日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

哲学のすすめ

2015-12-22 | 論及
哲学と言うと何か難しいようにも感じるが、物事を認識し考えることが哲学であり、いわば、「物事の存在をどう認識し」「どう考えるか」を語っているものであり、何も特に身構える必要もなく、要は、深く考えることが哲学することである。従い、哲学は、人間がこの世に生まれた時から存在しており、哲学することは大切なことであると言えよう。

哲学者と言われる人物は、色々いるが、夫々の哲学者が自分の感ずることを考え、述べ伝えている。紀元前600年前には、古代ギリシャのタレスが、「あらゆる事物の起源」を、500年前には、パルメニデスが、「存在するものが存在する。思考することで存在を認識し、無は認識できないので存在しない。」と存在することと思考することの同一性を説いた。




紀元前469~399年にソクラテスが、人を欺くものを退け真の善を知り意志することを、427~347年にプラトンが、魂が真理を再び思い出し再認識する(=想起説)認識と精神によって把握され言語によって表される実在(魂によって見る本質=イデア論)を、更に385~322年にその弟子アリストテレスが、知への欲望と自然的実在(先入観を排除した理論的認識)について説いている。




中世哲学(紀元300~1400)においてもアウグステイヌス、トマス・アクイナス等々生きる術としての哲学があったが、西洋においてキリスト教が絶対的な神を導入したことで古代の世界観は変わった。哲学は、キリスト教と同一の真理を追究するものとして信仰を理性的な言葉で語るものとなり、神学者の論理形式を組み立てる道具となり、変遷していったものの、矢張り、人間自身の生と存在に関することを考えていたことに変わりは無い。




「われ考えるゆえに我あり」で有名なデカルト(1596~1650)は、実証的近代科学を可能にする条件の基礎を確立した人物であり、我々現代人の世界観(=科学的合理性)の原型を掘り起こした人物である。全てが懐疑にかけられ、慣習・先入観への疑いを基とに思考する限りにおいて私は存在し、本質のうちに現実存性が存在するので良識を理性により見抜くことで存在が認識されると述べている。



若干、これら先人達の言説は言説として、現代に当てはめて考察することも大切である。私が、驚いたのは、キルケゴール(1813~1855)とマックス・ウエーバー(1864~1920)である。キルケゴールの「現代の批判」やマックス・ウエバーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」「職業としての政治」「職業としての学問」は、100~150年以上前の著書だが、現代社会を言い当てており、今でも非常に参考になっている。



いずれも現代社会に生きる人々に対する生き方への問題を「批判」、「官僚制」として表しており、一度、熟読することをお勧めしたい。さあ!我々も過去の先人達を学び、哲学をしようではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする