んー、なんか振り返ってみると重い話題ばっかになっちゃったよぅ(汗。
普段からの思ったこととかなかなか話せない溜まってる事の
はけ口として使うとこうなっちゃうんだよな・・・。
基本は能天気&楽天家なので、そこんところアピールしておかないと(笑。
カラリと話題を変えて、これから仕事でも使う用途が増えるので、デジカメを購入してみましたっ。
どうせ買うなら長く使うやつ!と、少々奮発して710万画素のをオンラインショップで購入。
これからこのアイテムを使って、このブログにも彩を加えていくー・・・予定。
慣れない操作に使いこなす前に壊しそう?
とりあえず、初撮りしてみました♪
趣味兼仕事用PCです。
箱だけ全部自作して後は前のを継承したので、見た目はメーカーものなのです(笑。
部屋、結構殺風景なんだよな・・・
昨日、中学時代からの親友が帰省してきたので、プチ同窓会やってきました。公私共に交友関係が広がり、色んな親しい仲間が増えたものの、本当の意味で“親友”と呼べる友人というのは殆どいません。お互いありのままの自分を受け入れ、阿吽の呼吸で意思の疎通を図ることができ、沈黙もまた心地よいという関係に至っているのは、彼だけ。
九大の航空力学科に所属し、将来は航空機設計者を目指すこの有能な青年と、帰省してきた時に決まって酒を酌み交わすのが、年に二回、夏と冬のささやかな楽しみです。
とりあえず映画を見て、近くの行きつけの寿司屋で腹ごなしした後、これもまた取って置きの居酒屋にご招待。軽い話題からジブリの話(お互い趣味が似ているのです)、中学時代の色話、音楽の話題、最近の情勢、お互いの生きるビジョン等非常にばば広く深い論議を楽しめる数少ない朋友との時間は瞬く間に過ぎ、次の再開を期してお開きと相成りました。
お互いがお互いを意識しあい、切磋琢磨し時には喧嘩し、時には共に泣き、共に笑った中学時代からの関係は今も脈々と息づいて、おろか年々益々その大切さ、有難さを実感している次第です。
今日はその時見た映画の話を中心に、徒然。
前々から観たいと思っていた「男たちの大和」を見てきました。
見た後の感想を一言。
戦争を知らない世代は、とりあえず見とけ。
確かに映画ではありました。でも、大和とそれにまつわる人間関係が実にリアルで。大和の壮絶な最後のシーンは特に力が入っていて、瞬きもままならぬ真に迫ったクライマックスも印象的でしたが、合間に挿入される大和に纏わる人間たちの何気ない日常が、それらを奪った戦争の残酷さを際立たせるものとなり、その無意味さにただ愕然とし、終始深い脱力感と込み上げる熱いものを堪えるのが精一杯でした。恐らく、大和生存者の体験記を元に描かれたものなのでしょう、本当に戦争のありのままの姿を垣間見た気がします。あまりベタベタと脚色せずに、そのありのままを、見た人が感じるようにとの製作者の意図が伝わってきました。
音楽も良かった。久石さんの音楽、以前は音楽で引っ張っていく所があって、それはそれで自分的には好きだったんですが、最近は益々映像と一体化してあたかもそれが極当たり前、空気のごとく包み込んでゆくような作風になってきて、全く違和感を感じさせない。この人は本当に凄い領域に達しているなと改めて舌を巻きました。クライマックスをやさしく包み込むメロディは、映像を一層心に染み込ませてくれます。最後の長淵さんの曲も特別仕立てただけあって、映画の内容と実に合致していて、最高でした。
