文春文庫「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著
1991年2月、㈱文藝春秋より出版。
たまたま本屋で発見して、購入した。
読んで、ぐいぐい惹きつけられた。
読み終わって、感動した。
本書の主役「瀬島龍三」に…ではない。
本書の著者「保坂正康」に…である。
私が作家・保坂正康氏の名を知ったのは、昨年、講談社出版の「昭和史七つの謎」と題する本を買い求めた時であった。
なぜ日本は、「負け戦」とわかっていた太平洋戦争に突入してしまったのか?
そしてなぜ日本人は未だに、「戦争責任」について語ることを忌避し続けるのか?
私はその疑問に、既に自分なりの仮説を持っている。
その仮説を検証する目的で、太平洋戦争前後について書かれた本をいろいろ探し求めていた。
そして保坂氏が、「太平洋戦争」を冷静に客観的に分析される「日本に数少ない」人物のお一人であることを認識した。
一方、瀬島氏についても、私は伝説めいた「瀬島機関」の名称と共に「伊藤忠に瀬島あり」程度のことしか知らなかった。
本書により、戦時の「大本営参謀」からシベリア抑留帰還後の伊藤忠での「企業参謀」、そして晩年の第二臨調・行革審・臨教審と続く日本行政の「政治参謀」として激動の昭和を生き抜いた真性「参謀」瀬島龍三の生き様が、よく理解できた。
同時に、本書を書いた保坂正康という人物の、闇に埋もれた昭和史を粘り強く掘り起こし、冷静に分析評価し客観的に自らの意見を記述して行く生き様に、より深い感動を禁じ得なかった。
同書131Pからの引用。
『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本が勝った勝ったと言っていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、君の電報を握りつぶした。これが捷1号作戦を根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた。』
昭和19年10月12日、米軍太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が台湾の飛行場を集中爆撃し、これを受け連合艦隊司令部は、傘下の空母の航空部隊や南九州の第二航空艦隊の爆撃機に米艦隊を攻撃するよう命じた。
攻撃から帰還したパイロットの報告を受けた大本営は、台湾沖航空戦で「赫々たる戦果」を挙げたと発表。
この頃日本は戦闘で負け続けであったため、大本営内部にも国民の間にも異様なほどの興奮を巻き起こしたこの台湾沖航空戦の「大戦果」なるものが、大本営参謀本部起死回生の「捷1号作戦」ルソン島決戦を、急遽レイテ島決戦へ方針転換させることとなった。
そして結果はご承知の通り、レイテ島もまた幾万余の兵士の玉砕の島となった。
この「捷1号作戦」の変更をもたらした台湾沖航空戦の大戦果なるものに疑問を抱いた当時第14方面軍に派遣されていた堀栄三・情報参謀は、実地調査をした上、「戦果はさほどでもない」との至急電を大本営参謀本部へ送った。
上述の引用は、昭和33年シベリア抑留から帰ってまもなくの瀬島龍三氏が、知人を介して呼び出した虎ノ門共済会館地下食堂で、堀栄三氏に直接告白した言葉であるとのことである。
同書149Pからの引用。
『もっともはなはだしいのは、瀬島を「卑怯者」と決めつけたある参謀の次の意見である。「瀬島という男を一言で言えば、”小才子、大局の明を欠く”という言葉に尽きる。要するに世渡りのうまい軍人で、国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人です。その結果が国家を誤らせたばかりでなく、何万何十万兵隊の血を流させた。私は、瀬島こそ点数主義の日本陸軍の誤りを象徴していると思っている。」』
上述の「瀬島…軍人です」までの文章を、一部言葉を入れ替えて下記する。
「小泉純一郎という男を一言で言えば、、”小才子、大局の明を欠く”という言葉に尽きる。要するに世渡りのうまい政治家で、国家の一大事と自分の支持率を引き換えにする政治家です。」
近い将来、「その結果が国家を誤らせたばかりでなく、多数国民の血を流させた」ということがないよう、祈るばかりである。
同書159Pより引用。
『こうして東條は、自分に反対する参謀や終戦工作などを口にする参謀を次つぎに要職から追い払い、自分の子飼いの参謀を手元に置いた。そうした”東條人事”には、陸軍の中から不満の声があがっていた。陸軍を私兵化しているというのであった。だが、、誰も東條に諫言できる者はいなかった。』
これも「東條」を「小泉首相」に置き換えれば、実によく現状の政治状況を映し出す文章となる。
「誰も小泉に諫言できる者はいなかった。」
中国の政治家に言われるまでもなく、日本人自身が「歴史を鏡に」反省し学び直す必要がある。これは決して外交問題ではなく、日本国民にとっての重要な「国内問題」であるという認識が必要だ。
伊藤忠時代の瀬島を語る同書195Pから引用。
