草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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「加納時男」というふざけた男

2011年05月20日 12時14分16秒 | 
 今日の朝日のオピニオンでまたあの東電顧問の加納時男が出ていた。「低線量の放射能は健康にいい」などと言ったあの男である。こういう男の発言は聞くに堪えないレベル内容であり、なぜ朝日がトップでこの男の意見を扱うのかその意図がよくわからない。朝日の肩書きには元東電副社長、元自民党参院議員とある。以下朝日にあった発言の要旨。
  「原子力村の使い走りとして国政をやってきた」という批判について、「私は経済界全体の代表として立候補した。失礼千万です」と語り始める。
   以下発言。
   そもそも「原子力村」という言葉自体が差別的です。政治家や官庁、原発メーカー、電力会社が閉鎖社会をつくっているという意味でしょうが、原子力産業はさまざまな分野の知見を結集しなければなりません。それを「ムラだ、ムラだ」とおちょくるのは、いかがなものか。
   2005年に閣議決定された原子力政策大綱を造る際には、オープンな議論をしている。これは原子力行政が独断的、排他的ではないことの証拠だ。
   専門家養成のため、原子力業界が大学に研究委託や研究費支援をするのも、「癒着」ではなく「協調」です。
   反原発を主張する国公立大の研究者は出世できないそうですが、学問上の業績をあげれば意見の違いがあっても昇進できるはず。
   反対するだけでは業績にならない。反原発学者で尊敬できるのは高木仁三郎さんだけでほかにそういう人に会ったことがない。
  そもそも反原発の学問体系というものがあるのでしょうか。
  福島第1原発の事故について、津波の想定などリスク管理が甘かったと言われるが、東電や原子力業界だけで勝手に想定を決めたわけではなく、民主的な議論を経て国が安全基準をつくり
、それにしたがって原発を建設、運転してきた。事故は国と東電、業界全体の共同責任だと思う。 以上。

 どうですか。言っていることが支離滅裂です。朝日はそのことを知ってもらうためにこの男をトップに載せたともとれます。この男のしゃべることがそのまま今の東電の体質を表していると思います。自分が「経済界全体」の代表だと言っていますが、東電=経済界全体と考えているどうしょうもない奢りと尊大さです。「原子力村」という語が「差別的だ」と言っていますが、普通差別というのは、差別されるものが弱者である場合に問題になるのです。「差別する」側が、強力な権力を持つ場合に、自分たちのことを差別するなというのは、ナンセンスです。こういうところにこの男の非論理的でものの本質をとらえない荒っぽさが出ています。確かこの男もあの評判の悪い東大工学部出身ではなかったかと思いますが、ここまで粗い頭とは思いませんでした。
 「原子力行政が独断的、排他的ではないことの証拠」として、オープンな議論をしたことをあげていますが、ムラの人間を集めて会議をすればそれが独断的、排他的でない証拠になるなどまたまた「論理」の欠片もないことを言っています。
 「原子力業界が大学に研究委託や研究費支援をする」のが、「協調」というのを牽強付会とか、我田引水などと言います。同じ紙面で立命館大教授の安斎育郎氏が意見を述べていますが、「私は東大で研究者だった17年間、ずっと助手のままでした。主任教授が『安斎とは口をきくな』と厳命し、私は後進の教育からも外されました。研究費もまわしてくれないので、紙と鉛筆だけでできる研究にしぼらざるを得ませんでした」と述べています。どんなにすぐれた研究でも、反原発には一銭の研究費も出なかったことはだれでも知っています。「反原発を主張する国公立大の研究者は出世できないそうですが、学問上の業績をあげれば意見の違いがあっても昇進できるはず」などとうそぶいていますが、安斎さんは東大工学部原子力工学科の第1期生であり、15人いた1期生のうちただ一人反原発を唱えた人でした。
 「そもそも反原発の学問体系というものがあるのでしょうか」などとわけのわからないことを言っていますが、だれが「反原発」が学問だなどと言っていますか。「反原発」は「原発というものがあってはならない」という主張でしょ。実践であり、行動でしょ。だれが「反原発」を学問として研究するのが目的で反原発などと言っているというのか。
 「反原発学者で尊敬できるのは高木仁三郎さんだけ」と言っていますが、「学問上の業績をあげ」ているのはは高木仁三郎さんだけ」といいたいのでしょうか。高木先生は、東大理学部を出て都立大助教授でしたか、結局東大にはいません。様々な学問上の賞を受賞されていますが、反原発ではなかなか研究費も確保できずに業績を残すというのは大変な社会です。
 「津波の想定などリスク管理が甘かったと言われるが、東電や原子力業界だけで勝手に想定を決めたわけではなく、民主的な議論を経て国が安全基準をつくり、それにしたがって原発を建設、運転してきた」から「津波の想定などリスク管理が甘かったと言われる」筋合いはないというような言い方にとれますが、多額の政治献金をして自民党と結託し、業界寄りの官僚が東電に都合のいい安全基準をつくってきただけなのに、「民主的な議論を経て」とか、「国が」とかよくも平気で言えたものである。「事故は国と東電、業界全体の共同責任だと思う」つまり、東電だけの責任ではないと言っているが、国という隠れ蓑に隠れてやりたい放題をやってきただけに最後は「国」を盾にし、挙げ句他の電力会社も責任があると引き込むことを忘れないのはさすがに東電の走狗である。

 
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