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認知症の母と、オートレースと、

遠距離介護の日々です。

2021年7月

2021-07-23 16:49:02 | 日記
2021年7月19日 母は死去しました。

21日に通夜、22日に告別式を執り行いました。


2021年7月23日

2021年5月

2021-05-16 03:31:32 | 日記
2020年新型コロナウイルスの蔓延により、帰郷して母親の見舞いに行くことが
困難になった。

母は2014年4月から入所していたグループホームから現在は介護医療に特化した
病院に入院している。入院は2020年の10月だった。現地の妹とLINE等で相談し
また医師からも話を伺った上で決定した。転院にも立ち会うことができず、
手続きすべて妹に任せてしまい、兄としては今回も申し訳なく思っている。

2020年頃からは咀嚼嚥下がむずかしくなっていった。歯はしっかりしていて
噛むことはなんとかできるが、自分で飲みこむことが困難になってきた。

病院に入院する前には体重もかなり減っており、医師からは「このままでは
長くない」とも言われた。

「自分で食べられなくなったら死ぬだけだ。チューブに繋がれて寝かされているなんて
まっぴらごめんだね」と元気な頃の母だったら言うだろう。

本人の意思をくみ取るならば、「『このまま』でお願いします」だが、さすがに
「でないと死にますよ」と言われれば、「対処してください」と言わざるを得ない。
また、何もしないのならば、病院に移る意味もないのである。

素人の浅はかさで、「自己嚥下ができなくなったら、胃ろうになるのか」と思って
いたが、対応としては鼻からチューブを入れる「経鼻経管栄養」にするとのこと
だった。「それでも胃がうまく働くかどうかにもよりますので、絶対ではない」
とも言われた。

結果、経鼻経管栄養による栄養摂取は効果があり、母親は体重も戻り、2021年5月
現在も入院を継続している。手足は動くが、ほぼ寝たきりの状態である。

コロナのため「リアル見舞い」が禁止なので、月1回の「オンライン見舞い」を
している。1回の見舞い時間は15分程度であり、あっと言う間に時間が過ぎて
しまうが、Zoomを使って母の顔と妹夫婦とのリモート面会を続けている。

母は目をつぶり、何も発言はない。同席する看護師さんによれば、時々は
目を開けたり、発言もあるとのことである。画面上では肌艶もよく、安定して
いるように見える。母に話しかけても反応はないので、15分間はもっぱら
妹夫婦との雑談をする場となっている。

全国的にコロナが終息し、以前のような移動が可能となり、リアル見舞いが
できるようになればいいと思うこのごろである。


2018年2月

2018-02-14 14:10:34 | 日記
ずいぶんと期間が開いてしまったが、母の見舞いは続いている。

介護認定では「視力ゼロ」となってしまった。堂々の要介護5だ。

視力はゼロと判断されたが、もともと老年期になってからは
(まだ認知症発症以前でも)「メガネがないとまったく見えない」
と言っていた。若い頃は目はいい方だと思ったが、中年以降視力が
弱ったのか。しかし、明暗がわからない完全な盲目状態ではないように
思う。視神経的には「見えている」のだが、脳が認識できていない、
のかもしれない。

車椅子で一日を過ごし、ブツブツと何かを言い、食欲は旺盛、と
ここ1~2年はあまり変っていないような気がする。声は小さいが
秋田音頭などは大きな声で歌う。

現在はグループホームに入っているのだが、特別養護老人ホームへの
転所も妹は検討しているようだ。

入所当初は排泄ができていたが、現在はフルタイムでおむつをしている。
おむつ代がかなりかかるとのことだった。現在 母は15万円程度の
年金があるが、「オムツ代分くらいが、赤字になる」そうだ。

特養に入れば、そのオムツ代が無料になるそうだ。特養だと、著しく
安くなるような気がしたが、現在は個室が多く以前のような大部屋
タイプは増えていないらしい。ひと月にかかる料金もそれほど安くは
ならないようだ。

もっとも、母には貯金もあり、赤字分は問題なく補填できているので
特養への転所検討もそれほど真剣にはしてないようだった。

また、それらの対応も地元の妹にすべて任せてしまって長男としては
申し訳なく思っている。


2016年11月

2016-11-14 16:21:23 | 日記
9月から約2ヶ月。母の施設入所以来は3ヶ月に一度のペースにしているが、やや早めに
なったのは、地元オートレースでSGレースが開催されるからである。

