りっきーDiary

ジャズドラマー力武誠の日記

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

幼少~高校時代

2005-01-05 | 自己紹介
僕は独りっ子です。
孤独を愛し、ぼーっとしてて無気力、そんな子供だったように思います。
小学校3年生までスポーツもせず、悲しいことにあまり思い出もないかなー?
よく女の子にからかわれてました、オカッパ頭で鼻炎持ち、よく「まことちゃん」←(って漫画知ってる?)と言われてました、でもあの漫画は僕によく似てた!いまでも「コボちゃん」と言われるし、オレって漫画キャラ?!



「あっくん」とゆう親友がいました、僕はとにかく彼と一緒に行動を共にしてました。あっくんはいわゆる「がき大将」で、とても華がありみんなの人気者でした。よく2人で悪さをしてたなー(^^ゞ そんな毎日共に行動してた「あっくん」が小学4年生の頃に千葉に転校してしまいました。そりゃーあなた悲しいなんてもんじゃぁないでー!僕はふさぎ込んで長い間立ち直れませんでした。
話は少し変わって習い事、僕は書道、そろばん、英語、ピアノ、とたくさんの習い事をさせてもらいました。しかし「無気力」だった僕はすべて適当にこなしてました、特にピアノと英語は真剣にやればよかったなーと後悔してます(:_;)
そんな親友に転校され、無気力な独りっ子の私が小4の夏に祭太鼓に出会います。



町内会の祭で太鼓を見て、僕はくぎづけになりました。もちろん人生初の興奮でした、もうずっと引っ付いてすぐ叩かせてもらいました。とにかく好きでしたね!そしてなんだかこれだけは誰にも負けないって自信もありました。
昼は山車に乗って叩き夜は盆踊りの太鼓叩きで一年に3日間しかないのですがそれだけが楽しみで自分の部屋の柱にティッシュやガムテープを貼付けて練習してました。今にして思うと即興とゆう点でJazzに似ていたナーと思います、特に難しかったのが「炭鉱節」4拍子ではあてはまらなくて、苦労したのを覚えてます。
中学三年までやることになったのちドラムを始めるのですが、それはまたのちほど・・・



あまり定かではないのですが、小学校低学年の頃ソフトボールチームにはいりました。これがまた下手くそで始めての試合でライトフライをキャッチ出来ずに、コーチとキャッチボールしたらこれも取れず顔面に当たってしまい即やめました。(-.-;)次に4年生頃バスケをやり始めました、楽しかったのですがサッカーに興味が移ってしまいすぐにやめてしまいましたねー。
サッカーははまりましたねー朝早く起きて練習するぐらいでした、クラスのキャプテンになりましたけどまあ上には上がいる、結局小学校までしか続かなかったです。
僕の親父がマラソンが好きでよく僕も付き合って大会に出場しました、ある大会で偶然にもゼッケン「1」をもらった事があってあの時はみんなに声援をもらってうれしかったなー、順位は聞かないでください(´~`;)
運動会ではアンカーも務めたこともありますが、その中で一番遅いとゆう目立つようで目立たないキャラでした。



僕の親父は刑事でした、力武家はいわゆる一本気で真面目な家庭で、(驚いた?) 当然芸術とは縁がなく僕が中学の時求めるまでカセットデッキすらない家庭でした、音楽は親父が風呂場で唄う演歌と「ベストテン」位しか触れれませんでした、マッチの大ファンでしたよ(^O^)「ギンギラギン~」とか歌いまくってた記憶は強いね~!
中学に入って僕はテニス部に入部しました。3年間頑張ったんだよ―!県大会にも出場したし(^^ゞ顧問の先生が怖くて何度も殴られました。スポーツは大好きでしたね、ジャンプが自信あって、ハードルは学年一位だったんだよ!(←よく自慢します)中学1、2年は部活に夢中でした、勉強は本当に駄目でした、大嫌いで塾の先生に「おまえ、進学どころか就職も出来ないぞ!」と本気で怒られてました。自分は「何」になりたいかなんて考えたこともありませんでした。



「ぬまけん」とはゆう男がいました、彼は小さい頃からギターをやっていて身近な「音楽をやっている人」でした。中学3年になり部活も夏で終わりになり、そして夏祭りの太鼓も自治会の決まりで中学までと決まってました。夏が終われば受験勉強(-.-;)とにかく嫌で夏が終わって欲しくなかったです。太鼓の先輩で高校からドラムを始めた人の話は聞いていて存在は知っていていいなーとは思ってました。
夏も終わり体育祭のシーズンになりました。僕は応援団に入り、もちろん(?)ドラム缶を担当しました。応援団長は「ぬまけん」でした。我らの組は応援賞を獲得!うれしかったです(^-^)体育祭も終了し、とある日「ぬまけん」と一緒に帰っていました。何を話していたか詳しくは覚えてないのですが、「なーまこ、ドラムやる気ないの?祭太鼓やってるの見てて、前から誘いたかったんだけど」てな感じで誘われました。「いやーオレなんて…」って感じで断りました。「ぬまけん」と別れてしばらくして決心しました。「ドラムやるぞー!!」



「ドラムをやる!」と決めてからとゆうもの、その瞬間から僕の人生は忙しくなりました。ドラムを始めるにはたくさんの障害があったのです。1、まず高校に受験で合格しなければならない。2両親を説得しなければならない(不良だと思われてるから)3ドラムの事を何も知らない(足を使うなんて知りませんでした(-.-;))4、BAND??音楽、合奏をよく知らない。など様々ありました。
まずスティックを買いました、両親にばれないように机の引きだしに隠してました。どの高校に進むか?自分のレベルの範囲内の高校のパンフレットをチェックして、ドラムの写真が掲載されているとゆうだけの理由で受験校を決定。とにかく勉強!!…とある日机に隠していたスティックが見つかり僕は案の定反対されました、この日を最初とし僕はたくさん親父と言い争いをしました、親父は僕にも公務員になって欲しかったからね…、しかし僕は沢山反対されたから逆にハングリーになれたと思ってます。すごく両親には感謝してます。僕は高校に合格したらドラムをやってもいいとゆう約束を取り付けました(^O^)/そしてなんとか合格することが出来ました。



年賀状だったかな?受験、中3の時「あっくん」から手紙が、「まこ元気か?オレ今バンドで歌ってるんだぜ、ぬまけんとも一緒にやったんだぜ」との手紙。………なにー!!!あっくんがバンドをやっていたとゆう事実と、なぜ転校したあっくんがぬまけんと一緒にやってるんだ?パニックになりました。どうやら前に千葉に遊びにいったぬまけんがあっくんの家で「ブルーハーツ」で遊んだそうな、それにひきかえ自分はブルーハーツもBOOWYどころかビートルズもツェッペリンもましてやJazzなんてなにひとつ知らなく、ドラムも叩いたことがない(:_;)出遅れた感がありましたねー。あっくんとぬまけんに追い付きたかったです。
高校に入学してお祝いでドラムセット(通販の)をプレゼントしてもらいました。そこに新聞やらタオルやらガムテープで防音して練習してました、たまらなかったですね。しかし現実問題一緒にやる人がいないと…祭太鼓のようにはいかないのです。



中学からつるんでいた仲間がいました。「ただし」「なお」「コケ」「のぼるさん」「あつし」「きんむ」などなどみんなとても個性的な男達でした。「ただし」と「なお」「コケ 」と僕でバンドを、BOOWYをやろう!とゆう事になりました。「よし、まずノーニューヨークを覚えるベーよ」と「ただし」の家にみんな楽器を持って行き初の合奏!カウントを出してみんながひとつになった喜びは(#^.^#)!同じ曲を何十回やったことか!あの日の喜びは一生忘れません。
いまでも僕はバンドの一体感が大好きです、とゆうか僕の音楽の基本になっています。レパートリも何曲か増えてライブも2回ほどやりました、しかし色々な問題が浮上してきます。ライブをやった事で一段落着いてしまって練習をしなくなり、仲間もバイクや夜遊びに夢中になっていき、僕は厳しい両親や高校生活からの不満でやさぐれていきました
学校はサボり、友達の所に行ってはボヘーっとしてました。バンドも「ただし」が抜けて活動も出来なくなりました。夢も希望もないとゆうのはこの事だとゆう自分の内面でした。



