気になる温泉情報

「わがまま温泉日記」更新記録といろいろメモ

圧力のもたらす沸点への影響

2004-12-16 | ・泉源から湯船まで
わずかながら、データを取ってみたのだが、影響は大きいと断ぜざるを得ないよね。
高温泉なら、すぐ気化することが確認できるグラフとなった。

「ずた袋」と「ずんだ餅」に共通点なし

2004-12-15 | Weblog
TVで青荷温泉を紹介していた。道中、秋野大作親子が「わらじ」作りに精を出す。
時代のイメージがそうさせるのか、ワラジがなぜかズタブクロを想起させる不思議。ズタブクロから東北弁のズンダ餅まで思いは飛んで、この「ずた」あるいは「ずんだ」というのは、いったい何よということで、結局、温泉番組は見なかったようなもの。
せっかく調べたんだから、メモしておかなくちゃね^^。

●ずた袋の「ずた」=頭陀(ズダ)
衣食住に対する貪欲を払いのける修行>行く先々で食を乞い露宿などして仏道を修行すること、また、その僧。
 by 広辞苑

●ずんだ餅の「ずんだ」=豆打(音読みではズダ)
豆を打つとはそのまんまだけど、ずんだ豆とは枝豆のこと。URLは宮城のもちべえという会社。
 http://www.mochibe.co.jp/zunda.htm

源泉に対するキャビテーションの影響

2004-12-02 | ・泉源から湯船まで
 今や、温泉地の風景は自然の摂理をモノともせずに、何でもありだ。里山をどこまでも蝕んでいく。さっきの図面を使うなら、こんな景色も当たり前。実は、こんな景色こそ循環風呂のスケールアップモデルとも思わせる代物なのだ。
 また、雨水の涵養樹林もなく、都心はアスファルトの路面にポツンと建ってる温泉センター。屋上にある展望露天風呂、滝湯や打たせ湯などなど・・・。地べたから湧き出すお湯に、大自然の公式にはあり得ぬ無理を強いているのが分かるでしょうが。

 これらは、すべて動力の恩恵がもたらした、いわゆる機械文明というやつらしい。万有引力の法則を持ち出すまでもなく、常識的に下のモノは上には行かない。努力次第で学校の成績が上がるのとはワケが違う。しかし、相も変わらず、ナントカと煙だけは高いところが大好きだ。
 あらためて、動力とは何ぞや。ワタシの理解によるならば、かつては牛馬の労をねぎらうところ、現代のランプの宿では、

  ディーゼルエンジン→電力→モーター

こんな流れで成り立っている。もちろん、冷蔵庫に用いてはいても、湯船に用いているなどと、過激なことを言うつもりはない。

 取り上げたいのはモーター、さらには、これを利用したポンプなのだ。
 手押しポンプのキーコキーコというのんびりした上下動ならともかく、電動ポンプにあっては常時高速回転の回転羽根がつきものだ。この羽根が温泉にとっては、とても厄介な存在に思えてならない。
 この回転羽根なるもの、船ではスクリュー、航空機ではプロペラ、ワタシの知らない競艇の世界ではペラなどと、呼ばれているらしい。たとえば、艦尾にあるスクリュー。隠密行動を使命とする原子力潜水艦では、気泡の発生を押さえるべく、とんでもない苦労をしているそうだ。恐らく、国家機密に相当するほどの価値ある情報なのだろう。

 問題の所在は、キャビテーションという現象にあるらしいんだね。簡単に言うと、水が沸騰する温度は摂氏100度ということになってはいるが、低圧では低温で、高圧なら高温で沸騰(気化)するということにある。つまりは、水の流れの川上側は低圧、川下側は高圧ということになり、川上側で気泡が発生するということのようだ。詳しくは、リンク先をあたってね。

 ポンプを用いることに対する違和感というか抵抗感。ず~っと昔から、なんとなく感じていたワタシであったが、その正体がうっすら見えた。科学的検証は、まだないものの、心中にあるモヤモヤの正体だけは、確かに見えて来たように思えてならない。

温泉神社のロケーション

2004-12-01 | ・泉源から湯船まで
 高いところが大好きなのがナントカと煙だというが、水の流れともなればそこは謙虚で、高いところから低いところへしか流れない。もちろん、長江の大逆流やアマゾン川のボロロッカなど、例外だってあるのだが、いずれも河口の地形と大潮がもたらす自然の神秘といえるもの。

