草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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試験に受かる勉強の極意

2010年11月06日 12時42分51秒 | 
 何かの試験を受けるために勉強しているという人をたくさん見てきた。もちろん私は塾の先生だから, 中学受験や高校受験, そしてかつては大学受験の生徒も指導してきたわけであり, 多くの受験生を客観的に見る立場にあったわけである。だが, それ以外に様々な国家試験をめざして勉強してきた人たちの顛末をもよく知っている。
 落ちる生徒は, 雑念が多い。逆に, 受かる人というのは, 夢中になれる人であると思う。
 勉強しているという人の姿を見て見えるのは, 夢中と雑念である。夢中も雑念も表情に出る。雑念に支配された人の顔は冴えない。何かしら落ち着きがない。迷いが読みとれる。何かに流されて今日もまともな勉強をしなかった, できなかったという人の顔は冴えない。
 竹の会でやった算数の問題が解けなくて, 朝まで夢中になって考えたという子もいた。その子は今は一級建築士として活躍している。
 夢中になっているかどうかというのは, 指導をやっていていつも如実にその子の全行動の中に様々な形で表れる。
 夢中というのは, ある意味単純化された状態であり, ひとつのことを思い続ける, 夢中になると他のことが頭に入らない。夢中は, 素直な心の状態のなせる業である。
 雑念に囚われた子は伸びない。勉強に対する躊躇が雑念にかまけることを教えてくれる。あれこれ注文をつける子というのは, 言い訳ばかりで結局何もしない。新しい机があれば勉強ができるようになるのに, 自分の部屋があれば勉強ができるようになるのに, ・・・雑念は止まるところを知らない。
 夢中になる子は, どんなに貧しくとも, 狭いアパートに親子で暮らしても, 母が病気で長年伏せていても, 服は3着しか持っていなくても, 夢中で勉強して東大へ行った。これは実話である。
 贅沢なものは何もいらない。必要なのはただ夢中になれるかどうかだけなのだから。
 私の高校の先輩のTさんは, 線路に面した粗末な家に住んでいた。汽車が通ると家は激しく振動した。それでも彼は「何も気がつかない」といったそうである。これは高校の時の数学の先生から聞いた話である。Tさんは東大に進み司法試験に在学中に合格した秀才であった。彼の夢中度は語り草となっている。
 竹の会の今の子どもたちを見ていると, たまさか些細なことで小さな争いがあるようで妙にざわついている。夢中にはなれないのが私にため息をつかせる。今年桜修館に合格したS君は, 夢中という形容がそのままあてはまった子であった。両国中に受かったT君は, 素直で私の言うことを迷いなく実行しようとしたことが, 印象に残っている。
 何にしても試験というのは, 本人がどれだけ夢中になるかでその成否が決まる話しである。

●「問いに答える」

 子どもたちの適性検査答案を添削していて, 思うのは, 「問いに答えていない」ということである。
 「問いに答える」といっても, 問いの意図(内容)に答えるということが, 本来の話しである。
 ところが, 子どもたちは, 問いの形式的指示を無視するのである。「体験をあげて」とあっても, 体験を一切書かないとか,「30字以内で」とあるのに, 35字あったり, 問われていることが2つあるのに, 1つにだけしか答えていなかったりとあげればきりがない。私の観測ではおそらく不合格者のほとんどはこの形式的な指示を守れないで落ちている可能性が強い。しかも, この違反だと得点は限りなくゼロに近いのではないか。
 合格者はと見てみると, それほど高い点数で受かったという話しを聞かない。むしろ「こんな点で」という実話ばかりである。つまりは合格者にしても, 問いの形式的要請にかろうじて答えているのにすぎないということではなかろうか。
 受検者の多くは「自滅」しているだけではないのか。

