中東断章

中東問題よこにらみ

イスラムとオリンピック

2012年11月14日 | イスラムとスポーツ


 いささか旧聞に属するが、今年8月、ロンドン・オリンピックが無事に終了した。毎回「無事に」という枕ことばをつけなければならないようになったのは、考えてみれば異常な事態である。今回も民家の屋上に地対空ミサイルを設置するなどテロ対策には大わらわであった。

 今回は、オリンピックの会期がすっぽりイスラムの断食月に入るというイスラム教徒にとってはまことに不都合なことになった。これにどのように対処するかは選手個人々々の判断にまかされている。たとえ監督から勝つために「食べろ」と強制されても、最終的に決めるのは選手個人である。選手はだれも大いに悩んだことであろう。『UAEから参加する柔道のへミード・ドリエ選手は、大会期間中は断食しないと決め、こう語っている。「私が何をしようと、断食をしようとしまいと、アッラーの神は私とともにある」「一番大切なのは神を信じてベストを尽くし、勝っても負けても神に感謝することだ」(8月24日付CNN)』

 その戦果であるが、今回もほぼいつも通りの成績である。特によくもなければ悪くもない。イスラム圏全体で、金メダル9個、銀メダル10個、銅メダル11個ということで、これは例えば出場国中メダル総数で6位の日本が金7、銀14、銅17であるので、まあ日本一国並みというところであろうか。

17位 イラン・・・・・金4 銀5 銅3
32位 トルコ・・・・・金2 銀2 銅1
45位 チュニジア・・・金1 銀1 銅1
47位 ウズベキスタン・金1 銀  銅3
50位 アルジェリア・・金1
58位 エジプト・・・・・・ 銀2
75位 カタール・・・・・・・・・銅2
79位 モロッコ・・・・・・・・・銅1


 今回のオリンピックには204の国・地域から約1万1000名の選手が参加したが、これまで女子選手を出場させていなかったサウジアラビアやカタールなども女子選手を送り、オリンピック史上初めて全ての国・地域から女性選手が参加する大会となった。これを目出度いと言うべきか、被り物というハンディまでつけて女性が出場する意義があるのかどうか、議論があるであろう。


 ところで、次の2016年のリオデジャネイロ・オリンピックの次、2020年のオリンピック開催都市に、東京、マドリードと並んでそのイスラム圏からトルコのイスタンブールが立候補している。開催地は来年9月に最終的に決定されるというが、この国の下馬評では、8年後のこととは言え経済的苦境にあるマドリードは後退して、東京とイスタンブールの決戦ということになっているらしい。そして、気の早い向きは現下のイスラム諸国の混乱を見て東京の楽勝をはやしているらしい。しかしそれは難しい。

 第一の理由は、アラブ・イスラム諸国における混乱、言うところの「アラブの春」(!)に対する見方が欧米とわが国とでは大きく異なっていることである。日本人から見れば、あれは異境のできことであり、他人事である。何を好んでドンパチやっているのか分からない程度の認識であろう。ところが欧米人にとってはイスラム世界は隣人である。日本にとっての中国である。歴史的に長いつき合いがあり、「アラブの春」のよって来たるゆえんに思いを致し、それを延長して現在の混乱の帰趨を自らのこととして考えざるを得ない立場である。また彼らは戦略的に考えることに長けている。約めて言うが、彼らが、8年後のオリンピックの候補地として東京とイスタンブールを天秤にかけるとき、現在のイスラム諸国の混乱を踏まえて8年後の世界を思い描くとき、彼らは躊躇なくイスタンブールに票を投じるであろう。ちょうど半世紀前東京に投票してくれたように。

 第二に、招致を呼びかける国の政治家の格が違うことである。日本の首相は、国際的には、その地位についている人ということでそれなりの待遇は受けても、それがAさんであるかBさんであるか、知る人はいない。顔がない。日本からの発言は闇の中から響いてくるうめき声のような趣きである。それに対してトルコのエルドアン首相はと言えば、10年来ヨーロッパと四つに組んで執念のEU入りを策しているスターがある。そのエルドアン首相が、トルコはこれまで一次選考ではねられた分を含めると5回も立候補しているにもかかわらず開催が認められないのはフェアではない、イスラム国がいまだ開催国になっていないのも同様である、と強い不満と招致意欲を示している。イスタンブール・オリンピックは、決まり文句のような東西の文明の橋渡しを目指すのではなく、イスタンブール2020のロゴはイスラム寺院の尖塔が描かれている、とイスラム国を強く意識した発言を行っている。水面下ではアラブ産油国をも巻き込んだ招致活動が行われていると考えないわけには行かない。

 第三に、さきのIOCにおける選手委員の選挙において、日本の立候補者が投票では首位を占めながら、選挙違反で失格するという醜態を演じてしまった。これは選手個人もさることながら、それ以上に選手を指導する立場のNOC役員に人を得ていなかったということであろう。ぬかりなく規則を守って運動するということに、また刺されるリスクがあるということに対する認識がなかったのである。ことほど左様に、政治家も無力なら、実働部隊にも力がない。来年9月まで、国際的に、また国内向けにネットを活用した魅力的な招致活動を展開することは期待できそうにない。

 イスタンブール・オリンピックが実現したとして、トルコがどのようなオリンピック運営を見せるか、そこでイスラム国の選手がどのような活躍を見せるか見せないか、興味深い。アテネにおける「聖火」の採火式や聖火リレーをやるのかどうか。オリンピックの性格が、西洋人の運動会から、イスラム性、イスラム色を加えたものに変わるかも知れない。






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アテネ・オリンピックに対する反省

2005年01月09日 | イスラムとスポーツ

 アテネオリンピック後に現れた反省記事の中から、いささか硬派に属する一本を遅まきながら紹介したい。

 サウジアラビアを中心に読まれている英字新聞「アラブ・ニューズ」紙にのったもので「ムスリム国家はどうして国際スポーツ大会でこうもうまく行かないのか?」と題する04年9月1日づけ記事である。

 国際スポーツ界、特にオリンピックにおけるアラブ・イスラム諸国の不振ぶりを具体的に示し、その原因と考えられるものを指摘し、4年後の北京大会でも改善は期待できないと断じている。
 イランにおけるホメイニ師のスポーツに対する姿勢や、同じくイランの宗教家たちのレスリングに対する見方など、教えられるところが多かった。
 またアラブ・イスラム国民のオリンピックからの疎外感について述べているが、これはアラブ・イスラムのみならず日本などアジア諸国も同じ状況であるにもかかわらず結構楽しんでいることに思いを致し、イスラムの特性に言及してほしかった。

 アラブ人がアラブのことを(外国語で)あげつらったものには、自虐趣味や傍観主義やひとりいい子傾向など、読むに耐えないものが少なくないが、これはあくまで自分のこととして書いているので、さほど抵抗なく受け入れることができる。(逆にアラビア語で書かれたものは教条主義ばかりでまったく面白くない。)


