53年7月 京都南座「二十四の瞳」公演、続けて8月新宿コマ「サザエさん」公演を終えた9月...
日テレ・朝のワイドショウ「ミセス&ミセス」江利チエミ特番のなかでチエミさんはこんな事を言います。
>ちょっと前までヒット曲を出さなくっちゃ!...って焦ったりしてたんですけど...
最近は「いい音楽」を「聴いてくださるお客様」のために「一生懸命勉強して」歌っていきたい...
そう語っていました。
そして30周年記念リサイタルを前に、チエミさんはデルタ・リズム・ボーイズのカール・ジョーンズ先生を尋ねて「レッスン」を受けるため渡米します...
ちょうどそんな時、旧知の音楽評論家・安倍寧さんとをゲストに迎えた対談でも、こんな会話を残しています...(文章の内容からして54年のものと思われます。チエミグラフティLPの中に掲載された文章です。)
>安倍:そんだけいろんなことやってきて、これからは...との問に、次のような内容の応えを返しています。
>江利:こんどアメリカに行くのもデルタリズムボーイズのカール・ジョーンズに新吹き込みのためのアレンジ(LP/NICE TO MEET YOU)を依頼するのが目的です。それからレッスンをし直してもらう。
来年はリサイタル(30周年全国縦断)をきっかけに、ステージを増やし、ポピュラーに重点をおいてやりたいと思います。
今のところプログラムに1/5しかポピュラーがない。今度はもっとジャズ・ポピュラーに重点をおいてやっていきたい・・・
それも決してハイブローなものは私の肌に合わないから、いわゆるテネシーワルツの・・・
アメリカの歌も「日本語で歌うとこうなる・・・」って感じのものでいきたい・・・
話を53年に戻します。
この8月の新宿コマ公演が結果的に最後の新宿コマ...となりました。
もちろんそれは「充電」であって「降板」ではありませんでしたが...
46年に発覚した義姉の横領事件は司法に委ねられ、義姉には実刑判決がおります。そしてチエミさんには「いわれのない莫大な借財」が残ります... そして彼女はより小回りのきく新個人事務所をコマ劇場とキングレコードからの借財で立ち上げ「懸命に返済をしていく」日々が続きます...
ここからは勝手な想像です。
48年春香伝...まだまだ「偏見」の多かった昭和のこの時期に朝鮮の民話のミュージカルにトライしたというのはまさに「命がけの冒険」だったと思います。
結果としてこの公演は(もちろんバッシングも受けますが)多くの日本人にも、そして多くの在日の聴衆に支持され大ヒットとなった...
次の「花木蘭」も高い評価を受けました...
しかし、座長公演をするには当然「多くの観客動員で収益を上げなくてはならない」ことでもあります。
あの時期の「チエミ喜劇」の立ち上げ(50年サザエさん~)は、その「観客動員」を非常に意識をしていたから...とも思えるのです。
50年...久々のサザエさんということもあり、なにを今更...という声もありました。
しかし蓋を開けるとそんな下馬評なぞなんのその...2月の新宿-->8月の中日と大好評!!
この2月・8月...は「にっぱち」といって「舞台公演で一番観客動員が難しい時期」と今でも言われます。
しかし、サザエさんは「ファミリー対応の出来る演目」だったことで成功を収めます。
12月には再度新宿で1ケ月公演--->翌51年の1月には神戸国際での出張公演となります。
4月には梅田コマで「スター誕生」を再演しますが、8月の中日劇場は「サザエさん」、25周年記念の新宿コマ11公演は「鼻のお六」を上演します。
このころ...きっと「喜劇の方が家族動員が出来る!難しい月はチエミの喜劇で家族層も動員しよう」という東宝・コマ側の意向が強くなっていた... チエミさんも借財を返すために一生懸命だった...
...私にはそんな事情がチラついていました。
52年は5月に富士急ハイランドで「サザエさん」の出張公演を、8月には中日劇場で「サザエさん」、12月は新宿コマで「喜劇/女忠臣蔵」を...
このあたり...借財の返済も酒場にてのヒットも追い風となって順調に完済のメドがたってきた(?)...
ドラマも立て続けで主演作が高視聴率を得る...
家族の生活も支えながら必死で返済をして来た... ところが「あれ??サザエさんに喜劇にホームドラマに...イメージが固定されてしまったんじゃないか??」という女優としての思いが首をもたげた。そして、「酒場にて」のヒットも逆に、「ジャズ歌手」ということを知らない人が多くなってしまったのでは?...江利チエミは「歌謡曲の歌手だと思ってる世代もいるのだ...」等など...
