僕は独りっ子です。
孤独を愛し、ぼーっとしてて無気力、そんな子供だったように思います。
小学校3年生までスポーツもせず、悲しいことにあまり思い出もないかなー?
よく女の子にからかわれてました、オカッパ頭で鼻炎持ち、よく「まことちゃん」←(って漫画知ってる?)と言われてました、でもあの漫画は僕によく似てた!いまでも「コボちゃん」と言われるし、オレって漫画キャラ?!
「あっくん」とゆう親友がいました、僕はとにかく彼と一緒に行動を共にしてました。あっくんはいわゆる「がき大将」で、とても華がありみんなの人気者でした。よく2人で悪さをしてたなー(^^ゞ そんな毎日共に行動してた「あっくん」が小学4年生の頃に千葉に転校してしまいました。そりゃーあなた悲しいなんてもんじゃぁないでー!僕はふさぎ込んで長い間立ち直れませんでした。
話は少し変わって習い事、僕は書道、そろばん、英語、ピアノ、とたくさんの習い事をさせてもらいました。しかし「無気力」だった僕はすべて適当にこなしてました、特にピアノと英語は真剣にやればよかったなーと後悔してます(:_;)
そんな親友に転校され、無気力な独りっ子の私が小4の夏に祭太鼓に出会います。
町内会の祭で太鼓を見て、僕はくぎづけになりました。もちろん人生初の興奮でした、もうずっと引っ付いてすぐ叩かせてもらいました。とにかく好きでしたね!そしてなんだかこれだけは誰にも負けないって自信もありました。
昼は山車に乗って叩き夜は盆踊りの太鼓叩きで一年に3日間しかないのですがそれだけが楽しみで自分の部屋の柱にティッシュやガムテープを貼付けて練習してました。今にして思うと即興とゆう点でJazzに似ていたナーと思います、特に難しかったのが「炭鉱節」4拍子ではあてはまらなくて、苦労したのを覚えてます。
中学三年までやることになったのちドラムを始めるのですが、それはまたのちほど・・・
あまり定かではないのですが、小学校低学年の頃ソフトボールチームにはいりました。これがまた下手くそで始めての試合でライトフライをキャッチ出来ずに、コーチとキャッチボールしたらこれも取れず顔面に当たってしまい即やめました。(-.-;)次に4年生頃バスケをやり始めました、楽しかったのですがサッカーに興味が移ってしまいすぐにやめてしまいましたねー。
サッカーははまりましたねー朝早く起きて練習するぐらいでした、クラスのキャプテンになりましたけどまあ上には上がいる、結局小学校までしか続かなかったです。
僕の親父がマラソンが好きでよく僕も付き合って大会に出場しました、ある大会で偶然にもゼッケン「1」をもらった事があってあの時はみんなに声援をもらってうれしかったなー、順位は聞かないでください(´~`;)
運動会ではアンカーも務めたこともありますが、その中で一番遅いとゆう目立つようで目立たないキャラでした。
僕の親父は刑事でした、力武家はいわゆる一本気で真面目な家庭で、(驚いた?) 当然芸術とは縁がなく僕が中学の時求めるまでカセットデッキすらない家庭でした、音楽は親父が風呂場で唄う演歌と「ベストテン」位しか触れれませんでした、マッチの大ファンでしたよ(^O^)「ギンギラギン~」とか歌いまくってた記憶は強いね~!