母は9月の訪問時は不安&恐れを訴えていたが、今回は違った。

1ヶ月ほど前にベットから落ちた。夜間ではなく、昼間でスタッフがちょっと
目を離した瞬間に顔から落ちたらしい。検査では脳や骨には問題なかったらしいが、
おおきな「たんこぶ」ができたそうだ。しばらくは腫れが引かなかったそうだ。

左側に傾いている。左手がうまく動かなくなっている。これについては、医者から
脳梗塞が起きているのではないかと言われ、検査をしたが、問題はなかったらしい。

素人考えでは、これも認知症の症状ではないのか、と思う。左側の動作をつかさどる
部分が衰えてきているのだろう。

母は足はまだ動くが、手を引いてもらっても、歩く事はもはやできない。日中のほとんどを
車椅子で過ごしている。

そのように、左側に大きく傾きながら、車椅子に崩れるように座っているが、今回の母は
不安と恐れを訴えることはなかった。自分の名前を言い、「かきくけこ」から始まる50音を
言い、適当な二桁の数を数え、「お座敷小唄」を唄った。この4種の内容をずっと続ける。
これをブツブツ言うのではなく、かなりはっきり言う。なかなかやめない。

「〇〇〇〇(氏名)、かきくけこ、さしすせそ、70、71、72、富士の高嶺に降る雪も~ それっ」
と、繰り返す。

どうしてこの組み合わせになるのかわからないが、精神を病んでしまった人のようだ。

前回は「恐い、困った」という内容だったが、それは自ら感じる感情があっての発言だった
はずだ。それが今回は壊れたテープレコーダーのように、同じ内容を「感情なし」で発言
しているだけ、に思えた。


地元SGレースは素晴らしい内容だった。

32期は2016年現在、2013年デビューの一番の若手だが、32期の新人の中にもスーパースターは
いて、その選手がSGレースを連覇した。選手はもともと船橋所属だったが、船橋閉鎖に伴い
私の地元所属になった。

伊勢崎で行われたレースでは2着に31期のこれまた天才選手を抜き去り優勝。今回も早々に
同じ選手を追い抜き、トップに立った。2着争いは、伊勢崎のレースで3着になった「絶対王者」が
王者の意地を見せて2着を奪う。1~3着の顔ぶれが同じになった。

私は4車を選んで、3連単を全通り(24通り)買い、当てることができたが、配当は1750円で
「当たって負け」になってしまった。マイナスになってしまったが、意地を見せた王者の走りと、
それがまったく届かない優勝選手の走りに感動した。

SGの優勝戦はいいレースが多い。


2016年9月-2

2016-09-12 07:33:35 | 日記
11時5分に集合し、説明を受ける。コース内は「管理区域」なので、撮影、通信は禁止。
携帯電話、スマホ、カメラなどは、入る前に預ける。原則貴重品以外の荷物はすべて
預ける。帽子も観戦直前には係員に預ける。出走表や新聞のようなものも風で飛ばされないように
しっかりとポケット等に入れる。手に持っていた新聞などが、もしレース中、風で飛ばされ
それが原因で事故等が発生したら、レース不成立等、重大な状況になってしまうので、
それを防止するためだ。

これから管理区域に入るという直前で、それまで引率してくれた係員から再度「リピーターお断り」
の案内がある。「ひとりでも多くの人にオートレースを知っていただきたい」から理由だが、
ここでの再度の説明にちょっとしつこいかな、とも思う。他の参加者は「こういう思考が、ファンを
減らしている」という会話が聞かれた。その人は「何回も参加したっていいじゃないか」と言っていた。

リピーター大歓迎にしたらどうなのだろうか、希望者は殺到するか?毎回同じ顔ぶれになるか?