『かって瀬島機関に身を置いたこともある元社員が、極めてクールな分析をした。「戦後教育を受けた者には、日本陸軍の組織など少しも分からなかった。ところが瀬島さんを通して日本陸軍の姿も知った。でも現実に伊藤忠での実情を見て、大日本帝国が負けた理由はよくわかりましたね。日米の間には物量の差もあったんでしょうが、もう一面では日本陸海軍内部の縁故とゴマスリが退廃を生んでいたんです。ゴマスリに長けた者と営業の現場で働いている者とのギャップは大きかったですからね。』
同じく1197Pから引用。
『この文章を読んですぐに気づくのは、瀬島が陸軍大学校で教わったはずの「統帥参考」の中の幕僚の心構えと実によく似ていることだ。さらに昭和20年3月に参謀本部総務部が発行した「幕僚の心構え」とも似た表現が出てくる。ここでの「主体」を「将帥」とか「軍司令官」と置き換え、「スタッフ」を「参謀」と置き換えてみれば、徹底した滅私奉公が要求されていることが明らかになってくる。瀬島の精神構造は、基本的には戦時下の大本営参謀の域を出ていない。「大日本帝国」あるいは「帝国陸軍」を「会社=伊藤忠」に置き換えているに過ぎないのだ。』
次に第二臨調時代の瀬島を語る同書241~3Pから引用。
『第二臨調事務局の官僚たちに話を聞いていくと、その仕事の一端が浮かび上がってくる。(省略)「正直言って、瀬島さんは特別に理論を持っている人だとは思わなかったけれど、日本風の根回しという事前工作は巧みでしたね。第二臨調が答申を出すためには、実現可能な範囲、という方針が暗黙のうちにありましたが、その範囲をあの人は探り当ててくるんです。役所にとっては、何とも重宝な存在でしたね。」』
『官僚や企業人の中には、瀬島の根回しの巧みさには舌を巻いた者もいたが、反面、瀬島流の根回しは情報公開を目指す社会では極めて危険な存在とも映っていた。』
『たとえば、瀬島は直ぐに有力者に話をつける。組織は指導者や有力者の鶴の一声で動くと思っているから、確かにそれで一時的には話はつくが、問題の本質が片付いたわけではなく、後になってこじれる。第二臨調をみても、手のつけやすい部分の答申は出したが、面倒なところ、つまり利害が入り組んでいて官僚の発言が強い面(地方自治、情報公開など)には一切介入していない。』
引用が続いたが、ここで私が強調したい点はただ一つ。
要するに瀬島氏が伊藤忠時代、第二臨調時代を通じてやってきたことは、大本営参謀本部時代と同じことであったということだ。
その本質は、「役所にとっては、何とも重宝な存在でしたね」と官僚に言われ、一部の企業人からは、「瀬島流の根回しは情報公開を目指す社会では極めて危険な存在とも映っていた」と言われ、「確かにそれで一時的には話はつくが、問題の本質が片付いたわけではなく、後になってこじれる。第二臨調をみても、手のつけやすい部分の答申は出したが、面倒なところ、つまり利害が入り組んでいて官僚の発言が強い面には一切介入していない」と第二臨調事務局の仕事に携わった者に見透かされているような内容であった、ということだ。
ここで、だからどうなんだ?それで何が悪い?とのご批判が出てくるのが目に浮かぶ。
同書273Pからの引用。
『財界人の何人かに取材スタッフは取材を申し込んだ。むろん第二臨調にも行革審にも加わっていない50代、60代の財界人だ。彼らの一人が声を震わせ、「瀬島さんのことについてのインタビューはお断り致します。あの方は、これまで責任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任を全くとっていないじゃないですか。伊藤忠までは許せます。戦後は実業人として静かに生きていこうというのなら、個人の自由ですから、とやかく言うことはありません。それが臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうの、教育がどうの、という神経はもう許せません。私たち学徒出陣の世代だって、次代の人たちに負い目を持っているのに、瀬島さんは一体何を考えているのかまったくわかりません」と電話口で語気を強めた。その激しさに、私の方が驚いてしまった。』
著者である保坂正康氏は、同著作を閉じるにあたって274~5Pにかけてご自身の意見を次のように語られている。
『しかし、公人として日本の将来を語り始めた瀬島には、もう自らの軌跡、自らの責任を語るのを避けるという立場は許されないのではないだろうか。太平洋戦争で死んでいった兵士、なかんずくレイテ決戦で死んだ将兵たち、沖縄戦で特攻機に乗り込んだ学徒たち、シベリアで重労働のため晋だ兵士と民間人、ソ連への協力を拒否して雪原に消えた将兵たちーー彼らへの責任は、「語る」ことでしか果たせないはずだ。語らぬままに再び国民の将来を左右する公人であり続けるのは、不可解なことである。』
保坂氏が本書で書き記した数々の文章は、いまこの瞬間の現代を解き明かす上でも実に参考になる内容である。
私がこのコメントを取り上げた真意も、まさにそこにある。
日本人の美徳から、「責任」をとるという行為が消え去ってしまったのは何時の頃からなのであろうか?
