江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ ゲストさんの貴重なコメント(3) ムーンライダース J・牧さんの謎

2006年02月15日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)

このスレッドも下の「お知らせ」からの引用です。
それはRYOUTAさんの質問から始まります。
>そうそうお聞きしたかった事があってチーちゃんはムーンライダースとコラボの企画があって何曲か録音が済んでいたンだって?キングから中止命令があって販売は実現しなかったとか。
と、言うのはCDショップのルートではなく、本屋やスーパーの平台やワゴンで売っているCDのチーちゃんのもので、ウスクダラとシシカバブー、ノスタルジアが入っていたので、ノスタルジアのCDは珍しいし好きな歌だったので買ったンです。
そしたらウスクダラとシシカバブーがチエミ歴ン十年の私でも初めて聞いた音源でした。シシカバブーには太い男の声が入っていて、ウスクダラも軽快、チーちゃんもノリノリで歌っていて、とても良く感動しました。
アレンジャーは無記名でした。もしかしてこれってムーンライダースとのもの?

この質問へのう--でぶの回答

>はい その通り (う--でぶ) ♪やき---やきやきやきアチチッチ・・・ ですね。
はい それが ムーンライダース とのコラボでお蔵になったバージョンです。
そして逆に質問です。これは本家「でぶりさんの江利チエミの世界HP」でもずっと謎になってますが、J・牧=牧次郎=山屋清さん ではないか?...と思うのですが??・・・

※このムーンラーダースとのコラボの話はまた掲載します。

これに「本家/でぶり姐さん」からの質問が続きます。

>・・・先にう--でぶさんからもリクエストがありましたが筒井広志さんのお話が出たところで、山屋清さんとチエミさんの関わりも何かエピソードがあればお話し頂けないでしょうか、とノコノコ出てまいりました。
私は山屋さんが編曲したチエミさんの作品が好きで好きで  「チエミ・アット・ザ・コマ」 「チエミは歌う」  「ベスト・オブ・チエミ」の山屋作品は『江利チエミのジャズポップスの世界』の【至宝に値するもの】と思っております。
にもかかわらず、山屋清さんは後年、ショービジネスの第一線からリタイアされたような気がしてなりません。もう4年ほど前に鬼籍の人となられました。第一線を退かれた後は、音楽学校の講師をされていたようで、その頃の教え子の方からメールをいただいたことがあります。
そこには  「江利チエミさんには、たくさんいい仕事をさせてもらった」 と懐かしそうに語る山屋氏の様子が綴られていました。
リタイアされたとしたら、その理由はたぶん苛酷な条件で創作活動を強いられるショービジネスの世界よりも、趣味の真空管アンプいじりをしながら、生徒にジャズアレンジのイロハを教授する平々凡々とした生活を選択された結果ではないかと思ったりします。
でも、チエミさんと共に作り上げたであろう山屋清アレンジは私の心を捉えて離しません。 なのに山屋清さんという編曲者の実体がなかなか見えてきません。どんな方だったのか?そして、10周年記念LPだけにクレジットをとどめるポール牧、もといJ.牧ははたして山屋清さんなのか否か? ・・・

この山屋先生の謎はなかなか解明の糸口が見つかりません。山屋さんのことは私も ココ で書き込んでいます。ご覧ください。
本家でぶりさんの素晴らしいページも ココ からジャンプしてみてください!

そして・・・またまたこの質問にレスをRYOUTAさんから頂戴しました。
J・牧=広瀬先生説です。 ワクワクする展開です。

>ではお言葉に甘え「オジャマシマ~スッ!」。
J・牧or牧次郎=山屋清説には私は異を唱えます。・・・写楽は誰か?のミステリーみたいで大袈裟ですが。
多分これを解く鍵は当時の専属制が大きなポイントだろうと思います。岩下志麻主演の映画「古都」は、監督は中村登ですが、脚色は権藤利英となっています。しかしそんな名前の脚本家はいません。実は東宝専属の井手俊郎氏で映画は松竹製作の為、特に当時5社協定で専属制がやかましかった時代だったから、別名で仕事をした(多分東宝は暗黙に了承していた、と思いますが。)のでしょう。
権藤利英はゴンドリエと読み井手さんが仕事場に使っていた喫茶店の名前だったとか(おしゃれ~!)。
J・牧or牧次郎の名前はテネシー以外は民謡集の2集に収められた曲のリメイクに集中しています。編曲の基礎デッサンはチーちゃんが出していたので誰かに代わっても曲のイメージは余り変わらない様ですが、J・牧or牧次郎は民謡集の2集の編曲者/広瀬健次郎ではないかと、当時から私は思っていました。
チーちゃんのアレンジャーは村山芳男氏が初期、その後内藤法美、その後福井利雄、服部克久、山屋清、前田憲男、筒井弘志となるのはうーー様もご存知の通り。
初期にビクター専属の寺岡真三さんの名前も見られますが、余り専属制に神経質でなかった(作詞家や作曲家は別として)時代のことならではのもの?おかしい?のは音羽たかしと言う訳詞者は実はキング文芸部の複数の人の名義ですが、雪村いづみさんの「月下の教会」の訳詞者が音羽たかし名義になっていることです。
同じ曲はペギーも音羽訳で歌っていますが(ただし同じ訳ではない)キング文芸部の詞をビクターで採用と言う大らかな?時代だったのでしょう。
歌謡曲と異なりポピュラー音楽には人材が少なかったのかもしれません。時が経ち万事世知辛くなって契約者の名前は使えない(マイフェアレディのスタジオ録音版もヒギンズ役の高島忠夫が当事東芝の専属だった為、実現しなかった・・・勿体ない話!)時代になり、苦肉の策でJ・牧or牧次郎で処理したのは?
多分広瀬氏はビクターの専属だった(になった)と思います。
いづみの楽曲の編曲の多くは広瀬氏でありました。
山屋さんなら何も隠さなくても良かったと思います。
それにひばり「りんご追分」を山屋氏が編曲した時サビの部分をドドンパにアレンジし竹中労と言うアナキーな評論家が激怒した、と言う「攻撃性」「前衛性」がありますが、J・牧or牧次郎のものにはありません。
よく言えば品良くしかし凡庸とも言えるサウンドです。広瀬氏は筒井さんの師匠で、チーちゃんがテレビの音楽番組のアレンジを広瀬氏に頼んだ時、彼が忙しくて見習い時代の筒井さんがアレンジをしてもっていったら即チーちゃんに見破られたと言うエピソードがあります。(「青春の志は音楽家」より)
J・牧or牧次郎には直接関係ないエピソードですが。チーちゃんの耳の良さを現すエピソードです。
クラウンが創立された時は主だったコロンビアのディレクターが移籍し(歌手作家も移籍したが)、お世話になったディレクターの恩義に報いるためコロンビアに残った作家が別名で楽曲を提供した、そんな時代を考えると広瀬氏でなければ、他の他社専属音楽家だろうと思います。     
    しかし他に思い当たる人は私にはいないのですヨ、・・・


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。