オートレースファンになって長いが、管理区域内に入るのは初めてである。

管理区域内での説明員はヘッドセットの携帯スピーカーを身に付けての説明。説明員だから当然だが、
いかにも「オートレースに詳しい人」に見えた。携帯スピーカーを身に付けているのは、バイクの
騒音で声が聞こえなくなってしまうからで、バイクの真横での説明は、それでもよく聞き取れなかった。

バイクの整備をしたり、選手の宿舎であったり、食堂や医務室は想像の通りだったが、中に「バイクショップ」
があるのは意外だった。区域内のショップで選手はパーツなどをその場で買うそうだ。レース開催中の選手は
外部との接触を一切遮断されるから、パーツを買うのも区域内で買うのは当然といえば当然なのだが、
そのバイクショップはどこが経営しているのか、と思った。JFK本体?それとも日本トーター?
バイク本体も買えるのかな?

もっともそのバイクショップも外から、「あの建物がバイクショップです」と説明され、中から見学できた
わけではない。

第2レースが終わり、レースに出場した選手が戻ってくる。

戻ってくる選手は選手達に出迎えを受ける。8人の選手が出るので、出迎える「選手グループ」も八つに分かれる。


「これが、自然と八つに分かれるんです」と説明員。オートには新人の頃にイロハを教わる「師弟関係」という
ものがあり、これら師匠筋のグループ、同期のグループ、所属レース場のグループなど、自然と八つのグループに
なるそうだ。

出迎えの選手達がバイクをストック場所に持っていったり、ヘルメットをあずかったり、なんやかやと世話を
焼く。テレビ放映などでもよく見る光景だ。

いよいよコース内に、というときに、選手が3名出てきて、ご挨拶。

地元所属の選手で、「握手してほしい」と一瞬思ったが、そのようなサービスがあるわけでもなく静かに
説明は続く。3選手といっしょに記念写真を撮り、これは参加記念として、プレゼントされる。


コースの説明、スタートラインや各種センサー、カメラなどの説明を受ける。フライングがあった場合は
当然スタートやり直しとなるが、これは赤外線のセンサーで検知されると知った。私は係員が目視でチェック
しているのかと思っていた。赤外線センサーでフライングがあれば、自動的に検知される。同一のスタート
ラインでどの選手がフライングしたかは、選手それぞれに向けられたカメラで確認するとのことだった。

第3レースが始まり、コーナーギリギリの見学席で見る。間近で見るスピードはやはり速い。コーナーでも90Km/h
ストレートでは140Km/hくらい出るそうである。普通人の感覚ではとても運転できるものではない。しかも、
そのスピードの中で、より前へと抜きつ抜かれつするのである。

オートレーサーとは、特別の運動神経と恐怖に対する強さと、闘争本能とが優れた人々などだと
改めて痛感した次第である。


写真ができるのは第8レース終了後、後日渡しも可能とのことだった。私は第6レース前には母親のホーム訪問のため
帰らねばならない。次に来られるのは3ヵ月後だ。どうしようかな、と思った。

郵送してくれ、と頼んでも断られるかもしれないと思い、一度外に出て、コンビニで封筒と切手を買い、これで
送ってくれないか、と頼んでみた。写真受け渡し場所になっているインフォメーションコーナーで事情を話すと
こころよく引き受けてもらえた。

ファンを大事にするオートレースでよかった。





2016年9月

2016-09-12 06:24:20 | 日記
2016年9月にグループホームへ行く。

前回はそれでもまだ自分で歩いていたが、今回はずっと車椅子だった。
また、これまでは感情が表に出ず、ある程度穏やかな表情だったが、
今回は、何かに怯え、何かに困っていた。不安気な表情のままだった。

困った困ったと言い、なにかぶつぶつ言っている。何が困るのか、恐いのか
理由はわからないが、私がいる間ずっとそうしていた。

妹によれば、最近は夜よく眠れないらしく、スタッフの手を煩わしているそうだ。

日中はずっと車椅子で何をするわけでもなく、うつらうつらしているので、その
反動もあり、夜眠れないのではないか、と妹は言う。眠れないので、ベッドから
出ようとする。手がかかるのである。睡眠薬も処方されているようだが、あまり
効果がないようだ。不眠も「不安状態」の要因かもしれない。

妹は「悪くなっている」と言うが、このところの「無表情状態」に比べると
不安不満にしろ感情を出していることは、まだまだ脳は活発に動いている、
と個人的には思った。



オートレースは日曜日、第一レースから行ってみる。場内で「コース内観戦イベント」
の募集があった。集合場所の案内と同時に「過去にイベント参加をされた人はご遠慮
ください」と繰り返しアナウンスされる。初めての参加者を優先するという配慮だ。
私はこれまで参加したことはない。