日本の行政を牛耳る官僚が、「責任」をとらなくて済むようになったのは何時の頃からなのであろうか?
瀬島氏の華麗なる人生模様を解きほぐしていくと、現代日本の背負う「アヤマチ」の幾つもの要素が散りばめられていることに気づく。
そのアヤマチを正して行かない限り、日本は再び同じアヤマチを近い将来に繰り返し、多数の日本国民に悲劇がもたらされることがあり得るのではなかろうか?
その思いは、単なる私だけの杞憂に過ぎないのであろうか?
最後に、勇気あるノンフィクション作家・保坂正康氏に敬意を捧げたい。
1991年2月、㈱文藝春秋より出版。
たまたま本屋で発見して、購入した。
読んで、ぐいぐい惹きつけられた。
読み終わって、感動した。
本書の主役「瀬島龍三」に…ではない。
本書の著者「保坂正康」に…である。
私が作家・保坂正康氏の名を知ったのは、昨年、講談社出版の「昭和史七つの謎」と題する本を買い求めた時であった。
なぜ日本は、「負け戦」とわかっていた太平洋戦争に突入してしまったのか?
そしてなぜ日本人は未だに、「戦争責任」について語ることを忌避し続けるのか?
私はその疑問に、既に自分なりの仮説を持っている。
その仮説を検証する目的で、太平洋戦争前後について書かれた本をいろいろ探し求めていた。
そして保坂氏が、「太平洋戦争」を冷静に客観的に分析される「日本に数少ない」人物のお一人であることを認識した。
一方、瀬島氏についても、私は伝説めいた「瀬島機関」の名称と共に「伊藤忠に瀬島あり」程度のことしか知らなかった。
本書により、戦時の「大本営参謀」からシベリア抑留帰還後の伊藤忠での「企業参謀」、そして晩年の第二臨調・行革審・臨教審と続く日本行政の「政治参謀」として激動の昭和を生き抜いた真性「参謀」瀬島龍三の生き様が、よく理解できた。
同時に、本書を書いた保坂正康という人物の、闇に埋もれた昭和史を粘り強く掘り起こし、冷静に分析評価し客観的に自らの意見を記述して行く生き様に、より深い感動を禁じ得なかった。
同書131Pからの引用。
『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本が勝った勝ったと言っていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、君の電報を握りつぶした。これが捷1号作戦を根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた。』
昭和19年10月12日、米軍太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が台湾の飛行場を集中爆撃し、これを受け連合艦隊司令部は、傘下の空母の航空部隊や南九州の第二航空艦隊の爆撃機に米艦隊を攻撃するよう命じた。
攻撃から帰還したパイロットの報告を受けた大本営は、台湾沖航空戦で「赫々たる戦果」を挙げたと発表。
この頃日本は戦闘で負け続けであったため、大本営内部にも国民の間にも異様なほどの興奮を巻き起こしたこの台湾沖航空戦の「大戦果」なるものが、大本営参謀本部起死回生の「捷1号作戦」ルソン島決戦を、急遽レイテ島決戦へ方針転換させることとなった。
そして結果はご承知の通り、レイテ島もまた幾万余の兵士の玉砕の島となった。
この「捷1号作戦」の変更をもたらした台湾沖航空戦の大戦果なるものに疑問を抱いた当時第14方面軍に派遣されていた堀栄三・情報参謀は、実地調査をした上、「戦果はさほどでもない」との至急電を大本営参謀本部へ送った。
上述の引用は、昭和33年シベリア抑留から帰ってまもなくの瀬島龍三氏が、知人を介して呼び出した虎ノ門共済会館地下食堂で、堀栄三氏に直接告白した言葉であるとのことである。
同書149Pからの引用。
『もっともはなはだしいのは、瀬島を「卑怯者」と決めつけたある参謀の次の意見である。「瀬島という男を一言で言えば、”小才子、大局の明を欠く”という言葉に尽きる。要するに世渡りのうまい軍人で、国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人です。その結果が国家を誤らせたばかりでなく、何万何十万兵隊の血を流させた。私は、瀬島こそ点数主義の日本陸軍の誤りを象徴していると思っている。」』
