【韓国】ソウル大・李教授「日本による収奪論は反日教育で作られた神話」

2004年11月20日 | 支那朝鮮関連
【韓国】ソウル大・李教授「日本による収奪論は反日教育で作られた神話」★2【11/20】
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1100954668/

ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」

日本による植民地時代に韓国が土地と食糧を収奪されたという韓国史教科書の著述は歪曲されたものだという主張が提起されている。

 韓日問題を論じるシンポジウムでソウル大学の李栄薫(イ・ヨンフン)教授が発表した内容だが、李教授は過去の「従軍慰安婦は売春業」発言に続き、再び論争を呼び起こしている。

 「1910年に日本は大韓帝国を強制的に併合した」

 「日本は韓国が植民地だった35年間に、韓国の土地の40%以上を収奪し、膨大な米を略奪していった」

 これらが韓国が独立後、40年以上にわたり中学・高校の国史教科書に記載されている内容だ。

 しかしソウル大学経済学科の李栄薫(イ・ヨンフン)教授はこうした収奪論が歪曲された神話だと主張した。

 収奪という表現は太平洋戦争末期を除き、被害意識から出てきた言葉だと李教授は話している。

 以下はYTNによるインタビュー。

 李教授「日帝(日本帝国主義)が韓国の米を供出、強制徴収したとされているが、実際には両国の米市場が統合されたことにより、経済的『輸出』の結果だった」

 客観的数値で見ても、奪われた土地は10%に過ぎなかったと説明している。李教授は韓国の歪曲された教科書で学んだせいか、反日感情の根がかなり深くなっていると話した。

 李教授「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」

 こうした主張について市民団体は植民地状況自体が不法であるという点を見過ごしていると反発している。

 李教授「植民地時期全体を見れば、労働力搾取だとか、状況が・・・その中に不法もあり、そうでなかった場合もあり、様々な次元があるため・・・こうした状況を通称し収奪と表現するのでしょう」

 李教授の主張がメディアを通じ知れ渡るとインターネットの各掲示板でも熱い討論が展開された。植民地史観の先兵と変わりがないと非難する書き込みが殺到した。

 一方で李教授の理論にも一理あるとし、教科書を客観的に見るべきという声も少なくなかった。

 李教授は2か月前にテレビの討論番組で従軍慰安婦を売春業と関連付けた発言を行い、物議を醸した人物だ。

 日本による収奪論を否定する李教授の発言は、韓国で新たな熱い論争を巻き起こしている。

チョソン・ドットコム/朝鮮日報JNS
記事入力 : 2004/11/20 09:48:58
http://www.chosunonline.com/article/20041120000000







李栄薫教授インタビュー 韓国日報 2004年4月22日より

日帝植民地時代は、私たちの歴史の暗黒期に思われて来た。日帝の一方的収奪の下、植民地朝鮮の民衆は窮乏と桎梏に呻いたというのが伝統的歴史認識だった。
しかし最近、学界の一角でこんな認識は植民地朝鮮の実状と距離が遠いという主張が頭をもたげている。

特に経済的に大きな発展が成り立ったし、当時移植された近代的資本主義の土壌が、1960年代以後、飛躍的経済成長の一要因に挙論されている。
こんな主張の先頭に立っている、社団法人落星垈経済研究所イ・ヤンフン(李栄薫・53・ソウル大経済学科教授)所長に会ってみた。


Q.日帝植民地時代のイメージを修正するようになった個人的動機は。

A.1990年に、日帝の土地調査事業共同研究に取り掛かった。全国を回って土地台帳など現資料を収集した。慶南金海地域には大量の現資料が残っていた。
資料を見て、教科書とはあまりに違う内容にびっくりし驚いた。

土地申告をするようにして粗暴な農民たちの未申告地をでたらめに奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。

農民たちも、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%位が未申告地で残った。
あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った。”