イベント参加定員は30人だったが、「リピートお断り」告知が効いたのか、集まった
のは30人に満たなかった。定員を超えた場合は抽選になるが、今回は「全員当選」で
ある。イベント参加のタグストラップをもらい、「11時5分に、この場所に集合して
ください」と言われる。この時点で10時45分、20分後にはイベントスタートだ。
実にスピーディ。



2016年6月

2016-06-23 19:08:38 | 日記
2016年6月にグループホームに行く。

歩行が困難になってきた。向かい合って両手を持ってやらないと、歩けない。
足は少しずつしか前に出ない。体に震えがあるわけではないが、パーキンソン病患者の
ような歩みだ。少し前に体が硬直するようになり、病院でMRTを撮った。
結局 脳に異常はなく、体の硬直も治ったが、グループホームからは
「パーキンソン病ならば、退所を検討してもらいたい」というような内容の話を
されたようだ。入所の時「看取りまで対応する」という約束だったから、病気になった
くらいで「出て行け」はないと思ったが、フロアの責任者はそのようなホーム側の
対応を「まちがっている」と話しているようで、それはそれでスタッフの連携が
取れていないのではないか、と不安になる。

食事ができなくなった。口の中に食べ物を入れてやるとモグモグと噛み、嚥下できる。
が、自分の手で口までもっていくことができない。理解できていないのだと思う。
その内に咀嚼しても嚥下ができなくなり、むせるようになる。食べ物を柔らかくし
嚥下しやすいようにしても、そのうちむせるようになり、嚥下できなくなる。
そうなると、「口から食べる事ができない」状態になる。

グループホームは認知症向けのホームで母のフロアの入所者は当然全員が認知症患者だが、
なぜか病気の進行があまり進んでいない人ばかりで、食事もほぼ全員が自ら食べることができる。
車椅子の人も食事は自分でできる。

現在、食事にスタッフの全介助が必要なのは母だけであり、
「他の人は自分で食べる事ができるのに、お母さんだけできないから、スタッフの負担が
 ひとりだけにかかってしまう。それがちょっとね、、、」と妹は言う。

食事、排泄、入浴 は介護の基本だから、スタッフの負担についてそれほど気にすることは
ないように個人的には思うが、「他の人の目」というのもあるだろう。

それよりも、「口から食べる事ができない」状態になったら、どうするのだろうか。

胃ろうなど、チューブによる栄養補給になるのか。多くの人がそうだが、母は元気な頃
「寝たきりになってチューブに繋がれて生かされるのはまっぴらごめんだ」と言っていた。

しかし、現在の母はそのような意思表示をすることができない。私や妹が、「母が昔から
胃ろうはイヤだと言っていたので、しなくていいです」と言えば、それは死を意味して
しまう。

親戚からも「親を殺す気か」と言われてしまうだろう。そうなるとやはり、胃ろうを
選択するしかないのだろうか。

2016年3月

2016-04-11 18:51:20 | 日記
2016年3月に家族で母のグループホームを訪問した。

私の家ではヨークシャテリアを飼っており、母が自宅で飼っていた犬も
ヨークシャテリアだった。認知症になってからも母は犬と暮らしていたが
正しく餌をやることができずに、一日に何度も与えてしまい、犬は大変に太って
しまった。散歩も夏場にまだ涼しくならない内に連れ出したりして、具体的な
病名はわからないが、しばらくして夏に死んでしまった。肥満と熱中症ではないかと思う。

「犬に会わせたら、認知症がよくなるかもしれない。アニマルセラピーだ」と
動物好きな長女次女が言い、もしかしたら、そんなこともあるのかなと思った。

母の部屋は3畳くらいで、そこにベットが置いてある。そこに私の家族5人と
妹、妹の子供2人の合計8人が入ってしまった。

犬を見せてみたが、視点が定まらない。「ほら、犬だよ」と目の前にもっていっても
見えていないようだ。

「見えてはいる」のだが、それが「犬」とわからないのだ、と思う。

「これなんだろう」とも思わない。模様のような目の前の光景が網膜に映っている
だけなのだろう。

認知症とは脳の病だ。母はまだ会話はできる。相槌は打つ。しかしそれは九官鳥や
インコでもできることとあまり変わりないのかもしれない。「目で見て認識する」
という力はだいぶ衰えていると感じた。