中学に入って僕はテニス部に入部しました。3年間頑張ったんだよ―!県大会にも出場したし(^^ゞ顧問の先生が怖くて何度も殴られました。スポーツは大好きでしたね、ジャンプが自信あって、ハードルは学年一位だったんだよ!(←よく自慢します)中学1、2年は部活に夢中でした、勉強は本当に駄目でした、大嫌いで塾の先生に「おまえ、進学どころか就職も出来ないぞ!」と本気で怒られてました。自分は「何」になりたいかなんて考えたこともありませんでした。
「ぬまけん」とはゆう男がいました、彼は小さい頃からギターをやっていて身近な「音楽をやっている人」でした。中学3年になり部活も夏で終わりになり、そして夏祭りの太鼓も自治会の決まりで中学までと決まってました。夏が終われば受験勉強(-.-;)とにかく嫌で夏が終わって欲しくなかったです。太鼓の先輩で高校からドラムを始めた人の話は聞いていて存在は知っていていいなーとは思ってました。
夏も終わり体育祭のシーズンになりました。僕は応援団に入り、もちろん(?)ドラム缶を担当しました。応援団長は「ぬまけん」でした。我らの組は応援賞を獲得!うれしかったです(^-^)体育祭も終了し、とある日「ぬまけん」と一緒に帰っていました。何を話していたか詳しくは覚えてないのですが、「なーまこ、ドラムやる気ないの?祭太鼓やってるの見てて、前から誘いたかったんだけど」てな感じで誘われました。「いやーオレなんて…」って感じで断りました。「ぬまけん」と別れてしばらくして決心しました。「ドラムやるぞー!!」
「ドラムをやる!」と決めてからとゆうもの、その瞬間から僕の人生は忙しくなりました。ドラムを始めるにはたくさんの障害があったのです。1、まず高校に受験で合格しなければならない。2両親を説得しなければならない(不良だと思われてるから)3ドラムの事を何も知らない(足を使うなんて知りませんでした(-.-;))4、BAND??音楽、合奏をよく知らない。など様々ありました。
まずスティックを買いました、両親にばれないように机の引きだしに隠してました。どの高校に進むか?自分のレベルの範囲内の高校のパンフレットをチェックして、ドラムの写真が掲載されているとゆうだけの理由で受験校を決定。とにかく勉強!!…とある日机に隠していたスティックが見つかり僕は案の定反対されました、この日を最初とし僕はたくさん親父と言い争いをしました、親父は僕にも公務員になって欲しかったからね…、しかし僕は沢山反対されたから逆にハングリーになれたと思ってます。すごく両親には感謝してます。僕は高校に合格したらドラムをやってもいいとゆう約束を取り付けました(^O^)/そしてなんとか合格することが出来ました。
年賀状だったかな?受験、中3の時「あっくん」から手紙が、「まこ元気か?オレ今バンドで歌ってるんだぜ、ぬまけんとも一緒にやったんだぜ」との手紙。………なにー!!!あっくんがバンドをやっていたとゆう事実と、なぜ転校したあっくんがぬまけんと一緒にやってるんだ?パニックになりました。どうやら前に千葉に遊びにいったぬまけんがあっくんの家で「ブルーハーツ」で遊んだそうな、それにひきかえ自分はブルーハーツもBOOWYどころかビートルズもツェッペリンもましてやJazzなんてなにひとつ知らなく、ドラムも叩いたことがない(:_;)出遅れた感がありましたねー。あっくんとぬまけんに追い付きたかったです。
高校に入学してお祝いでドラムセット(通販の)をプレゼントしてもらいました。そこに新聞やらタオルやらガムテープで防音して練習してました、たまらなかったですね。しかし現実問題一緒にやる人がいないと…祭太鼓のようにはいかないのです。
中学からつるんでいた仲間がいました。「ただし」「なお」「コケ」「のぼるさん」「あつし」「きんむ」などなどみんなとても個性的な男達でした。「ただし」と「なお」「コケ 」と僕でバンドを、BOOWYをやろう!とゆう事になりました。「よし、まずノーニューヨークを覚えるベーよ」と「ただし」の家にみんな楽器を持って行き初の合奏!カウントを出してみんながひとつになった喜びは(#^.^#)!同じ曲を何十回やったことか!あの日の喜びは一生忘れません。
いまでも僕はバンドの一体感が大好きです、とゆうか僕の音楽の基本になっています。レパートリも何曲か増えてライブも2回ほどやりました、しかし色々な問題が浮上してきます。ライブをやった事で一段落着いてしまって練習をしなくなり、仲間もバイクや夜遊びに夢中になっていき、僕は厳しい両親や高校生活からの不満でやさぐれていきました
学校はサボり、友達の所に行ってはボヘーっとしてました。バンドも「ただし」が抜けて活動も出来なくなりました。夢も希望もないとゆうのはこの事だとゆう自分の内面でした。