高校では部活には入りませんでした。新しい友達を作る気持ちになれずそれどころか敵を作ってしまってました。今の僕を知ってるみなさまは驚くと思いますが本当にあの時は笑顔ひとつなく目付きが悪い情けない男でした、学校も両親も嫌いで家出してコックにでもなろうと思ってました。夏休みだったと思います、中学の仲間の何人かが高校を中退しました、僕は僕で親父と大喧嘩して家を飛び出して仲間の所に行きました。自分自身、大変ショックを受けてもうなにもかもよくなって家出、中退を決断しました。
しかし僕は仲間全員から「まこ!それはやめろ!まこには真面目に生きて欲しい」と説得させられました。この日にみんなに説得されなければ……感謝してます、夏休みが終わるころには頑張ろう、やり直そうと決心しました。
それからとゆうもの、とにかくドラムの日々が始まりました、「マーボー」がバンドに参加が決まりライブを目標に猛練習でした、そのころ「ぬまけん」は違う高校でしたが横須賀で一番有名なボーカルになってました、高校の中でも僕がドラムをやっているのが少しずつ分かられてきました。本当に勉強そっちのけでドラム、音楽づけの日々でした、誰にも負けたくなかったです、ある意味キチガイだね(ノ゜O゜)ノ



高2はバイトやドラムに明け暮れてました、この頃にはプロになりたいと考えだしてました。始めた頃は音楽の事をよくわからなかったのですが、いろんな音楽(ビートロック、パンク、メタル、洋楽)を聞き、プレイするようになってきてました、ヤマハポピュラーミュージックスクールでドラムも習い始めました。バンドもどんどん上達していき、全員でプロになることを夢見てました。自信もついてきて僕は「あっくん」に会いに千葉に行きました。彼は歌を続けていて洋楽にハマッテました、僕もそこから洋楽に興味を持ち始めました。
高3になりいよいよ進路!東京で音楽やる……なんて親が納得するわけがない、説得にもう何回費やしたかわかりません、親を安心させたいので専門学校にしようと思ってました。いわゆる僕らがやっていたのはコピーバンドで、どれだけ確実にそのドラマーと同じに叩けるかがポイントでした。そんなある時、ライブ中ある曲を演奏していたら、その瞬間ハッ!として、閃いてとでも言うのでしょうかコピーとは違うドラミングで叩きました、4小節もない位短かかったと思いますが、その感覚があまりにも自分にとって気持ちいいもので、もっと自由に叩けないだろうか?と考えだすようになりました。Jazzへの入口だったと思います。



「メーザーハウス」に行こうと決めました。両親を説得するのは大変でしたが、納得してくれました。横須賀に住んでいるから東京なんて近いと思われそうですが、僕にとっては大問題!緊張しましたねー(+_+)
「メーザーハウス」では先生を自分で選択するシステムになっていて、マーティーブレイシーかそして日野元彦かの2人から選ばなければいけませんでした。…恐れ多くも日野さんの事は名前はもちろん知っていましたが、Jazzも知らなかったし、ヤマハのスクールの先生も「めちゃめちゃ恐いらしいよ」と言ってて、少しビビってしまいマーティで願書を郵送しました。
高校も仲間がたくさん出来ていました。文化祭などいくつバンドを掛け持ちしたかわかりません。楽しかったです、音楽をやって本当に良かったと感じてました。進路が決まり僕は「ぬまけん」からライブに誘われました、喜んで引き受けました、もちろん目標が叶って感動しましたよ!
いやぁ本当にこのころのことを思い出すと、まさかJazzをやるなんて想像も出来ませんでした。
「メーザーハウス」から連絡が入りました、「君の書類の一部が届いてないんです、一回学校に来てテストを受けて頂けませんか?」いわゆる学科試験を受けなければいけませんでした。横須賀から池尻まで向かいテストを受けました。事務の方が「君はドラムの講師は誰にするの?」…そうです、届いてなかったのです。僕はあらためて聞きました、「日野さんとマーティどっちがいいですかね?」事務のかたは「日野さんに決まってるだろ」…肩の荷がおりて日野元彦に決めました。ちなみにマーティが「もんた&ブラザーズ」に入ってたのは知ってたよp(^^)qこの書類が届いてたら僕はマーティを選択してた訳ですから、何か運命を感じてしまいますね(^^)。気分良かったですよなんせ10月に進路が決まったからね!みんなこれから受験で大変だなーと思ってました。そして仲間(マーボー、コケ、なお)にも一緒に東京に出てほしかったのですが、気持ちだけではやはりどうにもならない事があるなと感じます。タイミングにみんなは乗れなかった……、この4人で成功したいと考えてたのでショックでした。とにかく高校生活最後の「ぬまけん」とのライブを終えて、僕は卒業しました。



この記事をはてなブックマークに追加

メーザーハウス時代

2005-01-05 | 自己紹介
卒業してすぐに引越しをしました。僕はメーザーハウスの寮に住むことになりました、四畳半の部屋で朝夜食付でした。荷物を運んで部屋へ…配置も決めて初の自分だけの城!ワクワクしましたね、さすがに。一旦また横須賀に戻り3月いっぱいまで実家に住んでました、もう遊んでましたね、あとやはり初めて両親と離れてこれから暮らすのでお袋が淋しがって…独りっ子だしね、なんか期待と不安で本当にドキドキしてた記憶があります。
そして4月、一人暮しが始まりました…といっても寮なのでたくさんの仲間がいるわけです。同期と先輩で約25名ほどいましたねー「寮長」とゆう存在もいたんですよー!! 楽しかったなー(#^.^#)。学校はべつに入学式があるわけでもなく直接授業から始まりました。初日の授業は音楽理論だったと思います。そしていよいよ明日は日野さんの授業だ!!



僕はフロアのソファーに座って待ってました、エレベーターから「はい、教室入ってー」と日野さん登場!うわー本物だ!(ノ><)ノ存在感がありましたね、付き人の方も一緒に来られていてそりゃもう緊張したよー!しかも先ず「どうせ下手なのは分かっているけど一人ずつなんか叩いてごらん」…参りましたね(T_T)ベストはつくしましたが…
最後には日野さんが叩いて…全員撃沈。始まった感じがしましたね。メーザーには日野さんが教えるいわゆる応用の「ドラム1」と基礎をみっちりやる「ドラム2」がありこの授業は小山太郎さんが教えてました、(マーティは「ドラム1」の先生でした)。それに理論とピアノとアンサンブル の授業で成り立っていました。
さて、寮での生活ですが僕の向かいの部屋に住んでいる男と最初に友達になりました。「大森輝作」くんです、彼はベーシストでプロでやってますよ、知ってますか?寮にはいろんな個性の人がいて楽しかったなーなんか毎日が修学旅行のように騒いでました、さすが18歳!(…若い(:_;))



