ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧太田町長信田を往く-3(その3)

2020年08月19日 | 旧太田町を往く

<「築地古館」辺りの「県道50号」>

●歩いた日:2020年7月17日(金)

●歩いた所

 ・小神成:田ノ尻、南田ノ尻、北田ノ尻、大面、桜木、北野、小田中、根笹

 ・太 田:築地古館

 ・東今泉:大信田

 ・斉 内:高野、栗木

●歩いたログ(足跡)(道のり5.9km)

以上の地図:国土地理院)

 (📷006の地点から)少し引き返して入口の正面から奥を望む。

(「太田城跡」の入口)

 中はきれいに整備されており、入っていくと右奥にトレーニングセンター、左奥に生活改善センターの大きな建物がある。前掲写真に写る平屋の建物の入口前には網が張られ、入れないようになっていた。
 入ってすぐの右手に案内板、左手に標柱が立つ。高い方は「菅江真澄の道」の標柱である。
 その案内板の近くに寄る。

(史跡「太田城跡」)

 戦国時代までの何世紀にもわたって、「窪関川」のほとりにあった城のようだ。城といってもそんなに大きくない館である。城主は、かつて「仙北平野」の北部一帯を支配した「戸沢氏」の家臣「太田氏」で、「豊臣秀吉」の命で天正8年(1580年)に取り壊された、とある。
 先ほど通り抜けた細い道沿いのムラ(集落)と思われる場所(📷004)に、「郷村」と書かれている。「太田城」時代からのムラなのだろうか。
 ここに城が築かれ、ムラが形成されていたということは、「東山」から流れ出す「窪関川」などの水を引いて、この辺りは相当古い時代に田んぼが拓かれたのだろう。
 また、案内板には、ここに「長信田村役場」、「長信田小学校」が建っていた時期があり、昔も今も地域のシンボル的な場所ともある。
 なお、看板の奥には多くの先人の顕彰碑が建つ。その中に「鈴木空如(クウニョ)」の碑もある。「空如」はM6年(1873年)に「小神成村」に生まれ、「東京美術学校」に学んだ後、「法隆寺金堂」壁画の模写と仏教美術の研究に生涯をささげた人である。
 トレーニングセンターの玄関脇に自動販売機があるので、缶コーヒーを買ってきて東屋でしばし休憩した後、城跡を出てまた東に向かう。少し行くと「県道50号」に突き当たる。家々が建ち並ぶ県道を南に向かうと「窪関川」にかかる橋がある。橋を越えたところで振り返る。

📷007:「築地古館」辺りの「県道50号」

 奥から県道を来たところだが、振り返って見ると、川にはもう一つ橋がかかっていて、地図にはない細い道が家並の中に向かっている。今の県道が整備される前の古い道のようだ。
 左端の電柱の奥の木立のところが城跡である。
 さらに南に向かうと十字路がある。

📷008:「大信田」から東を望む

 十字路から東に目を向けると、真正面が「大台スキー場」である。道奥に杉木立が鬱蒼と茂っている。以前、「長田湯伝」などを歩いた時に立ち寄った「大薗寺」である。その時は、この道を奥から歩いて来て十字路を突っ切ってさらに西に向かった。
 県道を引き返し、「窪関川」の手前で前掲写真の細い道に入る。こちらの道沿いにも家が建ち並び、城跡に入る道もある。
そこを通り抜けて再び県道に出、今度は北に向かう。しばらく行くと駐在所があり、そこを過ぎたところで振り返る。

📷009:「桜木」の「県道50号」

 ここを歩いて来るときに、ずいぶんシャッターが多いと感じ、改めて家々を見直してみると、店の構えをしている建物が何軒もある。昔はいろいろな商店が並んでいたのだろう。
 カメラを構えていたらちょうどパトカーが戻ってきた。警察の人が車から降りないうちに、ナンバーが写らないようにと思ってシャッターを切ったが、若い警察官がすぐ降りてきて姿が写ってしまった。「何か~・・」と話しかけてきたが、「何でもない」というと中に入って行った。

(その4に続く)


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