そんな様々な思いが交錯していたのではないだろうか???
あの頃...勝手に私はそう想像していました。
50年/酒場にてのヒット、チエミ喜劇の立ち上げ...あたりから、歌手・江利チエミの活動に変化が見られます。
50年には雪村いづみさんとのジョイントコンサート「ミュージカルタイトルマッチ」を熱演!
52年1~2月には、ジャズコンサートで全国を回ります。
55年にはロサンゼルス・サンフランシスコ公演を行い、またそれまでのアニバーサリーの年数の数え方を1年早めて30周年記念全国縦断リサイタル。12月は江利チエミ/橋幸夫/今陽子のジョイントでチャリティーコンサートを開きます。
女優としては...
江利チエミのサザエさんは53年8月の新宿コマで休止しています。
同年7月の「二十四の瞳」は京都・南座での座長公演... 松竹系列での舞台を踏んでいます。
54年10月には「東宝歌舞伎」に長谷川一夫/淡島千景/江利チエミの3枚看板で出演します。
またちょうどこのころから、主演ではなしに「ゲスト」としてのドラマ出演も精力的にこなして行きました...(暴れん坊将軍の女医・君島志乃先生役、桃太郎侍...など。)
56年には梅田コマで「大ファンの中村扇雀さん(現/雁治朗さん)」との共演「コマ歌舞伎」...
映画では久々の本編の主演となった「教育は死なず(56年11月公開)」や、差別という問題を扱った教育映画「いのちの輝き(同56年製作)」への主演...
焦らずマイペースで...でも決して過去の自分に寄りかかるのではなしに...
まるで「一から勉強しなおしているか」のように、「リセットに入っているか」のように...
そんな風に当時の(晩年の)江利チエミさんを私は遠くから見ていました。
風車のようにキリキリと回り続けた人生だった...
これはチエミさんが亡くなられたときにお父さまが言われた言葉です。
江利チエミさんは最後の最後まで歩みを止めることはなかった... そんな芸人さんだったと思います。
そんな江利チエミさんを私達はずっと応援していたのだと思います。
※画像は最後の出演となったミュージックフェアで...
思いっきりジャズ・ポップスを歌う江利チエミさんです。
日テレ・朝のワイドショウ「ミセス&ミセス」江利チエミ特番のなかでチエミさんはこんな事を言います。
>ちょっと前までヒット曲を出さなくっちゃ!...って焦ったりしてたんですけど...
最近は「いい音楽」を「聴いてくださるお客様」のために「一生懸命勉強して」歌っていきたい...
そう語っていました。
そして30周年記念リサイタルを前に、チエミさんはデルタ・リズム・ボーイズのカール・ジョーンズ先生を尋ねて「レッスン」を受けるため渡米します...
ちょうどそんな時、旧知の音楽評論家・安倍寧さんとをゲストに迎えた対談でも、こんな会話を残しています...(文章の内容からして54年のものと思われます。チエミグラフティLPの中に掲載された文章です。)
>安倍:そんだけいろんなことやってきて、これからは...との問に、次のような内容の応えを返しています。
>江利:こんどアメリカに行くのもデルタリズムボーイズのカール・ジョーンズに新吹き込みのためのアレンジ(LP/NICE TO MEET YOU)を依頼するのが目的です。それからレッスンをし直してもらう。
来年はリサイタル(30周年全国縦断)をきっかけに、ステージを増やし、ポピュラーに重点をおいてやりたいと思います。
今のところプログラムに1/5しかポピュラーがない。今度はもっとジャズ・ポピュラーに重点をおいてやっていきたい・・・
それも決してハイブローなものは私の肌に合わないから、いわゆるテネシーワルツの・・・
アメリカの歌も「日本語で歌うとこうなる・・・」って感じのものでいきたい・・・
話を53年に戻します。
この8月の新宿コマ公演が結果的に最後の新宿コマ...となりました。
もちろんそれは「充電」であって「降板」ではありませんでしたが...
46年に発覚した義姉の横領事件は司法に委ねられ、義姉には実刑判決がおります。そしてチエミさんには「いわれのない莫大な借財」が残ります... そして彼女はより小回りのきく新個人事務所をコマ劇場とキングレコードからの借財で立ち上げ「懸命に返済をしていく」日々が続きます...