 今日の朝日のbe欄に次のような記事が載っていた。
 講道館長上村春樹さんの言葉である。
 ; 「ニワトリと卵, どっちが先だという議論があるでしょう。どちらだと思いますか?」と上村さん。
 彼は悩む相手の顔を楽しげに見ながら, 明快に答えた(と記者が書く)。
 「私はいつも, ニワトリが先だと答えます。しっかりした親鳥がいなければ, 卵から生まれたひな鳥はきちんと育たない。育てる側が大事なんです。」
 
 さて, この記事を読んで, 私はいろいろ思いました。
 まず, 「育てる」つまりは広い意味での教育の大切さには何の異論もありません。柔道を通じて育てるのが何なのかという何がしかの怪しみはありますが。
 ところで, 「ニワトリと卵, どっちが先?」という問いは, 朝日の記者が書いているように, 「生む側が先か, 生まれる側が先か」というものです。だから「考えれば考えるほど分からなくなる古典的な問い」なわけです。
 残念ながら, 上村さんの明快な答えは, 「問いに答えてはいません」。「ニワトリが大事か, 卵が大事か」という問いに, 答えたとはいえるかもしれません。しかし, それはそもそもの問いではありません。世の中にはこのようなすり替えがいくらでも罷り通っています。
 受検生が, 問いに答えるというときは, 純粋に出題の意図に即した答えを書かなくてはなりません。決して, 問いを勝手に自分のいいように解釈して, その作りかえた問いに答えてもだめなのです。

●中1の皆さんへ
 ~これからの英語の勉強のありかた

 冬期指導でどのような英語の指導をするか。私は毎年いろいろ考えます。とはいっても, 今は中学はとらないことになっていますから, 少ないながらも今いる中学の子たちの話しです。中1は3人ほどいます。
 何枚もの英語レジュメを繰り返しやることを指導の中核にすえていますが,公立の生徒はなかなか枚数が進まないというのが実状です。
 実は今のレジュメ指導は, これからなすべき次段階の指導の布石であります。十分にレジュメをこなした段階でやらせたいことがあるのです。
 江戸時代に緒方洪庵という医者が, 大阪で開いていた適塾というのは有名です。かの福沢諭吉も適塾の塾頭であったということが何かに書かれてありました。鎖国の時代に勉強できた西洋の書物は, オランダ語だけでした。オランダ語の医学の原書を適塾の塾生たちは, できのよくない蘭和辞書をたどたどしく引きながら, 訳していったのです。参考書もほとんどなかったはずです。今のように予備校や出版社がこれでもかというほど「わかりやすく」書いた参考書や問題集が氾濫していたわけでもありません。実にシンプルな勉強をしていながら, 高度の語学力をつけていったのです。
 そういえば南方熊楠(みなみかたくまくす)の書いた英語論文はとにかくすごかったらしい。明治の天才ではあったにしても, 明治のあの頃, さしたる文献もなかった時代に, 流暢に英語を駆使するというのは, 現代の至れり尽くせりの環境で英語を勉強する学生と比していったい能力だけなのか, いかなる違いがあったのか。
 シンプルに原書を相手に辞書だけをたよりに訳すというこのスタイルだけで高水準の英語を会得していくというのはいったいどうしたことなのであろうか。
 早稲田実業に合格したS君は中2のときにお兄さんにもらった英語の本をひたすら訳していたら, 英語に強くなっていたというようなことを私に語ったことがあった。
 シンプルに辞書をたよりに訳すということが, 英語の力をつけるのだということは私は経験的に知っている。
 私の高校では, 夏休み毎日10時間英文解釈をやった者が京大に受かると言われていた。事実私の先輩のFさんは, 実は家も隣であったのだが, その10時間を実行し, 京大に合格した。
 以来私は英文解釈教の信者になったのだと思う。竹の会でもとにかく英文解釈の指導に力を入れている。
 さて, そこでです。私はこの冬にレジュメをこなした中1に「英文を訳す」というシンプルな苦行に挑んでもらいたいと思っています。それには, 英語レジュメを何十枚も百枚も二百枚もこなして欲しいのです。私のこの提案はいかがなものでしょうか。
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