 参考までに上記記事の粗訳を添付する。

(翻訳はじまり)

ムスリム国家はどうして国際スポーツ大会でこうもうまく行かないのか?
アミール・タヘリ(アラブ・ニューズ)

パリ(2004/9/1) - ムスリム世界にニュー・ヒーローが登場した。先週アテネで閉幕した夏季オリンピック大会で2個の金メダルを手にしたモロッコの陸上チャンピオン、ヒシャム・エルゲルージがその人である。数日間、彼の英雄的な偉業の映像が、その歓喜の微笑みや涙とともに、アラブ世界の通常テレビ番組にちょっとした救いをもたらした。

 しかしながら、エルゲルージのこの大勝利をもってしても、世界57か国のムスリム国の大多数にとって、おそらくこれが最悪のオリンピックであったという事実を隠すことはできない。

 何はさておき、ムスリム諸国は、全体でほぼ12億人の人口を抱え、これは全人類の5分の1に相当するが、アテネ・オリンピック参加選手の中では5%に満たず、4年前のシドニー大会より低下している。

 世界のムスリムが獲得したメダルのシェアはさらに低かった。ムスリム国57か国のうち、どれかのメダルをとった国はわずかに12か国であった。アテネ大会で授与されたメダルの総数892個のうち、ムスリム国へ行ったのはわずかに42個であった。金メダル全287個のうち、ムスリム国がかちとったのは13個だった。このことは、ムスリム国57か国で、人口1800万人のオーストラリアが獲得したメダルより少ないということを意味する。オーストラリアは、金メダル17個を含む全部で49個のメダルを獲得した。

 アテネ大会では、メダル獲得数でトップ21か国のうちにムスリム国はひとつも入らなかった。ムスリム国グループの中では、3個の金メダルを含む9個のメダルを獲得したトルコが22位を占め、リーダーとして浮上した。次いで、メダル6個のカザフスタンが37位、5個のアゼルバイジャンが40位となる。イランは4個で43位であった。アラブ国の最高位はエジプトの46位で、メダル4個、うち1個は金メダルであった。アラブ連盟加盟22カ国のうち、ほかに4か国がリストにのっている。モロッコがエルゲルージの金2個を含むメダル3個で51位、アラブ首長国連邦が金メダル1個で68位、エリトリアが銀1個で73位、シリアが銅1個で75位である。

 中国は、その人口がイスラム国57か国全体の人口とほぼ匹敵するが、31個の金メダルを含む62個のメダルを獲得した。

 ムスリム国が獲得したほとんどすべてのメダルは個人種目によるものである。団体種目では、ムスリムはまったく登場しない。(例外はイラクのサッカー・チームで、最終戦に残り4位を占めた。)


 ムスリム国はどうして国際スポーツ大会でこうもうまく行かないのか?

 真の答えは、ムスリム諸国が(オリンピックという)ひとつの世界システムの中で試合をするというつまらないところにある。そのシステムの創設には彼らは何の役割も演じなかったし、その中で居心地がいいわけもない。ムスリム国グループの中では、もっとも「イスラム的」でないものが最高の成績をあげた。トルコ、アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタンの世俗的共和国が、イスラム国が獲得した全部で42個のメダルのうち24個を占め、それには13個の金メダルのうちの6個が含まれている。

 近年、6か国が自らの国に「イスラム共和国」のラベルを貼った。モーリタニア、スーダン、イラン、パキスタン、アフガニスタンがそれである。そのうち唯一イランが金2、銀1、銅1の全種類のメダルを獲得した。

 多くのムスリム国では、ますます多くの因習的な人びとが、スポーツを宗教的義務から人間の注意をそらせる道楽だとみなしている。1970年代にイランがアジア大会を招致したとき、故アヤトラ・ホメイニを含む数人のムッラーが、運動競技をムスリムをモスクから追い出しスポーツスタジアムに追いやる「ユダヤ-十字軍陰謀」であると非難した。

 1979年に権力を握った後のホメイニの最初の法令のひとつが、イラン全土で活動していた600かそこらのすべてのスポーツクラブや団体を解体することだった。イラン国民が愛好するスポーツであるサッカーも3年間禁止された。

 神学者の中にはスポーツに反対するものがいる。なぜならスポーツは身体的な接触をともなうからだ。その上、そのような(接触する)人体を不愉快に感じる文化では、それは常に不安の原因となる。例えば、イラン人ムッラーは、ここ何十年も、この国で3000年の歴史をもつスポーツであるフリースタイルレスリングを禁止しようと試みてきた。なぜなら、試合中ずっと裸同然の身体が触れ合わねばならない対戦者の間に同性愛の傾向を助長することを恐れるからだ。フリースタイルレスリングは、レスラーがすっぽりウェアを着て試合をするようにして、ホメイニ主義の台頭を何とか乗り越えた。

 ムスリム専制君主の中には、スポーツが自分たちの支配権の及ばない範囲を広げる活動ではないかと恐れるものがいる。彼らは、また、スポーツ・スターの人気が「最高指導者」の威光を蚕食するのではないかと心配し、落ち着かない。そのためスポーツ・チャンピオンは、多くの場合、体制の官僚となったり、亡命したり、麻薬やアルコールに浸って命を縮めたりする。

 大部分のムスリム国では、軍備に多額の財源をとられるため、スポーツのような「贅沢」に投じる資金はほとんどない。たとえば、イランにはオリンピック規格の水泳プールはひとつしかないが、それは1970年代に当時国民的人気のあった水球チームのためにシャーによって建設されたものである。インドネシアでは、学齢期の児童で正規の体育授業を受けているのは5%に満たない。ほとんどの場合、ムスリムの運動選手は自身の練習費用をまかなうためにひとつかそれ以上の職をもたなければならない。金メダルを獲得した13人の選手のうちの8人は、ムスリム世界の外で訓練を受けたか、自国政府による支援よりも私的な寄付の恩恵を受けている。ムスリム世界のスポーツのリーダーであるトルコは、国家予算の18%を防衛に投じているのに比べ、スポーツには1%以下でしかない。

 ムスリム国が国際スポーツ大会でうまく行かないもうひとつの理由がある。事実上まったく女性を欠いていることである。アテネ大会では、女性選手は全体の39%であった。しかるに、ムスリム諸国の場合、女性選手は9%以下である。ムスリム国の中には、女性選手がゼロのところもあり、一方、イランを含む他の国でも女性はただ一人で、しかも頭のてっぺんからつま先まですっぽりスカーフで覆われていた。

 多くの統計の示すところによれば、すべてのムスリム国で女性人口が過半を占めている。それにもかかわらず、女性はほとんど完全にスポーツの世界からシャットアウトされている。女性徒の体育授業が禁止されている国もいくつかある。他の国でも、イランのように、男性が女性の身体を盗み見することを恐れて、女性のためのスポーツ施設を建設することが抑えられている。人口の半数以上の人々にスポーツで競う機会を拒否することによって、ムスリム諸国はアテネ大会のようなイベントでメダルをかちとる機会を減らしている。

