒 不詳 例祭8月 石祠

(ホ)甲子神杜 祭神 大国主命 由緒不詳 石祠

(へ)祇園杜 祭神 素蓋鳴命 潤野下区より境内にうつした。








     

旧・鎮西村(神社と祭神・桂郷神社・・建花寺)

2013年05月20日 21時59分50秒 | 神社と祭神
桂郷神杜




1.鎮座地 鎮西村大字建花寺字堂園

2.祭 神 伊邪郡岐命,天照大神,品陀別命

3.祭 日 9月17日

4.杜殿 (ィ)神殿 横2間2尺 入1間

    (ロ)渡殿 横1間3尺 入1間2尺

    (ハ)拝殿 横3間2尺 、入1間

5.境 内 600坪

6,由 緒 不詳 明治5年(1872)11月3日 村社に被定、大正9年(1920)5月27日供進神杜に被定せられる。

7.境内神杜



(イ) 稲荷神杜 祭神 倉稲魂神、由緒 不詳, 例祭3月10日、
建物 方2尺, 高さ1間の石祠, 明治38年(1905)l1月の刻字

(口) 天満宮 祭神菅原神,由緒 不詳, 例祭2月24日、
建物 横1間・入1間3尺、木造瓦葺

(ハ)琴比羅神杜 祭神 葦原醜男神、由緒、不詳、例祭8月9日、
建物 横2尺5寸、入1尺8寸,石祠天保11年の刻字がある。

(二) 杵築神杜 祭神 大国主神,由緒不詳、例祭11月29日、
建物 方2尺 高さ1間、石祠

(ホ) 直日神杜 祭神 神直日神,大直日神,由緒 不詳、例祭2月10日、
方2尺,高さ1間、石祠、側面に明治38年(1905)l1月の刻字がある。

(ト) 祇園社  祭神 素盞嗚命、建物、方1.5間、木造瓦葺


桂 郷 神 社 に 纏 わ る 話


下記の記事は鎮西村が飯塚市・二瀬・幸袋が合併したときに編纂された“鎮西村誌”より抜粋して記載しております。


御夢想御伝記(原文のまま)


原夫日本は神国にして道は則ち神道なり 

故に天祖国常立尊を始として天神七代地神五代の神々耳統御し給ひ人皇は神武天皇に始まり既に九拾六代の今に至る迄天照大神の皇御孫天行をしろし召して神より伝ふる三種の神宝を御身の護とならせ給ひ皇統万々歳天壌と共に窮りなきは蓋し是神国なる此故に日本は万国に勝りて貴き事を記すべし

如笹日本は神国なれぱ神の教を神と云へる神道は却ち人道なれぱ朝暮身には離れさる道なり

抑舞山桂木の由来は人皇九十六代光巌院の御宇将軍守邦親王正慶二年癸酉二月廿八日夜年頃廿三四計り

女神轟髪冠装東着し枕頭に忽然と現れ是甚三左衛門汝が宅より申の方位に当る木山の谷奥ヘ三枝に生る夏木あり此木世に類なき末世には必ず秋津島の名木となる而して

此木の元より出る泉を用ゆれば人盛長寿牛馬安穏五穀豊熟せむ克民に伝へ給へ吾案内にして教へくれんと宣ぺり依りて

案内に従ひ登りけるに大深谷口に着ければ左右より少し流れ出づる水音鈴鳴の如くきこへしに此処より凡二丁余も登りけるに二筋に流れ出づるを桂川の内浦と宣ふ左桂の内川伝へ登りけれぱ谷迫となり誠に三枝に生る夏木ありる

末世名を発せむものをと凝ひあるべからずと宣ひて消へ失せ給ふにぞ否や夢覚けり扱て不思議なる正敷夢中とは思へ共神の御告なりと其儘捨て置かれじと

翌日與平兵次郎を招き夢中の次第を語り含けるに両氏誠に氏神の御告ならんと深く感じ直に申合わせ三人連れにて夢想の如く彼の山へ登りければ

あんの如く大谷口左の谷より流れ出づる水音鈴のなる如く聞えけるにぞ此処より凡二丁余登るに左右に流れ出づる川佳の内浦と教へある 

左桂の内川り行く谷の迫りと成る処を見れば正敷三枝に生る夏木あり 

誠に氏神の夢想にして御告なるやと拝し奉り有難再三拝し奉りて席宅いたし
郷中の人々呼寄せ委細夢想神のまにまに物語りし其上申し合せ 
翌三月三日上巳遊日なる故皆々引連れ桂木の元に参りける誠に神の御告ならんと皆々肝心仕りける 

其後字を舞山桂木桂川の桂郷名発いたし月

又氏神に桂郷妙見宮と御尊号拝し奉りける誠に御夢想の有難ぎ感ずるに余りあり仰ぐべし尊むべし

之に依りて氏神の報恩謝徳の瑞として敬而此一巻を末世に伝へ残す者也

坂垣四郎高房末孫
正慶二年癸酉三月上旬
甚三左衛門
興平
兵次郎


舞山桂木の由来(原文のまま)


抑舞山と云ふ険山の深谷に桂木といふ名木あり 

其辺一神埋りて二度御世に出でさせ給ふ事なしと言ひ伝ふ共由来を尋ぬるに人皇七十九代六条院の御宇安元年間一老人あり 

薪を取らんとてかの険山深谷をつたひて登りけるに頂は陽春桜花真盛り時にかかわらず 

四方静かにして物すごく只ましらの声と諸鳥の口帝くのみなり 

忽ち不思議の音して出づるものあり老人は猪鹿の類ならんと思ひしに遂に見馴れざる尊き老人身に白衣をつけ白馬に跨り老人に告げて日く我こそは此険山の霊神なり諸人我を祭らば五穀豊醸 諸病除去子孫繁栄凝ひなし

此深奥に当りて一つの奇木あり桂木と言う是我身体なり如何なる事あるとも此神木の枝葉を切る事勿れ 

神木の根元より出づる清水を浴するものは難産の忠なしゆめゆめ疑う事勿れと云ひも終らずかき消す如く忽然として失せ給ふ 老人は不思議の思ひをして我家にかへり諸人に語りしかば人々数人打連れて再ひ深山に登りて尋ね見しに果して不思議の神木ありけれぱ諸人奇異の思ひをなし 

春秋二度祭典を行うに至れり之れを伝へききたる近郷の人いづれも神木を拝見せんとて 日々の参詣人数千人深谷忽ちにして市をなすに至れり遂におごそかなる神殿まで建立ありしが其後一百余年一夜大風雨ありて神殿を破り 

且つ浪人さへ隠れ住むとの噂立ちければ諸人恐れて参詣するものなきに至れり

其後鎮西国師(聖光上人)竜王山麓に明星寺開山のとき此霊地の煙減せんことを恐れ山下に一寺を建立して建花寺と云ふついに寺号を以って村名となせり


観世音堂(建花寺址)


舞山は元馬出づる山と書きしが後語音誤りて舞山と云ふに至れり是れ白衣の老人馬にのりて出でられしを以てなり舞山の南方に当りて鈴川と云ふ処あり是れ白衣の老人出でられたるとき

鈴の音きこへしを以て名づけたるものなり桂木は元来月中の神木なるを以て太陽此樹の頂上に来るときは暫時休息せらるると云ひ伝ふ依って舞山の南方の谷を名づけてひよこひ谷と云ふ 

今は誤りてひよこ谷と云ふ桂木の有る谷を桂谷と云ひ其流水を桂川と云ひ其流域を桂の郷と云ひ其氏神を桂郷神杜と称し其他酒名屋号等に桂の名を用ふること多し 

只示茲に一の奇なるは古より建花寺に生れたる婦人にして難産にかかりしもの一人もなしと云ふ 

古昔は桂木の落葉を肌につけて安産の守りにせしと云ふ今に至るも村人の桂木を尊敬するの念少しも変らず堂字を建立して七五三縄を張り一枝一葉といへとも切ることを敢へてするものなく 

