快読日記

日々の読書記録

「ドキュメント 死刑囚」篠田博之

2008年10月20日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
《10/19読了 ちくま新書 2008年刊 【社会 死刑】 しのだ・ひろゆき(雑誌「創」編集長 1951~)》


登場する死刑囚は宮ザキ勤(ザキは山偏に竒)・小林薫・宅間守の3人です。
終章で筆者も言うとおり、ある凶悪犯罪が連日メディアを賑せても、ほんの数週間で人々の記憶から遠ざかり、次の事件が書き立てられる。
事件の「その後」はわたしたちにはなかなか見えてきません。
本書では小林薫自身が告白した事件の真相と、死刑判決が下った際に事実と見なされた内容が全く違うことに驚き、
宅間守との獄中結婚を望んだ2人の女性(うち1人と入籍)に関しては、正直なところ理解に苦しみました。

筆者は単純に死刑に反対しているわけではないのですが、殺人を犯すことで自分の人生にさっさと幕を下ろしたいと願うような人間を処刑することが、本当に「罪を償わせる」ことになるのか、と問い掛けています。
でも、まずこの世には償える罪と償えない罪があるし、その償う権利すら与えられるべきではない犯罪があるんじゃないかと思います。

それから、例えば功績をあげた科学者を称えるとき、その人の生い立ちや研究に取り組んだ動機が問題になるでしょうか。
あくまでも研究の成果そのものが評価されるのだから、同じように犯罪も「やったこと」だけを見て量刑を決めるべきじゃないかと思います。
犯人が「どんな人間か」ではなく、「何をしたか」を裁くことこそ「法の下の平等」ではないか。

事件や犯罪者をなぜ?と追究することはメディアの大事な仕事です。
まさかそのために彼等を生かすなんて思ってはいないだろうけど、
何より筆者は「メディアの仕事」と「罪とは何か、罰とは何か」という問題を混同していると思うんです。
意図的にやってるのかなあ。
それとこれとは分けて考えてほしいです。