今、日本がやばい方向に急速に動いていっています。あの惨事は二度と繰り返されてはならないんです。正義の戦争なんて存在し得ないんです。軍隊なんていざという時は決して自国を守るものじゃないんですよ。むしろ、第二次で証明されていますが、実のところ敵はアメリカではなく、自国に在ったんですよね。アメリカの従属と言われてもいい。他国から軍隊なき愚国としてなめられたっていい。あの悲劇が二度と繰り返されなければそれでいいんですよ。全てのあおりはごく普通の一般の人々に及ぶのですから。
日本人は昔から変な連帯意識と、強い封建意識を根強く持っている民族です。だから、これが軍隊を持ち、世界的な発言権を持つようになったら・・・加えて現在の精密兵器の世界シェアの大部分(ある分野では9割を超えるものもあります)を占める技術をそれに当てたとしたら、恐らく次の戦争で世界は滅びます。
そんな愚行があってなるものか。我々国民が民主主義である以上、その気がある政権はなんとしても阻止しなければなりません。極端な話、独裁的、または強軍国主義的支配者が指揮を執るようなことに為ったとしたら、善良な国民たちが血と涙と苦しみを味わう前に、自らの手で消してしまったほうが良い・・・それ程強い軍国主義に対する怒りと憎しみを抱いて、映画館を後にしました。
ま、元々熱しやすく醒めやすいという性格もありますけれど。でもね、一つだけいえるのは、物凄い無力感を味わえたのは、自分にとってプラスだったと。言葉では伝えきれないから、映像にするんですよね。その映像はやっぱり見たものじゃないとわかんないです、絶対。
こういう世の中だからこそ、面白おかしいものに現実逃避をするのもいいけれど、やっぱり忘れちゃいけないのは温故知新、ですよね。過去から学ばないと。ああいう、非常にシビヤな現実から目を背けちゃいけないんです。だから、戦争を知らない世代、我々の世代やその下の世代には、なんとしても見てほしい。そう、強く思いました。
何故生を受けたのか
人はどこから来たのか
何故人を殺してはならないのか
人は死んだらどうなるのか
これから世界はどうなるのか
これから、一体どうすればいいのか
文明が飛躍的に進歩した現代にあって、人は最も大切な根本の真理を得るに至っていません。
我々の息づくこの世界は、虚偽と汚濁と混沌に満ちています。
でも、その中にあって儚くも煌めく様な生を全うしていった人たちも大勢いるんです。
次の世代に残し得るに値するものを、僕たちもそろそろ作り上げてゆかなければならない。
だから、もう目を背け続ける時期は終わりにしませんか。
手遅れになる前に。
今、ジブリが熱い。
監督日誌が付くのは前代未聞のこと、しかも宮崎駿さんのご子息なら尚更。
なんか読んでて、すっごい良く判るんです。
でもね、なんかそれをここで今文にするのも気が引けます。
自分の拙い文才じゃ上手く伝えられないだろうし。
それに、言葉にしたらつまらなくなってしまう気がして。
私は、高校の卒業が迫り進学について考えたとき、
アニメーションに興味を持ちながらも
その世界に身をおいたら一生父を超えることができない
という結論を出しました。
だから、なるべくアニメーションから遠い分野に進もうと、
信州大学の農学部に進学しました。
そうだったんですね・・・
やっぱり、吾朗さんも“父の壁”を意識してましたか。
大丈夫。
不屈の信念と己に負けない強い心さえあれば、結果は後から付いてきますよ。
下らないマスコミや風論なんか相手にしないで、本当に伝えたい人に胸を張って手渡せるような“もの”を作ってください。
僕も頑張りますから。
所で・・・信大ってピンポイントで地元ぢゃないですか(爆)
しかも農学部に友人何人か行ってるしw
そういえば、昔読んだ駿さんの自伝かなんかに書いてあったっけ。
今思い出した。
ってことは、どこら辺に住んでたんだろう?