春秋の祭典をなして夏分は毎日村人交代にて参詣して潮井を取りて村内戸毎に配分するを例とす 舞山は土地非常に肥沃にて樹木繁茂し幾度か切払われしにもかかわらず桂木丈けは切残されて 今日に至るを見れば如何に此木の村人に尊敬せらるるを推知すべし 

桂木は他木に見るべからざる一種の生育力を有する奇木なり地上一二尺の所より数多の新芽を発生し 

此新芽生長するに随ひて漸次に母木に吸引せられて遂に母木にまき込まるるに至る 

独り自分の新芽を引込むのみならず 

近傍に有るものは異種の木と云へども往々引込むことあり 

現今も周囲二尺位の楓の引込まれて地上十余間の処に接木の如ぎ観をなせり一旦引込まれたろ木は 

桂木の成長するに随ひて漸次に同化して上方に釣り上るに至るものなり 

殊に樹木を引込むのみにあらず往々岩石をも引込むことあり三四十年前頃神体として桂木の根元に祭りし二ケの大石をも何時ともなく引込まれて今は地上数尺の所に釣上げられて奇観を呈す 
              
天保十三年寅六月初句写之



<獅子舞い/strong>



獅子舞いは厳かな神事であるが、娯楽施設のなかった昔は一つの娯楽行事でもあった。
獅子舞いを奉納するのは夏の祇園祭りが多いが、八木山のように祇園祭りと「おくんち」と2回、潤野のように「おくんち」だけ舞わすところもある。

また神前や堂塔だけしか舞わないところもあるが、内のすべての家で舞うところもある。

獅子舞いの編成は、世話をする人(獅子頭というところもある)と獅子を舞わす役として雄獅子に2名・雌獅子に2名・交替の者4名の8名の獅子かたがいる。

衣しょうは腕ぬき(甲かけ)・白衣・赤だすき・はかま・白足袋・わらじ・白の鉢巻で腕ぬき・はかまは胴と同じ図柄のものを着る。

囃子かたは大太鼓(潤野では子供の役で老練巧者な介添えがつく)・小太鼓(竹を細長くむちのように削ったものをばちとして用いる)・かね・苗で、笛は2・3名が吹き、他は交替者がいる。

その他清道の旗やちょうちん・御幣・面・矛などをささげる人など多くの人数が必要である。

獅子舞の稽古はその月のはじめから行ない、祭の前日に仕上げをして奉納する。

獅子舞いは大太鼓・小太鼓・かね・笛の囃子(音楽)にあわせて行なう。

獅子舞いの移動のとぎには道巾で奏する「道ばやし」や・神殿を一巡するときの「堂めぐり」があり、舞は序(はじめのきり)・破(なかのきり)・急(のり)の3段階で舞う。

序ではゆるやかな音楽で雌雄の獅子は同じ舞い方をし、破では急調となり2つの獅子はそれぞれ別の舞いをし、急では高潮に達し2つの獅子は最初の位置を入れかわって勇ましく舞い終る。

なお、明星寺(南谷)では祇園・おこもり・彼岸まつり・おくんちと年4回も舞わしている。

そしてここだけが獅子を舞わす前に杖を使う行事をする。

はじめ天地四方のよろずの神がみに向って獅子を舞わす4人が楽にあわせて「エーイ・エーイッ」と天に向い杖をつかうと、中の2人が残り「エイッ・エイッ・ヤッ」「エイッ・エイッ・ヤッ」と掛声を勇ましくかけ、杖を立てたり組み合わせたりして意気をあげて場払いをして獅子舞をするのである。

最近では肝心の獅子かたである獅子を舞わす青年が県外へ就職するなどでだんだん滅り、この獅子舞いを続げて行くのに困り今年はとうとう取り止めたところもある。
今なお舞わしているのは次のである。



大日寺・花瀬・潤野・明星寺(南谷)・八木山(本村・東部・久保尾)・蓮台寺(池尻)・建花寺(本村)。









旧・鎮西村(安養院・・建花寺本村)

2013年05月20日 17時11分36秒 | お寺と本尊
  


建花寺字荒巻にあり、報土山と号した。

本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。

この寺はむかし。

現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって昔仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。

安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀二年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。

その後・建久三年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師法相宗浄土宗に改め安養院と改称された。

後天正九年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(168九)現在の地に一小宇を再興したということである。

現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。

(鎮西村誌より抜粋)


弥陀如来・・空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。

大日如来・・密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。

光仁天皇・・宝亀元年十月一日((770年) 天応元年四月三日(781年)

行基菩薩・・668年~749年81歳没となっており、行基の彫刻した阿弥陀仏を安置したのでは。


行基(ぎょうき)生没年 668~749 (天智7―天平21)



系譜・・父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。

略伝・・河内国大鳥郡(現堺市)に生まれ、15歳で出家、道昭を師とし(注)、法相宗に帰依する。24歳の年、受戒。初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。

やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。

37歳の時、山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。

この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。

また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
 
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続け、722(養老6)年には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。

行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、731(天平3)年、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許し、740(天平12)年頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。

同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。

聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17)年正月には、異例の大僧正に任じている。

また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。

「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

(注) 行基は道昭から唯識・禅行を学びまた利他行を受け継いだとされる。

しかし当時の唯識学は新羅からの影響の濃い摂論宗系(無性有情の者には成仏の契機がないとする玄奘の新唯識学に対し、「一切衆生悉有仏性」の立場をとる)が有力であったとして、道昭との師弟関係を否定する説もある(吉田靖雄『行基と律令国家』)。


聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)(1162応保2-1238暦仁1)



浄土宗の第2祖。鎮西流の祖。字は弁阿・聖光房という。九州西北部を中心に活躍したため、鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人などとも尊称される。

応保2(1162)年、5月6日、筑前の国香月荘楠橋邑(現福岡県北九州市八幡西区香月町)に古川弾正左衛門則茂(入道順乗)の子として生を受け、生後まもなく母と別れ、
68年(仁安3)7歳で菩提寺妙法について出家。

75年(承安5)筑紫観世音寺で登壇受戒し、以後8年間、白岩寺の唯心・明星寺の常寂について天台の研鑚修学につとめた。

83年(寿永2)22歳のとき比叡山にのぼり、東塔南谷の観叡の室に入った。のち東塔東谷の証真(宝地房)に6年間師事して天台の奥義をきわめた。

90年(建久1)郷里の香月に帰り、翌年油山(福岡市の西南)の学頭に推挙され、また発心城主草野永平の帰依を受けるようになった。

93年(同4)異母兄弟に当たる三明房が死ぬとき気絶する様子を見て無常を感じ、ひそかに天台の法門を捨て、浄土の法門に心を引かれた。このころ明星寺三重塔(五重塔ともいう)の再建運動が起こり、弁長はその事業に専念して完成を見た。

ついで97年(同8)層塔に安置する本尊を注文するため上洛して仏師康慶に依頼した。本尊の完成する3箇月間在洛した弁長(32歳)は、当時専修念仏者として有名な法然上人を京都に訪ね、三重の念仏を聞いて得心し、弟子となった。

一旦本尊仏を抱いて帰郷した弁長は、開眼の法要をすませたのち再上洛し、1204年(元久1)までの前後8年間法然の膝下で師事、親しく面授付法を受け念仏の教えを正しく継承する人となった。自らも九州油山の学頭として名を馳せていた聖光は、「法然がいかにすばらしいとはいっても、どれほどのものであろうか」といった慢心があったようである。

しかし、いざ対面をして話を進めるうちに法然上人の知識の奥深さに舌をまくばかり。

感服した聖光は法然上人の許で修学することとなった。 その後、『選択集』を与えられ「この書を写し末代によく広めなさい」と、そしてさらに「私の思う所はすべてあなたに伝えた」との言葉を賜った。すると聖光は「私にとっての釈尊とは法然上人のことである」と、その感激の胸の内を表したという。