高校では部活には入りませんでした。新しい友達を作る気持ちになれずそれどころか敵を作ってしまってました。今の僕を知ってるみなさまは驚くと思いますが本当にあの時は笑顔ひとつなく目付きが悪い情けない男でした、学校も両親も嫌いで家出してコックにでもなろうと思ってました。夏休みだったと思います、中学の仲間の何人かが高校を中退しました、僕は僕で親父と大喧嘩して家を飛び出して仲間の所に行きました。自分自身、大変ショックを受けてもうなにもかもよくなって家出、中退を決断しました。
しかし僕は仲間全員から「まこ!それはやめろ!まこには真面目に生きて欲しい」と説得させられました。この日にみんなに説得されなければ……感謝してます、夏休みが終わるころには頑張ろう、やり直そうと決心しました。
それからとゆうもの、とにかくドラムの日々が始まりました、「マーボー」がバンドに参加が決まりライブを目標に猛練習でした、そのころ「ぬまけん」は違う高校でしたが横須賀で一番有名なボーカルになってました、高校の中でも僕がドラムをやっているのが少しずつ分かられてきました。本当に勉強そっちのけでドラム、音楽づけの日々でした、誰にも負けたくなかったです、ある意味キチガイだね(ノ゜O゜)ノ
高2はバイトやドラムに明け暮れてました、この頃にはプロになりたいと考えだしてました。始めた頃は音楽の事をよくわからなかったのですが、いろんな音楽(ビートロック、パンク、メタル、洋楽)を聞き、プレイするようになってきてました、ヤマハポピュラーミュージックスクールでドラムも習い始めました。バンドもどんどん上達していき、全員でプロになることを夢見てました。自信もついてきて僕は「あっくん」に会いに千葉に行きました。彼は歌を続けていて洋楽にハマッテました、僕もそこから洋楽に興味を持ち始めました。
高3になりいよいよ進路!東京で音楽やる……なんて親が納得するわけがない、説得にもう何回費やしたかわかりません、親を安心させたいので専門学校にしようと思ってました。いわゆる僕らがやっていたのはコピーバンドで、どれだけ確実にそのドラマーと同じに叩けるかがポイントでした。そんなある時、ライブ中ある曲を演奏していたら、その瞬間ハッ!として、閃いてとでも言うのでしょうかコピーとは違うドラミングで叩きました、4小節もない位短かかったと思いますが、その感覚があまりにも自分にとって気持ちいいもので、もっと自由に叩けないだろうか?と考えだすようになりました。Jazzへの入口だったと思います。
「メーザーハウス」に行こうと決めました。両親を説得するのは大変でしたが、納得してくれました。横須賀に住んでいるから東京なんて近いと思われそうですが、僕にとっては大問題!緊張しましたねー(+_+)
「メーザーハウス」では先生を自分で選択するシステムになっていて、マーティーブレイシーかそして日野元彦かの2人から選ばなければいけませんでした。…恐れ多くも日野さんの事は名前はもちろん知っていましたが、Jazzも知らなかったし、ヤマハのスクールの先生も「めちゃめちゃ恐いらしいよ」と言ってて、少しビビってしまいマーティで願書を郵送しました。
高校も仲間がたくさん出来ていました。文化祭などいくつバンドを掛け持ちしたかわかりません。楽しかったです、音楽をやって本当に良かったと感じてました。進路が決まり僕は「ぬまけん」からライブに誘われました、喜んで引き受けました、もちろん目標が叶って感動しましたよ!
いやぁ本当にこのころのことを思い出すと、まさかJazzをやるなんて想像も出来ませんでした。
「メーザーハウス」から連絡が入りました、「君の書類の一部が届いてないんです、一回学校に来てテストを受けて頂けませんか?」いわゆる学科試験を受けなければいけませんでした。横須賀から池尻まで向かいテストを受けました。事務の方が「君はドラムの講師は誰にするの?」…そうです、届いてなかったのです。僕はあらためて聞きました、「日野さんとマーティどっちがいいですかね?」事務のかたは「日野さんに決まってるだろ」…肩の荷がおりて日野元彦に決めました。ちなみにマーティが「もんた&ブラザーズ」に入ってたのは知ってたよp(^^)qこの書類が届いてたら僕はマーティを選択してた訳ですから、何か運命を感じてしまいますね(^^)。気分良かったですよなんせ10月に進路が決まったからね!みんなこれから受験で大変だなーと思ってました。そして仲間(マーボー、コケ、なお)にも一緒に東京に出てほしかったのですが、気持ちだけではやはりどうにもならない事があるなと感じます。タイミングにみんなは乗れなかった……、この4人で成功したいと考えてたのでショックでした。とにかく高校生活最後の「ぬまけん」とのライブを終えて、僕は卒業しました。
孤独を愛し、ぼーっとしてて無気力、そんな子供だったように思います。
小学校3年生までスポーツもせず、悲しいことにあまり思い出もないかなー?