 多くのムスリム国では、水泳、自転車、乗馬、レスリング、サッカー、それに言うまでもなく体操のような少なからざるスポーツ種目から、女性はシャットアウトされている。
 過去4回のオリンピックで確実に低落の道を歩んできて、ムスリム諸国民が4年後の北京大会で少しでも向上する望みはほとんどない。

(翻訳おわり)
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イスラム事典とスポーツ

2004年12月12日 | イスラムとスポーツ

 以上の議論を検証するために、既刊のイスラム事典に当たってみた。

 わが国のイスラムを対象とした代表的な事典である 平凡社「イスラム事典」 には、残念ながらオリンピックもスポーツの項目もない。


 次に、新しい「岩波イスラーム辞典」(岩波書店2002)を見ると、オリンピックはないが、「スポーツ」の項目があって、800字ほどの説明が見られる。

 まず、「イスラーム辞典」と言いながら、イスラムとの関係においてスポーツの説明がないのは理解できない。これでは一般の歴史辞典と変わりない。わずかに末尾で、「肌を露出することが多いため、一般に女性のスポーツへの参加は限定されている。また、男性が女性のスポーツ大会を観戦することはできない」という指摘があるのみである。

 前半はイランを中心とする歴史的な状況の記述で、後半で現代に移り、「発展途上の国が多いイスラーム世界では、余暇を利用した庶民のスポーツや見世物としてのスポーツは、欧米諸国や日本ほど盛んではない。政府や公的機関による援助が十分でないこともその理由である」と、スポーツが盛んでない理由を国の財政問題に帰している。これではまったく不十分である。石油生産国には十分すぎる資力がある。

 続いて、「したがって、伝統を有するレスリングのような一部競技を除いて、オリンピックなどの国際大会で活躍する選手は少ない」とあるのは、カネがないからという理由づけは不満ながら、正しい。

 締めくくりの、「ただし、サッカーはきわめて人気があり、イスラーム世界のどこの街角でも子供たちがボールを蹴っている。トルコやモロッコには有力なプロのチームもある」という教示は貴重である。


 自分の書いたものを検証するつもりが、恐縮ながら逆に注文をつけることになってしまった。

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ムスリム女性とスポーツ

2004年12月12日 | イスラムとスポーツ

 今夏、アテネ・オリンピックに向けた日本選手団は、男子141名に対し女子171名となって、はじめて女子選手が多数を占めたという。女性スポーツの隆盛は慶賀にたえないが、世界でも女性がスポーツに参加するようになったのは、意外に新しく、第一次世界大戦後のことであるという。(「図説スポーツ史」朝倉書店1991)

 近代オリンピックの競技プログラムに女子の水泳競技が加わるのが1912年ストックホルム大会であり、陸上競技は1928年アムステルダム大会からである。女性とスポーツの関係では、西洋世界も威張れた義理ではない。それが人間の歴史だったのである。アラブ・イスラム世界でスポーツへの女性の進出がが遅れているといっても、高々70~80年のことではないか。

 よく知られているように、日本の女子選手の参加は非常に早く、その28年(昭和3年)アムステルダム大会に人見絹枝選手を送り、人見選手は陸上800mで銀メダルを獲得した。次いで36年ベルリン大会で「前畑、がんばれ!」の前畑秀子選手が水泳200m平泳ぎで日本人女性としてはじめて金メダルをとっている。

 アラブ世界では、さきに紹介したモロッコのエルムタワキル選手やアルジェリアのブルメルカ選手のように、ここ20年ほどで優れた女子選手があらわれ、メダルを獲得するようになってきた。数十年の遅れは大した問題ではない。ことは、欧米や日本のように、アラブ・イスラム諸国でも、このまま国内での女子のスポーツ活動が活発になり、女子選手の出場が継続的に増えていくのかどうかということである。

 目下は、イスラム国の女子選手でオリンピックに参加しているのは、自らがイスラムの命令を端折るか自己流に解釈し、家族がそれに目をつむり、さらにその国のNOC(政府)が諸般の情勢から暗黙の承認を与えることによって実現しているのである。

 アテネ大会ではクウェート、バハレン、イラン、アフガニスタン、ソマリアなどの選手がスカーフをかぶって競技した。

 クウェートは、選手団11人の中に、今回はじめて女子の陸上短距離のダナ・アルナスラッラー選手、16歳、を入れた。ベストタイムは100m13.1秒で、競技会ではずっとスカーフをかぶって走ってきたという。

 バハレンの17歳の女子100mスプリンター、ラキア・アルガスラは、頭に白いスカーフをかぶり、長袖シャツにくるぶしまであるタイツをはいて、顔だけを出して走った。バハレンからは、前回のシドニーオリンピックに初めて12歳と16歳の姉妹の女子競泳の選手が参加した。水泳ではもちろんスカーフはない。

 イランからは、女子選手は射撃のハサンプール選手ただ一人であった。スカーフをかぶって競技した。結果は41人中28位で入賞には遠かった。

 オリンピックでは、毎回スカーフをかぶって競技に出るムスリムの女子選手のことが話題になる。スカーフをかぶって走ってはもちろんメダルはとれない。しかし、金メダルの選手とは別に、スカーフの選手がゴールに入ってくると大勢の記者やカメラマンに取り囲まれる。質問をさえぎって逃げるように立ち去る選手もいるが、たいていは、スカーフはムスリム女性として当然の義務だなどと誇らかに答えている。

 だれもが勝つために集まっているオリンピックに、国ごとの割り当て枠を利用して、わざわざハンディキャップを負って競技する勝つことを放棄した選手が出場することに対して、まだ西側諸国やIOCから非難めいた文句はないようである。これは、選手が鉄亜鈴をもって走るのと同然で、イスラムとは無関係の、オリンピックとしての問題でもある。もしいつかこれが表立って議論されるようになると、西側は、オリンピックに対する侮辱であるとか、競技に参加すること自体が無意味であるとして、スカーフ選手の追放を叫ぶことにもなりかねない。

 一方、イスラム国としては、勝利することのないスカーフ選手をオリンピックに送ることの意味はどこにあるのか。宗教的、政治的デモンストレーションと考えるほかないが、いつまで続けるつもりだろうか。あるいは別の理屈があるのかも知れない。イランから、オリンピックはムスリム女性の参加を差別しているという見当はずれの非難がなされたことがある。女子選手はすべてスカーフをかぶって走れということになる。