今でもよく感じますが、明確な目標、夢、イメージがないとやる気はあっても何をするべきかわからなくなると思います。あの当時の僕は横須賀の仲間と成功したいとゆう目標が薄れていき、じゃあ自分は何が一番大好きか?何がしたいか?がわかりませんでした。
当時はバンド的にはミクスチャーロックが流行ってて、あとフュージョン、プログレなど、Jazzの世界もフュージョンチックだったように思われます。色々なは情報がやはり東京にいるとダイレクトにたくさん伝わってきますのでますます何がやりたいのかわからなくなっていきました。そして遊び仲間がたくさんいる寮生活、渋谷に近い環境、沢山のヒマ(?)な時間、遊んでばっかりいましたねー(-.-;)まずいなーと思ってました。バイトにも明け暮れてました。秋頃になるとついに焦りが出てきました、「オレは何をやっているんだろう?」
そんなある日、バイトで大失敗して怒られて、好きな子にはこっぴどく振られ、ヘコみ倒してました。そして日野さんの授業の時「なんでもいいから質問してみろ」と言われて「自分は何をしていいかわからないんです」と言いました。怒られると思ったんですが「現代病だな、情報がありすぎて何をしていいのかわからない。オレにはこれしかない!ってものがないんだよおまえは、可哀相なやつだなー」と哀れまれてしまいました。ドン底に落とされましたねー



ここまで気持ち良く落ちると開き直れて、とにかく前進!寮にいるとダラケてしまうので、なるべく昼から外にでて学校に行ったりスタジオを借りて練習したりしてました、努力とゆうものはやるまでが大変でやりだすといくらやっても足りないものですね。
バンドは組む事はありましたが、本気にはなれませんでした。日野さんの授業に夢中になっていき、とにかく習った事を吸収することに全精力を注ぎました。後半になるころには10名以上いた1年目の生徒も僕一人になってしまいました、すごく厳しかったから無理もない…、僕は突然2年目のクラスに入れられました。これがまたすごく個性的な先輩がたくさんいて刺激的でしたねー!日野さんの授業は最初に基礎を習ったら後は質問や思いつきで進行していきます。時には今日は根性を鍛えると言ってひたすら速いテンポのテクニック練習したり、かと思えば人生談議だけの時があったりと深く、毎回ハラハラしてました。
アンサンブル(合奏)の授業も楽しくてレベルも上がっていきました。そんなある日、日野さんが「おまえ先生の間で評判いいぞ、頑張れよ」と言ってもらえました。めちゃめちゃうれしかったなー!



私生活(?)で言えば、僕はQueenやレッドツェッペリンにはまってました。あとキングクリムゾンなど…そのレッドツェッペリンのドラマーのジョン・ボーナムのドラミングが大好きになりました、学校も2年目になり、一層頑張っていくと同時に自分の進む方向を決めなければ、と考えるようになってきました。
同じメーザーの仲間はほとんどバンドを組み都内のライブハウスに出演して、他にはスタジオミュ-ジシャンを目指したりとしてたように思います。ジャンルはその当時流行っているものや、フュージョン、が大半をしめてました(Jazzは判るけどBlackmusicも流行ってなかったなー??(>_<)??)話はジョン・ボーナムに戻りますが日野さんが当時新しいアルバムを作るとゆうことでレッドツェッペリンのカバーを何曲か入れるとゆう話を聞きました。僕はうれしくなって日野さんに「ジョン・ボーナムをどう思いますか?」と質問しました、「彼はジャズドラマーなんだよ、だからああゆうドラムが叩けるんだ」といいしかもトコさんは真似してジョン・ボーナムのように叩いてくれました。Jazz!!!…それから僕はジャズドラミングの練習を開始しました。



ジャズのドラミングは僕がいままでやってきた音楽とはまったく異なる表現方法でした。今まで左手と右足で「安定」を、右手と左足で「ニュアンス」を表現していたものが見事に逆になります。トコさんから聞いた話、偉大なアートブレイキー(dr)が昔来日した時、企画で8BEAT(ロック風)を録音する話があって見に行ったらしいのですが、何時間やっても出来なかったそうです。ビックリ(゜o゜)!!それだけ難しいものでした。
僕の母は昔から栄養の事に対してものすごく!こだわりがありました。添加物や着色されているものは一切僕に与えませんでした、いつも30品目以上のオカズがならび、コーラや当時たくさんあった100%じゃないフルーツジュースやお菓子などもまったくです。今にして思えばなんてすばらしい母なんだ!と感動しますが、当時は逆にその影響でジャンクフードを食べまくってました。酒も少しづつ覚えていきタバコは吸い、夜型になるなど身体に悪い事を好んでしてましたねー。ちなみに僕は賭け事はしません、パチンコは何回かやった事はありますが、好きじゃないですねー。寮の中では徹マンなどみんなやってたなーと思い出しました。


日野さんのレッスンには必ず付き人の方がお供していました。レッスン時もやはり日野さんは付き人の方をかわいがり、厳しく接してました。殴られるのも目の当たりにしていました。そりゃ見てて怖かったですよ!当然、ボーヤ(付き人)には絶対なりたくないと思ってました。
チック・コリアのアコースティックバンドのCDを買いました。初めて買ったJazzのCDでした、その中に入っている曲で「SOMEDAY MY PRINCE WILL COME」が大好きになりました。この曲が聞きたくていろんなバージョン(マイルスデイビス、ビルエバンス、ウイントンケリー)のCDを集めました。ここからはもう早いですね、どっぷり浸かっていきました。Jazzは僕が高校時代に感じていた「自由に叩く」とゆう事のほかに自己表現、高度なアンサンブルなどすべてを満たしていると確信しました。Jazzがやりたい! しかし一年二年で出来るものではないと感じてました。…悩みました。学校内にも音楽仲間(何人かスタジオ等で今でも活躍してます)はいて彼らといるのも楽しかったし、寮の仲間達とつるむのもありましたが、音楽を考えるとJazzに気持ちが完全に向かっていってしまってました。


ある日、トコさんが「うちの店(アルフィー)で従業員欲しいんだけど誰かやりたいやついないか?」僕はとっさに手を上げました。トコさんは「あぁ、おまえなら根性ありそうだしいいかもな…」といい話が終わってしまいました。それはともかく店で働く自分を想像しました、悪くない!しかし付き人をやったほうが絶対自分の為になるんじゃないか?でも恐いし…。でも一旦考えだすと止まらない、っていうか気持ちは決まってて誰かに肩を押してほしかったのかな?親友の「てる」に相談しました、気持ちは固まってきました。そんなころ学校関係から仕事の話が来ました、山口県下関でのお店のオープニングパーティーでした、そこにはクリスタルキングのムッシュさんもゲストで来るとゆう話でした。初仕事!!メーザーのバンドで下関(初飛行機!)へ行きました、この日の事はいまでも忘れません。本当にうれしかったです。そしてふっきれました、付き人になってJazzでプロを目指す覚悟が出来ました。20才になり秋口、トコさんの授業のあと待ち伏せしてトコさんに気持ちを伝えました。「ボーヤやっても食えないぞ、それでもいいのか?とにかく一旦アルフィーに遊びにこい」と言い最後に「自分、名前はなんてゆうんだ?」「力武です!」やっと名前を聞いてもらえてうれしかったです。


早速アルフィーにいきました。六本木もJazzClub初めてで凄く緊張しました。この日は小山太郎さんが出演してて、トコさんは途中で現れました。お世辞じゃなく、容子ママ(トコさんの奥さん)の綺麗さには驚きました。「あなたね、話は聞いてるわよ」とお酒をごちそうしてくれたのを覚えてます。当時トコさんの付き人はメインが井上功一さん(現日野皓正バンドのドラマー)でサブに大和田昌昇さんの2名で活動してました。そしてアルフィーの店長は大和田さんで河端崇介さんはアルフィー専属のスタッフとして働いてました。とりあえず人手は足りていました。僕は最初は「来るのなら飯くらいは食わせてやる」とゆう事で関わる事になりました。まだ比較的融通がきいたので年内のうちに準備しようと思い、寮をでて、トコさんの家の近くに越しました。…そういえば当時寮には電話機が自分の部屋にはなく各フロアに一つだけ置いてあり、引越して自分だけの電話(留守電機能付き!(^^))を手にいれた事が凄くうれしかった事を思い出しました。10年以上前だもんね、携帯なかったんだなー(@_@)
学校もアンサンブルなど授業が残ってたのですが、やめました。バンドを組んでたのもやめました。僕はひとまずアルフィーで皿洗いから始めました。