よく女の子にからかわれてました、オカッパ頭で鼻炎持ち、よく「まことちゃん」←(って漫画知ってる?)と言われてました、でもあの漫画は僕によく似てた!いまでも「コボちゃん」と言われるし、オレって漫画キャラ?!
「あっくん」とゆう親友がいました、僕はとにかく彼と一緒に行動を共にしてました。あっくんはいわゆる「がき大将」で、とても華がありみんなの人気者でした。よく2人で悪さをしてたなー(^^ゞ そんな毎日共に行動してた「あっくん」が小学4年生の頃に千葉に転校してしまいました。そりゃーあなた悲しいなんてもんじゃぁないでー!僕はふさぎ込んで長い間立ち直れませんでした。
話は少し変わって習い事、僕は書道、そろばん、英語、ピアノ、とたくさんの習い事をさせてもらいました。しかし「無気力」だった僕はすべて適当にこなしてました、特にピアノと英語は真剣にやればよかったなーと後悔してます(:_;)
そんな親友に転校され、無気力な独りっ子の私が小4の夏に祭太鼓に出会います。
町内会の祭で太鼓を見て、僕はくぎづけになりました。もちろん人生初の興奮でした、もうずっと引っ付いてすぐ叩かせてもらいました。とにかく好きでしたね!そしてなんだかこれだけは誰にも負けないって自信もありました。
昼は山車に乗って叩き夜は盆踊りの太鼓叩きで一年に3日間しかないのですがそれだけが楽しみで自分の部屋の柱にティッシュやガムテープを貼付けて練習してました。今にして思うと即興とゆう点でJazzに似ていたナーと思います、特に難しかったのが「炭鉱節」4拍子ではあてはまらなくて、苦労したのを覚えてます。
中学三年までやることになったのちドラムを始めるのですが、それはまたのちほど・・・
あまり定かではないのですが、小学校低学年の頃ソフトボールチームにはいりました。これがまた下手くそで始めての試合でライトフライをキャッチ出来ずに、コーチとキャッチボールしたらこれも取れず顔面に当たってしまい即やめました。(-.-;)次に4年生頃バスケをやり始めました、楽しかったのですがサッカーに興味が移ってしまいすぐにやめてしまいましたねー。
サッカーははまりましたねー朝早く起きて練習するぐらいでした、クラスのキャプテンになりましたけどまあ上には上がいる、結局小学校までしか続かなかったです。
僕の親父がマラソンが好きでよく僕も付き合って大会に出場しました、ある大会で偶然にもゼッケン「1」をもらった事があってあの時はみんなに声援をもらってうれしかったなー、順位は聞かないでください(´~`;)
運動会ではアンカーも務めたこともありますが、その中で一番遅いとゆう目立つようで目立たないキャラでした。
僕の親父は刑事でした、力武家はいわゆる一本気で真面目な家庭で、(驚いた?) 当然芸術とは縁がなく僕が中学の時求めるまでカセットデッキすらない家庭でした、音楽は親父が風呂場で唄う演歌と「ベストテン」位しか触れれませんでした、マッチの大ファンでしたよ(^O^)「ギンギラギン~」とか歌いまくってた記憶は強いね~!