Q.すると土地調査事業の目的は何なのか。

A.日帝の殖民統治史料を詳らかにのぞき見れば、朝鮮の永久併合が植民地統治の目的だったことを分かる。
収奪・掠奪ではなく、日本本土と等しい制度と社会基盤を取り揃えた国に作って、永久編入しようとする野心的な支配計画を持っていた。
近代的土地・財産制度などは、このため過程だった。”


Q.日帝植民地統治を美化するという誤解を招くに値するのに…。

A.日帝が朝鮮を永久竝合しようとしたことは、はじめから誤った計画だった。
日本内部でも、独自的歴史を持った文明民族を同化することは不可能で、おびただしい費用を支払うはずだから健全な協助基調の上で大韓帝国が独立することができるように手伝ってくれなければならないと主張もあった。
その過程で私たちが能動的に対処したら、植民地化を避ける機会もあった。永久併合のための朝鮮の近代化は、民族意識の高揚と抵抗を呼ぶという基本的矛盾を抱いていた。”


Q.日帝植民地化以前 朝鮮の経済状況は。

A.1910年以後は近代的統計資料があるが、それ以前は直接的資料がない。
しかしマジギ当たりの小作料資料、米代上昇を見せてくれる間接的資料などを通じて大体的輪郭を描くことはできる。
大きい成り行きでは、18世紀を経って1人当り所得が徐々に落ちながら、19世紀後半急激に減少した。
1750年を頂点で農村の場市数字、人口、米生産性などが一斉に落ちたし、米代が上がって実質賃金が下落するなど経済沈滞の強い成り行きを見付けることができた。”

*マジギ=種子を振り撤くに値する田畑の広さを現わす単位.地方毎に違うが大略,田は200坪,畑は300坪にあたる.


Q.日帝の強制併合以後の経済的変化は。

A.沈滞一路の朝鮮経済が1900年を前後して上昇曲線を描く。
日本からの資本流入、近代的市場制度の定着、所有権制度の整備、近代的企業制度と商法、取り引き安全性を保障する信託、通信、運輸の発達などが明確だ。
植民地時代をかけて総80億ドルの資本が流入されたし、日本人たちの農場と工場が生じながら韓半島地域単位のGDPが上昇して、1人当りGDPと生活物資消費量などが大きく増えた。
1920・30年代GDPは年間平均4%位上昇した。”


Q.植民地民衆の生活水準が高くなったか。

A.そうだ。何より人口が増えた。19世紀始終人口が減少している途中、20世紀に入って増加傾向に変わった。
人口は衛生や伝染病などとも関連があって、直接的経済資料ではないが当時の経済状況を推定するようにする資料だ。
植民地時代韓半島人口は、その以前の1,700万名から3,000万名(海外移住300万名除外)に増えた。それほど経済力が成長したのだ。”


Q.当時世界経済で年間平均4%成長の意味は.

A.1920年代は世界経済の沈滞期だった。当時いくら好景気でも、年2%成長を越した国はあんまりなかったが、日本資本主義は年3%以上の持続的成長を継続した。
植民地朝鮮の経済発展は韓半島と満洲、台湾を含んだ日本経済圏に共通された成長の結果だった。”

Q.日本資本主義に特別な成長要因があったか。

A.活発な資本輸出だ。
日本は自国通貨と1対1で交換することができる植民地通貨圏、すなわち円を共用化にする円通貨圏を新たにつくったから、ドルや金支払い負担を背負わないで大量の資本を台湾と朝鮮、満洲に投入することができた。
大量投資と地域開発で朝鮮のメリヤスや履き物など工業製品が満洲に輸出されるなど、日本経済圏内の市場、?分業関係が深化して活発な商品、?資本移動を呼んだ。”


Q.イギリスなども植民地を持っていなかったか。

A.イギリスなどは、植民地に工場や資本財、中間材を輸出して産業を起こさなかった。
西欧帝国主義は基本的に原料収奪型だった。日本と違い永久併合が目的ではなかったから当たり前だった。
引導という株式会社を、イギリスが投資して経営する。いつでも発つことができる商業的投資をした。それが帝国主義元々の姿だ。
日本と植民地朝鮮の関係は、そんな枠では理解し難い。
地理的に接していて、人種的に似ていて、文化的によほど似たり寄ったりで、一つの大きな日本で作ろうとしたのだ。”


Q.そんな日帝の政策は、結果的に私たちの幸運か?

