昨年末にリチャード・パワーズの『われらが歌う時』という本を読んで、わたしはその本を今もとても大事に思っているのですが、その作品の冒頭に、お兄さんが弟の弾くピアノの傍ら、グランドピアノのくぼみのところに身体を寄せて歌を歌うシーンがあります。
わたしはこのシーンがとても好きなのですが、このシーンを見たときに思い出したのが、発表会前のマンボーパパさんの演奏です。
リハーサルを兼ねた直前のレッスンで、わたしは聴衆役としてマンボーパパさんの演奏を聴きました。小さなレッスン室はピアノの前に先生と生徒が座ったら満杯になるので、あとはちょうど、グランドピアノのあのへこみの部分しか隙間がありません。わたしはそのへこみに身体を潜り込ませて、マンボーパパさんの演奏を聴きました。
鍵盤の前にいるとき、わたしはいつも緊張します。誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても、緊張します。今日、ピアノはわたしと仲良くしてくれるだろうかという不安で緊張するし、今日新しい音を発見できるかもしれないという期待で緊張します。何も弾かなくても、鍵盤の前に座ればそういう様々な思いで緊張します。
マンボーパパさんの演奏をピアノのあのへこみの部分に身を寄せて聴いていたとき、わたしはとても安心して、のびやかな気持ちになっていることに気がつきました。自分が演奏しているときや、演奏者の隣りや後ろで聴いているときには感じたことのない感触でした。マンボーパパさんの懸命さや緊張は、もちろんダイレクトに伝わってくるのだけれど、それ以上にピアノに守られているような感覚がありました。だからわたしは『われらが歌う時』の冒頭で、お兄さんがあのへこみに立っていることがとてもよくわかったし、あの感覚はわたしひとりだけのものじゃないのだとわかって嬉しくなりました。
あのときのマンボーパパさんの演奏をわたしはとても素敵だと思ったけれど、いくつかの歳月を経てまた新しい記憶になりました。
わたしはこのシーンがとても好きなのですが、このシーンを見たときに思い出したのが、発表会前のマンボーパパさんの演奏です。
リハーサルを兼ねた直前のレッスンで、わたしは聴衆役としてマンボーパパさんの演奏を聴きました。小さなレッスン室はピアノの前に先生と生徒が座ったら満杯になるので、あとはちょうど、グランドピアノのあのへこみの部分しか隙間がありません。わたしはそのへこみに身体を潜り込ませて、マンボーパパさんの演奏を聴きました。
鍵盤の前にいるとき、わたしはいつも緊張します。誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても、緊張します。今日、ピアノはわたしと仲良くしてくれるだろうかという不安で緊張するし、今日新しい音を発見できるかもしれないという期待で緊張します。何も弾かなくても、鍵盤の前に座ればそういう様々な思いで緊張します。
マンボーパパさんの演奏をピアノのあのへこみの部分に身を寄せて聴いていたとき、わたしはとても安心して、のびやかな気持ちになっていることに気がつきました。自分が演奏しているときや、演奏者の隣りや後ろで聴いているときには感じたことのない感触でした。マンボーパパさんの懸命さや緊張は、もちろんダイレクトに伝わってくるのだけれど、それ以上にピアノに守られているような感覚がありました。だからわたしは『われらが歌う時』の冒頭で、お兄さんがあのへこみに立っていることがとてもよくわかったし、あの感覚はわたしひとりだけのものじゃないのだとわかって嬉しくなりました。
あのときのマンボーパパさんの演奏をわたしはとても素敵だと思ったけれど、いくつかの歳月を経てまた新しい記憶になりました。
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