 アラブ国レベルでも、イスラム国レベルでも、女性スポーツを振興するための国内、国際組織がいくつかある。アメリカにもある。それぞれ懸命に活動しているが、先が見えていない。アトランタオリンピックの後で、いくつかのNGOの支援により、イスラム諸国からの女性選手のためのイスラム女性オリンピックが地下練習場でこっそり開かれたという。選手も審判も女性だけで、写真もとらず、メディアによる報道もなかった。もちろん全員スカーフもかぶらず足を出して走ったに違いない。

 「ムスリム女性とスポーツ」は、イスラムと女性という大きな問題(外部から見て)の一部で、整理がつかない。
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「地中海オリンピック」「アラブ大会」「GCC大会」

2004年12月11日 | イスラムとスポーツ
 アラブ・イスラム世界におけるスポーツの位置づけはともあれ、「妥協」の産物として、現実にスポーツはかなり行なわれている。オリンピックのほかに、アジア大会、アフリカ大会にも参加している。それ以外に、下記のようなスポーツ競技大会がある。

 しかし、アラブ・イスラム世界のスポーツのレベルは低い。現在は国民のごく一部のスポーツ好きが、繰り返し各種の大会に出ているのが実情ではないだろうか。スポーツ・体育に関する初等教育段階から国民的な底上げが行なわれ、その中から優秀な青少年を選手として育成していく社会的なシステムが作り上げられない限り、アラブ・イスラム国のスポーツの明日はない。


地中海オリンピック

 参加国は地中海に出口をもつ国に限られ、北岸のヨーロッパ諸国、南岸のアフリカ諸国、それに東岸のアラブ・イスラム諸国からなる。ただしイスラエルは、レバノンの南からガザの北まで250kmほど地中海に顔を出しているが、参加を拒否されている。
 1951年アレキサンドリアで第1回大会が開催され、以来4年ごとにオリンピックの翌年に開催されて、バルセロナ、チュニス、ナポリ、ベイルート、イズミールなどを巡って、前回は01年にチュニスで開かれた。次の第15回大会は、05年、スペインのアルメリアで開催の予定である。

 チュニス大会の例で見ると、フランス、イタリア、スペインの欧州3国が圧倒的に強く、次いでトルコ、ギリシャが来る。その後にアルジェリア、チュニジア、エジプトなどとアラブ国が続く。メダルの数では、トップのイタリアの139個に対し、アラブトップのエジプトで37個というありさまで、オリンピックの成績がそのまま反映されている。


アラブ大会(パン・アラブ大会)

 エジプトのナセル大統領の登場によって高揚したアラブナショナリズムの波に乗って、アラブ連盟の音頭とりで1953年に発足した。アラブ連盟加盟国のみによるスポーツ競技会である。地域大会が多い中で、フランスの旧植民地を糾合したフランコフォン大会に似て、言語的、宗教的、文化的一体感を基盤とした珍しい競技会である。しかし、パレスチナ問題のアラブ側に悲劇的な展開を反映し、また湾岸戦争のような地域的紛争のため、たびたび取りやめになったり延期されたり、あるいは逆に早めたりと、運営はたいへん難航している。はじめは男子だけだったが、85年から女子種目が加えられた。

 開催年と開催地は次のとおりである。
 1953 アレクサンドリア
 1957 ベイルート、
 1961 カサブランカ、
 1965 カイロ
 1976 ダマスカス
 1985 カサブランカ
 1992 ダマスカス
 1997 ベイルート
 1999 アンマン
 2004 アルジェ

 前々回、99年のアンマン大会では、クウェートによる参加ボイコット、大会の正統性に対する疑問、審判の判定に対する不服、薬物問題、サッカー試合での応援団の騒ぎ、などアラブ世界につきもののどたばたで大荒れであったという。

 去年予定されていたアルジェ大会が、5月の大地震のため延期となり、本年9月(9/24-10/8)開催された。アテネ・オリンピックの直後となったため、アテネから直接アルジェに飛んできた選手も多かった。イラクが新たに400人を越える選手団を送るなど、21カ国から5000人あまりの選手が参加する盛況で、結果は、常勝のエジプトと地元のアルジェリアが拮抗する成績をあげ、続いてチュニジア、シリア、モロッコ、サウジアラビアの順であった。

 しかし、アテネでメダルをとったような一流選手は参加せず、二線、三線級の選手ばかりが集まったため、記録的にはもちろん問題外で、アラブ以外のメディアの注目もなかった。そのため内部からもその存在意義を問う声が出ているが、ともあれ、次回、07年大会はリビアで行なうことが決まった。

 1992年、バルセロナ・オリンピックで、観衆の前で裸の足を出して走ったのはムスリム女性としてあるまじきこととして、自国の女性金メダリストを脅迫して国外に追放したアルジェリアが、今年、アラブ大会を主催して多数の女子選手を受け入れた。スカーフをかぶって走るものもいたが、多くはかぶらなかった。長いトレパン姿で走るものもいたが、多くは男と同じショーツで走ったという。これはアルジェリアが世俗化したのでは決してなく、逆にますます原理主義がはびこる中でのねじれ現象と解すべきである。当局はメンツにかけて厳戒態勢を敷いたという。


GCC大会

 湾岸協力会議(GCC)は、アラビア湾に面するアラブ産油国6か国(サウジアラビア、クウェート、バハレン、カタール、アラブ首長国連邦、オーマン)からなる地域協力機構である。時に金持ちクラブなどと揶揄されるが、本来の外国からの攻撃に対する共同防衛構想とは別に、スポーツレベルでも水泳やバレボール大会などを共同で行なっているようである。
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イスラムとスポーツの妥協

2004年12月09日 | イスラムとスポーツ
 これまで見てきたように、オリンピックに出場するアラブ・イスラムの選手は、「二重苦」を背負っている。オリンピックもスポーツそのものも、イスラムから奨励されるものではないし、全国民からの熱烈な応援のもとにやってきたのでもない。特に女子選手の立場になると、どれだけ大変かは想像もつかない。アラブ・イスラムのオリンピック選手の成績が伸びない主な原因はこの二重苦にこそあるであろう。

 イスラム社会では、スポーツひとつがこれほど面倒なのだ。オリンピック大会で懸命に走ったり、レスリングで取っ組み合って戦うアラブ・イスラム選手の背後にはこうした議論が渦巻いている。各選手は、これらの問題に対して、それぞれ個人が心の内でイスラム教と何らかの折り合いをつけて、スポーツに取り組んでいる。たとえば、自分はコーランやハディースを勉強したがそれらがスポーツを禁止しているとは考えないとか、スポーツをしても別にアラーの神のことを忘れたのではないから許してくれるだろうとか、オリンピックはジハードと同じだからやらなければならないんだとか、今年は練習で断食ができなかったのでシーズンが終わったら一人でやろうとか、多分いろいろ若者らしい理屈をこねているはずである。

 この点に関しては、日本のオリンピック選手は心の負担はゼロで、それどころか全国民から物心両面の絶大な支援を受けて、幸せである。冒頭に紹介した新聞記事によれば、明治以来日本ではスポーツは、富国強兵の「強兵」の道具に利用されてきたようだが、いまはそれもなくなった。

