ポカポカ陽気の中、街中で聞こえてきたバカップルの会話。
男「もう、春だね、春」
女「ヤバい、マジ春だね」
俺が若いころの「ヤバい」とは明らかに意味が違う。
俺たちの「ヤバい」は、例えば高校の修学旅行で、誰かが
こっそりと酒を持ってきていて、消灯時間後に、みんなで
こっそりとそれを飲みながら、青臭い議論をしていたときに、
足音が聞こえたときに、
「やばい、センコウだ」
という使い方をするのが正しかった。
「ヤバい、マジ春だね」は、本来は冬眠で寝過ごしたクマの
台詞である。
思えば、「ヤバい」という言葉は、ちょっとずつその意味を
変化させて、現在に至る。
「やべ、先公が来た」がその原型であり、古典である。
「ヤバい、寝過ごしちゃったよー」もしかり。
そして、あるとき、「アブナイ」と同じ意味で用いられる
ようになった季節がある。
「ダサい」に、もうちょっと危険臭がただようニュアンス。
「あのオヤジ、ヤバいサンダルはいてるよ」
ってな具合。
そして、その次に、自分の感情を表す言葉に変わった。
「やばい、このアイス美味すぎる」
このころから、「ヤバい」は、従来の意味から180度
逆の意味になることとなる。
すなわち、それまでネガティブな意味しかなかったものが、
逆の意味、つまり「良い」という意味を持つようになる。
これは、15年ほど前のUSでの若者言葉の"bad"と似ている。
15年ほど前、USでは、本来「悪い」というネガティブな
意味を表すはずの"bad"という形容詞が、「かっこいい」
だとか、「最高にいい」という意味として用いられる時期が
あった。
そして、今現在の最新の「ヤバい」の意味としては、、、
すでに意味はない。
もともと形容詞でありながら、感嘆詞的な役割をしていた
「ヤバい」も、もうすでに、感嘆詞的な役割さえ果たさなく
なっている。
「ヤバい、マジ春だね」は、要するに、「はい、春ですね」
ぐらいの意味しか持たないのである。
あるいは、それを直訳すると、、、
冬眠で寝過ごしたクマのセリフになってしまう。
男「もう、春だね、春」
女「ヤバい、マジ春だね」
俺が若いころの「ヤバい」とは明らかに意味が違う。
俺たちの「ヤバい」は、例えば高校の修学旅行で、誰かが
こっそりと酒を持ってきていて、消灯時間後に、みんなで
こっそりとそれを飲みながら、青臭い議論をしていたときに、
足音が聞こえたときに、
「やばい、センコウだ」
という使い方をするのが正しかった。
「ヤバい、マジ春だね」は、本来は冬眠で寝過ごしたクマの
台詞である。
思えば、「ヤバい」という言葉は、ちょっとずつその意味を
変化させて、現在に至る。
「やべ、先公が来た」がその原型であり、古典である。
「ヤバい、寝過ごしちゃったよー」もしかり。
そして、あるとき、「アブナイ」と同じ意味で用いられる
ようになった季節がある。
「ダサい」に、もうちょっと危険臭がただようニュアンス。
「あのオヤジ、ヤバいサンダルはいてるよ」
ってな具合。
そして、その次に、自分の感情を表す言葉に変わった。
「やばい、このアイス美味すぎる」
このころから、「ヤバい」は、従来の意味から180度
逆の意味になることとなる。
すなわち、それまでネガティブな意味しかなかったものが、
逆の意味、つまり「良い」という意味を持つようになる。
これは、15年ほど前のUSでの若者言葉の"bad"と似ている。
15年ほど前、USでは、本来「悪い」というネガティブな
意味を表すはずの"bad"という形容詞が、「かっこいい」
だとか、「最高にいい」という意味として用いられる時期が
あった。
そして、今現在の最新の「ヤバい」の意味としては、、、
すでに意味はない。
もともと形容詞でありながら、感嘆詞的な役割をしていた
「ヤバい」も、もうすでに、感嘆詞的な役割さえ果たさなく
なっている。
「ヤバい、マジ春だね」は、要するに、「はい、春ですね」
ぐらいの意味しか持たないのである。
あるいは、それを直訳すると、、、
冬眠で寝過ごしたクマのセリフになってしまう。