元久元(1204)年、故郷に帰った聖光は、法然上人が心の師と仰いだ中国浄土教の大成者善導大師をも慕い、九州の念仏道場の拠点として善導寺を建立している。

また筑後高良山(久留米市)のふもと厨寺(聖光院安養寺)で1000日の如法念仏を行った。途中で天台・真言僧の反対運動も起こったが無事満行し、一躍有名となった。

12年(建暦2)弁長は善導の逮夜と法然の77日逮夜に当る3月13日、彦山の般舟三昧道場で追恩のため別時念仏を行ない、善導来朝の霊夢を感じた。

14年(建保2)入河は京都より下って入室、のち弁長の右腕となって活躍する。

20年(承久2)檀越草野永平は山下郷の善導寺(前光明寺)を改築して大伽藍とし、ここが九州における念仏布教の基盤となる。筑後の地にあって自行化他につとめ、とくに宗祖滅後、聖道諸宗のはげしい非難攻撃と、宗祖門弟による背私自立の異議続出するなかにあって、選択本願・専修念仏の祖道を祖述し、顕彰することによって、浄土宗の正流の宗学を確立することになる。

こうして弁長の精力的な活躍が展開されてゆく28年(安貞2)10月25日、弁長は肥後往生院(熊本)で48日の別時念仏を行なった。この間『授手印』を撰述した。

これは伝宗第二重の巻物である。これは弁長が善導教学を背景として、法然から相伝した教えを、六重22件、55の法数に及ぶ宗義と行相のもとに結帰1行説をたてて、選択本願、念仏一行三昧に結帰することを示したもの。

以後浄土宗5重の中心として相伝の奥義とされてゆく。

弁長の行動範囲は、筑前・筑後・肥後に及ぶ。しかも、その教化はつねに念仏道場の建立を伴なっている。 伝説では48寺を建立したといわれるが、筑前の善導寺・吉祥寺・光明寺・本誓寺・極楽寺、筑後の善導寺・陽善寺・安養寺・天福寺・地福寺・光明寺・無量寿右常念寺、肥後の往生右五福寺・三宝右西光院など、ゆかりの現存寺院は多い。

門下も入阿をはじめ聖満・宗円・円阿・唯称・生仏・行仙・持願など多くを数えるが、中でも宗円は、33年(天福1)弁長の命によって入宋し、廬山などで善導作の『弥陀義』を探したが、ついに求めることができなかった。

このように寂するまで弁長は善導を慕い、浄土教の研鑚に励んでいる。

だからこそ法然に帰依する心が深まり、『念仏名義集』『浄土宗名目問答』『念仏三心要集』『浄土宗要集』『徹選択集』『識知浄土論』『臨終用心鈔』など、多数の著述を残す結果となった。 なかでも、『徹選択集』は聖道諸宗からの非難攻撃を意識して、聖浄兼学の必要を強調し、通別念仏という独自な考えを打ちたてて「別より通に徹せしむ」ことをあきらかにして称名念仏と諸行との関係を解明する外、二十二種選択義・浄土菩提心などの説をかまえて祖師の教議の顕彰に当たった。

36年(嘉禎2)9月8日、良忠は九州に下って上妻天福寺で弁長に対面し弟子となった。

良忠はここで『浄土宗要駿(西宗要)の講義を受けて筆受し、翌年善導寺で『徹選択集』の授与を受け、璽書を与えられた。 8月3日、良忠は『領解末代念仏授手印鈔』を作って弁長の印可を受け、後継者(の1人)となった。門弟のなかから付法に最適な良忠を選び、これにすべてを伝授し、正流の隠没を防ぎ、以後の発展を期した功績に対して、末徒等しくその高恩を感謝しなければならない。この後良忠は故郷の石見に帰って布教するが、弁長は翌38年(暦仁1)77歳で入寂した。

こうして法然上人から伝えられた念仏の教えを、さらに後世に正しく伝えるために、多くの弟子を導いた。

そして後の浄土宗第三祖となる良忠を後継者として、そのすべてを伝えた嘉禎4(1238)年1月29日、お念仏のうちに往生をむかえた。享年77歳のことだった。

法然滅後、門下は他流他派に分かれたため、弁長在世中における浄土宗二代の位置は不安定なものであったが、良忠とその門下が活躍するにつれて、弁長の二代の位置は確立された。弁長は芸術的素質を持った人で、自作の仏像や自像を残している。

郷里香月の誕生山聖光院吉祥寺本尊は腹帯阿弥陀如来と呼ばれ、安産守護のみ仏として今も信仰が篤い。また『授手印』を詠歌のようによんで念仏をするなど、善導寺楽との関係も深い。1827年(文政10)大紹正宗国師の号を賜った。
(閏二・二九寂)


浄土宗第二祖として、浄土宗の流れを伝えた聖光、主に九州の地で布教・教化にあたったことから鎮西上人とも呼ばれている。
(浄土宗大辞典・浄土宗新聞平成12年11・12月号記載より)


昔は、境内で奉納相撲もあっていたみたいです。

奉納相撲なので、娯楽とはいえないが、娯楽の少なかった昔としては、けっこう娯楽的な行事としての要素をもっていた。

建花寺 八月十五日 安養院の境内で行なうが、これについては次のような話が伝っている。

昔、庄屋の下女が疲れのためつい居眠りをしているところを人にみられて笑われたので、これを恥じて池に身を投げて死んでしまった。

しかし成仏ができず幽霊となって迷いでたので、これを可哀そうに思った村人がその霊を慰めるために安養院に祭り、相撲をするようになったということである。

最近は神社の境内で奉納相撲を遣っていたのですが、子供が少なくなり・・今は、遣っていません。

老人たちはさびしそうです、昔からの行事が継承できないということは、さびしい限りです。

旧・鎮西村(古代のロマン)

2013年05月18日 00時35分15秒 | 天照伝説
古代のロマン(天孫降臨説話の本来の主人公)

『鞍手町史』の「第三章 大和時代 第五節 日本神話と鞍手神話」の178ページに出ている小見出しである。

鞍手の地には神話時代から古墳時代にかけて、記紀や旧事本紀と関連して重要な神や人物が登場する。

宗像三女神、饒速日(にぎはやひ)命、倭建(やまとたける)命、そして、神功皇后、鞍橋くらじ君等である。

饒速日命は、天孫降臨説話の本来の主人公と考えられる。ニニギノ命の兄、天火明命に間違いなかろう。

ニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と天神本紀にあり、天照大神とはどうやら彼のことのようである。

その名も天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていなこの宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

● 笠置山 (四二五m 福岡県宮田町) ・・「饒速日命が最初に降臨された山という」

笠置山の山頂は平地で三角点がある。太宰府県立自然公園の標識がある。この山に中世の山城があった。

宗像氏が永禄十一年築城したが、この地方の豪族との軋轢(あつれき)を経て秋月氏が端城として使っていた。本丸、二の丸、空堀・などの跡が残る。

宮田町宮田にある天照御魂神社は元はここにあったと資料にあったが、それらしい形跡はない。

天照御魂神社の祭神は饒速日命で、神武天皇が祀ったと伝える。

饒速日命は日本書紀では、天照大神の命で天磐船にて河内に天下る。

しかしここには最初に降臨されたのが笠置(笠木)山であったと書く。

そして宮田町には天照御魂神社上宮、中宮、笠城権現社などがありこの神を祀っている。

神代史論の一つによれば、饒速日命は遠賀川流域の鍛冶集団であった物部氏が、遠祖として祀っていた。

物部氏の一部はやがて新天地を求めて出雲を経て(国譲りして)大和に進出していく、神武東征前のことである。

遅れて神倭磐余彦(神武天皇)は日向から瀬戸内海を経て大和へ向かう(神武東征)ことになる。

そして先着の物部氏の抵抗に合う云々。

この神社の縁起では、神倭磐余彦(神武天皇)が饒速日命を祀ったとなっているが、饒速日命は神倭磐余彦の大和進出を妨げた神である。分からない。

神代史は私には山よりも苦しい。
(ホームページのブログより)


笠置山







笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇十六年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

笠木(笠置)城跡は城の正面にあたる大手を南の嘉穂盆地にとり、背後から宮田町千石峡を搦手(からめて)とした山城で、本丸・二の丸・三の丸のほか、空堀・石塁・なども見られる。

