PS3とWiiの発売ということもあり、ここ最近のゲーム業界の動きに注目していたのですが、そんな中、404 Blog Not Foundにて紹介されていたブログFIFTH EDITIONが秀逸の内容でしたので、紹介させて頂きます。
紹介したいエントリは次の3つ。いずれも長文エントリですが、思わず朝からじっくりと読み込んでしまうくらい読み応えがあります。
こうして「ゲーム業界の歴史」を改めて振り返ってみると、ゲームの世界というのは、マーケティング的に「理にかなった動き」のカタマリであるというのをマザマザと感じさせます。
特に興味深いのが「SCEと任天堂の「いつか来た道」」にある次のひとこと。
ゲームとは、『使う人を楽しませる』ためのものであるわけですが、この『楽しませる』のキラーポイントは画質では決してなかったというのが「歴史の証明」であるわけです。むしろ「操作してナンボ」のゲームの世界では
こう考えると、据置きゲームの低迷というのも実は「インターフェース」にあるという仮説が考えられます。Wiiの登場までは「十字キー+いくつかのボタン」という形が「ゲーム機インターフェースの標準」であったわけですが、今の据置きゲーム機は、「ボタンが多すぎて使い切れない(操作が難しい)」と感じています。
PCのマウスでも分かるとおり、直感的な操作が出来る範囲と言うのは「方向の指示」と「決定」と「キャンセル(又はオプション)」程度であると考えます。とすれば、「十字キー+A+B」というのはそれ自身が非常に良いバランスであり、だからこそ「ファミコン」というブレイクスルーが生まれたと考えることができます。さらには、据置ゲーム機が「ボタンを増やす」方向に動いたことが、据置きゲーム機離れを引き起こし、一方では「十字キー+A+B」であったが故にゲームボーイアドバンスが(DS登場までは)健闘していたというと考えられます。
ゲームの根本は「個人が楽しむために」作られるもの。これを実現するための様々な苦闘やブレイクスルーが詰まったゲーム業界の歴史というのは、マーケティングや企業経営にとっては「素晴らしい教材」が詰まっていると私は考えます。個人的には「書籍化」希望です。
紹介したいエントリは次の3つ。いずれも長文エントリですが、思わず朝からじっくりと読み込んでしまうくらい読み応えがあります。
据置は死んだ。次いってみよう。
据置ゲームがこの世の地獄から生還するためにせねばならない事
SCEと任天堂の「いつか来た道」
こうして「ゲーム業界の歴史」を改めて振り返ってみると、ゲームの世界というのは、マーケティング的に「理にかなった動き」のカタマリであるというのをマザマザと感じさせます。
特に興味深いのが「SCEと任天堂の「いつか来た道」」にある次のひとこと。
ただ、過去のゲーム機戦争において、歴史を紐解いてみると次世代機同士のシェア争いでは、画質が決定的要因だったことはないように見えます
ゲームとは、『使う人を楽しませる』ためのものであるわけですが、この『楽しませる』のキラーポイントは画質では決してなかったというのが「歴史の証明」であるわけです。むしろ「操作してナンボ」のゲームの世界では
インターフェースは、ゲームソフトの内容を規定してしまうのである。ことは避けられないわけですから、ブレイクスルーには「インターフェースの革新」が一つのポイントであることはやはり「理」であるのです。(とはいっても、これも後から振り返ったからこそわかるというものですが・・・。)
(据置ゲームがこの世の地獄から生還するためにせねばならない事)
こう考えると、据置きゲームの低迷というのも実は「インターフェース」にあるという仮説が考えられます。Wiiの登場までは「十字キー+いくつかのボタン」という形が「ゲーム機インターフェースの標準」であったわけですが、今の据置きゲーム機は、「ボタンが多すぎて使い切れない(操作が難しい)」と感じています。
PCのマウスでも分かるとおり、直感的な操作が出来る範囲と言うのは「方向の指示」と「決定」と「キャンセル(又はオプション)」程度であると考えます。とすれば、「十字キー+A+B」というのはそれ自身が非常に良いバランスであり、だからこそ「ファミコン」というブレイクスルーが生まれたと考えることができます。さらには、据置ゲーム機が「ボタンを増やす」方向に動いたことが、据置きゲーム機離れを引き起こし、一方では「十字キー+A+B」であったが故にゲームボーイアドバンスが(DS登場までは)健闘していたというと考えられます。
ゲームの根本は「個人が楽しむために」作られるもの。これを実現するための様々な苦闘やブレイクスルーが詰まったゲーム業界の歴史というのは、マーケティングや企業経営にとっては「素晴らしい教材」が詰まっていると私は考えます。個人的には「書籍化」希望です。