この記事をはてなブックマークに追加

ボーヤ時代前編

2005-01-05 | 自己紹介
年が明け1994年が始まり僕は成人式に出席し、より決意を固めました。ちなみに親は付き人をやることは了解したのですが「25才まで」が条件でした。
アルフィーにほぼ毎日顔を出してました。毎日Jazzの演奏が聞けて凄く勉強になりました。付き人の方は井上さんと大和田さんの2人で足りてたので僕は極まれに、ついていく事ができました。とにかく先輩たちはカミナリを落とされてました、しかしトコさんは僕には「力武!お前はこいつら以下とゆうか何とも思ってないんだぞ、いなくなったっていいんだ」と…オマケ扱いされてました。最近の若い奴は会話も出来ないからと言われ、アルフィーで人付き合いを学べと言われました。
とにかく皿洗いの日々でした、そんなある日お皿などを片付けに客席に向かってたらふと前方に日野皓正さんがいました。ギョエー!!よくアルフィーに来てミュージシャンを見に来てました。テレビでしか見たことなかったのでびっくりしました。しかし本当にアルフィーには沢山の芸能人や弁護士、医者、社長さんなどすばらしい人がたくさん訪れます。自分がどんだけいなかっぺで、なんにも判ってないんだと気付くにはそんなに時間が掛かりませんでした。


しかしあの時代は熱かった!毎晩ゴリゴリのとんでもない演奏が繰り広げられ、自分がドラマーだとゆう事を忘れてしまうほど熱中してました。そしてその中でもやはり圧巻はトコさん!!凄い!やっている事はなにひとつ理解出来てませんでしたが…よく大和田さんに突然「この曲のフォームは何だ?そして今どこを演奏してる?」と聞かれ、さっぱりわからなかったのを覚えています。確か6月頃だと思いますが、井上さんが付き人を卒業することが決まりました。いよいよ僕もサブボーヤ!しかし過酷が次々と襲ってきます。ボーヤの仕事とゆうのはマネージャーとゆうかADに似ていて、基本は楽器の管理、メンテナンス、そして毎回トコさんが叩き易いようにセッティングします。先ずこれを覚えるのが一苦労しかもトコさんも気分で変わるからまったく昨日と同じでも怒られる時があります(:_;)あとは運転、ですがやはり一番大変で苦労するのが気配り、場を的確に読んで先回り、イヤなことは全部引き受ける、礼儀、常識、仁義などですね。
はっきりいって僕はその手の事は大うすらぼけで育って来たので、そりゃもう怒鳴られ倒しました。ある日「お前はダメだ!もしまたヘマしたらクビにするぞ!」など一時間以上怒鳴られ、たまらず大泣きしてしまいました。

トコさんに付かない日はアルフィーで働いてました。休みは勿論ありませんね、練習どころではありませんでした。もっぱら僕はセッティングや都内のライブハウスの行き方、仕組みなどを覚えたり、あとカクテルの勉強もしました。その中で怒られて、そりゃストレスは溜まりますよ!3日に一度はやめたいと思ってました、(大袈裟か…)メーザーにいた時の仲間がよく遊びや合コンなど誘ってくれますが、行けるわけがない身分なので悲しかったけど、そのぶん「絶対ビックになってやる!」って思ったものです
トコさんは当時「ハイノス」とゆう事務所に所属してました。僕は空いている時は事務所に行き小間使いもしていました。井上さんが卒業し、「セイリングストーン」「イッツゼア」とアルバムを発表したトコさんは次の作品「ヒップボーン」の制作に掛かっていました。僕は大和田さんのうしろで必死にフォローしました、レコーディングが成功して僕も自分の事のように喜びました。僕は原付に乗ってアルフィーやボーヤをしていましたが、車がないと駄目だと思い、親に頼んで軽自動車を買ってもらいました。中古で2万円!のポンコツでしたがよく走りましたよ(^O^)


1995年になり相変わらず忙しい日々を送ってました。大和田さんと河端さんと僕の3人でトコさんとアルフィーを守ってました。とにかく忙しいのは大和田さんでした、僕がまだ半人前で店もボーヤも一人で任されてなかったので負担をかけてしまってました。店のほうも覚えることは山ほどあり、PAやカクテルやお金の計算、注文、イス、テーブルの配置、キープボトルの常連さんを覚える事など基本的に一人で出来るようにならなければいけませんでした。車を買ったとはいえ、ぶつけまくってたのでトコさんの車の運転はやらせてもらえませんでした。そうゆう条件付きでトコさんの都内の仕事はたまに任されるようになっていきました。しかし僕がボーヤの時はトコさんはお酒を飲めず、運転してもらってたので辛かったです。毎日の苛酷な中でやはり喜びは演奏が聞ける事でした、スタンダードもおかげでたくさん覚えれたし、ドラミングのイメージも少しずつ出来てきました。メーザーの仲間とJazzを練習したりはしてましたが下手くそだったなーf^_^; すべてが中途半端で肩身も狭く、本当に悔しかったです。そんな時「リキ!お前を旅に連れてくぞ」と、大試練が与えられました。



普段旅といえばメインボーヤの仕事で、やはり地方に出てなおかつコンサートホールとかの大仕事といえば、より一層の気配りや臨機応変さが問われます、しかも楽器は新幹線に乗っけて持って行くとゆうこれまた大変な作業もこなさなければいけません。しかしその分おいしい物が食べれるし呑めるし、全国に行ける訳ですからいい事もありますが、その当時はそれどころではない!(-.-;)…どうしよう。大和田さんも大心配、初旅が「Mt、FUJI Jazz festival」なのでした。日野皓正バンドでの出演でした。その旅に合わせてリハーサルが行われてました、その当時皓正さんは「SPARK」とゆうアルバムを発表してました。日野兄弟、佐藤達也、坂井紅介、日野賢二、鈴木宏昌、ドン・アライアス、横山達治、山北健一なる壮絶なメンバーでした。そのリハーサルで僕はヘマをしてしまい、みなさまに迷惑をかけてしまいました。ヘマと言ってもほんの小さな気配りなのですが、そうゆう小さな事が意外と大きく雰囲気を変えてしまうもの…、皓正さんの機嫌まで悪くさせてしまい、ど最悪!後でカミナリは当たり前、皓正さんの事務所のかたからも「リキー!頼むよー」と言われる始末、力武誠大ピンチ!!


トコさんをピックアップし、東京駅へ、ボーヤ2人でドラムセットを新幹線のホームに上げる(エスカレーターの上下につき、下から流すなど)トコさんが乗る号車から楽器を詰め込む。先ず端っこに寄せて、止まる駅の逆側の扉の方に毎回移動させる。目的地に着いたら迎えのスタッフの方と一緒に運ぶ(この際、重いものは自分が率先して持つ)素早く積み込み会場へ、(ミュージシャンはホテルへ)ドラムをセッティングし段取りの打ち合わせをする。メンバー到着、サウンドチェック。モニター(演奏者各自専用のスピーカ)、トコさんの真後ろの耳の近くまで自分も近付きバランスを作る。本番までの間はドラムを磨いたり食事(メンバーより遅く食べ、早く食べ終える)したりずっと楽屋に立ちトコさんの目の届く所にいる。本番はステージの袖にいて、何かあったら(いろんなトラブルがあります)すぐ飛び出せる体制を作っておく。演奏後は片付けて車に積み込み、楽器、私物など忘れ物がないかチェックして、ホテルへ楽器はフロントに預けてもらい、スネア、シンバルなどは自分が預かる。後はトコさんがいる打ち上げ場所に向かい、お供する。ホテルに戻り、トコさんの部屋で反省会。朝はトコさんにモーニングコール…など段取りを大和田さんに聞いてメモをとりました。(このメモは記念に今でも取っておいてます)ドキドキしながらいざ!


