真実の扉

「何もしないことをする時」「何も考えないことをする時」・・本当の自分の扉が開く

目と目を見詰め合って

2012年07月31日 23時16分33秒 | 無思考の時代へ

今日は目と目を見詰め合って話をすると何が起きるか についてお話しします。

忘れずに、先ずClickしてね

何のために仕事をしているのか?

何のためにお金を稼いでいるのか?

何のために勉強をしているのか?

何のために認められようとしているのか?

何のために出世しようとしているのか?

何のために美味しいものを日々探しているのか?

何のために金メダルが欲しいのか?


こういうような「何のために?」と考えることが現代ではなくなってしまいました。
欲を持ちつつ、アイデンティティとして欲に自分を同一化し、欲の願いを実現させることが常識になっています。
誰もそれを疑わず、一番になることを目指したりしています。

「何のために」というこの純粋な魂からの呼びかけの疑問は誰もが持っているのに、それに蓋をして本当の自分でない自分に心を支配され、日々の生活を偽りの自分の思うがままに操られて生きています。
だから偽りの自分が生きる偽りの社会の中で、本当の自分と繋がれる心の部分は息苦しくて仕方ありません。

そういう念波が、ますます息苦しさを助長・増幅して、人々の思考空間を占領して行きます。

しかしそれでは、人類全体を本当の幸福で繋ぐユートピアの社会は永遠に構築できません。

結局、選ばれし者だけが宇宙船に空中携挙で移行し、ユートピアとなる新しい地球として住めるようになるまで待機するということになってしまいます(その場合、自分のテレパシーでその場所を判断し、歩ける者は自分の足で歩く、つまり霊的自立が絶対条件)。

なぜこのようなことになっているのか?
本当の自分の立場から偽りの自分の動機を観るのが、偽りの自分として怖いのか? 知られるのが怖いのか?

いずれにせよ、エゴをエゴと判断できなくなって、エゴを自分と勘違いして賛美しているほとんどの地球人の動機はユートピアでは通用するものではありません。

例えば食事について、玄米菜食は健康な肉体と精神をつくるという話をしますと、よく言われてしまうのが、「美味しいものを食べるという喜びまで失ないたくない」 という発言があります。
「食べたいものを我慢して、そこまでして健康でいたくない」  とまるで健康オタクかのように言われてしまいます。

正しい食事をすることより、自分の欲を満たすことを優先したいという動機なのです。
エゴの支配に甘んじている動機なのです。



しかしユートピアでは食事の量は極端に少なく、単純です。

人々の体質が食事を取らなくても良いようになっているし、それ以上に楽しいことがたくさんあります。

ユートピアにはもっと楽しいことが一杯あるのです。

食事に喜びを委ねる必要はありません。
もちろんオリンピックにも、ワールドカップにも喜びを委ねる必要はないのです。
自分に価値を置いた喜びから他と全体の喜びが大事になります。

自分一人の喜びよりも、全体の喜びを自分の喜びとして享受できれば、ユートピアの幸せとは今の地球の何十倍、何百倍でしょうか。自明の理ですね。

富も同じです。
現代の「give and take」というような貰わないと与えないみたいな概念があるよりも、「give and give」の愛の精神で人類が生きられれば、結果は「take and take」も充分過ぎるほど成り立つわけで、富は倍増、いや無限に増えるのです。

そんなユートピアは夢の話ではなくて、私たちの心次第で成り立つのです。

そこに居るだけで素晴らしい波動が伝わってくる。

みんなの喜びがある。

愛がある。

地球人がそれに気が付かないのは思考の世界にどっぷりと浸かっているからです。
思考に繋がることだけ、心に巣食うことだけを目的として生息しているエゴ意識の思いに操られているからです。

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今日は大阪で10年前に仕事で知り合い、良きお友達としてもお付き合いさせていただいている女性と一緒に食事をしました。

途中からもっとふれあいを深めたいと思い、「目と目を見ながらお話しましょう」 ということで、ずっとお互いの目を見詰め合いながら話をしていました。

(突然黙って人の目を見詰めて会話をすると変に思われますが、了解をとって目を見詰め合うと気まずい思いがない)

[フリー画像] 人物, カップル・恋人・夫婦, 椅子・ベンチ・ソファ, 201107190500

気持ちが穏かになって笑顔が増えて、相手の気持ちがよく伝わって来て、会話も弾んで気が付いたらあっという間の2時間半でした。

半日たった今でもその時の幸せな波動が続いています。

ただ目と目を観るということをして話しているだけで幸せ。

目を見詰め合いながら話をすると思考とは別の空間に繋がるのです。

考えて話していながら、考えていない空間に2人が同時に繋がっているのです。

自分勝手に話をしているのではなくて、相手の心にも入ることができます。

人の話を聞くときに考えていると話しが分かりません。

人の話を聞くときは頭の中をある程度空っぽにしないとなりません。

空であれ花であれ、じっと見つめる、という行為は考えない瞬間を考えている合間に作り出してくれるのです。

だから、見詰めあってお話しすると話を良く聞けてコミュニケーションが深まります。

何であれ、「見詰める」という行為は「無になる」という心の現実を作るからです。
     ↑
    これがポイント。

ぼうっと窓の外を眺めているとき、空を見ているとき、「あっ!そうか」という真理がやってくるのはそのためです。


Art by John  Iammatteo

私の記憶を司る脳は今生で出来たので、もちろんユートピアにいた思い出を持たないのですが、最近なんとなくユートピアのエネルギーのことが分かって来たような気がします。

思うところがあったら Clickしてね。。。


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