 歴史ある温泉神社ということなので、時代設定もそれなりに、電気のなかった江戸期以前に遡る。ポンプが使えないんだから、水に圧力を加えて、低い方から高い方へと圧送はできない。すると、次なる大原則にのみ縛られていると考えることができそうだ。

水は高い方から低い方へ流れる

 右の図の小高い位置に源泉地があり、温泉神社が立てられたとしよう。お湯は低い方へしか流れないのだから、赤い水準線より低い施設には配湯できる。これが、温泉神社のすぐ下に連なる湯宿の正体ではないだろうか。
 一方、低い土地に源泉が湧く場合はどうなるだろう。さきほどと同じく赤い水準線を横に引くと、これじゃ、お宿が建てられない。せっかくの源泉も活用されずに打ち捨てられるのみなのか?
 行ったことのある人ならば、甲子温泉新野地温泉のこと、思い出してみて欲しい。お宿は少々高い位置に建て、お風呂場だけを水準線の下に造ればいいんだね。おかげで、お風呂場まで、ずいぶん歩かされる羽目にはなるのだけれど・・・。

温泉神社

2004-12-01 | ・泉源から湯船まで
 歴史ある温泉地なら、よく見かけるのが温泉神社。たいていが、小高い丘の上に立ち、その下に温泉宿が軒を連ねる。湯川の一つもあれば申し分なし。大きな温泉地なら蔵王伊香保、小さな温泉場なら白布田沢で典型的な姿が見て取れる。

 伊勢神宮が天照大神くらいならともかく、それぞれの温泉神社がどんな神さまを祀っているやら皆目知らない。さすが、八百万の神といわれるだけあって、神社本庁のHPによると、「産土(うぶすな)さま・氏神さま/神明神社/八坂神社/金刀比羅宮・琴平神社/諏訪大社・諏訪神社/春日神社/熊野神社/お稲荷さま/八幡神社/天満宮・天神社/住吉神社/えびすさま」と、代表的なものだけでも、こんなにもある。
 そこで、温泉神社がどこに分類できるかだ。神社の縁起もそこそこに、源泉地を確認したら、お風呂に浸かって「いい湯だな^^」と、欲望ばかりが先に立ち、とうとうバチが当ったようなものだ。それでも推理ならできる。

 祖先を同じくする人々の祈りの対象であった氏神さまというのは、時代が下るにつれて村落共同体の守護神たる地位を占めていったようである。もしもその地が温泉地として成り立っていたのなら、温泉は経済基盤であるだけに、「お湯が涸れませんように」と、祀り上げた可能性は高そうだ。
 しかし、これだけで、敬いや畏れの対象となったわけでもあるまい。もっと切実で実利的なメリットがあったに違いない。ここで、実利的と申し述べたが、会社の社長が企業発展を願って柏手を打つ。あれとは全く異質の動機があったはず。村落共同体の守護神たるには、社長さんだけじゃなく、村落に生活する下々の庶民に至るまで、有難味が感じられなくてはならなかったはず。
 ワタシが思い描いているのは、大自然の恵みに対する感謝こそがその根底にあるのではないかということ。現代でこそ、「朝シャン」だって勝手気ままに自由自在。ところが、燃料は薪、かまどでご飯を炊いてた頃には、田の草取りから疲れ果てて家まで戻り、共同浴場にてお風呂を頂くなんていうのは、とてつもない夢の快適生活だったのではなかろうか。なにしろ、江戸っ子だって行水が普通だったと言うんだからねぇ。

 物を温めるということには、とてつもないコストが伴うものだ。世界の四大文明が、森林伐採による砂漠化によって滅びたというのは、けっこう正しい指摘なんじゃないかと思う。
 だとすると動機はどうあれ、温泉神社があることは温泉資源を守ることに繋がっている。

温泉の恵みに感謝→温泉神社建立→鎮守の森の形成→温泉源の雨水の涵養

 源泉地に温泉神社を造ったおかげで、鎮守の森が形成され、それが温泉の源である雨水の涵養の一助となるのである。こうした因果関係に思いを馳せるにつけ、温泉神社の果たしてきた役割は大きいと言わざるを得ないだろうね。