僕の初旅は気合いを入れたおかげか、トコさんが大目に見てくれたおかげか、何事もなく終わることが出来ました。正直やっと日野ファミリーに仲間入りが出来たんだ!と感動しました。この旅の後すぐに軽井沢の「ピーチク」さんが持っている別荘に日野ファミリーみんなで遊びにいきました。無事に事が済んだ後とゆう事もあり、凄く楽しかった記憶がありますねー(^O^)。ここまでの話だと、トコさんは鬼のような人物に思われるかもしれませんが、厳しいのは仕事の時だけで、普段はとてもひょうきんな天然キャラで、とてもやさしく愛が溢れているオシャレな最高のお父さんでした。僕もプロになった今こそ思いますが、お客さんの期待に必ず応え、最高にクリエイトで熱い演奏を毎回やると言うことは並大抵の事じゃないですよ!トコさんもよく「お前は名が売れてないから許されるけどオレはそうはいかないんだ」と言ってました。当時休みの時は基本的には家でゴロゴロしているんですけど、これといった趣味がない僕はよく映画を借りて観てました。僕は人の名前もそうですが観た映画の題名やひどい時には観たことすらすぐ忘れてしまう事がよくありf^_^;同じビデオを何度も借りたことがあります…悲しいよー気付いたときは(-.-;)


僕はカレーが大好きです。初めてした料理もカレーでした、最初は見事に失敗!計量スプーン(って名前だっけ?)がなく水の配分がわからなかったり、いろんな物を入れすぎたりと駄目でしたねー(>_<)当時は吉野家やマックやラーメンなど相変わらずジャンクフード中心の生活でした。
アルフィーの仕事も楽しくなってきて、(相変わらず怒られてはいましたが…)毎日違う音楽が聞けたし、カクテル作りも悪くなかったし、なによりたくさんの人と知り合いになれたのがうれしかったですね(^^)。今でもそうですがアルフィーは週末はSOULやFUNKなどのライブをブッキングしてます。盛り上がりますよー!僕もカウンターの中で踊ってました\^o^/「まんちゃん」や「コジマ」など常連さんと友達になったり、いろいろと楽しい人達が来てくれます。僕は常連さんからの紹介で一回「ホットドック」とゆう雑誌に載ったことがあるんですよ(^-^)占いのページでですけど、前世占いで僕は中世の宮殿のビオラ奏者だったそうです(@_@)
そんなアルフィーとボーヤの日々を送ってましたが、遂にトコさん、容子ママの計らいで仕事を一本頂きました!



上野尊子さん、大野雄二さん、片山勝義さんとゆうメンバーでした。場所は浅草の「マタドール」とゆう店でした。結果を言えば途中で井上さん、大和田さん、最後はトコさんが遊びに来ていて叩いていき、僕はろくに叩けずに終わりました。しかしやっと2年が経って僕はドラマーの道を改めて一からやり出すことが出来ました。僕に残された時間はあと3年(親との約束)!
当時のJazz界は「Jazz維新」とゆう事がどこからか起こっていました。今では有名な第一線を走っているアニキ達が次々と登場してきました。時は1996年となり大和田さんが今年で卒業と言われ、僕も気合いが入り、ハードな仕事の合間でもなるだけ練習、そして「オレはミュージシャンなんだ、ドラマーなんだ!」といつも自分に言い聞かせてました。そんな時、いろんなジャムセッションに足を運んでいた僕は高田馬場にある「イントロ」とゆうお店に出合います。今でもそうですが毎週土曜日は朝の5時までジャムセッションがやっていて、僕は毎週入り浸ることになります。これで僕は少なくとも週に一回はドラマーでいることが出来ました。本当に演奏に飢えてました。仕事のハードさよりも、ドラムを叩けないストレスのほうが強くなっていきました。


当時トコさんは日野皓正BANDや本田竹広さん、自己のユニットや秋吉敏子さんなどなど、相変わらず多方面からひっきりなしに呼ばれていました。その他にもお店主宰のセッションなるものがあり、若手とトコさんの共演の機会がありました。僕がメーザーに行っている時には新宿ピットインで「CLUB TOKO」とゆう若手とのコラボを精力的にトコさんは行ってきました。ある日、僕は大和田さんと「BODY&SOUL」にボーヤをしに行きました。今日トコさんと初共演される若手の方が僕らよりも先にいて練習してました。その人こそ川嶋哲郎さんです。さすがに緊張の固まりになっていたのを覚えています。しかしライブはすごかった!トコさんが帰りに「あいつ最高だったな!」と興奮してました。そしてトコさんの推薦で日野皓正グループに参加が決まりました。
他にも沢山のアニキ達が初々しくトコさんと共演していたのを覚えています。(^^ゞ
僕はとゆうと、昼早めにアルフィーに行き大和田さんと一緒に練習したり、丸子橋にセットを持って行き叩いたり、後は「イントロ」をはじめ、ヒマさえあれば合奏の機会を作ってました。後トコさんのアシスタントとしてメーザーに毎週お供し、教わりました。


当時僕は四畳半、トイレ共同、風呂なしの二万二千円のアパートに住んでました。しかしなんと駐車場代が二万五千円!なんでやねん!って感じでしょ?身体はコインシャワーで洗ってました。いろいろありましたが住めは都で楽しかったですよ。
この頃にはトコさんに運転も任されて、旅もたまには連れていってもらってました。いろんなバンドを見ましたが、とにかく皓正さんのバンドがものすごくて、僕も必死に吸収しようとしてました。そんな頃当時アルフィーでは「新人ミュージシャンDAY」とゆう若手をフューチャ-するライブを毎週日曜日に開催していて、土濃塚さんや、ドラムの江藤君、他にも沢山なプレイヤーがバンドを組んで出演してました。僕もリーダーで出演させて頂きました、西尾健一、堤智恵子、宮前幸弘、生沼邦夫とゆうメンバーでした。うちの両親やいとこも見に来てくれて、うれしはずかしだったのを覚えてます。時は経ち、いよいよ大和田さんの卒業が近付き、いよいよ僕がメインボーヤに!正直不安で死にそうになってました。トコさんも僕に妥協を許さなくなってきました。ひどい時には殴られるほどでした。でも僕だって負けない!絶対に男になってやる!と腹をくくりました。


1996年も終わり、大和田さんは卒業しました。アルフィーはしばらくフォローで残って頂くことになりましたがボーヤはサブもなく僕一人!厳しい毎日でしたが、「僕が今トコさんを一人で支えてるんだ」とゆう気持ちが自分を燃えあがらせました。どうせやるのなら誰にも負けたくないと思いました。しかし沢山怒られましたけどね…f^_^;。四国にトコさんと旅にいきました。ピアノの吉岡さんだったと思いますが、そこでKAOこと山田香織に出合います。店の方にドラマーなんだと紹介されていた彼女は最後にトコさんにステージに上げられて一曲叩きました。これがまたすごくよかった!トコさんも喜んで、「東京に出てこい!」とかおりちゃんを説得してました。ニカ月ほどで彼女は本当に来てボーヤ…じゃない、ガーヤ(?)として僕のサブになりました。
「イントロ」も相変わらず通ってました。いろんな人がきてましたよ。西尾健一、古地克成、江藤良人、石崎忍、佐藤ハチ、佐藤帆、後には野本晴美、清水絵理子、僕は入りませんでしたが「Jazz新鮮組(知ってる?)」関係の僕と同世代のプレイヤーが続々とイントロに集まってました。そこにプロの方々がやってきて、とにかく熱かった!楽しかったなー(^O^)