戦国時代には、眼下に広がる嘉穂盆地のうち、飯塚市庄司にあった葛山城、ニ瀬から幸袋にかけての白旗城と合わせて防衛線を築いていたと考えられる。

白旗城のあった白旗山には、江戸時代初期に小堀遠州好のみの窯跡として知られる高取焼きの白旗窯があり、その作品は、同じ高取焼の流れをくむ千石焼とは趣おことにしている。
 
笠木城の築造年代については不明であるが、一五六八年(永禄十一)年に近隣宗像地方を中心に勢力を伸ばし、鞍手地方にも力を持っていた宗像氏によって既に築造されていたことがしられており、何らかの理由により宗像氏の手を離れ、秋月氏に移ったことが江戸時代の『筑前国続風土記』に記されている。
『筑豊を歩く』より抜粋


意外な新情報

「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありました。」
飯塚市蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。
この宮の祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。

天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。

男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。

笠木山は立岩式石包丁(立岩遺跡)の分布の中心に位置している。



この饒速日古事記にある「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。

饒速日命が降臨時に鞍手町新北とその周辺(古遠賀湾)に率いて来たのが、天の物部二十五部衆であり、そのうちの贄田物部がここ新北(和名抄に云う新分)に住まいした。
そこは剣岳の西麓でもある。

「剣岳は蓋し物部氏の兵仗を祭る所にして、以て往時其の族党の住まいしと致すべきものとす」とあり、
(吉田東伍『大日本地名辞典』より)

この記事を読み、蓮台寺・建花寺・大日寺の神社周りを私自身で廻ったところ。
蓮台寺池尻には、天照神社(地元では天神様という。)があり、天照大神・手力男神・猿田毘古神が祀てあります。





蓮台寺本村には、天照皇大神社(旧・八面宮という。)には瓊瓊杵尊・天照大神・建花寺本村の安養院近くの小高い山の上に猿田毘古神(五穀神)が祀てあり、大日寺本村の神社には本殿の寶満宮の正面向いて右上のほうに妙見宮が祭てあり其処の祭神が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が祀ってありました。

下記の資料は、私の住んでいる建花寺に隣接する蓮台寺の方が書かれた本の一部です。

“何れが元祖か天照皇大神”

筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社(八面宮)が祭られています。

天照皇大神(池尻地区)





八面神社(八面宮)(本村地区)





八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。

処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。

池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。

天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。

天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。

瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。

昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。

それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。

昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。

そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。

皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。

蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。

その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。

この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。

私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。

そして新しい発見をしたのでした。

新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。

その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。

処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代・1363)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。

その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。

その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。

そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。

村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。

これ即ち天照神社の誕生なり。

八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(1492)に再建されたといふ。

池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(1743)に改築され、寛政三年十月(1801)に幣殿が増築されました。

旧・鎮西村(鎮西炭鉱)

2013年05月16日 11時44分12秒 | 地域・歴史
鎮西炭鉱のあゆみ

牟田炭鉱のはじめ(伊藤伝右衛門時代)

鎮西鉱はむかし牟田炭鉱と呼ばれていた。鉱区はなだらかな起伏のある潤野丘陵のうち,花瀬・鎮西・牟田にひろがっていた。

石炭の発見は潤野鉱と同じく宝暦年間とみられる。

明治2年鉱区が開放され採掘も自由だったので、家族や使用人をつかい「石ほり」といって掘っていたようである。

土地が平坦なため,たこつぼ式の直径1mの立て穴をほり,深くなると3本柱のはね木を設け,4斗だるにつるべをつけ大づなを上下して掘りだした。

明治6年「日本坑法」ができてから村の共有地を盛んに掘り、排水ができなくなるとまた新らしいところを掘ったので、あちこちに穴ができ軍隊の野外演習のときには危険なので赤旗をたてていたそうだ。

この鉱区は山本延太郎(現在牟田の山本幹助の実父)が、明治6年日本坑法による借区開鉱願によって所有していたのを、幸袋の伊藤伝右衛門,中野徳次郎,松本健次郎が譲り受け、三者の共同経営で始めたようだ。



その後松本は明治鉱へ,中野が相田鉱を始めたのが明治30年である。
 
当時は「たぬき掘り」であったが、排水がいちばん困難で湧水にあうと切り羽を見すてなくてはならず多大の影響を及ぼした。
 
近いところは手びしゃくでくみだしたが、坑道がのびるとふいごをつくって,2、3丈もある大竹の節を通し、その竹の中に小竹を入れて、水鉄砲の要領で排水し、坑道が長くなると水溜めをこしらえ、何本かの竹で坑外へ排水した。
 
明治31年ころ,伝右衛門は硯在の鎮西鉱杜宅の川向う付近に蒸気ガマを取りつけたが、これが始めての蒸気による動力で排水および巻上機につかわれた。
 
そのときのようすを赤間幸太郎(82才)にきくと次のようである。花瀬街道をコロをつかって蒸気ガマは運ばれたが、付近の人は珍らしく大きな機械に目をみはった。
 
またこのとき土台に始めてコンクリートを使用しているが、毎日数台の車力に気勢をあげ
ながらにぎゃかに、砂や石を運んだそうである。当時にしては'革新的な事業といえよう。
 
鎮西鉱の着炭祝いには、4斗樽を6丁もあけて「目玉つきいわし」で自由に飲ませ、余興には「操りつり人形」で気炎を上げたそうだが、伝右衛門の気骨がしのばれる。
 
明治37年日露開戦の影響は鎮西鉱にも大いに反映して,付近に大納屋や小納屋がぞくぞくとたてられたが,頭領は5人もいて一納屋には20人~30人住んでいた。
 
あと向きには近所の人だけでも200人ぐらい働いており,盛んなときには坑夫が500人~600人いたそうである。後に牟田に第2坑口が掘られたが,大日寺川の底を掘っていたためその水がながれこみ6人の死者を出すという悲惨事がおきている。
 
労働時間も二交替制で一番方は朝午前4時~午後2時,二番方は午後4時~午前2時の10時間であって,実質12時間労働を強いられたようである。
 
しかし賃金のかわりに出した金券は、飯塚の町でも大手の三菱・住友と同価値で,「伊藤さんの金券」といって通用しその羽振りのほどが想像されるのである。

ここでも、筑豊を代表する伊藤 伝右衛門の名前が出てくる・・この当時を代表する炭鉱主であった事と思います。

それと、飯塚を紹介するブログがありました。


第一不動産・文野さん



旧・鎮西村の歴史(石坂・潤野の合戦)

2013年05月14日 09時57分15秒 | 地域の伝説
石坂・潤野の合戦

天正十年は織田信長が全国制覇の寸前に惜くも本能寺に敗死した年であり、信長の遣業をうけついだ秀吉が全国統一の偉業をなしとげたのが天正十八年(一五九二)である。

これをみても天正年間がいかに戦国争乱の時代であったかが知られよう。

まさに統一直前の終盤戦が各地に展開された時代である。

九州においても大内大友龍造寺が九州各地の小豪族を配下に従えて九州全島の支配を三分して争った時代である。

天正の後年になっては毛利,大友,島津が北部九州の争奪に激しい戦いをくりかえしたようである。

特に早くから筑前地方を支配してきた大友は,南九州を領有した島津の侵略を受けて筑前・筑後一帯を防衛するのに懸命であった。

粕屋郡の立花山に居城をもつ立花は大友の勇将であり、古処山に城を構えた秋月は、島津北進の先鋒であった。

このような形勢の中で秋月立花との間に嘉穂盆地の争奪戦がくりかえされたのは天正十年の前後数年間にわたったようであるが、立花山と秋月との間にあった私たちの村が戦禍の災難から逃れることができようはずもない。

次に抄録する記録は戦火に明けくれたそのころのようすが生々しく伝えられたものである。

立花家文書

天正九年十一月六口於穂波表合戦の砌、戸次伯耆入道雪家中之衆、分捕高名、或被疵戦死之着到,令披見言乞
県史(1の下)