 ではいったい、イスラムのもとでスポーツは、現実問題、どういうことになっているのか、という疑問が湧く。アテネ・オリンピックには、各国とも数十人の選手団を派遣してきたではないか。イスラムのサッカーチームが試合中、礼拝時間になったからといって、いっせいに引き上げて礼拝するということはないではないか。だいたいモロッコやアルジェリアやチュニジアのサッカー試合での全国民こぞってアラーの名を叫びながらの熱狂ぶりは何だ、いったいどういうことになっているんだ、原理主義はどこへ行ったんだ、イスラムは引っ込んだのか、ということになる。

 かたくるしく言えば、国の行政上、イスラム教との関係におけるスポーツの位置づけ、関係法令、それにもとづく教育機関および社会レベルでのスポーツないし体育の所管官庁とその組織、初等、中等学校での体育の授業、上級学校におけるスポーツのクラブ活動の実態、スポーツ関連NOCや各種競技団体の位置づけはどうなっているかを明らかにする必要がある。またイスラム国で特に人気の高いサッカーにかかわる諸現象の解明も別問題としてある。イスラム社会でプロスポーツが許されるのかという問いもある。これらに対しては、いくつかの役所や学校を歩けばそこそこのレポートが出来上がるかも知れないが、しかしそれではイスラム社会におけるスポーツの実際のありようをとらえたことにはならない。法律や制度の問題ではないからだ。

 かと言って、これらの問題に答えることは容易ではない。お手上げである。イスラムとスポーツのせめぎ合いが、時代によって、国によって、スポーツの種目によって、等々、どちらにどれだけ振れるかということである。ただ、理屈として、次のようなことは考えられる。

 上記のように、スポーツに傾く青年は、心のうちでイスラムと折り合いをつけて練習や試合にのぞんでいく。彼らは、同一世代では、ノンポリならぬノンレリ(ノン=レリジャス)である。西側社会では完全なノンポリはありえても、イスラム社会では完全なノンレリはありえない。スポーツをしたい青年は、イスラムがスポーツを原則禁止することに対して、「そんなバカなことがあるものか」とは絶対に反発できないので、大いに悩むことになる。スポーツを続ける以上、どこかで個人的にイスラムと折り合いをつけないわけにいかないのだ。(イスラム教から転向すればどうかということについては、これがありえないことはいずれ触れる。)一方、宗教心の高い青年は、スポーツなど見向きもせず、原理主義に突っ込んでゆく。この2人の青年を両端として、その間に切れ目のない濃淡の色合いをもった青年たちが位置することになる。

 他方、ウラマーと呼ばれる人たちを含む年配層は、これはどこの社会でも保守派、守旧派で、宗教心が強い。ウラマーというのは、そもそも社会がイスラムの規範からそれないように監視し、アドバイスするのが役目である。

 為政者は、イスラム国として、基本はスポーツ禁止であることを踏まえながら、ひとつの世代の中、重なり合う世代間のバランスをとりながら、裁量でもって日々綱渡りをしているということになろう。法律や制度を作ってすませられる問題ではないからだ。ウラマーの意見にばかり従っていると、タリバン政権治世の再現となる。逆に、スポーツを野放しにすると、イスラムの部分的放棄のようなことになり、青年の半分から攻撃される。また国際社会に対する体面もある。

 ちょうど面白い事例があるのでご覧いただきたい。サウジアラビアの現状を日常生活の面からこまめに報告してくれているサウディアラビア総合投資院田中保春氏の「サウディアラビアよもやま話」で、04年1月8-9日の2日間にわたって、サウジアラビアの公立女子校の授業に体育を導入するかどうかをめぐる政官界の動きを報告してくれている。これを読むと、この社会では女子校にこれまでなかった体育の授業を導入することがいかにデリケートかつクリティカルな問題であるかがよく分かる。為政者(サウジ王室)は、このどたばた騒ぎをにらみながら、裁量で落としどころを探ることになる。法律や議会の決議はほとんど意味がない。

 アラブ・イスラム国における熱狂的なサッカーへの肩入れは、これはサッカーに関しては社会全体がイスラムと妥協しているとしか考えられない。これまで見てきたようなイスラムとスポーツの関係論議を停止、ないし放棄していると思われる。謹厳なウラマーも一喜一憂しながらテレビ中継にかじりついているのであろう。

 イスラムとスポーツの関係は、実はそっくりそのままイスラムと音楽の関係に同じであるのだが、これについては別に述べる。
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イスラムとスポーツ

2004年12月07日 | イスラムとスポーツ
 アラブ・イスラムは、オリンピックであるとないとにかかわらず、スポーツ一般で振るわない。これは、さきに見たオリンピックへの及び腰から力が入らないためだけでなく、スポーツ自体がイスラムによって無条件に許されるものではないからである。日本人には考えられないことだが、飛んだり跳ねたり蹴ったり投げたりのスポーツをすることに宗教が深く関与し、待ったをかけているのである。アラブ社会では、スポーツをしていいのかどうか、いいとすればどんな条件があるのか、という議論が繰り返し行なわれている。もちろん、こうした問題は、ヨーロッパからイスラム世界に近代スポーツがもち込まれて以来の現象であるはずだ。

 イスラム社会では、すべてのことは、まずコーランに聞いてみなければならない。スポーツについても同様である。もし、コーランの中に「スポーツを大いにやりなさい」と書いてあれば、おそらくアラブ・イスラム人が今ごろは世界記録を総なめにしていただろう。コーランにあることは絶対に従わなければならないからだ。しかし、コーランにはスポーツについての直接的な記述はない。そうとすれば、次は預言者ムハンマドの言行録である膨大なハディースにあたらねばならない。これまでに何人ものウラマー(学者たち)が探索したところ(この世界も最近は電子化が進んでいるが)、競走、レスリング、アーチェリー、水泳についての記述があり、預言者はそれらを奨励していると読めるらしい。とにかく、これらのスポーツをしてはならないと言ったとは書いていなかった。

 では、ハディースがそう言うのであればどんどんやっていいかと言えば、やるのはいいが、イスラムの全体的な枠組みの中でやりなさいというこになる。いや、こういう場合は常に「イスラムの枠組みの中でしかやってはならない」という言い方になる。具体的には次のようである。

1)スポーツが1日5回の礼拝や断食などの宗教上の義務(いわゆる六信五行)の実行を妨げるものであってはならない。
2)スポーツが他人の宗教上の義務の履行を邪魔するものであってはならない。
3)スポーツをするときの服装はイスラムの基準に沿ったものでなければならない。
4)(テニスの混合ダブルスのような)男女入り混じってのゲームをしてはならない。
等々。