「目」からのアニマルセラピーは母にとってもはや無効だった。
「耳」や「肌触り」はどうなのだろうか。犬が舐めたり、吠えたりすれば、
またちがったかもしれない。


この3月をもって船橋オートが閉場となった。全国たった6会場だったオートレースが
5会場になってしまった。とても残念だ。


2016年1月

2016-01-10 16:06:27 | 日記
1月に帰省した。

昼頃に駅に着き、オートレース場への無料バスに乗ろうとしたが、バスは出たばかりで
30分以上待たなければならない。無料バスの時刻表を見ると、早い時間は15分おきぐらいに
あるが、1時頃になると30分おき、最終は2時だった。

30分も待っていられないので、通常の路線バスで向かう。こちらも30分おきだったが、
出発直前のバスに乗り込めた。料金は350円だった。

レース場でいつもの友人と合流。昨年末ラスト5レース中3レースを的中させた友人は
この日はまったくだめで、しかも足腰を痛めており、この後病院に行くとのことで
レース後の呑み会はなしとなった。

私は到着直後の450円配当を1点買いで当て、友人が帰ってからも690円配当、
その後のレースも3340円を的中させた。友人ではないが、4レース中3レース的中で
こんなことは長いオート人生の中でもそうはあるものではなかった。

大いに気を良くした私は、弾むような気持ちで「空家」になっている実家に向かった。

バス停から家まで歩いていると、前から「部屋着」のような格好で歩いている老婆が
「〇〇町はどこでしょうか?」と尋ねてくる。

認知症かな、と思った。

ここは〇〇町ですよ、と伝え、丁目番地を聞いてみる。

2丁目〇〇番地としっかり言えた。現地は1丁目であり、2丁目まではちょっとした距離がある。
ずいぶんと歩いてきてしまったようだ。

2丁目はあちらです、と教えることもできたが、
「私も2丁目まで歩くんです。一緒に行きましょう」と、老婆と歩く事にする。

家まで連れて行き、家族がいたら報告もしようと思った。

老婆は名前も言え、こちらからの質問にもしっかり答えることができた。家に近づくと
「ああ、ここまでくればわかる。戻れますよ」と言う。

家の前まで来ると、「ここが私の家」と言って入っていった。

一戸建てで自家用車が停まっていたが、同居の家族は出払っているようだった。
家族に報告もできず、老婆の家を後にする。

このように、徘徊している老人が多いと言う。私の母も今回のようにご近所の人などに
助けられたケースもあったのではないかと思う。

この地域ではこのような徘徊の恐れがある人には靴にオレンジのシールを貼ることを
始めたそうだ。しかし、認知症の人はそのシールをはがしてしまい、どの程度効果が
あるのかはわからない、と翌日妹から聞いた。

ちょっとした善行をした夜はひとり空家になっている実家でカップめんを食べて寝た。

翌日は朝方 近くのスーパー銭湯に行き、菩提寺にお年賀と墓参りをすませ、叔父に
会いに行く。東北出身でこの地で暮らすようになった母だが、弟の叔父も母を追うようにして
この地で暮らすようになった。叔父もこの地で所帯を持ち、勤め上げ、孫がいる暮らしをしている。

叔父のところへ行くと、叔母が「おとうさんはオートに行っちゃったのよ」と言う。

この叔父はギャンブルなどはめったにしない人なのだが、なぜか昔から正月だけは
オートレースに行っていた。年に一度だけ行くのだ。

オートと聞いて、私も行く事にした。連日の通所だ。叔父とは会えないかもしれないと思った。
携帯電話の番号も知らないし、有料観覧席での観戦だったら、会えない。閑散としている
とはいえ、正月のレース場は1万人位の入場者がいる。ま、会えなくてもしょうがない、と
思っていた。

レース場に着き、いろいろ探したが、やっぱり見つからない。そろそろ母のグループホームに
行く時間も気になりだして、そばでも食って帰ろうとしたら、叔父の方から私を見つけてくれた。

私がオート好きになって、かなりの年数が経つが、叔父とレース場で会ったのはこれが初めてだ。
叔父は当然40年くらいのキャリアがあるわけで、活気のあった時代の話など、もっと聞きたかったのだが
時間の都合もあり、30分くらいでレース場を後にした。

