天皇、サイパン訪問中の「ちょっといい話」

2006年08月19日 | Weblog
大神楽
■転送歓迎■ No.1174 ■ H18.08.18 ■ 8,450 部 ■■■■■■■

ホームページ
「北マリアナ諸島ローカル情報満載ファイル」より
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/kfc-onishi/htm/islands_NMI.html

■120、天皇、サイパン訪問

 6月27日から28日に掛けて天皇皇后両陛下が「慰霊の旅」
と称してサイパンを訪問された。サイパンでは60年前の太平
洋戦争で軍人、民間人合せて約5万5千人の尊い命が失われて
いる。そして、この度の訪問はこられの犠牲者への慰霊を目的
としたものであった。これは先の太平洋戦争の犠牲者に対する
天皇の責務であり、また、天皇自身でなければ成し得ない責務
なのである。同時に、サイパンにおける一つの戦後にケジメを
つけるものでもある。

 バンザイクリフで犠牲者に黙祷される天皇の後姿にはジーン
と来るものがあった。この姿から天皇はもっと早い時期にこの
地を訪問したかったのだろうと感じた。そして、年老いた日本
人遺族は皆異口同音に「これで自分達の戦後は終わった。」と
か「これでやっと、サイパンへの慰霊も終わることができる。」
等々話されていた。

それを聞いて、戦争を経験していない我々にとっても、ホン
トに良かったと思う。遺族の人たちは、戦後60年という長
い間引きずってきた肩の荷をやっと降ろすことができたので
ある。これらの人々にとって、天皇訪問は非常に大きな意義
があったことだろう。

 また、天皇が訪問されたことで、報道陣だけでも200名以
上が来島し、日本の新聞やテレビにも大きく報道された。こん
なにサイパンが日本のマスコミに取り上げられたことはかつて
なかった。これだけでも宣伝効果は数十億円規模に上るだろう。

 日本政府は、反日を己の政権維持の道具にするような隣国よ
りも、小さいながらも親日の隣国マリアナ諸島を始めとする太
平洋諸島の島嶼国をもっと大切にして欲しいものである。普段
は天皇うんぬんには全く無関心だが、この度の「慰霊の旅」は、
日本にとってもサイパンにとっても、天皇は本当によい仕事を
されたと思う。

■123、天皇、サイパン訪問中の「ちょっといい話」(1)

 現地サイパンでは、天皇は「日本人慰霊碑」や民間人がたく
さん亡くなった「バンザイクリフ」や「スーサイドクリフ」を
慰霊されると発表されていた。

 そして、丁度この頃、竹島領有問題や教科書問題等々で韓国
国内には強い反日運動が高まっていた。そのような伏線があっ
て、サイパンに住む韓国人たちが韓国人戦没慰霊碑のある場所
に天皇を中傷するような横断幕を天皇訪問前に掲げたのである。
ここは天皇が「バンザイクリフ」慰霊の時に必ず通るルートに
なっており、ここに張られた横断幕は嫌がおうにも天皇の目に
つくことになる。

 これには韓国と日本の複雑な歴史問題が絡んでおり、強行に
撤廃を要求できず、これには現地の領事や日本人会もお手上げ
状態で困惑していた。

 その時、この国際的な難問題を一気に解決したのが戦前の日
本統治時代に日本式教育を受けた現地チャモロ人の一年配女性
であった。この女性(現地最大のスーパーマーケット「ジュー
テン」の経営者の母親)が自分達の島で韓国人たちが勝手な振
る舞いをすることは許さない、と怒り出したのである。「天皇
は神様である(戦前、チャモロ人たちは皆そのような教育をさ
れたのである)。その神様が我々の島に来て下さるというのに
韓国人たちは何と不届きなことをするのだ。」と。

 すると、直ぐにこの女性に多くのチャモロ人が同調して、天
皇を中傷するような不届きな横断幕を撤収しろと騒ぎ出したの
である。これには現地政府から査証を発給してもらっていると
いう弱みを持つ韓国人たちはなす術なく、天皇訪問(6月27
日)直前に撤収したのである。我々日本人としては、何とも複
雑な心境ではあるが、これで一件落着となった。