よし、こっちに帰ってきた時にもし吾朗さんに会ったら(ナイナイ、拉致って一杯奢ろう(ぉ。
今度の休みにでも久々に図書館に赴いて、ゲド戦記一巻から借りて読んでみますか。
でももう借りられてそう・・・
最近滅法寒くなって、いよいよ部屋にこもりっきりの生活が続いております。季節の移ろいも早く、露天風呂に入りながら粉雪の降りしきる寒空を見上げると、ああまた長くて寒い冬がやってきたんだな、と実感する次第です。冬って好きじゃないけど、嫌いでもないです。やっぱり冬あっての春、冬あっての夏ですから。おいしいものも多いし(笑、なにより人の優しさが暖かく感じる季節ですよねー。
冬にちなんだ久石譲の耳より情報を幾つか。今月初めに「World Dream Ochestra」(以下WDO)と題して、公式には第二回目の企画(プロトから数えれば3回目)のコンサートが開催されました。これはどういうものかというとですね、今までの久石譲のコンサートは彼自身の曲のみの構成で行われていましたが、このWDOでは久石譲チョイスの、他の音楽家(主に映画音楽)の曲を中心に構成された、久石譲アレンジによるものなんです。
去年の第一回目はハリウッド中心のアメリカンスタイルで、ハリウッドオーケストラの主席トランペッターを迎えてのコンサートでした。「スターウォーズ」メインテーマも聞けたりして、今までオリジナルを重視していた彼自身のスタイルからは予想もできない、まさに自分の壁をまた一つ越えたな、という感がしたものです。
今年のWDOは、パリの映画音楽や観劇音楽中心のしっとりとした大人向けの選曲となっています。年の瀬を迎えてなにかとせわしなくピリピリとしてくる世の中にあって、少しの休息と安息をプレゼントしたいという意図があるようです。
CDが早くも発売されているのでそれは入手したんですが、実は自分は残念ながら今回は2つの理由で行くことができませんでした。まず大きな理由の一つには仕事のスケジュール的に不可能だった事があります。そして、もう一つは久石譲本人の曲や新曲が聞きたいので、今回はあんまり無理してまで行くことはないかなと。けど、半年に一遍は久石さんのコンサートに行かないと禁断症状(ぉ)が出る体になってしまったワタクシにとって、結構キッツイ時期になってまいりまして、そんな時にWonder(久石譲オフィシャル)から無料配信の速報が。正直超嬉しかった(笑。 下記サイトよりストリーミングで視聴できます。コンサートの雰囲気だけでも味わって頂ければ幸いです。
久石譲&新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ 12月の恋人たち
CDに入っていない曲も多数聞けたので、ホクホクです。
でも・・・まあなんでもそうだと思うんですけど、やっぱり生にはかないませんよね。
久石譲コンサートについて色々と書こうかなと思ったんですが、長くなりそうですしまたの機会にします。
もう一つ久石譲報を。
12月17日封切りの、「男たちの大和」の映画音楽を久石さんが担当されました。第二次世界大戦中の戦艦大和の悲劇に関わる人たちの人間ドラマを描いたこの作品は、主演反町隆、中村獅童、鈴木京香、主題歌は長渕剛。
以前の映画「壬生義士伝」の出来が素晴らしかっただけに、今回も楽曲がどんな感じになっているのか、楽しみです。私の説明より関係者の方がより真に迫ってくると思います。ワンダーのこんなレポは、とりわけ興味をそそるところとなっています。
8月下旬には大和のall rush試写が東映ラボテックにて行われた。ホルンを主体とした大和のテーマ曲など数曲のデモをスタッフ、監督、東映関係者に初披露。ワンダースタッフしか気づいてないかもしれないが、最初ということで非常にピリピリ雰囲気が本人からはでていた。結果はポジティブな反応ではあった。しかし本人は納得はしてない様子。映画のディープな悲劇的な部分を久石は、反対に明るく包もうと試みているようであった。