その後、母のグループホームへ行く。

左手が動かしにくくなってきている。このように手、足、そして寝たきりとなっていくのだろう。

孫の話をすると、涙ぐむ。また、いとこの夫が急に禿げた話をしたら、笑い出す。

おやつに出た甘酒を、おいしいと言って、ひと口飲むが、ひと口だけだ。
自力で咀嚼ができなくなったら、どうするのか。「胃ろう」にするのか。

元気な頃の母は「寝たきりになって、チューブに繋がれて生かされるのなんて、まっぴらごめん」
とよく言っていた。

それを本人自身が意思決定することは もはやできないのだが。


2015年9月

2015-10-06 13:01:24 | 日記
母が認知症と診断されたのが2011年の8月。独居は2014年4月まで、2年7ヶ月。
2014年4月からグループホーム入所で1年と5ヶ月経過した。認知症になって約4年。

グループホームに入所してすぐの頃は私をみて「よっ、社長」と言うくらい
元気があったが、このところは元気はない。元気はないが、「弱々しい」という風
でもない。「力が抜けている」感じだ。顔の表情も「枯れている」感じ。

2015年9月にグループホームを訪問した。
3月、6月、9月とうまい具合に3ヶ月おきだ。

私を見ると、「なんか、知っているような人が来た」というようなウルウルな
涙目になった。毎度のことで、妹も同行したので、そのまま3人で「雑談」。

母は私と妹の話をボーっと聞いているだけ。自分から口をはさむことはしない。
こちらから、尋ねたり話しかけると、相槌を打ったりするだけだ。

まだ、歩行もできるし、スピードは遅いが自分で咀嚼できている。


このところの私の帰省は、土曜日の昼頃現地着で、まずはオートレースに行く。
そこで友人とオートレースを楽しみ、その友人と酒を飲み、夜は空家になっている
実家に泊まる。翌日、近所の喫茶店でモーニングを食べ、50CCのスクーターバイクの
メンテナンス(ガソリンタンクがすぐ空になるので、携帯用ガソリンタンクに
ガソリンを入れに行く)をし、そのバイクで近くのスーパー銭湯に行く。
昼飯を食べて、家で待っていると、妹が軽自動車を運転して迎えに来る。
妹の運転でグループホームに行き、母と面談。面談後、新幹線の駅まで
妹に送ってもらい、東京に戻る。

これがここ9ヶ月のお決まりパターン。




2015年6月

2015-06-18 17:54:15 | 日記
3月に父の七回忌をしたので、約3ヶ月振りの訪問だ。

特に大きな変りはないが、自分から話す事がなくなった、と感じる。
こちらから話しかけない限り 発言はない。虚空をぼーっと見ている。

リアクションが弱まっている。語彙が少なくなっている。

何かの動作をうながしたりしても、頓珍漢な対応をする。認知症は最終的に
寝たきりになることが多いように思うが、それは、「起き上がる」「歩く(足を前に出す)」
「からだを動かす」「声を出す」という 健常人は無意識にしている人間の動きが
できなくなるからなのかも知れない。

「脳を使う」というと、「考える」とか「記憶する」とか「判断する」といった事を
思うが、感覚や無意識下での行動等も脳によって動かされているのだ。

認知症になって デイサービスやショートステイ、ホームヘルパーの介護サービスを利用しながら
約3年間ひとり暮らしをした。その間も認知症は進んでいったが、ホーム入所の頃は
「家に帰りたい」と自ら強く主張した。意思表示をする脳は活発に動いていた。

最近では妹のこともよくわからなくなり、妹(娘だ)とわかる時に「帰りたい」と
言うそうである。今回は私も妹も、(自分の子供)とはわからないようだった。

認知症になるまでは、よく話す(それも毒舌)人だったし、認知症になってからも
一日中「気になる事」を繰り返し話していたので、何も話さないで小さく座っている
母を見ると、認知症の進行を強く感じる。

起き上がることができなくなる日も近いのだろうか。



今回も地元開催の日程に合わせた。

S級の選手が出ない地味な開催だったが、レースはむずかしく高配当が多かった。
今回も友人と現地で会い、馬鹿話をしながら観戦した。車券は総て外れた。

最終レースは、60歳を超えた往年の地元エースが出場した。わたしはこの選手から
買って当たったためしがないので、今回は迷わず除外したが、結果はこの選手が1着だった。
賭博とはこういうものである。