これは大友が秋月と戦った大友方の勇将立花道雪に与えた書状で部下将兵の功績と負傷者,戦死者の名簿を披見したと書いたものである。

横大路文書

前之六日・穂波郡潤野原合戦之刻・最前被砕被刀疵之由候,感悦無極候,必配当矯,何様可賀之候,恐々謹言、
天正六年十一月十一日統虎 道雪 横田伊豆守殿
(県史1の下)


前の書状は立花道雪,宗茂の父子が配下の臣横田伊豆守に与えた軍忠状である。
すなわち重傷にも屈せず奮戦した働き振りはまことによろこびにたえない。
戦い終わって賞を行う際には必ず賞讃することをわすれないと感激をこめて書いたものである。


同じ十一月の潤野合戦に負傷しながらも奪戦した薦野増時にも同様の軍忠状をおくつているが、天正九年十一月(一五八二)潤野の一帯を戦場にして北上する島津の先鋒秋月軍と大友勢力防衛の先陣立花軍との間に激突がくりかえされたときのことである。

この戦いによって寺院も神杜も焼き払われたが再興のいとまもなかったであろうし、兵火によってやきはらわれた民家に佇むうちのめされた村人の悲惨な有様が目にうかぶようである。

日本全国がそうであったように私たちの村もこのころの戦火で焦土と化してしまつたのではなかろうか。

かってそれ以前に栄えたと思われる明星寺をはじめ村内の寺杜もそのころを境にして全く昔日の面影をとどめるものもないまでに焼失してしまったようである。

そのような戦禍の惨状が秀吉の島津征伐の終るまで続いたとおもわれる。
秀吉が大隈城に到着して秋月をくだしたのは天正十五年四月二日(一五八七)のことである。

当時の戦況を九州紹運記には次のように述べている。

鑑連公、紹蓮公御両家の人数を以って穂波郡へ打出石坂守龍野へ御陣被成賀麻穂波両郡を放火し引き退く処に秋月より八千の人数を指出し……紹蓮公御白身御長刀をめされ早やかかれ者共と御声を励し切り懸らせ給えば・……槍を入れ太刀を合せ或は組合い差違え黒煙を立て、(九州紹運記)こうして秋月八〇〇〇人の兵に対して立花,高橋の連合軍も六〇〇〇人の兵を繰り出して八木山、潤野の線に合戦を展開した。
ついに秋月方の七〇〇人を討ち取って粕屋郡に引き上げたと記している。

鑑連公とは立花道雪のことである。

このときの合戦に高橋紹蓮の嫡男統虎公が十六才にて初陣かくかくたる武勲をたてたとも書いている。

統虎はこの後立花道雪にみこまれて道雪の養子となり、後には朝鮮の役にも勇名をはせた筑後柳河藩主立花家の祖先立花宗茂である。

戦国の勇将立花宗茂十六才の若武者振りもさることながら、その日の合戦の思い出は彼にも終生忘れることのできない追憶となったであろ。

村内各所に伝えられる城跡や古戦場はいずれもそのころのつわものどもの夢の跡である。

八木山千人塚のいい伝えも天正九年十一月(一五八二)の激戦の語り草のようである。

天正十五年六月(一五八七)遠征終った秀吉が九州諸大名の領地を定めここに九州の兵乱は全く鎮定した。

そして筑前一国と筑後の一部は小早川隆景が領有することになった。

それにしても私たちの村にとって天正の戦禍はなにもかも村全体を一変してしまったようである。

踏みにじられた平和な生活をとりもどすために祖先の人たちの不屈の一鍬一鍬は焦土の中に新しい村を再建してぎたのである。

鎮西村再建の時代であり、むしろ今日の私たちの村の新しい出発の時代となったようである。

豊前覚書(弓箭物語柳川国初日記トモイウ)

元和元年二月城戸豊前守清種の著述
道雪(立花)様紹運(高橋)様御人数天正八年慶辰九月上旬=石坂=而御両家之御人数御もやひ被成、穂波郡の内潤野原御打出、御両殿様御すわり被成候。

左様御座候処=秋月衆八千程にて朝辰の時分御陣所へ攻掛申候間、御両殿様急ぎ馳向候へと上意ニ候へ共、大橋京林被申上候分=時悪戦敷候間御据り場=引受御鑓被侯へと被申上半、無程敵近参候間、先手之衆堪兼突掛り可申と被仕候処、大橋京林さいふり時は京林へまかせられ候へと被申候間三段程之田之間を隔て据候所へ実かり申候間、早時分死候と被申=付て据場立候へ則鑓打むかひ其まま御突崩し、はじと申村迄三里追打被成、秋月殿内歴々の侍三五〇余御打捕被成候、御両殿様彼頸実見被成頸見塚三ツ京林つかせ被てより、御両殿様御時宣を被成候て、先道雪様御腰物御脱勝時御上候てより、追付紹運様御腰物御脱御勝時御上候てより惣勢一度二刀ヲ脱キ御勝時を上候刻ハ天地も響き雷電稲妻の如く夥敷事無比類侯。

誠に弓矢八幡摩利支天かと、御両殿様御事申すべく、左候てより石坂之様二御引被成候。

八木山へ御陣被成、惣勢二被仰渡候分い、人別ニ炬ヲ誘候へと被仰付候間、何も相誘申候由申上へ、大祖山の峯より宝満迄彼炬むらもなくり、灯候へと御意候間、八木山御陣所より宝満まで四里之道灯流申侯ヘバ、味方見申てさへ夥敷候間、秋月面より見申候ハ、御両家の御人数存之大勢御座候由、批判仕候由承候。

翌日巳の刻ニ御両殿様御参舎被成候而、御誤合被遊候てより、紹運ハ葉山の内嶺通り宝満之様二御帰陣被成候。道雪様ハ石坂より金出通御被成候右御語合之義統虎(立花宗茂)ヲ道雪様御養子可被成様二風聞申候。

八木山・石坂の戦い

「石坂の戦い」は、「筑前国続風土記」に「八木山村古戦場」として記述がある。
この合戦は「立花統虎」の初陣として知られている事から、統虎中心に記載する。
「八木山合戦・石坂合戦」が正しく同一の戦いであったかは確認できない。
「統虎」が立花城に入った頃は「戸次道雪」の「立花姓」はまだ許されてはいなかった。
「道雪・統虎」が正式に立花姓を継ぐのは天正十年十一月十八日以降である。 
「柳川立花家」の史料によれば「道雪」は生前「立花氏」は用いず「戸次道雪」を通し、死後に「立花道雪」と呼ぶように為ったとしている。
 
「統虎」は永禄十年十一月十八日(一五六七)豊後国国東都甲荘、屋山(八面山)の北麓、長岩屋松行川沿いの吉弘館「筧城」で「吉弘鎮理」の嫡男として誕生した。幼名は「千熊丸」。

吉弘氏の本城は「屋山城」であったが、平時は麓の館(筧城)に居た。
この館(やかた)のあった場所ははっきりとしないとされる。長岩屋松行川の辺りであったことには違いないようであるが、堀の内あたり、吉弘氏の菩提寺「金宗院跡」など云われている。弟に「統増」がいる。

元亀元年五月、父「高橋鎮理」は筑前国豊満山、岩屋城城督として入り、「高橋鎮種」と歴代大蔵系高橋氏の偏諱(いみな)「種」をつけ「鎮種」更に入道して「紹運」と号す。
この時千熊丸は三歳であった。

千熊丸は子供の時から体大きく、がっしりしていたと言う。弓矢撃ちにも長け、物事に動じず、状況判断や機転はすばやかった。 
何事においても同じ歳の子供はおろか年上にも負けなかったと言う。
「千熊丸」は持って生まれた武将としての天性のものを備えていた。
この嫡男に「紹運」は吉弘家の行く末の安泰を感じていた。

この「千熊丸」の器量は「道雪」も見て取っていた。
「道雪」「紹運」は親子程も歳は違ってはいたが、武将として相通ずるものがあり盟友関係にあった。
千熊丸は元服して名を「統虎」と改める。

