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じょゆう(ためごろう) ★ 海音 ハートフルディナーショー♪

リズミカルな響き~輝きの旋律 煌めきのハーモニー♪音の美のクォリティーを求めて優しく心に届けます♪

珈琲貴族の「ためごろう論」

2011-04-19 14:00:00 | 珈琲鉛筆


まず、珈琲貴族の「ためごろう論」を書くに当たり「ためごろう」と敬称を略することをお許しください。



ためごろうというアーティストをMYSOUNDの時に見つけ、初めて彼女の歌を聴いて思ったことが、寺山修司であった。

寺山修司、若い人たちには当然であるが、もう年配の人間にも忘れられた名前かもしれない。
アングラの「天井桟敷」の主宰者と言えば、思い出す人もいるのだろう。
詩人であり、歌人であり、戯曲作家であり、エッセイストであり、作詞家であり、映画監督であり、ときにカメラマンでもあった。
47歳で亡くなってしまったが、天才的に言葉を操る達人であった。

私は、若いころ彼のありとあらゆる書を読んだ記憶がある。
半分も理解できないのであるが、その理解できないところもまた寺山修司だと思っていた。
彼の代表の著「書を捨てよ 町へ出よう」は、映画まで見た。
まったくわからない映画であったが、その映画の中の映像は未だに脳裏に焼きついている。

誰もが寺山修司という人間を解りたかったのはないだろうか。

彼は職業を訊かれるといつも言っていた。
「僕の職業は寺山修司です。」と。

彼は幾つもの作詞もしている。
「時には母のない子のように」
「涙のオルフェ」
「さよならだけが人生ならば」
「あしたのジョー」
「もう頬づえはつかない」
「君にお月さまをあげたい」

きっともっともっと多くの作品があるのだろう。その多くを私は知らないでいるが。


「常に生身の人間と向き合っていたい。」を発し続けた、理想を求め続けた天才だったと思ってならない。
「天井桟敷」もアングラでのじめじめしたところからの脱出を狙って、劇団を青空の天上まで持っていきたいと理想して名づけた名前であった。


だからと言って、ためごろうが寺山修司と言っているわけではない。
似ているとも思わない。
ただ、ためごろうに、私はどうしても寺山修司の匂いを嗅ぐのである。
同じ匂いを見るのである。


初めて、ためごろうの「生きて」を聴いて、私はその寺山修司のひとつの言葉を思い出していた。
寺山修司のメルヘン全集の人魚姫に出てくる台詞、『なみだは人間の作るいちばん小さな海です。』であった。

『なみだは人間の作るいちばん小さな海です。』

「生きて」を聴いて、歌詞はベタであるかもしれないが、聴いているうちに涙が出てくるのである。
ベタと書いたが、悪い意味でなく、それ故にフレーズフレーズのメッセージが届きやすいという意味である。
その粒は小さいが、思いは溢れるくらい広がるのである。
不思議でたまらなかった。「海」であると思った。


二回三回と聴いていくうちに、そして他の楽曲も聴いていてひとつの結論に到達したのである。
それもまた、寺山修司の「ポケットに名言を」の著の中にある言葉だった。

『言葉を友人に持ちたい』

ためごろうというアーティストは、そう思って歌っているのではないだろうかと、思わずにいられなかった。


その著にはこう書かれてある。

「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だということに気がついたときにである。たしかに言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである。
少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだ、と思った。
Hungry YoungmenはAngry Youngmenになれないと知ったのである。
そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突するくらいはするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。」


まだまだ続くのであるが、その言葉を思い出していた。


そして、寺山修司とためごろうの匂いが頭から消えようとしていたときに、ためごろうは「記憶の彼方」を公開した。
衝撃でもあった。

また、私はそこに忘れかけていた寺山修司&ためごろうを見たのである。

『私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のではない。
忘れることもまた、愛することだという気がするのである。』

私には、「記憶の彼方」の歌詞と重なってならなかった。


そして、極論になるかもしれないが、これもまた寺山修司の言葉である『私の存在そのものが質問なのだ。その答えを知りたくて生きてるんだ。』を、ためごろうは、『私の存在そのものが質問なのだ。その答えを知りたくて歌っているんだ。』と自分自身に問いかけているのかもしれないと。


最後に、寺山修司のこの言葉を大好きなアーティストためごろうに贈りたいと思う。

『どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ。』

『どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。
人間に与えられた能力のなかで、一番素晴らしいものは想像力である。』






次回、いつになるかわかりませんが、5月の連休終わりまでに、珈琲貴族の「海音論」を書いてみたいと思います^^。




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