2015年2月

2015-03-18 11:01:47 | 日記
三ヶ月振りに帰省した。

今回は実家に一泊した。実家は空家になって10ヶ月経過した。妹が換気をしたり
そうじをしたり維持管理をしてくれている。まことに頭が下がる。聞けば梅雨時は
一週間でカビが発生するらしい。カビが生えやすい、クッションなどの生地物は
すべて捨てたそうだが、「テーブルとかにも うっすらはえてくるのよ」とのことだ。
人が住まない家というのは、このように、恐ろしいスビードで劣化が進む。

母が実家にもどることはこの先ないだろう。実家をどうするか、といつも思っている。

築40年を過ぎた日本家屋である。ボロボロだ。家財もたくさんある。これらを含め
どうしたものか。理想としては、必要最小限の家具以外は全て処分し、空っぽの状態
にしておきたい。しかし家財の処分も大変だ。庭の小屋にも父の趣味の大工道具や
つり道具やその他よくわからないものが大量にある。庭も意味がないような植木が
何本も植えられている。ばかでかい石もずいぶんある。すべて私としては処分したい。
何もない庭と何もない家の、カラッとした土地建物にしたいと思っている。

母は11月の時とあまり変っていなかった。最近は排泄に失敗が多く見られるようになり
「リハビリパンツ」を穿かされているようだ。

会話はより「理解できなくなっているように」感じるが、適当に合わせてくる。
「うん、そうそう、そうね」と、わかってなくても返事をする。

無責任にも、この人は日々をどうやって過ごしているのか、と思う。父も母も認知症に
なった。そしてふたりとも家族からの十分な介護を受けられることがなく、自宅以外を
終の棲家とせざるを得なくなった。
私が、実家に移住すれば、まだ母は自宅で暮らすことができたように思う。

母が入っている施設にも「この人、これで認知症?」と思うほど、しっかりした人もいる。
聞けば「奥様も娘さんももう介護できない」という理由らしい。母のいるフロアは比較的
認知症が軽度である人が多い。それでも入所しているのは、入所しなければならない理由が
あるのだ。

人それぞれ、家それぞれの事情がある。




帰省はオートレースのグレードレースに合わせた。

2014年の正月に地元の友人を連れて行った。友人はビギナーズラックで4万円の
配当を当てた。それが引き金となったのか、友人はその後、オートレースによく
行くようになった。

今回もレース場で合い、馬鹿話をしながらレースを観戦し、居酒屋で
酒を飲んだ。

オートレースファンをひとり増やすことができたことに私は満足している。

2014年11月

2014-11-06 17:16:04 | 日記
グループホームに入所した母を訪ねた。

私の仕事の都合もあり、4月の入所後初となる。約8ヶ月振りだ。
入所直後は「帰宅願望」が激しく、妹や知人が面会に行くと「家に帰る」と
強く主張したようだ。「もう死んだ方がマシだ」という発言もあった。

8ヶ月が経過し、帰宅願望は弱まった。諦めたのか「帰宅する」ということを
認識できなくなったのかはわからない。

8ヶ月振りに合う母は意外にも「すっきりした顔」をしていた。ホームでの
暮らしに慣れていると感じる。認知症発症以来、独居を続ける中で、病状は
進み、できることがどんどん減っていった。自分の中でもおそらく「もどかしさ」
を感じていたのだと思う。また、ヘルパー、ディ、妹のサポートがあっても、独りで
過ごさなければならない時間がある。夜はいつも独りだ。
不安だったに違いない。
入所直前の母は、一日中、「きょうディはあるのか、娘は来るのか」と言っていた。

その心細い「ひとり暮らし」に比べ、現在は24時間のサポートがある。これだけでも
不安は軽減される。それがたとえ「姥捨て山」であっても。

フロア長さんから話を聞く。母のホームは認知症対応のホームで、ユニット9人全員が
認知症だが、比較的軽度の人が多く、母が9人の中では、一番認知症が進んでいるとの
ことだった。