天正九年八月十八日「道雪」は、「戸次・高橋」の絆をより強固にする事こそ、筑前牽いては大友を安定させる道と、「紹運」に「千代」への婿養子を申し出る。

「老将道雪」の、このたっての依頼に、「紹運」は統虎を「千代」の婿養子とする事を了承する。

立花山城へ入った「統虎」はその年の初冬、天正九年十一月六日「秋月種実」との八木山「石坂合戦」に、両父「道雪・紹運」と共に初陣する。

この「石坂の戦い」は何度と無く熾烈をきわめた、大友、秋月の戦いの中でも、この穂波郡内(穂波郡は、古くは穂波屯倉・ほなみのみやげ、と云った)最大規模の戦いと言っていい。
多くの者が討ち死しそれを弔った「千人塚」が八木山本村に、残されている。

筑後国生葉郡井上城「問註所鑑景」は従来大友に従っていた、しかし秋月種実が力つけ大きくなると「種実」に通じる。

この事態に同族問註所統景」は大友に救援要請。

豊後より「朽網統暦」が到着する。

これを支援し、秋月の兵力を分散撹乱するため「道雪、紹運」の両将は「初陣の統虎」へ伴い鞍手より「嘉麻・穂波」方面に軍を進めたのである。

ところが「朽網」は突然豊後へは引き返えしてしまう。秋月種実も井上城へと篭る。

憤懣やるかたない「道雪・紹運」は、秋月の領地、飯塚片島、潤野、大日寺一帯に火を放ち蹂躙する。これに「種実」は、急遽兵五千騎あまりで大友軍を追討する。

この合戦に初陣の「統虎」のいでたちはまさに「武者絵」を見る如くであった。
煌びやかな唐綾縅の鎧、前立て勇しく兜の緒をきりっと締め、金象嵌に鹿皮の尻鞘の太刀を佩き、矢筒背高に負い塗籠めの強弓手に、栗毛の駿馬に乗り凛々しい武者姿であった。

この戦いの発端は前記の如く、鞍手方面から打って出た「戸次道雪、高橋紹運」勢が、飯塚、嘉麻一帯を蹂躙したことに端を発した。
追討してきた「秋月」勢に大友勢は激しく襲い掛かり序戦は、大友勢は秋月の首級三百を挙げる。

初陣に臨んだ統虎は、馬を下りると何を思ったか「自分についてくる者は来い」と紹運の本陣より三町も離れて陣を構えようとした。驚いた統虎の傅役(もりやく)「有馬伊賀守」は「本陣を離れては敵に付入られ危ない、紹運さまの陣へお戻り下さい」と諫めた。

これに統虎は「敵が大勢でも如何ほどのことはない、父と一緒に動いては、我に従う者も父の勢と共に進退して、我の下知には従わなぬではないか。

ここは、我の計りごとに任せよ」これに傅役(もりやく)伊賀守は「この機あって戦慣れした者でさえ考えもつかぬ事、年端も行かぬ初陣の者にしては人並みを勝れた知略である、天性の武将の才能を備えておられる。

ここは「統虎様」の計略通りいたそう」と百五十騎ほどを統虎につき従った。

戦いは熾烈を極めた。建花寺川(けんげじかわ)の谷筋の急坂を攻め上がって来た秋月勢に「紹運」は至近まで引き寄せ、一斉に「鉄砲」「弓矢」を撃ちかけたので、秋月の先鋒が次々倒れ先陣の七百が怯んだ。

これに「紹運」機今と自ら大太刀振るい切り込んだ。
秋月勢はこの「高橋勢」の勢いに石坂下に落ちる。(現在も、石坂の下あたりを坂の下という)

これに秋月の二陣壱千騎が犇めき合って攻上ってきた。

「紹運」も更に気力振るって切りまわる。

そこへ静かに伏せていた「統虎」の一五〇騎は秋月の横を突いて打って出た。秋月の後陣参千も攻め上がり、紹運の千五百との間に激しい合戦となった。

双方に戦死者も増えた。この状況の中、初陣「統虎」は鎧を揺るし秋月雑兵を倒すが秋月勢が群がるように統虎に迫っていた。

有馬伊賀守も必死に統虎を守ろうとするが自身も方々に太刀傷受けていた。
この有馬へむけ秋月の剛の者「堀江某」なる者が討ち懸ろうとした。
これに気付いた統虎、強弓に矢を番え「堀江」に向け放つと、矢は堀江の利き手に見事命中、子供の頃から小鳥も射落としたという統虎の弓の腕は確かであった。

それでも手負いの「堀江」秋月でも名を為す兵(つわもの)「統虎」に組討で懸る。
しかし体力に勝る統虎はこれを一気に取り押さえる。

そこを統虎に従っていた「萩尾大学」が首級上げる。

戦いは、「戸次道雪」の伏せ兵壱千余りが林から一気に懸ったので秋月勢は総崩れとなって敗走する。

この「秋月種実」に「戸次道雪高橋紹運」初陣の「統虎」の争った「八木山石坂の戦い」、大友三〇〇、秋月七六〇、併せ壱千体越える戦死者だす壮絶な合戦であった。

中でも、「統虎」は知略のある陣立で軍勢を調え「初陣」を存分に戦い、優れた武将としての片鱗をみせた。

翌年「立花統虎」と姓を改め、以後戦国の世を戦い抜く。

八木山石坂古戦場について

中世八木山とは、現在「千人塚(皐月GC:竜王コース近く)」のある本村付近を指した。

筑前続風土記によれば八木山氏と云う地頭がいたようである。

当時、この付近は人里遠く山深いところであった。

篠栗へ下る直前に山伏谷という所があるが、この地名の由来は、この辺りに山賊が出没し、山伏せを殺していた事に由来すると言う。

風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。

嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。

筑前続風土記に「石坂の戦い」は書かれていないが、石坂を取り上げて書いた事は、当時からこの場所が大変な通行の難所であった事が覗える。

只、筑前国続風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。

元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。

石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。
いまある「茶屋」の地名はその名残り。
当時は二本の松ノ木があったと書いているが、今残っていないようだ。

風土記の記述が正しいとすれば、戦国時代の路は今の石坂より北、飯塚へ流れる建花寺川の上流谷筋(蓮台寺)から山に取り付き、鎮西カツラの木のある辺りの上尾根を迂回したと見られる。

(当時も建花寺川と呼んだかは分らないが、川の名称は中世は違って居た。
遠賀川は、このあたりは「嘉麻川、下って直方川、更に木屋瀬川、と呼んだ)仮に、激戦地がこの戦いの戦死者埋葬した「千人塚」の説明板の記述にあるように「八木山展望台」辺りだとすると、合戦時ここは大変な急斜面、比高もあり攻め上がるは相当困難である。

こうして地形を見ると「石坂」と言っても、直接その場所指すのではなく、主戦場は十数町北の山地から、千人塚にかけてと見られ、石坂はその総称ではなかったか。

この戦いの戦死者葬った「千人塚」の位置からして、急坂急崖を千体もの死体集め、三十町も離れている所まで運び埋葬したとは思えない。

八木山氏宅址と八木山殿墓



八木山の老松神杜の杜地前に八木山氏の宅址という所があり、中村に八木山氏の先祖の墓という所がある。
墓という所は高さ60cmで1.5m四方の盛り土に小さい祠がたっている。
土地の人は地主様といっている。

(私が行ったときは、見当たらなかった・・口枯れたのか・新しく立ち代ったのでは?)

