歌や芝居で入魂の演技とか歌唱というと、役に成り切って熱演するとか、歌詞の内容に溺れるように熱唱するとかいう意味となり、それが芸術性を高める表現方法と思い込んでいる人が多いようです。しかしどうでしょうか? 芸術とは美を表現することです。そんなに感情に溺れてしまって、良い美の表現ができるのでしょうか。
トニオクレーゲル
【もしも口で言うべきことを妙に大切に考えたり、余りにも心臓を大きく鼓動し過ぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くと思って間違いない。あなたは悲愴になる。感傷的になる。】
これは「ベニスに死す」などで有名なドイツの作家、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」という小説からの引用です。
この小説は小説家のトニオと画家の女性との会話を中心として進みます。小説の中では二人とも芸術家ですので、芸術や美についての話が中心になります。これは何を言っているのでしょうか。
歌手が歌を歌うとき感情を込めて、悲しい歌は悲しい心になって、場合によっては涙を流すほどに感情移入して歌うことが良い歌を歌うことになると思っている歌手も多くいるようです。
また舞台や映画で俳優が役を演じるにおいて、良い演技を演じる心構えとして、よく「役に成り切る」というような表現をすることがあります。昔、恋愛映画を演じるにあたり相手役を本当に愛してしまおうかと真剣に考えた、と語った日本の俳優もいました。
自殺した韓国女優イ・ウンジュさんも特にその傾向が強く、いつも恋人役の俳優を本気で愛そうとして、実際にそのような感情を持ってしまうことが多かったようです。どの番組か忘れましたが、その後の恋愛感情の整理でいつも苦労していたということを、この度の一連の報道の中で観ました。
しかしこれは甚だしい勘違いです。実際には感情を入れれば入れるほどに美の表現からは遠ざかります。
三次元、四次元という棲み分けでは物質が三次元で目に見えないもの全般を四次元とし、意識全般をひっくるめて四次元とする場合がありますが、意識にも肉体ができる前から実在していたものと肉体の誕生と同時にできたものとがあります。
肉体側の感情で美は表せない
エモーショナル(強い感情)ボディというのは非常に肉体に近いところにあります、感情というものは基本的には肉体に付随してきた意識です。この感情というものは本当の自分である魂を磨くために付帯している粗い波動と考えられます。本当の真理や美はもっと精妙な波動で、それを表現する場合の意識のあり方も、当然、もっと高い意識と繋がってその真髄を代弁する必要があります。
感情的な表現(涙や笑)で直接美を表すことはできないし、また、悲しみや怒りが肉体を通して表現されたものは、たとえそれが四次元の存在であっても、やはり粗い波動でしかないのです。
真に美を理解し表現するのは魂であって肉体(感情)ではないのです。芸術家として人生を理解しより美しく生きるのも、神聖な波動を持つ魂の仕事なのです。感情移入が為されるほどに、魂との繋がりは薄れます。
さて話を戻しますが、
冒頭の、トーマス・マンが小説家トニオの口を借りて言ったことに戻れば、口で言うべきこと(執筆すること)を大切に考えすぎると妙に力んでしまい、感情的になってしまう。それでは美を正しく執筆する波動とは離れてしまい、良い小説は書けない、ということです。
またこの小説の中に「春は仕事がやり難い。感じるからです」というセリフもありましたが、これも同じです。
春は草木や動物だけでなく、人間も多少、感情の乱れを感じるようです。変な話ですが、腹上死が一番多いのが春だそうです。それだけ本能に関わる意識も動きやすいということでしょうか。
芸術とは
芸術とは真理を代弁する方法です。芸術とは目に見えない美を三次元の道具を使って表現する(伝える)技術です。技術とは言いましても真理と同じ形而上の美を表現するのですから、そこには美を理解する心が当然必要となります。芸術家とはそういった美を理解し観じる心を持ち、かつそれを表現する心と技術を兼ね備えていることが必要になります。
その上で詩人は言葉を用いて詩を書き、音楽家は旋律や楽器を用いて音楽を奏で、画家は形と色を用いて絵を描きます。それぞれ道具が違い、結果として表れる様式が違っていても、終局的に表すものは同じです。目で見ることのできない〝美〟を表現すのです。普遍的な形で。
芸術家は繊細であることは必要であっても、そのために直ぐに恐れを持ったり、感情的になってしまったりというのでは、良いアーティストとは言えません。
言葉にしろ、音にしろ、色と形にしろ、本来は三次元に存在していない美を、それを使い表現するのですが、多くの言葉や多くの色や形を使えば使うほどに、本来は形而上の存在である真理や美からは遠ざかるのです。
映画で言えば、言葉そのものも、表情そのものも、決して「美」ではありません。
感情移入して強引に美そのものを表現しようとしても、そこには美はないのです。良い娯楽作品はあっても、芸術性は低く、波長も低く、それだけ悪い意識に取り憑かれる可能性も高くなります。
もっとも役に成り切るというのも、高い芸術性を求めず、単に観客に受ければ良いというのであればそれでも良いのかも知れませんが、宜しからぬ波動を撒き散らす場合があり、それが人々を自殺に追い込むことすらあるということも理解していた方がいいと思います。