最近では嚥下する動作が怪しくなってきたようで、食べるスピードが著しく遅いらしい。
歩きもパーキンソン病のように少しずつしか足が出ない。食べられなくなる、歩けなくなる
のも時間の問題かもしれない。

会話はまだ普通だ。私の顔は忘れて、私を「社長」と呼んだ。社長とはホームのオーナーらしい。
母の出身地などの話をすると、「よく知ってるねー社長。私 話したっけ?」と言う。
私を認識できないのは8ヶ月振りだからかもしれないが、週一で面会している妹も「私の
こともわかっているのかしら」というくらい、あやしい。




日帰りでの帰省だったので、オートレース場には行けなかった。この8ヶ月の間に
船橋オートの廃場が決まり、ミスターオート飯塚将光選手が死去した。

浜松オートも数年前に廃場の可能性があったが、民間業者のサポートもあり、なんとか
継続している。全国に6会場しかない、オートが5会場になってしまう。浜松オートも
継続は当時「暫定的」と報じられた。

オートレースの未来は暗い。そして再興する可能性も極めて低い。
厳しい道が続くが、私は応援を続けていく。














2014年3月

2014-03-23 00:12:50 | 日記
せん妄が見られるようになった。

居間にソファーがあり、母はディやショートのない日は一日
これに座って過ごしているのだが、その脇に見知らぬ若い男が
立っていたと言う。

「あなた、どちらさん?と聞いたら、何も言わず、すーっと
出ていったのよ」と言う。

これを、1日何十回と繰り返し話す。

せん妄、周辺症状BPSDが始まると、徘徊も起きてしまうのでは
と心配になる。

実家は住宅地にあり、電車や大通りからはかなり離れた位置に
あるが、夜 フラフラと出歩いて、行方不明、あるいは交通事故
などが起きてはまずい。

X-DAYが近づいている。

妹はショートステイの日以外、毎日のケアをしているわけだが、
それについての負担はそれほどでもないと言う。
不安は「ひとりの時にどうなっているか」だそうだ。

グループホームの入所を決めた。

私が決断した。

母はショートステイの時もずーっと「いつ帰れるのか」と職員に
聞いているようだ。グループホームを事前に見せて、「ここで
暮らすんだよ」と伝えて、承諾するわけがないので、突然の、
強制入所となる。抵抗するだろうな。

今回の帰省では、母と息子の差し向かいの食事もこれが最後か
と思った。(外泊は自由にできるので、自宅に戻ることは
当然できるのだが)

母が認知症の疑いありとなって、3年が経つ。3年間独居を続けた。

3年前はまだ家事の多くをできていた。

この春 介護認定の更新があったが、判定は要介護3であった。

2014年2月

2014-02-16 22:01:58 | 日記
トイレができなくなってきている。

トイレの場所はわかる。
座って排便する事、トイレットペーパーで拭く事、はできる。

使用したトイレットペーパーを便器内に捨てる事、流す事、ができない。
使用済みトイレットペーパーを持って出てきてしまう。

どこかに捨てなくてはいけない、とは思うようだ。それでいろいろな場所に
捨ててしまう。トイレ内、他の室内のゴミ箱、庭、自分のポケット、等々。

トイレには日々 何度も行く。その度に使用済みトイレットペーパーが
出現する。

トイレに行く前に「ちゃんと流すんだよ、トイレットペーパーは便器の
中に入れて流すんだよ」と一応は言う。必ず「何を当たり前の事を言うのだ。
トイレで流さないやつがいるか」と本人は少々立腹してトイレに向かうが、
出てくると、手には使用済みトイレットペーパーを持っている。


2月に帰省して一泊した。午後8時頃に寝ると言って、寝室に行き、
15分位してから起きてきた。

「自分の家に帰るにはどうしたらいい?ひとりでは帰れない」と言う。

ここは自分の家だよ、と本人を傷つけないように柔らかく伝える。
しばらくは、「自宅」とはわからない。

「私、寝ボケちゃったのかなー、怖い、どうしよう」と不安な様子。
それでも、ここが自宅とはしっかりわからないようだ。

とりあえず寝たら、と又寝かせた。

翌朝は何事もなく起きてきた。

今回のような「ここは自宅ではない、帰らなきゃ」
と思ってしまうとなると「徘徊」が連想される。

徘徊が始まれば、独居を続けることは難しいだろう。