八木山千人塚(鎮西村誌)

天正年間筑前国は、豊後大友氏の立花城「戸次道雪」、岩屋城「高橋紹運」と筑前筑後の諸将との対峙が熾烈を極めていた。
その中でも「秋月種実」は弘治三年七月十九日(一五五七)「戸次鑑連」率いる大友軍に古処山を攻められ父「文種」が自刃に追い込まれる。
当時十三歳の「種実」は家臣に守られ、かろうじて逃れ中国「毛利元就」のもとへ逃れる。
天正に入り(天正四年前後)「種実」は古処山城を奪回帰参する。古処山に戻った「種実」は、父の仇敵大友に常に対峙、休松、柴田川、八木山、岩屋、立花など各地で大友軍と戦う。
天正九年十一月「戸次道雪・高橋紹運」は大友に反旗した筑後国生葉軍井上城「問註所鑑景」をめぐって、支援する「秋月種実」を撹乱するため、五千騎にて秋月領「嘉麻」「飯塚」に討って出る。
大友勢は「潤野」「大日寺」一帯に火を放ち、稲穂を刈るなど蹂躪。
これに秋月種実は同じく五千騎で追跡。
篠栗と飯塚の間「八木山石坂」で「紹運」「秋月」が激戦となる。
その中「道雪」の伏せ兵千騎が秋月勢に襲いかかり、秋月勢は総崩れとなった。
この戦いを「八木山石坂の戦い」または「八木山村古戦場」という。
この合戦の戦死者、秋月七百六十、大友三百、あわせ千人を越えた。
「千人塚」は「石坂合戦」で戦死した両軍の死体を集め葬った所と言う。激戦地は三十町ほど東「石坂」とされるが、このあたりも主戦の激戦地であったのではないか。
古戦場の近くには様々に戦死者を弔う塚や地蔵塔があるが、この「千人塚」は 実数で千体を埋葬したか分らないが、まるで古墳の様に丘陵をなし大きい。
恐らく延長は四〇m近く、幅も二五m高さ7~8m近くある。戦国のものとしては九州では一番大きな塚であろう。 
八木山とは古くはこのあたりを指していた。

異説:石坂の戦い「八木山村古戦場」

この項は別途「石坂の戦い(統虎初陣)」にて紹介した「戸次道雪、高橋紹運」「秋月種実」の争った石坂八木山合戦を「筑前国続風土記・巻之二十五」版をもとに書き上げたものである。

この戦いの発端は、大友氏旗下筑後井上城「問註所鑑景」が秋月に寝返ったことから、同長巌城城主で一族の「問註所統景」救援に「大友宗麟」が豊後直入郡山野城「朽網宗暦」を派遣したことに起因する戦いである。以下「風土記」を読み替え一部書き足した。

中世、筑前国穂波郡八木山村は「上村・下村」の二村に分かれていた。

その「上村」に「城ガ尾」と云う山がある。

この山は南方の高山である「龍王嶽」に続く低山である。(こん日この山の場所は、はっきりとはしない、風土記の文面より、現八木山小学校の南あたりに位置しているようである)

天正の頃「立花山城」の戸次氏の軍勢が「城ガ尾山」へ取上り占拠したので「秋月種実」の軍勢が責めて来たのだという。

これに「薩摩勢」も援軍出し戦ったが、この合戦で双方に多くの兵が討ち死を出した。

その死骸を埋めた場所が「城ガ尾」の西にあって、今も「千人塚」と呼んでいる。

天正九年十一月、豊後大友家の軍勢が筑後国生葉郡に侵入撃ち出た折「秋月種実」はこれを迎え撃つため、上座郡(かみつあさくら)に出張って対峙するとの情報が「道雪、紹運」の下へ入った。

これに立花山城の「戸次道雪」岩屋城「高橋紹運」は、両家の軍勢併せ都合五千余騎を引き連れ、秋月の軍勢を遮り分断させるための撹乱作戦に出たのである。

両将は秋月領内深く、嘉麻郡飯塚片島辺りまで押し入り、周辺悉く火を放ち焼き払い蹂躙した。
しかし対抗する秋月勢との出合いは無かった。

天正九年十一月六日やむなく、道雪、紹運の両将は嘉麻より一旦陣を引くこととした。

一方秋月方は「種実」が上座(かみつあさくら)に出陣中、留守のこともあって「道雪、紹運」両将相手に、平な場所での戦いは勝算は望めない。

敵が引く時山道の狭い切岸や、陣形のままならぬ場所に追い懸けて討ち取るべく、兼ねてより秋月旗下の臼井、扇山、茶臼山、高の山、馬見山の各城代共と僉議(せんぎ)を重ねてあった。

このため、秋月方はたちまち五千余人が集まり「戸次、高橋両軍」勢の引きいく跡を追い懸けて行った。

しかし「道雪、紹運」は少しも騒がず、敵に構うことなく「足軽」共を殿(しんがり)に立て、遠矢を放ち秋月勢の付け来るの防ぎ、静々(しずしず)引き退いていった。
これを見た秋月勢は、俄かに競うように追討してきた。

「道雪、紹運」は八木山の東の坂にて(石坂を指すと見られる)、先陣・後陣、一気に取って返し突き懸けていった。

秋月旗下の士たちも、暫くはこれを支えて戦っていたが、終に(遂に)こらえられず坂下へと引き落ちて行くところを「道雪」「紹運」の軍勢はこれを追い詰め、穂波郡の土師(はじ・現嘉穂郡桂川町土師)まで凡そ三里余(一二km余 それにしても「道雪、紹運」両将にしては、何故これほど敵領地の中深追いしたのであろうか)追い詰めた。
この間、秋月勢は一度も押し返すことが出来ず、「道雪、紹運」は敵首二百三十あまりを討ち取った。

「道雪、紹運両将」も今はこれまでと、閑(しずかに)引き返そうとした時。秋月(距離からして、おそらく古処山城、又は小石原城)」にいた留守居の家老達が、この事態を聞きつけ、上野四郎右衛門、坂田市之丞、井豊前、城井、長野、上原らの勢五千余人が、上座出陣に催促され着陣を終えたばかりであったことから。秋月の家老達はこれを引きつれ、臼井坂を打出し、屋山原(弥山原・現飯塚市弥山)より「土師」に至っていた
「大友軍」の横合より突き懸っていった。

これを見て、引きかけていた秋月勢は俄かに力を得て合流、秋月勢都合八千八百余人は一気に、取って返し「道雪、紹運」勢へ反撃を開始した。

これにはさすがの「道雪、紹運」も、朝からの合戦に人馬共に疲れており、対し秋月方は新手が加わり大軍となっていたので、戦いを避け引き退くことになった。

秋月勢は勢いに乗って、引き遅れた大友勢を追い詰め三百余人を討ち取る。

秋月の将「上野」「坂田」は、「種実」に従い長年軍功のある者達で、敵の取っ手返し易い広場では、遠矢、鉄砲を撃ちかけ閑に追い、取って返し難い切所では鬨(とき)を作って討ち懸かった。
これには勇将もって知られた「道雪、紹運」も一度も取って返すことが出来なかった。
しかし、さすがの両将、この後兵を統率糟屋郡へと難なく引き上げたのである。

秋月勢も今はこれまでと、八木山より引き返し追討した首四百余りを八木山村の東の嶺に切りかけて秋月へと引き上げた。 

城ガ尾」「千人塚」とはこの時のことである。

         
参考資料  筑前続風土記
         筑前戦国史・引用  吉永正春 著
         日本図誌大系 九州 Ⅰ



旧・鎮西村の娯楽(2)

2013年05月12日 11時02分21秒 | 地域・歴史
相  撲

神への奉納相撲なので、娯楽とはいえないが、娯楽の少なかった昔としては、けっこう
娯楽的な行事としての要素をもっていた。

力士も他町村から多数が参加して大相撲を展開していた。

そして東京相撲のように化粧まわしをしめ土俵入りなどもしたのである。

いまなおこの化粧まわしを所蔵してある家がある。

現在は内の行事として行われているにすぎないけれどもただ八木山の老松神杜で行なわれる相撲だけはいまもなお他町村からの参加があり、なかなか盛んである。

いまもなお行なわれているのは次のである。

大日寺 六月二七目 大日さま祭りのとき。

花 瀬 七月 十日 観音さま祭りのとき。

潤 野  八月十七日 豆観音祭りのとき。

家ごとに「まさめ」を煮て相撲のすんだ後でこれを振舞う。

八木山 八月二四日 久保尾のお宮で行なう。

八月二七日 明神様で行なう。

昔は明神様の近くの田や畑などに土俵を仮設して行なっていたが、今は学校でする。

十月一四日 宮相撲として老松神社の境内で行たう。

蓮台寺 八月二〇日 こうらぼしの大師堂前て行なう。

建花寺 八月一五日 安養院の境内で行なうが、これについては次のような話が伝っている。



昔、庄屋の下女が疲れのためつい居眠りをしているところを人にみられて笑われたので、これを恥じて池に身を投げて死んでしまった。

しかし成仏ができず幽霊となって迷いでたので、これを可哀そうに思った村人がその霊を慰めるために安養院に祭り、相撲をするようになったということである。

(建花寺の古老の話)