今日の写真は〝時さん〟のガラパゴスアシカ
トニオクレーゲル
【もしも口で言うべきことを妙に大切に考えたり、余りにも心臓を大きく鼓動し過ぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くと思って間違いない。あなたは悲愴になる。感傷的になる。】
これは「ベニスに死す」などで有名なドイツの作家、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」という小説からの引用です。
この小説は小説家のトニオと画家の女性との会話を中心として進みます。小説の中では二人とも芸術家ですので、芸術や美についての話が中心になります。これは何を言っているのでしょうか。
歌手が歌を歌うとき感情を込めて、悲しい歌は悲しい心になって、場合によっては涙を流すほどに感情移入して歌うことが良い歌を歌うことになると思っている歌手も多くいるようです。
また舞台や映画で俳優が役を演じるにおいて、良い演技を演じる心構えとして、よく「役に成り切る」というような表現をすることがあります。昔、恋愛映画を演じるにあたり相手役を本当に愛してしまおうかと真剣に考えた、と語った日本の俳優もいました。
自殺した韓国女優イ・ウンジュさんも特にその傾向が強く、いつも恋人役の俳優を本気で愛そうとして、実際にそのような感情を持ってしまうことが多かったようです。どの番組か忘れましたが、その後の恋愛感情の整理でいつも苦労していたということを、この度の一連の報道の中で観ました。
しかしこれは甚だしい勘違いです。実際には感情を入れれば入れるほどに美の表現からは遠ざかります。
三次元、四次元という棲み分けでは物質が三次元で目に見えないもの全般を四次元とし、意識全般をひっくるめて四次元とする場合がありますが、意識にも肉体ができる前から実在していたものと肉体の誕生と同時にできたものとがあります。
肉体側の感情で美は表せない
エモーショナル(強い感情)ボディというのは非常に肉体に近いところにあります、感情というものは基本的には肉体に付随してきた意識です。この感情というものは本当の自分である魂を磨くために付帯している粗い波動と考えられます。本当の真理や美はもっと精妙な波動で、それを表現する場合の意識のあり方も、当然、もっと高い意識と繋がってその真髄を代弁する必要があります。
感情的な表現(涙や笑)で直接美を表すことはできないし、また、悲しみや怒りが肉体を通して表現されたものは、たとえそれが四次元の存在であっても、やはり粗い波動でしかないのです。
真に美を理解し表現するのは魂であって肉体(感情)ではないのです。芸術家として人生を理解しより美しく生きるのも、神聖な波動を持つ魂の仕事なのです。感情移入が為されるほどに、魂との繋がりは薄れます。
さて話を戻しますが、
冒頭の、トーマス・マンが小説家トニオの口を借りて言ったことに戻れば、口で言うべきこと(執筆すること)を大切に考えすぎると妙に力んでしまい、感情的になってしまう。それでは美を正しく執筆する波動とは離れてしまい、良い小説は書けない、ということです。
またこの小説の中に「春は仕事がやり難い。感じるからです」というセリフもありましたが、これも同じです。
春は草木や動物だけでなく、人間も多少、感情の乱れを感じるようです。変な話ですが、腹上死が一番多いのが春だそうです。それだけ本能に関わる意識も動きやすいということでしょうか。
芸術とは
芸術とは真理を代弁する方法です。芸術とは目に見えない美を三次元の道具を使って表現する(伝える)技術です。技術とは言いましても真理と同じ形而上の美を表現するのですから、そこには美を理解する心が当然必要となります。芸術家とはそういった美を理解し観じる心を持ち、かつそれを表現する心と技術を兼ね備えていることが必要になります。
その上で詩人は言葉を用いて詩を書き、音楽家は旋律や楽器を用いて音楽を奏で、画家は形と色を用いて絵を描きます。それぞれ道具が違い、結果として表れる様式が違っていても、終局的に表すものは同じです。目で見ることのできない〝美〟を表現すのです。普遍的な形で。
芸術家は繊細であることは必要であっても、そのために直ぐに恐れを持ったり、感情的になってしまったりというのでは、良いアーティストとは言えません。
言葉にしろ、音にしろ、色と形にしろ、本来は三次元に存在していない美を、それを使い表現するのですが、多くの言葉や多くの色や形を使えば使うほどに、本来は形而上の存在である真理や美からは遠ざかるのです。
映画で言えば、言葉そのものも、表情そのものも、決して「美」ではありません。
感情移入して強引に美そのものを表現しようとしても、そこには美はないのです。良い娯楽作品はあっても、芸術性は低く、波長も低く、それだけ悪い意識に取り憑かれる可能性も高くなります。
もっとも役に成り切るというのも、高い芸術性を求めず、単に観客に受ければ良いというのであればそれでも良いのかも知れませんが、宜しからぬ波動を撒き散らす場合があり、それが人々を自殺に追い込むことすらあるということも理解していた方がいいと思います。
今日の写真は〝時さん〟のガラパゴスアシカ