A.1941~45年北朝鮮地域には、おびただしい重化学工業が建設されたし、その直接的受恵者は北朝鮮だった。
朝鮮戦争当時、相当部分が破壊されたが、初めて作る時は難しいが復旧はあまり難しくない。
しかし北朝鮮は市場経済制度を清算した結果、飢餓の沼にはまった。
一方、日帝が構築した資本主義的市場秩序を、保存して発展させた韓国経済は大きく成長した。

したがって日帝が残した物的遺産が、50年代以後どれほど助けになったのかは疑問だ。
ただ、植民地当時定着された市場経済システムを、解放以後韓国が叩き壊さないで、アメリカの主導の下、再び建設された世界資本主義体制に能動的に参加した選択が輝く。”


Q.日帝植民地統治が、自主的資本主義発展可能性をむしろ歪曲したというのが通説ではないか.

A.私たちは18・19世紀の歴史に対してまともに分からないでいる。
推計によれば、1910年植民地朝鮮の1人当り国民所得は40ドル(1937年価格では約60ドル)水準だった。
産業施設もなかったし、すごく貧困な状況だった。
資本蓄積率が低く、人口の80~90%は農業に携わる農業社会だったが、18世紀以来長期沈滞を経験していた。
一種の道徳的価値や名分論が支配する社会だったし、勤労規律や勤労意欲が発達することができなかった。
それで経済家長期的に沈滞しながら自ら解体される深刻な危機状況がつながった。”


Q.解体危機と言うのは、泯乱などを示すか?

A.それは一つの現象だ。社会が自分の統合力を喪失する時、民衆が支配階級の道徳性をこれ以上認めない時暴動が起きる。
19世紀に入り、1840年頃からあちこちで泯乱が起きて、約50年の間農民たちが集団的反乱に出る。
朝鮮王朝支配階級、すなわち王族や官僚が、これ以上健全な統合力を行史することができなくなったし、社会を健全な方向でひいて出る先進的イデオロギーに欠けた。

閉まった社会共通の閉塞点に至った状況だった。
実は、植民地初期に私たちの知識人たちは、19世紀を返り見ながら真の歴史が恥ずかしいという話をたくさんしたが、解放以後、そんな認識を全て停滞論だと決めつけて、歴史を明るくて進取的に記述して来た。
しかし、歴史の真の姿にそっぽを向いていては、歴史に教訓を得ることはできない。”

<韓国日報 2004年4月22日>
http://kamomiya.ddo.jp/Souko/C03/I_Yonfun/QandA.htm





"日帝、永久併合目的で朝鮮近代化に注力"
[固定観念を壊す人々] <5> 李栄薫 落星臺経済研 所長

写真李栄薫 落星臺経済研 所長

日帝殖民地時代は、私達の歴史の暗黒期と思われて来た。日帝の一方的収奪の下、殖民地朝鮮の民衆は窮乏と桎梏に呻吟したというのが伝統的歴史認識だった。しかし最近、学界の一角において、このような認識は殖民地朝鮮の実状(実像)と程遠いという主張が頭をもたげている
特に経済的に大きな発展が成り立ったし、当時移植された近代的資本主義の土壌が、1960年代以後の飛躍的経済成長の一要因に挙論されている。こんな主張の先頭に立っている、社団法人落星臺経済研究所・李栄薫(イヤングフン・53・ソウル大経済学科教授)所長に会ってみた。