僕はよく怒られてはショゲテました。すると容子ママは「トコちゃんなんて若い頃はおまさんにさんざんやられてたのよ、でもちゃんと次の日にはケロっとして頑張ってたんだから!」トコさんにおまさんって誰ですか?と聞くと「正真正銘の天才」だと言ってました。…そう、鈴木勲さんです。まさか一緒に音楽が出来るとはその当時は夢にも思いませんでした。
ボーヤの日々は続き、朝早くから群馬の方へボーヤしにいき、夜はアルフィーで働き、夜中はイントロで朝までコース。寝不足、疲労、酒、煙草、ジャンクフードが遂にタタリ、ついに僕は膵臓炎にかかり倒れてしまいました。しかし2日後にはトコさんと一週間ほどの旅が控えてました。休みたいけど休めない…。医者の薬と親がくれたプロポリスで旅に行きました。この2つが利き事なく終えましたが、やっと食べ物の事を考えるようになりました。その他虫歯に苦しむなど散々でしたね(>_<)健康第一ですね。 オーストラリアにも連れて行ってもらいました。初海外でドキドキしていたのを覚えてます。カジノにトコさんと遊びに行き遊んだのは一生忘れません。あと外務省での食事ですね、フォークとナイフが何個もあってまったくマナーがわからなかったのを覚えています。


ライブもよくアルフィーで時々やらして頂きました。すぐトコさんに「見てられん!代われ!」と言われたものです。しかし自分の後に叩かれるとあからさまに何が違うのかが分かるので勉強になりました。かおりちゃんは僕より年上で苦労もちゃんとしてきたので仕事覚えも僕と比べたら何倍も早く、頼もしい存在でした。アルフィーの店長も河端さんになり、うまく回転させてました。Jazz界も大西順子さんや大坂&原バンド、五十嵐一生さん、松島啓之さん、山田穣さん、安カ川大樹さん、本田珠也さんなどめきめき頭角を現してきていた時期だったように思います。川嶋さんも日野バンドでご一緒してまして、僕がボーヤでトコさんに怒られてるときに川嶋さんは皓正さんに怒られてたりと、あの中では歳が近かったせいか仲良くさせてもらってました。日野皓正さんにはそれまでは僕は相手にされてない感がありました。(出来損ないですからねー(:_;))しかしツアーの間、バスの中で僕は座っていると、突然「力武!」と皓正さんが「なんでお前はこうゆう時間に練習しないんだ?そんなんじゃ絶対にプロにはなれないぞ、まぁオレには関係ないけどな」初めて面と向かって言われてびびりました。ガーンとしました。後からトコさんに「リキ!よかったな、兄貴が目をかけてくれたんだ。しっかりやれよ!」やる気が10倍出てきました。


僕は至る所で練習しました。すこしでも時間が空けば人の目線も場所もお構いなしでした。僕はこの時期にかけがえのないものを得れたと思ってます。努力、自分を大切にする事、人にやさしく愛を持つ事、そして音楽家として何をメッセージするか、どんな伝え方をするか、日野兄弟はそうゆう事を実際に行う偉大な人間でした。トコさんはよく、「感情を表に表現するのなら自分が思っている何十倍もの気持ちでやっと少し‘おっ’とさせられる、それだけの大胆さとそれだけの意見を持ってないと駄目だ」と言ってました。こうゆうすべてが僕の音楽の原点になってます。ある日、日野バンドのツアー後でした。皓正さんのマネージャーの田渕さんから僕に電話がありました。「日野さんが一緒に練習しようって言ってるよ」!!!死ぬほどびっくりしました。2人きりで?あの世界の日野さんと?!身体中の血液が運動会を始めたんじゃないかと言わんばかりに興奮しました。こんなチャンスは2度とないぞ!と思いました。そして当日、広いスタジオに2人きりで練習しました。ど緊張の僕をやさしくほぐしてくれて、僕の今の実力は全部出せたなと思えるくらい燃えました。本当に楽しかったです。後からトコさんが「リキ!兄貴が褒めてたぞよかったな!」…一生忘れられない思い出のひとつです。


旅と言えば本当に沢山の場所に連れていってもらいました、ボーヤとしていかなかった県は山形と鹿児島の2つのみでいろんな土地に触れることが出来て、僕自身すごく心が豊かになることが出来ました。特にこの厳しいボーヤの時期だったからからかもしれません、この当時から知り合いになれていまだに僕を応援してくれる方もいてくれてます。めちゃくちゃうれしいですよ(^^)
アルフィーの改装が決まりました。97年の夏だと思いましたが、正式にいつだったか覚えてません、ゴメンなさいm(__)m改装工事中もある程度落ち着いたら、「工事中ライブ」と称して営業してました。この時の忙しさときたら…思い出すのも恐ろしい(-.-;)それが今あるアルフィーの形です。カッコイイ店ですよ!遊びにキテネ(^O^)。膵臓を壊してからとゆうもの、めっきり赤ワインを好んで飲むようになり、(えっ?飲むな?(*_*))食べ物も多少気をつけるようになりました。当時僕は今の僕からは想像も出来ないほど痩せていてよく「ちゃんと食べてる?」と見ず知らずの方にまで聞かれるほどでした。今より15kgは痩せてました…つうか煙草やめてから体重が増え続けてます(:_;)誰か僕の体重を止めてくれー!!!!

この記事をはてなブックマークに追加

ボーヤ時代後編

2005-01-05 | 自己紹介
アルフィーの改装後、深夜もBARとして5時まで営業することになりました。おかげでいろんな人がアルフィーに来て沢山いい話が聞けたし、深夜専用のスタッフも入ってきて、より一層にぎやかになってうれしかったです(より寝不足になりましたが…(*_*))。僕も気付けば24才、1997年も終わり、98年!トコさんに言われました。「お前は今年いっぱいで卒業だ!」勿論うれしかったですよ、でも本当に卒業して自分はプロでやっていけるか不安でした。「今はオレのボーヤだからちやほやされるけど、抜けたら誰にも相手にされなくなるぞ」と言われました。これは脅しでもなんでもなく本当の事でした、実際当時はボーヤからちゃんとプロとして成功した人は僕の知ってる限りは存在してませんでした。名古屋にラブリーとゆうライブハウスがあります、そこの社長の河合さんに言われました「おいリキ!オレはボーヤからちゃんとプロになってうちの店に戻ってきたやつを知らん、悔しかったらおまえなってみろ!」負けず嫌いな僕は「僕が最初の人間になりますよ」と宣言してしまいました。だから初めてラブリーに出演したときは河合さんと喜び合いましたねー(^-^)


「TOKO HINO ART DIRECTIONS」トコさんが作ったNEWBAND、岡崎好朗、川嶋哲郎、多田誠司、今泉正明、荒巻茂夫、のちに「CLUB TOKO SEXTET」とゆう名前になりますが、大西順子さんいわく「日本でブレイキーの存在になれるのはトコさんしかいない」トコさんが真剣に若手と向き合って音楽を作りだしました。カッコイイバンドでしたよ!あとトコさんは2名の新人の寺井尚子さんと綾戸智絵さんのデビューをバックでサポートします。トコさんは伊藤君子さん、中本マリさん、ケイコ・リーさんなどのボーカルのバッキングも絶妙でしたね。さてこの時期になると遂にかおりちゃんも旅に連れていくとゆうことになり、僕は実際自分がやるよりも緊張してかおりちゃんに説明をしたのを覚えてます。昔の大和田さんの気持ちも一緒だったのかなー?f^_^;
日野皓正さんのバンドでの山陰ツアーでした、一週間ほどの仕事が間を挟んで二回あり、前半の一週間をかおりちゃんがいきました、持ち前の明るさで彼女はしっかりこなしてました。この時期にピアノの石井彰さんが川嶋さんの紹介で日野バンドに加入しました。トコさんも「すごくいい!」と喜んでました。


