世界一周クルーズ (第35章) BY 芝原 稔
自然は峻厳
5月29日 赤道祭・ハーフアゥエイのディナーなどを楽しく過ごし、いよいよ待望のアルゼンチン到着を待っていた。29日の夜半から船の揺れを感じ、念のため起きて酔い止めの薬を飲んで横になる。朝方、揺れがいつもと違うようだ。歩くことも出来ない。とにかく、また薬を飲んで横になる。朝食に行く気もしないほど揺れがひどい。ドン、ドドド・・・と波に当たる音が響く。また、ギー、ギギギ・・・という船体がどうなるのかと心配する程きしむ音が・・・。
翌日聞いた話では、いつもの通り朝食中、テーブルの食器が突然すっ飛び、両手に食器を持ったまま数人が椅子もろとも投げ出された。船の椅子は後ろに倒れないように、後ろ脚が外に少し出ている。それでも船首が高波にぶつかった時、船首に向いていた人が何とも言えない悲鳴が舞い上がって、椅子ごとひっくり返ったようだ。幸い怪我人は出なかったが、食堂は一時閉鎖、オープン後も洋食は中止で和食のみとなった。その後絶食?を恐れたのかパンがアッと言う間に無くなった。きっと、この非常事態の際、冷静な判断をしたおばさん達が部屋に持ち帰ったようだ。私たちは、こんな現場にいても、のろまな性格か、育ちが良すぎるのか、パンもなく一番先に飢え死にするだろうと、苦笑。家内はそんなことなら飢え死にしても良いと強気だ。
昼から何とか7階のプロムナードに辿り着いたが、高波とうねりの恐ろしさを痛感。波しぶきとあちこちで見られる「虹」の美しさに自然の妙味を味わった。このためブエノスアイレス到着は7時間遅れることになる。ちなみに船の発表では、波の高さ6m、うねり8mだった。これでは最悪14mも上下する。
5月30日 志磨先生水彩画教室の修了証書授与式と全員の記念撮影、そして7階プロムナードにて水彩画の修了記念作品展(写真・上)が行われた。小学校以来久々の水彩の筆を持った人が多いようだが、先生の薫陶もあり、苦心の労作・傑作が飾られた。
ブエノスアイレスに
翌31日、午前6時にはウルガイ共和国のモンテビデオ沖を航行中だった。それより3時間前、ラプラタ川を遡るためのパイロットが既に乗船していた。ラプラタ川は河口で、川幅120Km、もちろん両岸は見えず、大西洋と変わりはない。泥水のような濁った水だ。この川を遡り15時に入港、港は狭い突 堤の奥にあるため船長泣かせの港だ。入港直前の2時間、左舷、右舷、船首、船尾と飛び回り接岸状況を見た。入港手続きの遅れと、アルゼンチンペソの両替で、出発は16時過ぎのシャトルバスとなった。この港は貨物が主なのか、コンテナの中を縫うように行くため、港内はターミナルまでシャトルバスの利用となる。ターミナルでパシフィックのシャトルバスに乗り換えてブエノスアイレスの町の中心へ。治安が悪いので、単独行動、夜の外出は止めるように言われる。悪いことに久しぶりの寒さ。道行く人は外套の襟を立てている。後ほど聞いた話では、45年ぶりの寒波、朝はゼロ度以下だったようだ。本当かどうか確かめていないが、ロシアは何年ぶりかの干ばつとテレビが報じていた。
一番の繁華街、フロリダ通り(写真上)、歩行者天国、相当の人出だ。土産物、宝飾店、ブティック、圧倒的に革製品の店が多い。通りには花、雑誌、タバコ、絵葉書などを売る店がでている。ガイドブックで調べた、ロドクロシータというピンク色の宝石の店が分からない。地図で調べていると、リッパな紳士が近づき親切に案内してくれた。ちょっと方向が違うと思ったが、服装も顔つきもこちらより良質、安心していたが、店の名前は全然違う。店は安物の土産物屋だ。危うく退散、今度は本屋の店主に聞くと、親切に案内してくれた。ドルだ、ペソだ、現金だといろいろ 交渉の末買い求めた。本当に客引きが多い。次から次へと客引きが寄ってくる。ブティックも品が見劣りするが、建物は日本で言えば国宝級の石造りの建物、今でこそ落ちぶれたが、かってスペイン人が富をつぎ込んで築き上げた栄華の跡が偲ばれる。地震がないのも幸いしたか。最後はシャトルバスの時間調整で、かの有名なマリオットホテルのバルで恐る恐るコーヒーを頼んだ。我がクルーズでロイヤルの旅客のフォーマルドレスより立派な燕尾服姿のウエイターがメニューを持って静々と現れた。コーヒーと紅茶をオーダーする。銀製の紅茶セットにチョコレート付き、価格は29.5ペソ、日本円で1180円、お釣りの0.5ペソはチップとして差し上げた。