 これでは、練習や試合をしている最中に礼拝の時間が来ると中断して礼拝をしなければならないわけだ。断食月には昼間は絶食し、水一滴も飲むことができない。女は言うまでもなく、男でも裸丸出しのだらしない(スポーツには適した軽快な)服装をすることはできない。これだけでも、とてもまともに勝負を競うスポーツの練習や試合ができるとは思えない。だがそれ以上に、ウラマーの間では、スポーツは根本的にコーランにもとるという意見が強いのである。

 ところで、スポーツを「する」だけでなく、「見る、観戦する」方にも厳しい制約がある。現在スポーツ選手が普通につける程度のスポーツウェアを着て競技、演技、試合をしているとき、女子は男子選手のそれを見てはならないし、男子は女子選手のそれを見てはならないのである。そういう状況になれば、つつましく視線を下げなければならない。ならば、競技場へ行かなくても、テレビではいくらでも双方見ることができるがそれはどうなるの、ということになる。とまれ、これについては別に触れる。

 現代アラビア語ではスポーツのことを「リヤーダ」というが、これは主にサッカーだのバレーボールだのといった西洋伝来の近代スポーツを指す。日本語でもスポーツと言えば明治以降の近代スポーツのことで、弓術、馬術、槍術などの武芸十八般をスポーツとは言わないのと似ている。

 アラブ・イスラム社会に伝統的な乗馬、アーチェリー、レスリング、競走、槍投げ、ラクダ乗りなどをいま伝統スポーツと呼ぶとすれば、アラビア語では、これらの伝統スポーツとともにチェスやカードゲームのような室内遊戯までも含めて、「ライブ(遊び、遊戯)」とか「ラハウ(戯れ、娯楽)」と呼んでいる。これらの語はコーランの中で数回出現するが、どれも次のような文脈で使われている。

現世の生活は、遊び(ライブ)か戯れ(ラハウ)にほかならない。畏れかしこむ人々には、来世の住まいこそ最良である。お前たちは悟らないのか。(6:32)

この世の生活はただ娯楽(ラハウ)遊戯(ライブ)にすぎない。来世の館こそは生命である。彼らがこれを知っていたらなあ。(29:64)
(コーランの訳は「コーランⅠ・Ⅱ」中央公論新社2002による。括弧内の注記は筆者。)

 どちらもいずれ滅びる現世のたとえにされて、つまらない時間つぶし、価値のないもの、とされている。これをもとに、大多数のウラマーは、現代のリヤーダをもライブやラハウに含めて、「スポーツはイスラムでは禁止されている」とするようだ。伝統スポーツは、ジハード(聖戦)を戦うための武芸としてのみ認められるという。

 さらに、ここでは簡略にしか述べることができないが、イスラム教徒は常にアラーの神を意識し、常に神の栄光を讃えることを要請されている。それが人生の目的である。片時たりとも神を忘れることは許されない。その点で、スポーツやゲーム、すなわちライブとかラハウは、人間をそのことに没頭させるわけで、それはとりもなおさず神を忘れることになる。したがって、それだけでスポーツやゲームは禁止ということになる。アフガニスタンのタリバン政権は、史上もっとも厳格にイスラムの原理にのっとった政権であるが、きちんとスポーツを禁止していた。残念なことに5年しか続かなかったが。

 しかし、アラブの伝統スポーツは預言者も行い、実際に歴史上ながく行なわれていたことである。また近代スポーツによる信徒・国民の健康と体力の増進という効用は否定できず、さらに、ジハードに備えて体力を向上させるという宗教上の必要もある。西洋世界からの監視や圧力もあり、説明責任もでてきた。そうなればウラマーといえど、スポーツを簡単に全否定することは難しい。そこでそれやこれやを考え合わせ、アラブ・イスラム世界では、いまのところ、スポーツは、五段階評価で、ムスリムの義務としてやらなければならないことを一番目、絶対にやってはならないことを五番目とすると、上から四番目に位置づけられていると見られる。やってもいいがやらないほうがいい、ということになるだろうか。
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イスタンブール・オリンピック?

2004年12月05日 | イスラムとスポーツ

 ところで、これまで述べてきたようなオリンピックとイスラムとの緊張関係の中で、イスラム圏でのオリンピック開催の見通しはどうであろうか。いまは無理としても、時間が経過してイスラム原理主義の昂揚がおさまるときが来て、どこかでオリンピックを開催することがあるであろうか。候補地として考えられるのは、エジプトの首府カイロ、トルコのイスタンブール、イランの首府テヘランあたりであろうが、事実イスタンブールが立候補している。

 エジプトはイスラム教スンニー派の宗主国、イランは言うまでもなくシーア派の盟主で、ともに宗教の力が強く国内的に強力な反発が予想され、とても異端の匂いの強いオリンピックを開催することはできそうにない。さらに現下の9・11の衝撃が強い状況では、国際的な多数の支持をとりつけられる見通しはありそうにない。

 トルコの場合、建て前として政教分離をかかげる世俗国で、1908年第4回ロンドン大会から参加の最古参国のひとつで(日本は12年ストックホルム大会から参加)、しかもそこそこの成績を残していること、とりわけオリンピックを首尾よく運営して悲願のEU加盟を果たすテコにしたいという思惑もあり、手を上げたものと思われる。しかもイスタンブールは、世界に冠たる観光都市、歴史の町のひとつとして、オリンピック開催にはうってつけである。イスタンブール・オリンピックと聞いて、「え、まだなかったの?」ととまどう人がいてもおかしくない。オリンピックが儲かるビジネスとなったからには、資金の心配もなくなった。

 イスタンブールは、00年のシドニー大会を決めることになる92年段階で、北京、マンチェスター、ベルリンとともに初めて立候補した。以来、毎回立候補を重ね、08年の北京大会を決めるときには、大阪やパリ、トロントなどと争ったが、あえなく落選した。次の2012年大会の開催地が来年半ばに決定されるが、イスタンブールは、今度は、アテネから近すぎるためか、あるいは続発する爆破事件が影響したのか、すでにIOCによる絞り込みの段階ではずされてしまった。12年大会は、パリ、モスクワ、ニューヨーク、ロンドン、マドリードの最終候補5都市の中から選ばれる。いまは「ISTANBUL2012」を呼びかけるウェブサイトが再起を期して残っているだけである。

 イスタンブールでは、03年11月15日、市の中心街に近い二つの古いシナゴグ(ユダヤ教教会)が爆破され、死者20人、負傷者300人余を出した。続いて、その5日後の11月20日、こんどは新市街の商業地レベント地区にある英国系のHSBC銀行本部とイスタンブール最大の繁華街でいつも観光客でにぎわっているイスティクラル通りにある英国領事館の2ヶ所が自爆攻撃を受け、英国総領事を含む死者27人、負傷者450人余を出した。さらに、本年5月16日には、イスタンブールと首都アンカラにおいて、HSBC銀行を狙ったと見られる連続4件の爆破事件が発生した。これらは、アルカイダの欧州組織による犯行が疑われており、犯人グループの一部は逮捕されたり特定されたと言われるものの、明確な目的や背景は不明のままである。