 この一件は北マリアナ諸島の人たちの親日振りをよく表わし
ていると云える。我々KFCがマリアナをこよなく愛している
のもこの年配女性のような日本に対する「気持ち」を持ってい
る人がたくさんいるからであり、決して南の島が好きという単
純な理由だけではない。

■124、天皇、サイパン訪問中の「ちょっといい話」(2)

 6月27日に天皇がサイパン国際空港から宿舎であるニッコ
ー・ホテルに到着された時のことである。ホテルの玄関先で現
地在住の日本人の子供たちとその親たちが日の丸を振ったりし
て天皇を出迎えた。これはよくある風景である。

 その時、一人の子供が天皇につかつかと歩み寄り、手に持っ
ていたボジォボー人形を黙って差し出したのである。しかし、
透かさず護衛のシークレットサービスがこの子供の動きに反応
して、このボジョボー人形を取り上げようとした。この人形が
危険物かもしれないのだから、シークレットサービスとしては
当然の反応である。

 しかし、天皇はこのシークレットサービスの動きを手で制し
て、この子供からボジョボー人形を受け取り、お礼を言って、
背広のポケットにしまって部屋に入っていかれたのである。天
皇はご存知ないかもしれないが、この子供にとってはボジョボ
ー人形ということに意味があったのである。

 ボジョボー人形とは昔から北マリアナ諸島に伝わる願掛け人
形でボジョボーという木に生る実の種とヤシの実の皮の部分に
ある繊維(亀の子タワシに使われているものと同じ)と麻紐で
作られている男女対になった身長20cmくらいの人形である。
脚を結ぶと恋愛運に恵まれると信じられ、腕を後ろで結ぶと金
運に恵まれると信じられている。マリアナでは車のルームミラ
ーにぶら下げている人が多い。

 天皇訪問の少し前に、日本のTV番組「ザ、世界ビックリ仰
天ニュース」でこのボジョボー人形が紹介された。その影響で
人気が沸騰し、日本人観光客がお土産に買って帰るので、現地
マリアナでは品薄状態が続いており、貴重なものになっていた。
こういう下地があったので、この子供は今流行の貴重なボジョ
ボー人形を天皇にあげようとしたのであろう。この子供なりの
歓迎の気持ちの表し方だったのであろう。

JOG Wing 国際派日本人のための情報ファイル[まぐまぐ!]
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/107597297.html





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靖国神社参拝再考
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       渡部亮次郎

1.靖国神社へのA級戦犯の合祀は1978年秋だったが、新聞には出ず、
大きく出たのは79年4月、春の例大祭の前であった。そのためか 78年8月
8日に日中平和友好条約締結交渉に訪れた園田直外務大臣に対して華国
鋒国家主席、!)小平副総理、黄華外相はこのことに全く触れなかった。

2.大平総理は1979年、春と秋の例大祭に参拝した後、12月に中国を訪
問、大歓迎された。日中両国の共同新聞発表は、中国が日本の技術、経
済援助にいかに感謝し、熱烈に日中友好を歓迎しているかを示す表現に
溢れている。

3.これに先立って、当時の最高実力者!)小平副総理は、79年5月、時
事通信の取材に応じたが、靖国神社にもA級戦犯にも一言も触れていな
い。むしろ!)小平が強調したのは、ソ連(当時)の軍事的脅威の増大で
あった。日本がソ連から北方4島を取り戻すのであれば中国は日本を支
援するとさえ語った。

ソ連の軍事的脅威に関しては当時、日本も注目しており、1950年2月14日
モスクワでスターリン、毛沢東立会いの下で結ばれた中ソ友好同盟相互
援助条約が破棄されるかどうかに、世界と共に注目していた。

そうした中で!)小平は78年8月10日午後4時半から人民大会堂で行った園
田外相との会談で「あれは名存実亡」(事実上消滅)だと言明した。
(その時は両国とも発表しなかった)。条約は80年に廃止された。

4.ソ連の脅威を強調するあまり、中国が「日本は軍事大国になるべき
だ」といったことすらある。1980年4月に訪中した中曽根康弘(後に首
相)に対し、当時、中国人民解放軍No.2の副参謀総長伍修権は「日本の
軍事費はGNPの1%に止まらず、2%に増やすべきだと具体的数字を挙げ
て語った。

