それは、突然、アラスカのように

飛び地が語る季節と言葉と五七五とハチミツとクローバー

「俳句は観賞だ!」はすごいんだ

2007年12月27日 01時32分47秒 | Weblog
週刊俳句のコメント欄でおなじみの民也さんによる
「俳句は観賞だ!」
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/12/035.html
への反応が意外に薄い。

もしかしてすごいことだと思ってる人が少ないのかも、と思ったので
何がすごいのか、何がすごいと僕が思っているのかをここに書いてみる。


○俳句を問いと捕らえること

これは匿名さんもコメントしてること。
虚子句に限らず、俳句は答えとして、または作者によるある種の報告として語られる。
先日参加した句会で「○○のあるなしや」という句があったけれども
この句にしても、決して有るのか無いのかの答えを求めているわけではない。
あるなしや、と(何者かが)思った、という事実を述べているだけ。

匿名さんのコメントにもある
「坪内稔典氏の俳句謎掛け論(そんな風には言っておられなかったが)」
についても、ちょっとネットで調べてみたけど
これは答えが句の中にある、というものみたい。

俳句全体を問いと捕らえることは、見方を変えるどころか
その俳句を一度崩壊させ、再構築させているように思える。
その再構築された俳句は、きっと作者が思ってたような綺麗な形じゃない。
でも、ただのアパートを見ても
そうですね、確かに影がありますね
そうですね、棒があるようにも思えますね
でもそれだけですよね
という感想で終わってしまうかもしれない。
しかし、このうっかりするとつまらないアパートが前提的なオブジェになる。
しかも、この世に生まれた全ての俳句で同じことが起きるかもしれない。
人々がのんびり暮らしてた俳句っていう街が
たった1人のゲリラによって街ごと美術館にされるとしたら
これって革命でしょ。



○つまらない俳句というものはない、と言えること

趣味でやっていることは楽しんでこそ、と強く思っている。
やっていて、苦しんだり、つまらないと思ってしまうのはもったいない。

句会で、一見して特に何も感ずるところがなくてスルーする句がある。
民也さんの言葉を借りれば、僕はまだ「俳句をつまらないと思う人間」だ。

民也さんはきっと、俳句の楽しみ方をたくさん知っている。
「つまらない俳句というものはない。」という言葉ははったりじゃない。
今回の虚子句に「?」をつけることも
レッドスネークも
漫画や映画をモチーフに俳句を作ることも
そのほんの一部なんだろう。
楽しもうとしてないとこんなことできないはず。
少なくとも、週刊俳句を一番楽しんでいるのは民也さんだと思う。
僕たち一般市民はゲリラに負けてる。

俳句の楽しみ方を知っている人、民也さん。
僕の中で、どこかうさんくさい俳句ゲリラから、株が急上昇。

僕なりの俳句の楽しみ方というのも見つかるといいな。


※追記※
「観賞」を「鑑賞」と書いていたので訂正しました。

THCからMMB

2007年12月24日 22時15分09秒 | Weblog
昨日、僕が所属しているジャグリングサークルの
一部のメンバーによる、サークルの人のための、という
リンカーンもびっくりの招待制ステージ(公演)があった。

サークル外の人でも、懇意にしてる人々も来てた。
その中の1人が言った。
「お前の俳句のブログ見つけたYO!」
なんだかちょっと恥ずかしいYO!

もしかしたらこのブログはおそらく世界初の
ジャグリングと俳句のメディアミックスブログになるかもしれない。
略してMMB。
ジャグリングそのものと俳句そのものとを融合させる気は今のところ無い。


ではでは、メリークリスマス。

「ポエールのクリスマス展」は明後日、26日までです。
詳しくはブログ左のリンクから。



そうそう、週刊俳句で民也さんが革命を起こしちゃったかも。
コメントしてこようかしら。
うふふ。

メリークリスまふ

2007年12月22日 23時57分29秒 | Weblog
二年前のクリスマス、マフラーをもらった。
恋人からではない。
大学の後輩の女の子から。


みんなの前では
「僕たちってさ、ほら、運命に導かれて出会ったじゃない?」
「いやー、きもちわるーい」
とか
「ねーねー、クリスマスにマフラープレゼントしてよ」
「いやですよー、恋人同士じゃあるまいしー」
なんてやりとりばかりしていた。
僕たちが決して付き合うことがないことを、わかっていた。
誰よりも、僕たち自身が。


それがどういう経緯だったか
彼女が本当にマフラーをくれるということになった。


クリスマスイブ。
2人とも予定が入っていた。
僕は大掃除。彼女はバイトだと言っていた。
僕は大掃除を抜け出して、彼女はバイトの前に、
落ち合って、プレゼントを交換して、すぐに別れた。
約束したわけではないけれど、共通の知人たちには秘密だった。
僕たちは付き合ってはいけなかったし、
本当に付き合うかもと周りに思わせてもいけなかった。


それから2年。
彼女は他の男と付き合い、別れ、また別の男と付き合った。
僕は僕で、何度か恋をした。
彼女とはあまり会わなくなったけれど
大学内で顔を合わせれば挨拶をしたし、ときどき会話もした。
それはもう、ぎごちなくならないよう、必死に。
去年の冬も、そして今年も、僕は彼女からもらったマフラーをしている。
だけど何故か、たまたまマフラーを着けていないときにしか
彼女に会わなかった。
マフラーを着けていなくて、彼女は悲しんだかもしれない。
マフラーを着けていたら、彼女ははずせと怒ったかもしれない。
僕には、わからない。


昨日、大学で、授業が終わって建物から出てくる集団の中に彼女がいた。
僕はマフラーを着けていた。
すれ違った。


僕は、気付かないふりをした。



~ 完 ~


この物語はフィクションか何かです。

 

傷だらけのモーラ

2007年12月19日 00時55分08秒 | Weblog
最近、モーラという言葉を知った。
俳句界のネオ不思議ちゃんの別称ではない。
言葉にまつわる単位なのだそうだ。

ある日、wikipediaで「ぬ」を引いてみた。
精神は安定していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC

「ぬ」の説明として「1モーラを形成する。」という文があった。

今度は「モーラ」を引いてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%A9

音節に似て、「拍」とも訳せる単位なのだそうな。


俳句はよく、五七五の十七字で構成されると説明される。
正確には「字」ではなく「音」なのだとも説明される。
この「音」がモーラなのだ。
だよね。
「おと」と混同しない便利な単位があったものだ。

この○○という言葉が8モーラなんだけど句跨りで・・・

なんて会話が俳人たちの間で交わされる様子が思い浮かんだ。


早くて20年後だな。