角川氏立ち会いの試写が同月にもう一度行われた。角川春樹氏について、「本気で物をおっしゃる方で、中途半端なしで本当に素敵な人だ」と後日語っている。試写前に角川氏は、久石に「泣ける心が動かされるメロディーが欲しい」と要請。相当久石音楽に期待してる模様。その後2人で個室にて密談有り。何が話されたかは本人のみぞ知るところ。
ここからが、テーマが決まらず、苦悶の日々が続く。最初に仕上がったテーマ曲は好評ではあるが、久石は何かしっくりこないと試行錯誤。そして次に上がってきたテーマ候補曲も同じくして、断念。その後その2つを1つにまとめようとするがこれも断念。時間は刻々と過ぎていく。
世界に入りきるのに苦労していた。深夜のスタジオ作業のあと、スタッフに囲まれた久石は、あの「生きている意味がわかった」という台詞は何がわかったんだろう?とみんなに尋ねていた。それぞれが答える言葉にふとうなずいたり、そうか、、、と考え込んだり、、、この映画の意味、戦争の意味、大和のテーマを模索している時の久石からは本当にある領域に足を踏み入れていくような悲壮感にもにたオーラがでていた。
そして、ある日、「なんか変なのが出来上がった」との一言、スタッフ全員でスタジオに入りその曲を聴いたとき、その場の時は完全に止まった。久石が「俺このシーンが好きなんだよな」といっていたクライマックスを奏でる音楽に久石音楽の神髄をみたような気がする。ここまで自分を追い込める人間が他にいるのだろうか?その壮絶なシーンを超える迫力、久石の音楽が大和のテーマと同化した日ではなかったのではないかと思う。
仕事が落ち着き次第、是非自分も見に行ってみたいと思います。
なんかねー、最近ねー、これは見たい!って思う映画あんまりないんですよね。。。
邦画洋画に限らず。
それだけに、ね。
最後に、幾つかの受賞情報を。
LAFCA {The Los Angeles Film Critics Association}で最優秀音楽賞、第4回(2005)大韓民国映画大賞(MBC主催)で、久石が映画「ウェルカム・トゥ・トンマッコル」の音楽で最優秀音楽賞を受賞。
凄いですねー、いよいよグローバルになってきました。
久石譲公式ウェブサイト
今で出張で上京していたため、放置プレイ状態でした。
ごめんなさい。書きたいことは山のように溜まっていますが、
とりあえず最新の話題から。
遂にジブリ新作情報が発表されましたね。「ゲド戦記」自体は想定範囲内だったんですが、吾朗さんが監督されるのにはビックリしました。で、恐らくそれを聞いた人たちのほぼ全てがある種の不安とショックに包まれたことでしょう。この新作については、二つの情報筋ですでに今年の8月辺りから知っていました。恐らく、音楽も久石さんが担当されるんじゃないかなと思います。
「ゲド戦記」を始めて読んだのは小学校高学年の頃だったかと記憶します。当時ミヒャエル・エンデ作品に嵌っていた自分は、より奥深いファンタジーを求めて様々な本を読み、そこである種の究極とも言えるファンタジーを見つけたのが、それでした。兎に角「魔法と人」との在り方が、非常に奥深い。その点吾朗監督がプログにて次のように述べておられることに、全くの賛同の意を表します。
(以下スタジオジブリ監督日記より抜粋)
その時いちばん面白かったのは、第1巻でした。どこが面白かったのかというと、魔法の国のハラハラドキドキではなく、自分の魔法の力をうまく操ることができない少年の内面的な成長に共感したからです。
そうなんですよね、「魔法」と聞くと何か派手な超越したパワーを主人公が事も無げに炸裂させて、大きな敵に挑み倒す事を目的とする昨今のファンタジーと違い、この「ゲド戦記」の「魔法」は即ちそのものの本質を知ることであり、更に最も超えがたし壁として立ちはだかる「宿敵」はドラゴンでも闇の冥王でもなく、「己」そのものである、という点なんです。
つまり、ゲドは「魔法」を通して「世界」の本質を、そして「自分自身」を知っていくわけです。これはもう読んでみないと判らないと思いますが、これほどまでに「魔法」に対してリアリティを持たせたファンタジー小説はいまだかつて出会ったことがありません。