中学に入って僕はテニス部に入部しました。3年間頑張ったんだよ―!県大会にも出場したし(^^ゞ顧問の先生が怖くて何度も殴られました。スポーツは大好きでしたね、ジャンプが自信あって、ハードルは学年一位だったんだよ!(←よく自慢します)中学1、2年は部活に夢中でした、勉強は本当に駄目でした、大嫌いで塾の先生に「おまえ、進学どころか就職も出来ないぞ!」と本気で怒られてました。自分は「何」になりたいかなんて考えたこともありませんでした。
「ぬまけん」とはゆう男がいました、彼は小さい頃からギターをやっていて身近な「音楽をやっている人」でした。中学3年になり部活も夏で終わりになり、そして夏祭りの太鼓も自治会の決まりで中学までと決まってました。夏が終われば受験勉強(-.-;)とにかく嫌で夏が終わって欲しくなかったです。太鼓の先輩で高校からドラムを始めた人の話は聞いていて存在は知っていていいなーとは思ってました。
夏も終わり体育祭のシーズンになりました。僕は応援団に入り、もちろん(?)ドラム缶を担当しました。応援団長は「ぬまけん」でした。我らの組は応援賞を獲得!うれしかったです(^-^)体育祭も終了し、とある日「ぬまけん」と一緒に帰っていました。何を話していたか詳しくは覚えてないのですが、「なーまこ、ドラムやる気ないの?祭太鼓やってるの見てて、前から誘いたかったんだけど」てな感じで誘われました。「いやーオレなんて…」って感じで断りました。「ぬまけん」と別れてしばらくして決心しました。「ドラムやるぞー!!」
「ドラムをやる!」と決めてからとゆうもの、その瞬間から僕の人生は忙しくなりました。ドラムを始めるにはたくさんの障害があったのです。1、まず高校に受験で合格しなければならない。2両親を説得しなければならない(不良だと思われてるから)3ドラムの事を何も知らない(足を使うなんて知りませんでした(-.-;))4、BAND??音楽、合奏をよく知らない。など様々ありました。
まずスティックを買いました、両親にばれないように机の引きだしに隠してました。どの高校に進むか?自分のレベルの範囲内の高校のパンフレットをチェックして、ドラムの写真が掲載されているとゆうだけの理由で受験校を決定。とにかく勉強!!…とある日机に隠していたスティックが見つかり僕は案の定反対されました、この日を最初とし僕はたくさん親父と言い争いをしました、親父は僕にも公務員になって欲しかったからね…、しかし僕は沢山反対されたから逆にハングリーになれたと思ってます。すごく両親には感謝してます。僕は高校に合格したらドラムをやってもいいとゆう約束を取り付けました(^O^)/そしてなんとか合格することが出来ました。
年賀状だったかな?受験、中3の時「あっくん」から手紙が、「まこ元気か?オレ今バンドで歌ってるんだぜ、ぬまけんとも一緒にやったんだぜ」との手紙。………なにー!!!あっくんがバンドをやっていたとゆう事実と、なぜ転校したあっくんがぬまけんと一緒にやってるんだ?パニックになりました。どうやら前に千葉に遊びにいったぬまけんがあっくんの家で「ブルーハーツ」で遊んだそうな、それにひきかえ自分はブルーハーツもBOOWYどころかビートルズもツェッペリンもましてやJazzなんてなにひとつ知らなく、ドラムも叩いたことがない(:_;)出遅れた感がありましたねー。あっくんとぬまけんに追い付きたかったです。
高校に入学してお祝いでドラムセット(通販の)をプレゼントしてもらいました。そこに新聞やらタオルやらガムテープで防音して練習してました、たまらなかったですね。しかし現実問題一緒にやる人がいないと…祭太鼓のようにはいかないのです。
中学からつるんでいた仲間がいました。「ただし」「なお」「コケ」「のぼるさん」「あつし」「きんむ」などなどみんなとても個性的な男達でした。「ただし」と「なお」「コケ 」と僕でバンドを、BOOWYをやろう!とゆう事になりました。「よし、まずノーニューヨークを覚えるベーよ」と「ただし」の家にみんな楽器を持って行き初の合奏!カウントを出してみんながひとつになった喜びは(#^.^#)!同じ曲を何十回やったことか!あの日の喜びは一生忘れません。
いまでも僕はバンドの一体感が大好きです、とゆうか僕の音楽の基本になっています。レパートリも何曲か増えてライブも2回ほどやりました、しかし色々な問題が浮上してきます。ライブをやった事で一段落着いてしまって練習をしなくなり、仲間もバイクや夜遊びに夢中になっていき、僕は厳しい両親や高校生活からの不満でやさぐれていきました
学校はサボり、友達の所に行ってはボヘーっとしてました。バンドも「ただし」が抜けて活動も出来なくなりました。夢も希望もないとゆうのはこの事だとゆう自分の内面でした。