軍事費を2倍にして軍事大国になれと、当時の中国は言い続けたのだ。彼
らにとってA級戦犯合祀や靖国神社参拝は、全く、何の問題でもなかった。

中国は突然、85(昭和55)年9月(中曽根内閣当時)、靖国神社参拝は許
し難いといい始めた。A級合祀が公になってから6年半も経っていた。中
国側の事情が変わったとしか、科学的には考えられない。

以上はジャーナリスト櫻井よしこさんが「週刊新潮」の連載コラム「日
本ルネッサンス」第227回(2006年8月17・24日夏季特大号)で述べておられ
ることを参考にした。

桜井さんも述べておられるように靖国問題は「中国が日本をその影響下
に置き、屈服させる手段として靖国問題を持ち出したのは一連の経緯か
ら明らかだ」。

産経新聞のワシントン駐在記者古森義久氏は過去、北京総局長を務め、
在任中も中華人民共和国と中国共産党の本質を追及した多くの著作を世
に問うた。

その中の1つ『日中再考』(扶桑社文庫)で古森氏はおよそ以下のよう
に結論づけている。

<「中日両国の2000年の歴史を遡っても、両国は1度も平等で友好な関係
を持ったことはない。唐の時代も日本が中国の先進の文化や技術を学び
取ろうとしただけで、友好ではなく師弟の関係だった。宋や明や清の時
代も日本は中国に敵対的だった」

「中日の友好は過去にも現在にも将来にも存在しないのだ」

「そもそも2つの強い国が存在しあいながら友好ということはありえな
い。一方が他方に服従する以外に、強国間では本音と本音、利害と利害
の対立が存在するというのが現実なのだ。

中国が語る『中日友好』には日本が正しい歴史認識を持ち、アジアや中
国への野望を捨てるという期待が前提として込められている。だが日本
はそうした野望は捨てないから、『友好』も幻想なのだ」

(日中国交回復前の)・1960年ごろ中国は自国の示す政治3原則や貿易
3原則をのむ企業を「友好商社」とみなし、「友好取引」への参加を認
めたのである。

中国側の政策に従えば、初めて「友好」とされたわけだ。中国当局は今
なおこの「友好」という言葉に盛り込む政治ファクターを消していない>

この見地には私も賛同する。したがって日本の国連常任理事国入りは中
国に余程の変化が生じない限り、不可能である。それなのに突っ走って
失敗した日本外務省は世間知らずで、幼稚といわれても文句は言えない。
ODAなんか無関係な話なのだ。

他方、中国の要求に屈した初めての日本総理となりながら、小泉参拝非
難を続ける中曽根康弘とは。フリー百科『ウィキペディア』によると次
のように記されている。

<『諸君!』掲載のある論文によると、首相在任中は親米反中だったが最
近は親米親中に移行したとされており、そのため小泉首相と関係が悪く
なったのではという推測がされている。

しかし中曽根は角福対立時代には一貫して日中国交回復を支持する立場
をとっている。中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また
日米同盟と防衛力の強化につとめたので現在では反中派であったかのよ
うな印象もある。

以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であり、中曽根内閣の際に靖国
参拝が問題として浮上したという経緯がある(当時の胡耀邦総書記ら中
国共産党指導部の親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争い
が問題として持ち出された原因とする見方もある)。中曽根は著書によ
ると中国での胡耀邦総書記ら親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国
参拝を中止したとしている。

また中曽根内閣当時の中華人民共和国の主敵はソビエト連邦であり、!)
小平は日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出しており、
決して中曽根の姿勢は反中的なものではなかった。

中曽根の立場は反中でも一方的な対中追従でもなく、中国を親日化する
ことが目的であった。中国からの留学生の多数受け入れもその一環であ
る。>と擁護している。

このように見てくると、歴代総理の中で日本の尊厳、中国流に日本の
「面子」を守ったと言う点では小泉総理は出色の総理だ、としかいえな
い。 (文中敬称略)2006・08・18
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