 爆破事件は、非常に手痛い予想外の事件であったが、これはさておいて、トルコはオリンピック開催地への立候補に当たって、いくつかの有力なイスラム国や全世界的なイスラム国組織であるサウジアラビアのジェダに事務局を置くイスラム諸国会議機構(OIC-IOCと紛らわしい)あたりに根回しを行なっているであろう。票のとりまとめのためにはどうしても必要のはずだ。そのとき、たとえばサウジアラビアがトルコからその旨の挨拶を受けたとき、どのような反応を示したであろうか。イスラムに重点をおけば「NO」、イスラム世界の昂揚を図る政治目的をねらうと「GO!」となる。どちらについても反対派からの攻撃にさらされる。またもしトルコがオリンピックの運営でミソをつけてくれると、「やはりイスラムはだめだ」となって、取り返しがつかないリスクを抱え込むことになる。悩みは深い。

 果たして13億人の人口を抱えるイスラム圏初の「イスタンブール・オリンピック」は実現するだろうか。トルコのEU加盟問題とともに、深い霧の中にあるというほかない。
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イスラムとオリンピック

2004年12月04日 | イスラムとスポーツ

 近代オリンピックは、だれかが頭をひねってその仕組みを新しく考え出したものではもちろんない。わざわざ「近代」と断わるように、古代ギリシャで行なわれていたオリンピックの復活という形で成立した。

 1894年6月23日、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵の長年にわたる尽力によって、決定のときを迎えようとしていた。場所はソルボンヌ大学の大講堂。「クーベルタン男爵の提唱に従い、各国の代表者たちが一堂に会したパリ国際スポーツ会議は、満場一致でオリンピック競技の復活を宣言した。近代オリンピック誕生の瞬間である」(「古代オリンピック」岩波書店2004)。その場で国際オリンピック委員会(IOC)が組織された。

 この会場にイスラム圏の代表がいるべくもなかった。もしいたら、反対の声をあげていたかどうか、たいへん興味深い。というのは、近代オリンピックは、イスラムの本義からは受け入れるには非常な抵抗があり、イスラム国が簡単に参加しましょうと言うには重大すぎるからだ。それは厳粛な宗教行事の一部であった古代オリンピックを受け継いだ近代オリンピックのもつ宗教性の問題であり、さらには近代オリンピックがもつキリスト教的精神の問題である。

 「古代オリンピックは、今日のオリンピックとはちがい、スポーツ競技会のみで構成されるのではなく、主神ゼウスに捧げられた宗教祭典の行事として位置づけられていた。一見するとスポーツ競技会は宗教祭典の中心であったように見えるけれども、祭典が1日で終わってしまった初期の頃においても、5日間に拡大された前468年以降においても、競技会の合間に行なわれたゼウスの大祭壇の前でのヘカトンベ(百牛祭)と呼ばれる大犠牲式が祭典のクライマックスであった。最盛期には実際に100頭以上の牛が犠牲としてほふられて焼かれ、一部がゼウスに捧げられた。残りは居合わせた参加者によって食される。」(「古代オリンピック」同)

 ここに見るように、古代オリンピックは、ギリシャの神々の中の神、主神ゼウスを讃える神事として動物の犠牲をともなって行なわれていた。このことは、多神教とその偶像崇拝を目のかたきとするイスラムからすれば、古代オリンピックはこれ以上は考えられない異端のきわみ、不倶戴天の敵ということになる。もちろんそのころはイスラムは影も形もなかったが。たとえイスラム出現以前のものであっても、イスラム教徒は無数の神像の首をことごとくはねてきた。

 そのギリシャは、キリスト教の洗礼を受けて全土全人民がすっかりキリスト教化した。新約聖書がギリシャ語で書かれているところを見ても、もっとも早い時期にキリスト教がこの地に浸透したであろう。昔の神々は石の像として残っているに過ぎなくなった。こうして1900年が経過したとき、オリンピックがスポーツ大会として「復活」されたのである。復活第1回オリンピック大会は、1896年のアテネであった。

 アラブ・イスラムは、この近代オリンピックの誕生をどのように見て、どのように対処しようとしたか。それを伝える文書は目にしていないが、まとまったものがあることは期待できない。20世紀に入る直前といえば、オスマントルコ帝国の最末期にあたり、アラブ世界はまだ白河夜船、700年の太平の眠りから覚めていなかった。ロシアや東欧でユダヤ人を迫害するポグロムが多発し、続いてフランスでドレフュス事件が起こり、これを見たヘルツルが「ユダヤ人国家」を著して、スイスのバーゼルにおいて第1回シオニスト会議が開かれたころである。そのころ、イスラムの本義に照らしてオリンピック受け入れの可否を論じるアラブ人、あるいはイスラム教徒がいたかどうか。

 近代オリンピックが、太陽からの「聖火」の採取などの形式を受け継ぐだけでなく、同時に古代オリンピックの精神を引きずっているという点がイスラムのこだわりであろう。もし牛の犠牲式でもやれば、イスラムが加わることは考えられない。聖火については、これをどこまでも聖火と言って有難がるのはおそらく日本くらいのもので、アラブ圏はもちろんたいていの国で、オリンピック・フレームないしオリンピック・トーチ、トーチ・リレーと称している。リレーの道端に観衆が群がることはないが、それでも今年6月、パレスチナでは故アラファト議長がトーチを持ってラマラで短い距離を歩いてみせる大サービスをした。きちんと筋道だって説明できないのだが、アラブ・イスラム圏からは、古代オリンピックの禁忌の宗教性を引き継いだ近代オリンピックを、これは受け入れられないとして、ボイコットを叫ぶ声が少なくない。

 イスラム世界からオリンピックに最初に参加したのはトルコで、08年のロンドン大会からである。トルコではオリンピック参加についてどのような議論があったのであろうか。これまた真剣な議論があったとは考えにくい。このときムスタファ・ケマル、後のアタチュルク(父なるトルコ人)はまだ27歳、青年トルコ党の革命運動に反発しながら、軍務についていた。もし発言できる立場にいたら、もちろん大いに賛成したことであろう。アラブ諸国からは、盟主エジプトが次の12年のストックホルム大会から参加した。これ以外のアラブ国はすべて戦後の48年大会以降の参加である。

 こうした古代オリンピックの宗教性の問題以外でも、近代オリンピックがキリスト教徒であるヨーロッパ人、アメリカ人によって復活され、多くキリスト教のことばでもって語られることにイスラム教徒は深い疎外感と嫌悪感を抱いている。「オリンピックはキリスト教の宣教マシンである」というやつ当たり文章を読んだ覚えがあるが、チェックを忘れてしまった。このようなスローガンがアラブ人の心をとらえる。さきの新聞記事が伝えるところのオリンピックは「欧米のための運動会でしかない」というイスラム圏における冷淡さはこの点にも起因している。