ここからは勝手な想像です。
48年春香伝...まだまだ「偏見」の多かった昭和のこの時期に朝鮮の民話のミュージカルにトライしたというのはまさに「命がけの冒険」だったと思います。
結果としてこの公演は(もちろんバッシングも受けますが)多くの日本人にも、そして多くの在日の聴衆に支持され大ヒットとなった...
次の「花木蘭」も高い評価を受けました...
しかし、座長公演をするには当然「多くの観客動員で収益を上げなくてはならない」ことでもあります。
あの時期の「チエミ喜劇」の立ち上げ(50年サザエさん~)は、その「観客動員」を非常に意識をしていたから...とも思えるのです。
50年...久々のサザエさんということもあり、なにを今更...という声もありました。
しかし蓋を開けるとそんな下馬評なぞなんのその...2月の新宿-->8月の中日と大好評!!
この2月・8月...は「にっぱち」といって「舞台公演で一番観客動員が難しい時期」と今でも言われます。
しかし、サザエさんは「ファミリー対応の出来る演目」だったことで成功を収めます。
12月には再度新宿で1ケ月公演--->翌51年の1月には神戸国際での出張公演となります。
4月には梅田コマで「スター誕生」を再演しますが、8月の中日劇場は「サザエさん」、25周年記念の新宿コマ11公演は「鼻のお六」を上演します。
このころ...きっと「喜劇の方が家族動員が出来る!難しい月はチエミの喜劇で家族層も動員しよう」という東宝・コマ側の意向が強くなっていた... チエミさんも借財を返すために一生懸命だった...
...私にはそんな事情がチラついていました。
52年は5月に富士急ハイランドで「サザエさん」の出張公演を、8月には中日劇場で「サザエさん」、12月は新宿コマで「喜劇/女忠臣蔵」を...
このあたり...借財の返済も酒場にてのヒットも追い風となって順調に完済のメドがたってきた(?)...
ドラマも立て続けで主演作が高視聴率を得る...
家族の生活も支えながら必死で返済をして来た... ところが「あれ??サザエさんに喜劇にホームドラマに...イメージが固定されてしまったんじゃないか??」という女優としての思いが首をもたげた。そして、「酒場にて」のヒットも逆に、「ジャズ歌手」ということを知らない人が多くなってしまったのでは?...江利チエミは「歌謡曲の歌手だと思ってる世代もいるのだ...」等など...
そんな様々な思いが交錯していたのではないだろうか???
あの頃...勝手に私はそう想像していました。
50年/酒場にてのヒット、チエミ喜劇の立ち上げ...あたりから、歌手・江利チエミの活動に変化が見られます。
50年には雪村いづみさんとのジョイントコンサート「ミュージカルタイトルマッチ」を熱演!
52年1~2月には、ジャズコンサートで全国を回ります。
55年にはロサンゼルス・サンフランシスコ公演を行い、またそれまでのアニバーサリーの年数の数え方を1年早めて30周年記念全国縦断リサイタル。12月は江利チエミ/橋幸夫/今陽子のジョイントでチャリティーコンサートを開きます。
女優としては...
江利チエミのサザエさんは53年8月の新宿コマで休止しています。
同年7月の「二十四の瞳」は京都・南座での座長公演... 松竹系列での舞台を踏んでいます。
54年10月には「東宝歌舞伎」に長谷川一夫/淡島千景/江利チエミの3枚看板で出演します。
またちょうどこのころから、主演ではなしに「ゲスト」としてのドラマ出演も精力的にこなして行きました...(暴れん坊将軍の女医・君島志乃先生役、桃太郎侍...など。)
56年には梅田コマで「大ファンの中村扇雀さん(現/雁治朗さん)」との共演「コマ歌舞伎」...
映画では久々の本編の主演となった「教育は死なず(56年11月公開)」や、差別という問題を扱った教育映画「いのちの輝き(同56年製作)」への主演...
焦らずマイペースで...でも決して過去の自分に寄りかかるのではなしに...
まるで「一から勉強しなおしているか」のように、「リセットに入っているか」のように...
そんな風に当時の(晩年の)江利チエミさんを私は遠くから見ていました。
風車のようにキリキリと回り続けた人生だった...
これはチエミさんが亡くなられたときにお父さまが言われた言葉です。
江利チエミさんは最後の最後まで歩みを止めることはなかった... そんな芸人さんだったと思います。
そんな江利チエミさんを私達はずっと応援していたのだと思います。
※画像は最後の出演となったミュージックフェアで...
思いっきりジャズ・ポップスを歌う江利チエミさんです。