_日帝殖民地時代のイメージを修正するようになった個人的動機は。

“1990年に日帝の土地調査事業共同研究に着手した。全国を回って土地台帳等の原資料を収集した。慶南金海地域には大量の原資料が残っていた。資料を見て、教科書とはあまりに違う内容にびっくりし驚いた。

土地申告をさせるようにして、無知な農民達の未申告地を出鱈目に奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をして、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。

農民達も、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓・雑種地を中心に0.05%程度が未申告地として残った。あの時、私達が持っていた殖民地朝鮮のイメージが架空の創作物である事を悟った。”

_そうだとすると、土地調査事業の目的は何であるのか。

“日帝の殖民統治史料を仔細に覗き見れば、朝鮮の永久併合が殖民地統治の目的だったことが判る。 収奪・掠奪では無く、日本本土と同一な制度と社会基盤を取り揃えた国に造って、永久編入しようとする野心的な支配計画を持っていた。近代的土地・財産制度等は、この為の過程だった。”

_日帝殖民地統治を美化するという誤解を招くに値するのに…。

“日帝が朝鮮を永久併合しようとした事は、端から誤った計画だった。日本内部でも、独自的歴史を持った文明民族を同化することは不可能であり、おびただしい費用を支払う筈だから、健全な協助基調上に於いて大韓帝国が独立することが出来るように手伝ってくれなければならないとの主張もあった。その過程に於いて私達が能動的に対処したら、殖民地化を避ける機会もあった。永久併合の為の朝鮮の近代化は、民族意識の高揚と抵抗を呼ぶという基本的矛盾を孕んでいた。”

_日帝殖民地化以前の朝鮮の経済状況は。

“1910年以後は近代的統計資料が有るが、それ以前は直接的資料が無い。しかし、マジギ当たりの小作料資料、米価上昇を見せてくれる間接的資料等を通じて大体的輪郭を描くことはできる。 大きな趨勢では、18世紀を経て1人当りの所得が徐々に落ちつつ、19世紀後半に急激に減少した。 1750年を頂点として、農村の場市数字、人口、米生産性等が一斉に落ちて、米価が上がって実質賃金が下落する等の経済沈滞の強い趨勢を発見することができた。”
*マジギ=種子を振り撤くに値する田畑の広さを現わす単位。地方毎に違うが大略、田は200朝鮮坪、畑は300朝鮮坪にあたる。

_日帝の強制併合以後の経済的変化は。

“沈滞一路の朝鮮経済が、1900年を前後して上昇曲線を描く。 日本からの資本流入、近代的市場制度の定着、所有権制度の整備、近代的企業制度と商法、取り引きの安全性を保障する信託、通信、運輸の発達等が明確だ。殖民地時代にかけて、総80億ドルの資本が流入されたし、日本人達の農場と工場が生じながら韓半島地域単位のGDPが上昇して、1人当りのGDPと生活物資消費量等が大きく増えた。 1920・30年代、GDPは年間平均4%程度上昇した。”

_殖民地民衆の生活水準が高くなったか。

“そうだ。何より人口が増えた。19世紀始終、人口が減少していながら、20世紀に入って増加傾向に変わった。 人口は衛生や伝染病等とも関連があって直接的経済資料では無いが、当時の経済状況を推定させる資料だ。殖民地時代の韓半島の人口は、それ以前の1,700万名から3,000万名(海外移住300万名除外)に増えた。それほど経済力が成長したのだ。”

_当時の世界経済に於いて、年間平均4%成長の意味は。

“1920年代は世界経済の沈滞期だった。当時どんなに好景気でも年2%成長を超した国は殆ど無かったが、日本資本主義は年3%以上の持続的成長を継続した。殖民地朝鮮の経済発展は、韓半島と満州、台湾を包含した日本経済圏に共通した成長の結果だった。”

_日本資本主義に特別な成長要因があったのか。

“活発な資本輸出だ。日本は自国通貨と1対1で交換する事ができる植民地通貨圏、則ち円を共用化とする円通貨圏を創出したので、ドルや金支払い負担を背負わないで大量の資本を台湾と朝鮮、満州に投入することが出来た。 大量投資と地域開発で朝鮮のメリヤスや履き物等の工業製品が満州に輸出されるなど、日本経済圏内の市場・分業関係が深化して活発な商品・資本移動を呼んだ。”