ポーランドにも連れていってもらいました。野力奏一さんと金澤英明さんでトコさんのトリオでした。容子ママも同行して珍道中、観光もたくさん出来ていろいろ考えさせられたし、いい思いでです。同世代の知り合いも増えてきました。荒武裕一郎、工藤精、荻原亮、TOKU、森田修史、石崎忍、など続々と出合えて喜びました。イントロの他にも「オージャス」「マンハッタン」「SONOKA」「SOMEDAY」「PITINN」などジャムセッションのやっている場所があり休みがあれば顔を出してました。同世代で最初に注目をあびたのは江藤良人でした。あと同じくドラムの古地克成さんもトコさんの目に掛かり、日野バンドでトコさんとツインドラムをつとめるほどでした。そりゃくやしいですよ!自分はボーヤなわけですからね、どんどん同世代がデビューしていき、焦りましたよ、時には自分の選択が間違いだったのでは?思う時もありました。深夜のアルフィーには沢山のミュージシャンが遊びに来て時にはセッションになったりもしました。トコさんは本当に世代を問わず沢山のミュージシャンに慕われてました。僕がよくイントロに行くと知っていたトコさんはある日「リキ!叩き足りない、イントロに連れていけ」と僕に言いました。「まじっすかー?」


イントロはもちろん大騒ぎ、僕も何年も通っている場所に師匠がついて来てくれて鼻が高いのとうれしいのとで大変でした。その後さらに大変な事になります。その日僕は休みで高校の同窓会があり横須賀に帰ってたらトコさんから電話、「アニキが吹きたいって言ってるからイントロに連れてくぞ」僕は即同窓会を抜けてイントロに向かいました。着いた頃には日野兄弟がいてイントロはど満杯!ケタ違いの盛り上がりで、一緒にプレイ出来た人は勿論、出来なかった人も日野さんが真剣に聞いてくれてたので凄い熱気の演奏でした。僕も勿論日野さんとやりたくて待ってたのですが、ジャムセッションも最後の曲になってしまい順番がまわってきませんでした、終わりかと思いきや「力武、やるぞ!」と皓正さんに呼ばれてDUOで演奏しました。トコさんにも見られてたので僕も燃え上がり、すごく楽しかったのを覚えてます。トコさんが絶賛してくれました、こんなに褒められた事はなかったので少し恥ずかしかったですf^_^;。
結局朝5時過ぎまでやってました。この日の事は今でもイントロの茂串マスターと話になりますねー(^^)いい思い出です。


僕はつくづく人に恵まれてるなーと感じる時があります。今でもそうですが、自分が間違えている時、怠けてる時など僕を怒ってくれる人が今までにたくさんいてくれました。今でゆうと、おまさんですね。感謝してますm(__)m。イントロでの出来事があり、自分では気付いてませんでしたがきっといい気にでもなっていたのでしょう…日野バンドのリハーサルがあり、僕はトコさんより先に入りドラムをセッティングしてました。そして皓正さんがスタジオに入って来ました。正直くわしいイキサツは忘れてしまったのですが、僕は皓正さんに怒鳴られました、殴られもしました。トコさんにはもう数えきれないほど殴られてましたが、皓正さんからは初めてだったので、怖さととまどい、ショックを受けてしまいました。「初心を忘れるんじゃねえ!バカヤロー!」この言葉がすべてを物語ってました。後でトコさんからも怒られました。一晩じっくり考えました、自分の足元を見てなかったんです。「自分はプロドラマーじゃない、ボーヤなんだ」と目立ちたい気持ちを全部捨てて、残りの任務を精一杯果たそう、もっと練習しようと決めました。本当に日野兄弟との出会いがどんだけ僕を変えてくれたか!もし音楽にも日野さんにも出合えてなかったらどうなってたんだろうと今だに考える事があります。


夏になりました。僕とかおりちゃんのコンビ、アルフィーの河端さん、白土幾美ちゃん(現在ピアノニストで活躍してます)そして兄弟子の藤山英一郎さん井上さん大和田さんの日野ファミリーは相変わらず暖かく、いい感じでした。トコさんはあちこちのフェスティバルに出演してました。井上さんがボーヤの代から続いている「明宝JazzFESTIVAL」がこの年もあり、僕はボーヤで行きました。このフェスティバルはボーヤで3本指に入るほど激務な現場でした。台風がきたり、ウッチャンナンチャンの番組で取り上げられたりと(知ってますか?)本当に大変だった記憶があります。そして僕の記憶ではこの時初めてトコさんが体調を悪くし、胃が痛いと言って本番前、後と寝込んでました。僕はトコさんが胃が痛いなんて珍しいなー?風邪だろうなーと思ってました。まさかこの時病魔に侵されていたとは当時本当に夢にも思ってませんでした。「横須賀ジャズドリーム」とゆうジャズフェスもあり、僕の両親があいさつに行きました。大分後から親父に聞いたのですが、トコさんに親父が「うちの誠はどうでしょうか?」聞いたところ、「彼は大丈夫です!」と言ってくれたそうです。


綾戸さんの所属事務所がイーストワークスとゆう所なのですが、そこの社長がトコさんに「若手を育てる場を作りたい、トコちゃんが中心でプロデュースしていこう」この話にトコさんも乗り気で社長は毎日のようにアルフィーに来て熱くトコさんと語ってました。後にリリースされた「CLUB TOKO シリーズ」は、これがきっかけで始まる事になります。その後時々トコさんは「胃がおかしい、何か調子悪い」と言うときがありました。僕はもとから胃が弱く軽い胃潰瘍もやってましたのでトコさんの苦しみはなんとなくわかっている気がしてました。それにやはりあの日野元彦さんが重い病気にかかっているとはだれひとり想像出来ませんでした。トコさんは町医者に診察してもらいました。診断は胃潰瘍でした。薬をもらって飲んでました。その診断に誰も、本人さえも疑問を抱きませんでしたし、実際調子は良くなってました。そして24才の僕(厄年だよね?)はその日も付き人でかおりちゃんと一緒に新宿PIT INNに向かってました、その日はすごく自分でも自覚出来るほどぼーっとしてました。僕はシンバルスタンドなどがまとめて入っている重いケースを持ってピットインの階段を下りてました、僕は一段階段を踏み外して右足の靭帯を切ってしまいました。(:_;)


最初は痛みが不思議となく、たいした事ないと思いセッティングを済ませました。トコさんが着くと聞いて表に出て、歩いてたらどんどん痛くなってきて、歩けなくなってしまいました。トコさんにオンブされ、かおりちゃんに病院まで送ってもらいました。いざ病院で自分の腫れ上がった足を見たらショックで目眩がしてしまい、お医者さんにチョコレートを食べさせられ、「ちゃんと食事を取らなきゃ駄目じゃないか!」と怒られてしまいました。(T_T)ギブスを付けて自然治癒とゆう事でした。その日の夜僕のボロアパートにトコさん、ママがお見舞いに来てくれました。「ゆっくり休め、お前も今年で卒業だし、いい機会じゃないか、これからの事とかじっくりと考えなさい。」と言ってもらい、うれしくて泣きそうになってしまいました。翌日親父が向かえに来てくれて、横須賀に帰りました。
こんなにのんびり過ごすのは本当に5年ぶりでした。いろんな事を考えました、9月下旬だったと思います、10日ほど休みました。来年からやっと自由に音楽活動が出来る!と喜ぶはずなのですが、なんか凄く寂しい気持ちが強かったですね、5年もやってましたからねー しみじみ