高校では部活には入りませんでした。新しい友達を作る気持ちになれずそれどころか敵を作ってしまってました。今の僕を知ってるみなさまは驚くと思いますが本当にあの時は笑顔ひとつなく目付きが悪い情けない男でした、学校も両親も嫌いで家出してコックにでもなろうと思ってました。夏休みだったと思います、中学の仲間の何人かが高校を中退しました、僕は僕で親父と大喧嘩して家を飛び出して仲間の所に行きました。自分自身、大変ショックを受けてもうなにもかもよくなって家出、中退を決断しました。
しかし僕は仲間全員から「まこ!それはやめろ!まこには真面目に生きて欲しい」と説得させられました。この日にみんなに説得されなければ……感謝してます、夏休みが終わるころには頑張ろう、やり直そうと決心しました。
それからとゆうもの、とにかくドラムの日々が始まりました、「マーボー」がバンドに参加が決まりライブを目標に猛練習でした、そのころ「ぬまけん」は違う高校でしたが横須賀で一番有名なボーカルになってました、高校の中でも僕がドラムをやっているのが少しずつ分かられてきました。本当に勉強そっちのけでドラム、音楽づけの日々でした、誰にも負けたくなかったです、ある意味キチガイだね(ノ゜O゜)ノ
高2はバイトやドラムに明け暮れてました、この頃にはプロになりたいと考えだしてました。始めた頃は音楽の事をよくわからなかったのですが、いろんな音楽(ビートロック、パンク、メタル、洋楽)を聞き、プレイするようになってきてました、ヤマハポピュラーミュージックスクールでドラムも習い始めました。バンドもどんどん上達していき、全員でプロになることを夢見てました。自信もついてきて僕は「あっくん」に会いに千葉に行きました。彼は歌を続けていて洋楽にハマッテました、僕もそこから洋楽に興味を持ち始めました。
高3になりいよいよ進路!東京で音楽やる……なんて親が納得するわけがない、説得にもう何回費やしたかわかりません、親を安心させたいので専門学校にしようと思ってました。いわゆる僕らがやっていたのはコピーバンドで、どれだけ確実にそのドラマーと同じに叩けるかがポイントでした。そんなある時、ライブ中ある曲を演奏していたら、その瞬間ハッ!として、閃いてとでも言うのでしょうかコピーとは違うドラミングで叩きました、4小節もない位短かかったと思いますが、その感覚があまりにも自分にとって気持ちいいもので、もっと自由に叩けないだろうか?と考えだすようになりました。Jazzへの入口だったと思います。
「メーザーハウス」に行こうと決めました。両親を説得するのは大変でしたが、納得してくれました。横須賀に住んでいるから東京なんて近いと思われそうですが、僕にとっては大問題!緊張しましたねー(+_+)
「メーザーハウス」では先生を自分で選択するシステムになっていて、マーティーブレイシーかそして日野元彦かの2人から選ばなければいけませんでした。…恐れ多くも日野さんの事は名前はもちろん知っていましたが、Jazzも知らなかったし、ヤマハのスクールの先生も「めちゃめちゃ恐いらしいよ」と言ってて、少しビビってしまいマーティで願書を郵送しました。
高校も仲間がたくさん出来ていました。文化祭などいくつバンドを掛け持ちしたかわかりません。楽しかったです、音楽をやって本当に良かったと感じてました。進路が決まり僕は「ぬまけん」からライブに誘われました、喜んで引き受けました、もちろん目標が叶って感動しましたよ!
いやぁ本当にこのころのことを思い出すと、まさかJazzをやるなんて想像も出来ませんでした。
「メーザーハウス」から連絡が入りました、「君の書類の一部が届いてないんです、一回学校に来てテストを受けて頂けませんか?」いわゆる学科試験を受けなければいけませんでした。横須賀から池尻まで向かいテストを受けました。事務の方が「君はドラムの講師は誰にするの?」…そうです、届いてなかったのです。僕はあらためて聞きました、「日野さんとマーティどっちがいいですかね?」事務のかたは「日野さんに決まってるだろ」…肩の荷がおりて日野元彦に決めました。ちなみにマーティが「もんた&ブラザーズ」に入ってたのは知ってたよp(^^)qこの書類が届いてたら僕はマーティを選択してた訳ですから、何か運命を感じてしまいますね(^^)。気分良かったですよなんせ10月に進路が決まったからね!みんなこれから受験で大変だなーと思ってました。そして仲間(マーボー、コケ、なお)にも一緒に東京に出てほしかったのですが、気持ちだけではやはりどうにもならない事があるなと感じます。タイミングにみんなは乗れなかった……、この4人で成功したいと考えてたのでショックでした。とにかく高校生活最後の「ぬまけん」とのライブを終えて、僕は卒業しました。