 エジプトなり他のアラブ・イスラム国で、IOCからの招待状に対して、オリンピックはイスラムの本義になじまないと言って毅然としてこれをつき返すところが一国でもあれば非常にすっきりするところである。しかし、おそらくどの国も、イスラムにかかわるところで内心大いなるとまどいと不安を感じながらも、西洋世界のお招きにあずかって嬉々として受け入れたというのが実情であると思われる。これは、これから何度も見ていくことになるアラブ・イスラムの「妥協」の結果である。「ねじれ」と言ってもいいかも知れない。
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アラブ諸国のオリンピック成績

2004年12月02日 | イスラムとスポーツ

 イスラム圏というより、ここではアラブ諸国の人々について見たいのだが、アラブ人のオリンピックに対する「冷淡さ」は、その成績によく現れている。実に惨憺たる結果なのだ。

 アテネ大会では、最優秀のモロッコが金メダル2個、銀メダル1個で全体の36位、次いでエジプトが金1銀1銅3で46位、アラブ首長国連邦(UAE)が金1で57位、シリアが銅1で74位、他はメダルなしで順位表にあがってこない。

 前回の00年シドニー大会では、アルジェリアが金1銀1銅3で40位、モロッコ58位、サウジアラビア62位、など。前々回の96年アトランタ大会では、アルジェリア33位、シリア51位、モロッコ66位、などとなっている。

 これまでのオリンピックにおけるアラブ人の活動を振り返ってみると、おおよそ次のようなことが言えるであろう。

1) アラブ諸国の成績は、きわめて低調で、今日までずっと低空飛行が続いている。

 ここで、エジプトのタレク・サイド博士の作成になるアラブ諸国のメダル獲得数のリストを参照させてもらおう。1928年のアムステルダム大会からアテネ大会までの15回のオリンピック大会を通して、現在のアラブ連盟22カ国(総人口2.8億人/03年)の獲得メダル総数は、金が20個、銀が18個、銅が37個、合計75個である。これは、オリンピック3位ほどの1国が1回で獲得する程度のメダル数である。ちなみに、このリストがカウントしている大会と同じ基準で、日本が獲得したメダル数は、金94、銀81、銅95、合計270個である。(ただし、後述のように、エジプト以外のアラブ国の参加が48年以降なので、単純には比較できない。)

          金   銀   銅  合計
 エジプト     7    7   9   23
 モロッコ     6   4   9   19
 アルジェリア   4   1   7   12
 チュニジア    1   2   3   6
 シリア      1   1   1   3
 UAE      1   0   0   1
 レバノン     0   2   2   4
 サウジアラビア  0   1   1   2
 カタール     0   0   2   2
 ジブチ      0   0   1   1
 イラク      0   0   1   1
 クウェート    0   0   1   1
  合計 20 18 37 75

 アラブ連盟加盟のアラブ国としては、上記のほかに、ヨルダン、リビア、オーマン、パレスチナ、バハレン、スーダン、イェメン、モーリタニア、ソマリア、コモロがあるが、いずれもまだメダルをとっていない。

2) アラブ諸国は、イスラムによる制約から、一般に女子選手を出場させない。したがって、その分メダルの数は少なくなっていることを考えに入れる必要がある。

3) ところが、たまに出てくる優れた女子陸上の選手が男子をしのぐ活躍をして注目を浴びている。
 84年ロサンジェルス大会では、モロッコのナワル・エルムタワキル選手が女子400mハードルで優勝したが、これはモロッコにとって初の金メダルであると同時に、アラブ女性として初めての金メダルとなった。ちなみに、エルムタワキル女史は、その後NOC委員を経てIOC委員となり、目下は北京後の2012年オリンピック開催地評価委員会の委員長の重責を担っている。
 92年バルセロナ大会では、アルジェリアのハシバ・ブルメルカ選手が女子1500mで優勝した。このとき同選手は、男子と同じような短パンをはき足をだして走ったが、故国に凱旋してみると祝福されるどころか、それはムスリム(イスラム教徒)女性としてあるまじきこととして国内のイスラム原理主義者の脅迫を受け、命の危険を感じてイタリアに脱出したという。
 96年アトランタ大会では、シリアのガダ・ショアー選手が女子陸上7種競技で優勝したが、これはシリアにとって初の金メダルとなった。

4) 北アフリカのいわゆるマグレブ3国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)は、男女とも陸上の競走種目に非常に強い。上記のほか、たとえば、モロッコは、初参加の60年ローマ大会でラディ・ベン・アブデルサラムがマラソンで2位に入賞した。またアテネでは、ヒシャム・エルゲルージ選手が1500mと5000mの2種目で金メダルに輝いたが、これは大昔に一度あるきりの、稀有の大記録であるという。

5) アラブ人選手のメダルがとれる種目が、レスリング、重量挙げ、ボクシング、柔道、射撃、それに男女の陸上に片寄っている。競泳、体操、球技などはまったくない。サッカーは少し別で、アテネではイラクが4位に入って世界中の人々を驚かせた。

 中東のイスラム国のうち、トルコとイランは別格で、特にトルコは毎回20位前後と、上位をうかがう位置にいる。これは両国ともアラブ諸国に比べて人口が多いこと、体格がよく格闘技の古い伝統があり、レスリング、柔道、重量挙げなどでコンスタントにメダルを稼いでいるという事情がある。トルコは、10年来、イスタンブールへのオリンピック誘致を行なっているが、このことは別に触れる。

 アラブ・イスラム国もオリンピックには力を入れている。エジプトは、アテネへは96人の大選手団を送り、エルフィキ青年相が金メダル獲得者には100万エジプトポンドの賞金を約束した。84年のロサンジェルス大会ではモロッコのサイド・アウェイタが5000mで金メダルをとったが、同選手の快挙を祝して、時の国王ハサン二世が首都ラバトとカサブランカを結ぶ特急列車を「アウェイタ・エクスプレス」と命名した。サウジアラビアでも、00年シドニー大会の400mハードルで、アルソマイリ選手がサウジ初の銀メダルを受賞したときには、この南部ジザン生まれの純国内育ちの選手の壮挙にお祭り騒ぎをした。アラブ諸国でも、資金的に余裕のある産油国から、スポーツ競技場や練習場が続々と建設され、多くの西洋人のコーチが招かれている。

 こう見てくると、全般的に成績は低調とはいえ、イスラム国のオリンピックに対する「冷淡さ」は当たらないように見える。どの国も懸命に取り組んでいるではないか。成績が振るわないのは、練習が足りないのか、資金が不足しているのか、何か別の理由によるのではないか、と思われるかも知れない。それもあるであろう。しかし、一歩踏み込んで見ると、やはり冷淡なのである。
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