この作品は宮崎駿監督にも多大なる影響を与えたとされています。ゲドの闇の部分が影となって常に付きまとうところは「風の谷のナウシカ」や、一部描写が「もののけ姫」に、名を奪われるという事の意味が「千と千尋の神隠し」などに見られますね。
実はワタクシ、今回の吾朗監督作品には少なくとも気持ちの半分は、期待と応援の意を込めて受け止めている次第であります。というのも、もう半分は駿監督の残り少ない余生でどれだけ後オリジナルが見られるのか(ぉ、という点で時間を危惧する余り、監督が宮崎駿でない事が誠に残念な要素ではありますが、反面スタジオジブリを駿亡き時代に形骸化させずに新たな実力者の台頭を得るべく、新監督の育成に力を注いでもらいたいとも思うわけであります。絶対にジブリは現ディズニー化してもらいたくない訳です。
ホントの所を言うと、近藤喜文監督に期待していたんですが、大変残念なことに若くして他界されました。なので細田監督はどうだろう?と思いきや、「猫の恩返し」を見て愕然としたんですが、もうアレはヤバイですね。何がどうダメなのかもう説明する気にもなれないので割愛しますが、ワタクシが見て唯一ジブリ作品として恥ずべき作品だと思ってます。
そしてもっとヤバイと思ったのが、あれを受け入れる観客やメディア自体の質の低下にも愕然としたわけであります。確かに、あれはあれでアニメーションとしては悪くはないと思います。ジブリが誇る高い技術力も存分に発揮されていると思います。ただ、ジブリ作品としてではなく、「お母さんといっしょ」の子供向け番組用として作られるべきクオリティだと思いますね。もう非常に薄っぺらい。ギャグのセンスがもうお子様向け。一ファンの私が見てもあの程度ですから、きっと駿監督はさぞやガッカリしたでしょうね。改めてジブリの他監督の脚本力のなさを思い知らされました。
ちょっと脱線しました。吾朗監督に話を戻します。私が彼に一抹の期待を抱き始めたのは、ジブリ新作発表の速報が上京中にTVで流されたときのこと。これは監督のブログに乗っている言葉ですが。
最後に、私が『ゲド戦記』監督を引き受けた理由は二つあります。『ゲド戦記』という物語に魅力を感じていたことが一つ目。そして二つ目は、父との関係もありこれまで長く気づかないふりをしてきたアニメーションへの想いが拭いがたく自分の中にあることに気がついたからです。
技術なんて一生懸命努力すれば自ずと後からついてきます。今でこそ日本最高峰の映画監督としてもてはやされている駿監督ですが、処女監督作品は今から見れば随分お粗末なものでした。(私は好きですけどね)あの「風の谷のナウシカ」や、ジブリ最高傑作と称される「天空の城ラピュタ」でさえも、興行収入的には最悪の結果でしたし。
良いんです、次につながれば。そして、内に秘めた熱い思いさえあれば、きっといつか花開く日が来ると思いますよ。それに、吾朗監督は駿監督がスタートしたときと比べて、ずっと有利なんですから。なんたって、スタジオジブリの研ぎ澄まされた技術スタッフと、なにより偉大なる父の後ろ盾があるんですから。
実は吾朗さんにこれだけ肩入れするのにも、自分と比べて少なからず相容れる部分があるからなんです。それは、“偉大な父”の存在です。これはね、大きくなればなるほど、特に男にとっては本当につらいんです。“良い父親を持って幸せじゃないか”ってよく言われると思うんですが、“良い父親”だからこそ大変なんです。男の子っていうのは、いつも父の背中をみて育つわけです。そして成長すると共に父の存在が、超えなくてはならない壁となって立ちはだかるんです。いつか越えたい、いや、絶対超える!という強い思いの元に日々切磋琢磨するわけです。
でもある時はたと気づく。果たして俺は父を超えられるのだろうか?自分を信じてやってきた全てが、揺らいでくる時がやってきます。結局父という壁を通して、一番の宿敵は「己」であることが判ってきます。ゲドと同じに。周囲の目も常に「あの人のお子さん」として見るわけです。吾朗さんにかかる重圧は半端じゃないと思いますよ。なんたって、あの“宮崎駿さんの息子”なんですから。