無事復帰していつもの日々になりました、復帰してすぐに僕はアルフィーでのライブが待ってました、ママには「やめときなさい」と言われたのですが、僕は忠告を聞かずに演奏しました、ボロボロでした(-.-;)しかし僕がボーヤの間に様々なプレイヤーと共演することが出来ました。これは僕の力ではなくトコさんのおかげですけど、ありがたいですね。そうゆう意味では初めて「力武誠」として誘ってくれたのは荒武裕一朗(PF)君でした。彼がバンドを作りたいと言って誘ってくれたのですが(後のTA―TA SEPTETです)僕は今年いっぱいボーヤだから出来ないと断りましたが、来年まで待つと言ってくれました。本人の前では照れ臭くて言えませんが、本当にうれしくてうれしくてたまりませんでした。
この時期トコさんは煙草をやめました。大好きなビールもあまり飲まなくなり梅酒ばかり飲んでました。CLUB TOKO SEXTETの録音も決まりトコさん、もちろん僕もはりきってました。そしてもうひとつトコさんは、川嶋さん、山ジョーさん、石井さん、安さんとのバンドでの録音も決まりました。自分のバンドでも日野バンドでも演奏してたトコさんのオリジナルの「IT’S THERE」が大好きでした。



CLUB TOKO VOL1、VOL2のレコーディングが始まりました。初日はセクステットの録音でした。やり慣れたBANDでしたのでスムースに進み、トコさんなタップを踏んだり声まで入れたりとイキイキしてました。録音はほぼ1テイク、一日でCD一枚分終わらせてしまいました。そしてさらに驚きは翌日の「日野元彦クインテット」、レコーディングがバンドとして初顔合わせで譜面を持ち寄り、リハをちょっとしてすぐ本番、ほぼ1テイクで決めてしまいました。これを見て僕は、この人達は天才だ!と驚いてしまいました。トコさんは深く考えない、1テイクで決める、とゆう所にこだわっていたように思えます。プレイバックを聞いても、僕ならあーここ失敗した!(-_-)もう一度やりたい、とか考えてしまうのですが、トコさんはミスもなく「ハイ!僕はオッケー、みんなは?差し替える?」などとケロンとやってのけてました。この2枚!お聞きでないかたは是非!聴いてみて下さい。ちなみにスペシャルサンクスを見てください、僕の名前が載ってます。うれしいですよ、このクレジットが僕のボーヤとしての唯一の足跡ですからね、(^O^)この2枚のアルバムに関われて嬉しく思ってます。


神田TUC(現在の東京TUC)の社長の田中さんがボーヤの僕を可愛がってくれてました。僕が今年で卒業と聞いて「よし!じゃあリキちゃん、うちで旅立ちのライブをやりなさい!」と言ってくれました。トコさんにも田中さんは説明してくれて、歓迎してくれました。1月28日だったと思います。「リキちゃんが一番やりたい人を頼みなさい」と言ってくれたので、川嶋さん、ギターの滝野聡さん、佐藤ハチさん、に頼みました。その前日(おそらく27日)には目黒のブルースアレイで荒武君のバンドTA―TA SEPTETのライブも決まって、いよいよ始まるんだなとドキドキしてました。
トコさんとはよく話をしました。特に旅先だと決まってトコさんの部屋でビールを飲みながら語ったものです。あー!悲しくなってきた…しかしよく殴られたし、楽しくバカ話をしたり、人生や音楽の話や恋愛相談まで思い出がいっぱいあります。僕の弱くて駄目で卑怯な所を最後まで指摘して叱ってくれました。今でも克服出来てない所だらけですが、トコさんの言葉は忘れません。今も感情的になってしまいましたが、当時も相当切ない気持ちでしたね。トコさんを抜きたいと思ってました。実際本人にも言った事がありますが、やはり弟子としての仕事は師匠を抜く事だと今でも信じてます。


僕のボーヤ最後の仕事は日野皓正さんとのディナーショウでした。いつも通りトコさんの家に行き現場に向かいました。この日はトコさんはタップまで踏んで、ショウにふさわしいすごく楽しいコンサートでした。最後の最後に僕らしく(?)トコさんからの合図を見逃して怒られてしまいました。ちょっとヘコんでアルフィーに2人で戻りました。トコさんが僕の前でママに「こいつはよくやった、最高だ!」と言ってくれました。ボーヤと言う付き合いが終わっても、これからはドラマー同志としてのお付き合いが始まります。僕はこれがなにより楽しみでした。トコさんは毎年大晦日はアルフィーでカウントダウンの座長を務めます。年明け後は大酔っぱらいに変身とゆうパターンが毎年あり、今回もたくさんのミュージシャンが集まり僕もカウンターの中で盛り上がりました、年が明け1999年!いやー感動しましたね、さぁ朝まで盛り上がろうと働きました。続々とミュージシャンも来て、熱い演奏が繰り広げられてました。3時位だったでしょうか?トコさんが疲れたと言って先に帰りました。少しあれ?と感じましたが、忙しく仕事してました。正直トコさんがいなくて淋しかったですね。8時頃仕事も終わり僕は正式にボーヤを卒業しました。



卒業してからの僕を待ち受けていたのは、みなさまご存知かと思いますが、トコさんが闘病生活にはいります。トコさんは病気を気丈に受け止め、音楽家としての人生を本当に美しく貫き通しました。僕は最後のツアーにかおりちゃんと一緒に同行しました。あの時のトコさんの演奏、ドラムソロ、そして楽しそうに叩くあの笑顔は忘れられません。神田(今は東京)TUCでCLUB TOKO SEXTET、QUINTET 合同のレコ発が3月にありました。全曲演奏するのが困難になったため、僕は代役を任されました。あの頃の僕の気持ちを表現するのは非常に難しいのですが、必死でした。TUCでのLiveは1STがQUINTETでの演奏でした。僕はトコさんの見てる前で演奏しました、無我夢中で内容までは覚えてませんが、メンバー、そしてお客さまの暖かいフォローのおかげで僕は全力でプレイすることが出来ました。このステージの最後の曲はトコさんが登場!素晴らしいドラムでした。叩き終えてマイクを取り、僕のプレイを褒めてくれました。そして2NDのSEXTETの頭もトコさんがプレイしました。残りの曲を僕に任せてトコさんは帰っていきました。この日が僕の演奏家として人生のスタートだったと思っています。



1999年5月13日、トコさんは亡くなりました。気がつけば今年で七回忌です。それと同じ期間僕も演奏家としてスタートさせてもらってます。やればやるほどトコさんの気持ちがわかってくる気がするし、もし今トコさんが僕の演奏を聞いたら何て言うだろう?とよく考えます。よりもっといいリズム、いい音が出したいと求めてます。音楽をやっていると自然にそうゆう気持ちにさせてくれます。それだけ奥が深く、魅力に溢れてます。
こんなに長くなるとは夢にも思いませんでしたが、自己紹介とゆう事で始めさせてもらいました。自分自身としても改めて確認することが出来て凄くよかったです。
殆ど自伝のようになりましたが、しかし僕の音楽家としての人生は始まったばかりです、夢もたくさんあります。
僕は音楽は「メッセージ」だと思ってます、伝えたい事が強くあればあるほどきっと人の心を掴むすばらしい演奏家になると確信してます。あと楽しむ事、感じる事、やさしくある事、強くある事、いろんなものが音楽には詰まってます。
そんな音楽を僕はこれからもずっとメッセージしていきたいと思ってます、気が向いた時にでも会いに来てくださいね!(^-^) …イヤーカッコつけすぎかなー(^^ゞ
読んでくれたみなさま、本当にありがとうございました!

この記事をはてなブックマークに追加