村人から寄付を集め賞品を購入し、子供相撲の勝者に揚げる、又、本村と古野の対抗相撲では老若男女を問わず・・応援合戦も盛んなものでした。(現在は子供の数が少なく廃止となっています。)

盆踊り

八月の盆会(昔は旧暦七月)には,どのでも初盆の家で青年たちが盆踊りをするが、昔は八木山を除いて「しあんばし」が盛んに踊られた。

庭の中央に縁台をだして唐傘をさし、その下で三味線と太鼓の合奏で唄をうたいこれをとり巻いて踊った。

中には変装する者もいた。

「しあんばし」は節まわしがむずかしく、これを唄う人がだんだん減りかつ三味線もなくなり太鼓だけになってしまったのだが、これではあまり単調なので、今はポータブルと音盤てにぎやかに踊って新仏を供養している。

八木山は「黒木節」を唄ったそうだが歌詞は採集てきなかった。

明星寺では「しあんばし」のほかに「ざんざ節」というのもあったという。

なお個人の家のほか次の場所でも踊っている。

八月一五日 蓮台寺では光妙寺境内で精霊送りをすました後で区民がする。

八月十七日 潤野では豆観音で女子がする。

八月十七日 建花寺では堂園の観世音堂の前で、また古野公民館前の石仏(いしぼとけ)でも無縁仏を慰めるためにする。

古野地区では、公民館の前にある石仏(いしぼとけ)の前で盆踊りを遣るんですが、言い伝えがあり八月十六日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。(現在は八月九日に石仏の前で踊っています。)

盆踊り唄(しあんばし)を採集した順に同じ言葉もあるがそのまま揚げる。

南無河弥陀仏 西のお寺の鐘の声
(太鼓でドンドンとたたき、踊る者は「盆々ひやまかほい」という)
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃお墓の水祭り
(合いの手は前に同じ、以下略す以下同じ)
盆は嬉しや別れた人と 
はれてこの世に蓬いにくる
ことしゃ万作穂に穂が咲いて
 道の小草に米(よね)がなる
祝い目出度の老松様よ枝も栄ゆりゃ葉も繁る(太鼓でドンドンドンと五回たたき終ったことを表わす)
(以上大日寺)

南無阿弥陀仏 西のお寺の鐘の声 
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の声
揃うた揃うた踊り子が揃た 
踊りゃやめまや夜中まで
(返し)やめまや踊りゃ 
踊りゃやめまや夜中まで
踊り踊るならお寺のつぼで 
踊るかたでに後生ねがう
(返し)かたでに踊る 
踊るかたでに後生ねがう
富士の高嶺に西行が昼寝 
富士を枕に田子をみる
(返し)枕に富士を 富士を枕に田子をみる
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃみ墓の水まつり
(返し)み墓のことしゃ 
ことしゃみ墓の水まつり
繁昌繁昌よ この家が繁昌 
末は鶴亀五葉の松
(返し)鶴亀末は 末は鶴亀五葉の松
(以上蓮台寺)

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 
西のお寺の鐘の音
空の七夕いんかいさまよ 
川をへだてて恋をする
去年(けねん)盆まじゃ 
踊りよったさまが ことしやみ墓の水祭り
かねをたたくのが仏であれば 
かじ屋ばんご(向う打ち)はみな仏
山は焼けても小鳥はたたぬ 
何のたとうか羽がない
盆の十三日の小豆餅はよいが 
草の三駄(1駄は6束) 切りはひどござる
(ばんぱ節やしあん節で歌う)
(以上明星寺南谷)

南無阿彌陀仏 西のお寺の鐘の音
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の音
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
揃うた揃うた踊り子が揃た 
踊りゃやめまい夜中まで
(返し)やめまい踊りゃ 
踊りゃやめまい夜中まで
かねをたたいて仏になれば 
かじ屋ばんごはみな仏
(返し)ばんごはかじ屋 
かじ屋ばんごはみな仏
竹に短冊七夕さまよ 
川をへだてて越えなさる
(返し)へだてて川を 
川をへだてて越えなさる
繁昌繁昌 この家が繁昌 末は鶴亀五葉の松
(返し)鶴亀末は 末は鶴亀五葉の松
(以上花瀬)

南無阿彌陀仏 西のお寺の鐘の声
(返し) お寺の西の西のお寺め鐘の声
ことしゃ万作 穂に穂が咲いて 
道の小草に米(よね)がなる
(返し)小草に道の 道の小草に米がなる
去年盆まじゃ踊り子に出たが 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
踊りゃやめましよこの唄ぎりに 
あまり長いと人が知る
(この分は最後で返しはしない)
(以上潤野上区)

南無阿弥陀仏 西のお寺の鐘の声 
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の声
去年盆まじゃ踊ったさまも 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
いこか戻ろか戻ろかいこか 
殿ごみたさの思案橋
(返し)みたさの殿ご 殿ごみたさの思案橋
(以上建花寺本村)


人形芝居「桂木座」

建花寺の古野には浄瑠璃にあわせて人形をあやつる一座があって、村人に伝えられていた記録がないのではっきりしないが、百六十年年~百七十年前,村瀬甚次郎という人がいて浄瑠璃が好きで、また人形を扱うことが器用であった。

この人が主となって粕屋郡伊賀のあやつり師(姓名不祥)を招き同好の士とこれを習ったのがはじまりらしい。

後熊本果出身で鞍手郡若宮町に住む大西岩吉なる人を師としていよいよ研究し、最盛期を作りあげた。

そのころは地元の人で浄瑠璃を語らない人はないというくらいで、また三味線を弾く人もいたが飯塚や伊岐須にも浄瑠璃が好きでぜひあやつり人形をまわしてほしいという人もあって,この人たちは引き幕や舞台のうえの垂れ幕などを寄贈した。

これによって「建古座」ともいったことがわかる。






巡業は嘉穂郡内はもちろんのこと、直方・宮田・田川までいき,ことに日鉄二瀬の山神杜祭りや大隈では毎年演じてたいへんに喜ばれたものである。

また遠くは佐賀県岩屋までいき三日間も開演したこともある。

村内でも春秋の祭りや,先祖の追善供養などにも農閑期にはほとんど家にいたことがない。

出し物は太閤記十段目、先代萩、三十三間堂、阿波の鳴門、御所桜、忠臣蔵など多彩で、人形も30体ほどあり、他に八尾の狐、馬、鼠、などの動物と、箱下駄、建具(35枚)、見台、引き幕などもあった。演出者も義太夫,三味線を除いても15人ほどもおり、なかなかにぎやかであった。

このような立派な文化財も,浄瑠璃を語る人もなくなり,人形をあやつる人もだんだん少なくなって現在ではわずかに2人を残すばかりである。

また人形もこわれ、衣装も破れ、狐、馬、鼠などの動物、箱下駄、建具、見台も散逸し、残ったものの維持にも困るありさまとなっている。

現在では三番そうを酒宴などに披露する程度にすぎず、これが衰微の一途をたどっているのは数少ない村の文化財としてまことに残念なことである。

掛け芝居

村民の娯楽一つに掛け芝居がある。

これは中津座という巡業芝居の一座で農閑期にきて、掛け小屋を建てて公開していたが、大正の中頃まででその後は今の映画、当時の活動写真などのためすたれてしまった。

仕組み芝居

やはり農閑期や、おくんちなどに青年たちが芝居を仕組み村人たちにみせていたが、掛け芝居と同じようにすたれた。

演芸会

戦後青年達が舞踊を主とした演芸会を催していたが、合併以降も二三のでは年中行事として行い、青年自身はもとより観客である村人も充分楽しんでいたそうです。

今では、若者の地元離れが進み、ほとんど残っていない・・老人たちは昔を懐かしむ話などに出てくるが・・廃ってしまっている。