v6くるくる日記

「幸せな社会のための技術を語りたい?」日記

今後の社会とは

2009-02-04 10:52:41 | IT社会論とでもいうべきもの
2009年も早くも一か月が経過しました。今更なのですが、2008年を振り返り、今後を展望したいと思います。
#要は年に1回ぐらいブログを更新しとこうということです(笑)

歴史的に見て、2000-2020年の20年は政治、経済、産業、個人の生活や価値観などの転換点にきているとの見方があります。そういう大きな流れの中で、2008年は単に変化のプラスの側面だけでなく、マイナス面が強烈に露出してきた年だったと考えます。この厳寒の時期に単に自己防衛的に身を縮めて過ごすのではなく、むしろ2009年は資本主義や企業の在り方、個人の生きがいなど、今まで当たり前だったものごとの枠組みを再構築していく大きなスタートポイントととらえたいのです。

今、ちまたでは、国でも企業でも自己防衛がはやっているようです。自国保護主義や人員削減など、自らを守るために他者を切り捨てることが多く見られます。この1~2年で激減した富はどこから減るかというと、まずは弱者から奪い取り去られ、残った富は強者に偏ってきています。

社会全体の強度という尺度があるとすれば、それがとても下がってきている、そんな感じがします。アメリカや日本でも、中流階級の喪失という現象が起きています。この結果、消費の減退は必然となり、企業自体も苦しくなっているようです。

ロバート・ライシュはその著書「暴走する資本主義」の中で、現在進みつつある「超資本主義」の構造を明らかにしています。技術革新が進む中、大企業の絶対的優位性が失われ、競争が激化し、消費者がより良いものを安い価格で入手できるようになるとともに、競争を勝ち残れる能力をもった少数のCEOと人員削減・賃金カットされる数多くの労働者との間での格差が広がっています。その中で昔は存在していた社会性とか公共性が失われつつあると指摘しています。超資本主義の中での勝者は資本家と消費者であり、まさにそういうプレイヤーが自らの利益を追求することによりこういう現象を引き起こしているとしています。われわれは消費者として、町の良心的な本屋さんや魚屋さんではなく、より安い巨大スーパーとか、より便利なアマゾンを利用し、年金基金などを通じてより競争力のある企業に投資しますね。当たり前と思ってとっているこれらの行動そのものが、労働者としてのわれわれ、われわれが構成する社会を骨抜きにしているのだ、そういうことになります。

こういうことを考えるにつけ、私には「共生」という言葉が今後の世の中のキーワードに思えてなりません。自分も他者もともに生きる、生かすということです。これはある意味、ゼロサムゲームはやめてプラスサムのゲームをしようよ、という提案でもあります。そのためには、すべての社会の構成要素(個人・企業・NPO他)が価値を生みだし、その価値を広く共有していくことにより、またその構成要素にプラスのフィードバックがかかる、抽象的に言うとそういう世の中になってほしいし、そういう方向に努力をしたいとおもうのです。

もちろん言うは易し、でしょう。例えば、自らが生きていなければ他者も助けられません。共生は単なる自己犠牲とは違います。緊急避難マスクはまず自分がつけろ、といわれる通りでしょう。しかし、現在の自国保護主義や企業の派遣切捨てや人員削減も、単なるエゴでないことを祈ります。共生社会の中では、自分が助かった後に次に何をするかということがきっとポイントなのでしょうし、なにより行動の裏にある「みんなで社会を作る」という心持ちが大事なんではないかという気がしています。

また、共生は無条件の博愛とも違うように思います。プラスサムゲームに参加するには、その人がそれなりの価値を社会に提供していくという義務と責任があるんじゃないかということです。ある意味「God helps those who help themselves.」ということでしょうか? ただ、間違ってはいけないのは価値基準自体が、今後の共生社会では多様化するだろうということです。

本当にごくごく素朴な疑問ですが、現在の価値基準ってお金に寄りすぎていませんか? もちろんお金は大事です。ある意味で多様な人々での共通の価値基準となる、数少ない交換可能な基準ですから。また蓄積可能という特長が果たしている役割も大きいですね。しかしながら、なんで人はお金を求めるのか、という原点に帰るとさまざまな矛盾が見えてきます。みなさんはご自身にこれを問うてみたことありますか? 私の場合は自由のため(制約を受けない、思ったときにやりたいことができる)ではないかと思っているのですが、そのために多忙すぎて却って自由を失っていたりする矛盾に気づいています。また本音では本当の心の自由はそういうものではないだろう、というかすかな思いもあります。
価値基準の話は書ききれないので、またそのうち。