だから、実は史実を見ても「偉大なる父」の息子というものは、ワタクシのように凡に終わるという事が多いんです。むしろ、「ダメな父親」を持った人のほうが大成する場合が多い。駿監督はその良い例です。
だけど、二世というのは「己」の壁を越えたときに、その時初めて「父の壁」を超える事が出来ます。そうなったら凄まじいことになります。父の全てを継承し、さらにそれを磨きをかけて更なる高みへ昇華させることが出来る、世界で唯一の人物なのですから。
それだけに、吾朗監督にはがんばってほしいのです。彼なら原作「風の谷のナウシカ」の映画化も全幅の信頼を持って任せられる、そんな人になってほしいんです。今回こけたって良い。(いや、成功してほしいのはやまやまですが)さんっざんそれで叩かれて、全てを失っても一からスタートすることが出来れば、彼はきっと大きく成長していくと思いますよ。
ジブリの層が薄いのは鈴木Pも重々承知していることかと思います。だからこそ、鈴木氏は最後の頼みの綱を、吾朗さんに掛けたんだと思います。これは非常に勇気ある決断と言えるでしょう。今回ばかりは、よくやった、グッジョブ!!って感じでした。
確かに、吾朗さんは素人です。けど、少なくとも私よりはアニメーションに詳しい事は間違いないでしょう(笑。ジブリの全てに内通する生まれ持ってのフリーパスがある訳ですから。
信じましょう。長い目で。
スタジオジブリ公式HP
ゲド戦記
年々酷くなってゆく気がします。
犯罪のレベルが。
凄惨さもそうですが、犯罪者層がより一般的なレベルにまで浸透してきているのではないでしょうか。
勿論、過去にも取り上げれば酷い事件は沢山ありますが、
如何せん身近でこんなにいとも簡単に人が殺されることがあったでしょうか・・・
しかも、小さな子供や女性や家族が。
本来ならば守るべき対象のはずです。
聞いた話ですが、ある調査によると教師が生徒に対して、
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに全く答えられないというのです。
これを聞いたときはゾッとしたんですが、確かに、なぜ?
と言う部分を指摘されると絶対的な真理は導き出すのは難しいですね。
所謂、生命の成り立ちの真理が「進化論」ならば。
進化論、と一言でいっても様々な仮説が乱立していて、混沌とした状態にありますが、
それでも諸説が共通しているのは「種の存続」という点です。
それは、現在の環境下でいかに他の種を圧倒するかということで凌ぎを削る事に意義がある、
言い換えれば超ロング・スパンな地球規模の“バトル・ロワイヤル”という訳です。
つまり、己と、己の種の存続さえ保証されるならば、如何なる手段も厭わないという世界です。
だから、「愛」だとか「良心」といった“利他的”な事象は邪魔ものなんですよね。
学校が種の起源を進化論と教えているならば、
と同時に「倫理」、あるいは「道徳」を学ばせるのもなんだかオカシナ話ですね。
だって、それはいわゆる進化論の自然界の法則に反する、人間独自のルールなんですから。
そう考えると、盗みや殺人や、その他諸々の犯罪は全て自己の利、又は欲の現れなので、
所謂世界の絶対的ルールの下ではなんら支障は無いわけです。
最も、「知性」という生物最強の能力の前では進化論のルールは凶器の何物でもありません。
人類の滅亡へのカウントダウンを早まらせるだけですから。
チョッと脱線しました。
話を「なぜ人を殺してはいけないのか?」という部分に戻します。
もし自分がその問いを誰かに投げかけられたら・・・
自分のちっぽけな了見でひねり出した限りの答えは、
・法律で決まってるジャン
・自分や、自分の親しい人が殺されたら嫌だもん
・殺人がまかり通る世の中になったらえらいコッチャでぇ
だから、自分らも、人を殺しちゃいけないんだよ。
このくらいしか思いつきまへん。orz
だけど、どれも突き詰めて考えていくと絶対的答えとは言い難いものばかり。
一体何を持って真理とすれば良いんでしょうか。
この辺の所、思ったことなど中心に徒然なるままに、
独断と偏見で脱線事故を重ねながらも何回かに分けて書き連ねていこうかな、と思います。
皆さんは、なぜだと思われますか?