_英国等も殖民地を持っていなかったか。

“英国等は、殖民地に工場や資本財、中間材を輸出して産業を興すことはしなかった。西欧帝国主義は基本的に原料収奪型だった。日本と違い、永久併合が目的では無かったから当然だった。印度という株式会社を、英国が投資して経営する。何時でも発つ(去る)ことが出来る商業的投資をした。それが帝国主義元来の姿だ。日本と殖民地朝鮮の関係は、そのような枠では理解し難い。地理的に隣接していて、人種的にも類似していて、文化的にも相当に類似しており、一つの大きな日本として造ろうとしたのだ。”

_そんな日帝の政策は、結果的に私たちの幸運なのか。

“1941~45年北朝鮮地域には、おびただしい重化学工業が建設されて、その直接的受恵者は北朝鮮だった。朝鮮戦争当時、相当部分が破壊されたが、初めて作る時は難しいが復旧はそれ程は難しくない。しかし北朝鮮は市場経済制度を清算した結果、飢餓の沼に嵌った。一方、日帝が構築した資本主義的市場秩序を保存して発展させた韓国経済は大きく成長した。

したがって、日帝が残した物的遺産が、50年代以後にどれほど助けになったのかは疑問だ。但し、殖民地当時に定着された市場経済システムを、解放以後、韓国が叩き壊さないで、米国の主導の下で再び建設された世界資本主義体制に能動的に参加した選択が輝く。”

-日帝殖民地統治が、自主的資本主義発展の可能性をむしろ歪曲したというのが通説ではないのか。

“私達は18・19世紀の歴史に対してまともに判らないでいる。 推計によれば、1910年殖民地朝鮮の1人当りの国民所得は40ドル(1937年価格では約60ドル)水準だった。産業施設もなかったし、すごく貧困な状況だった。資本蓄積率が低く、人口の80~90%は農業に従事する農業社会だったが、18世紀以来、長期沈滞を経験していた。一種の道徳的価値や名分論が支配する社会だったし、勤労規律や勤労意欲が発達することができなかった。それで経済が長期的に沈滞しながら、自ら解体される深刻な危機状況につながった。”

_解体危機と言うのは、泯乱等を示すか。

“それは一つの現象だ。社会が自己の統合力を喪失していく時、民衆が支配階級の道徳性をこれ以上認めない時に暴動が起きる。 19世紀に入り、1840年頃から所々で泯乱が起きて、約50年の間、農民達が集団的反乱に出る。 朝鮮王朝支配階級、即ち王族や官僚が、これ以上健全な統合力を行使することが出来なくなったし、社会を健全な方向で牽いて出る先進的イデオロギーが欠如していた。

閉じた社会共通の、閉塞点に至った状況だった。事実、殖民地初期に私達の知識人達は、19世紀を返り見ながら真の歴史が恥ずかしいという話を沢山したが、解放以後、そんな認識を全て停滞論だと決めつけて、歴史を明るくて進取的に記述して来た。 しかし、歴史の真の姿に背を向けていては、歴史に教訓を得ることはできない。”

● 略歴

◆1951年9月大邱、53歳 ◆ソウル大 経済学科◆ソウル大 経済学博士 ◆韓国神大 助教授◆成均館大 副教授、教授 ◆ソウル大 教授◆落星臺経済研究所長 ◆著書 ‘朝鮮社会経済史’‘マッジルの農民たち’‘韓国市場経済と民主主義の特質’等


入力時間 : 2004/04/22 15:25
韓国iドットコム > 韓国日報 > 社会
http://news.hankooki.com/lpage/society/200404/h2004042215231045850.htm

http://www.geocities.jp/pringles_cat/history/lyf20040422.html
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