ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧太田町長信田を往く―4⑧(終)

2024年02月10日 | 旧太田町を往く

<歩いたところのS23年の航空写真>

●歩いた日:2023年12月25日(月)

●歩いた所

・斉内(長信田): 橇目、豊後町、南開、小曽野、杉元、胡桃台、諏訪田、樋口、段ノ腰、宝竜、長者森、河原田、高田、下斉内、天神堂、中田、北開、鶴ヶ窪、狐塚

・国見(横 沢): 川端、大釣木、新橋、小釣木、砂溜

●歩いたログ(足跡)(道のり8.3km)


 (以上の地図:国土地理院)

 最後に、いつものとおり航空写真をご覧いただく。H28年以降の最新の写真には歩いたところのごく一部分しか映っていないので、S50年の写真から。まずは歩いたところの西側。


 
 左下隅に「県道11号(角館-六郷線)」がのぞく。

 左手に「上堰」の用水路が南北に走る。「仙北平野1号幹線用水路」に改修される前なので、水路沿いには延々と木立が連なっている。

 「上堰」の用水路が「国見」(西側)と「斉内」(東側)の境になっている。「国見」」の田んぼは未整備で不整形であるが、「上堰」の恩恵?で早くに拓かれた田んぼである。一方、「斉内」」の田んぼは、この後見るS23年の写真で明らかなように、戦後まで畑や原野だったところで、後から拓かれたため小区画ながら整形された田んぼになっている。

 中央やや左下の「P」が車を停めた場所で、ピンク色の線が今回歩いた道筋。駐車した場所の西側の「県道259号」は、現在の道筋にまだ整備されていなかったことがわかる。

 次に同年の東側の部分。


 
 この写真もピンク色の線は、今回歩いた道筋。中央を南北に「田沢疎水」の幹線用水路が走る。

 左下に大きな「小曽野」の集落が写る。

 少し見づらいが、黄色の字と「➷」で示したところが、「県道259号」沿いの、「白岩街道跡」の標柱が立つ場所。従って、そこを南北に横断する道(「⇐」)が「旧白岩街道」に当たる道と考えられる。なお、「旧白岩街道」の道筋は左下隅で南西方向に延びているが、下端で、田んぼの区画に沿って整備された道に斜めに突き当たって途切れているように見える。S23年の写真で、この先(南)がどうなっているかを見てみたい。

 右上隅の「堀口橋」に注目してほしい。南から来る「県道50号」の延長線上とはずれた位置に橋がある。これは明らかにまっすぐな「県道50号」が整備される以前の「堀口橋」である。ところで、県道の延長線上の河川敷の中に、四つの黒い四角(「⇐??」で指し示した)があるが、これは何だろう。「堀口橋」の両側をよく見ると、河川敷の中に細い道や小さな橋が見える。黒い四角は、橋をかけ替えるために橋桁の工事が始まっていることを示しているのだろうか。

 なお、写真の家屋に示した「A」、「B」・・・は、S23年の写真と比較するために付したものである。

 そのS23年の写真をご覧いただく。


 
 少し見づらいがご辛抱いただきたい。

 左手を「上堰」用水路が南北に走る。前回も書いたが、「上堰」西側の「国見」には森林の間に田んぼが広がっている。「上堰」のおかげで早い時期に開田されたことがわかる。

 一方、「上堰」東側の「斉内」には細かく区画されている畑と思われる土地や森林、原野が広がっている。ただ、中央の「旧白岩街道?」と指示した道の東側、「諏訪神社」の周辺には田んぼが広がっている。これは、「斉内川」の上流部で取水した用水によって開田できたもので、用水の量からはこれ以上の面積の開田は不可能だったことを示している。

 右側に「田沢疎水」の幹線用水路が写っている。S23年当時の「田沢疎水」は、「旧六郷町六郷東根を往く-2」(2021.5.29~掲載)で、「六郷東根」の「明田地」まで工事が進んでいたことを確認している。ただ前述したように、「上堰」東側は開田されていないので、「田沢疎水」がその役割を果たすのはまだ先のようだ。

 右上隅に「堀口橋」が見える。そこから南に延びる曲がりくねった道が、改修前の「県道259号」のようだ。S50年の写真と比較しながら付した「A」、「B」・・・の家屋の配置から、現在の道筋を書き入れたのが黄色の線である。

 「E」の辺りに注目いただきたい。前述のように黄色の線が現在の道筋であるが、当時はその少し北側、「高田」の家の屋敷に接するように通っている。📸012:「高田」の風景のところで、「昔の道はこれら(「高田」)の家の近くを通っていたと思われる」と書いたとおりであることが確認できる。

 ただ、📸015:「北開」の風景のところ(「N」)でも同様のことを書いたが、ここは家々に接するような昔の道と並行して、すでに家々から少し離れたところを現在の道が通っていたことがわかる。

 さて、「旧白岩街道」と思われる道筋を、ピンク色の線の線で書き入れてみた。S50年の写真では途切れていた先も、田んぼが拓かれる前は、南西に延びている道があったことが確認できる。

 前述したように、「旧白岩街道」の経路は「北開」-「小曽野」-「久保関」である。「久保関」は「旧太田町横沢」を東西に流れる「窪関川」に由来する地名で、「旧太田町横沢を往く-2」で歩いた時にも、「白岩街道跡」の標柱があったことを思い出す。その時のブログに、「これから角六線近くを歩くとき、この旧街道(白岩街道)の一部にでも出会うことがあればうれしい」とも記していた。

 その標柱である。

 標柱の立つ場所は、「窪関川」が「県道11号」を横断する橋のすぐ北側で、県道から東に延びる細い道の角である。そこで、「小曽野」から「久保関」までの道をS23年の写真でたどってみる。

 右上隅が「小曽野」の、左下隅が「久保関」の標柱が立つ場所である。写真を見ると、畑や原野の中、その間をほぼ直線でつなぐ道(ピンク色線)が写っている。
 この道がそのままかつての「白岩街道」とは限らないが、道があったことだけは確かである。

 こんなことを知るのも、昔の航空写真を見る楽しみである。

(終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:625.6km)

 この冬は、例年からすると非常に雪が少なく、1月でも「仙北平野」歩きに出かけることができました。出かけた先は、今回歩いたところの、「斉内川」をはさんだ北側、「旧中仙町豊川」です。次回からはその記事を掲載する予定ですので、よろしくお願いいたします。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★旧太田町長信田を往く―4⑦ | トップ | ★旧中仙町豊川を往く-3① »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旧太田町を往く」カテゴリの最新記事