上述の「瀬島…軍人です」までの文章を、一部言葉を入れ替えて下記する。
「小泉純一郎という男を一言で言えば、、”小才子、大局の明を欠く”という言葉に尽きる。要するに世渡りのうまい政治家で、国家の一大事と自分の支持率を引き換えにする政治家です。」
近い将来、「その結果が国家を誤らせたばかりでなく、多数国民の血を流させた」ということがないよう、祈るばかりである。
同書159Pより引用。
『こうして東條は、自分に反対する参謀や終戦工作などを口にする参謀を次つぎに要職から追い払い、自分の子飼いの参謀を手元に置いた。そうした”東條人事”には、陸軍の中から不満の声があがっていた。陸軍を私兵化しているというのであった。だが、、誰も東條に諫言できる者はいなかった。』
これも「東條」を「小泉首相」に置き換えれば、実によく現状の政治状況を映し出す文章となる。
「誰も小泉に諫言できる者はいなかった。」
中国の政治家に言われるまでもなく、日本人自身が「歴史を鏡に」反省し学び直す必要がある。これは決して外交問題ではなく、日本国民にとっての重要な「国内問題」であるという認識が必要だ。
伊藤忠時代の瀬島を語る同書195Pから引用。
『かって瀬島機関に身を置いたこともある元社員が、極めてクールな分析をした。「戦後教育を受けた者には、日本陸軍の組織など少しも分からなかった。ところが瀬島さんを通して日本陸軍の姿も知った。でも現実に伊藤忠での実情を見て、大日本帝国が負けた理由はよくわかりましたね。日米の間には物量の差もあったんでしょうが、もう一面では日本陸海軍内部の縁故とゴマスリが退廃を生んでいたんです。ゴマスリに長けた者と営業の現場で働いている者とのギャップは大きかったですからね。』
同じく1197Pから引用。
『この文章を読んですぐに気づくのは、瀬島が陸軍大学校で教わったはずの「統帥参考」の中の幕僚の心構えと実によく似ていることだ。さらに昭和20年3月に参謀本部総務部が発行した「幕僚の心構え」とも似た表現が出てくる。ここでの「主体」を「将帥」とか「軍司令官」と置き換え、「スタッフ」を「参謀」と置き換えてみれば、徹底した滅私奉公が要求されていることが明らかになってくる。瀬島の精神構造は、基本的には戦時下の大本営参謀の域を出ていない。「大日本帝国」あるいは「帝国陸軍」を「会社=伊藤忠」に置き換えているに過ぎないのだ。』
次に第二臨調時代の瀬島を語る同書241~3Pから引用。
『第二臨調事務局の官僚たちに話を聞いていくと、その仕事の一端が浮かび上がってくる。(省略)「正直言って、瀬島さんは特別に理論を持っている人だとは思わなかったけれど、日本風の根回しという事前工作は巧みでしたね。第二臨調が答申を出すためには、実現可能な範囲、という方針が暗黙のうちにありましたが、その範囲をあの人は探り当ててくるんです。役所にとっては、何とも重宝な存在でしたね。」』
『官僚や企業人の中には、瀬島の根回しの巧みさには舌を巻いた者もいたが、反面、瀬島流の根回しは情報公開を目指す社会では極めて危険な存在とも映っていた。』
『たとえば、瀬島は直ぐに有力者に話をつける。組織は指導者や有力者の鶴の一声で動くと思っているから、確かにそれで一時的には話はつくが、問題の本質が片付いたわけではなく、後になってこじれる。第二臨調をみても、手のつけやすい部分の答申は出したが、面倒なところ、つまり利害が入り組んでいて官僚の発言が強い面(地方自治、情報公開など)には一切介入していない。』
引用が続いたが、ここで私が強調したい点はただ一つ。
要するに瀬島氏が伊藤忠時代、第二臨調時代を通じてやってきたことは、大本営参謀本部時代と同じことであったということだ。
その本質は、「役所にとっては、何とも重宝な存在でしたね」と官僚に言われ、一部の企業人からは、「瀬島流の根回しは情報公開を目指す社会では極めて危険な存在とも映っていた」と言われ、「確かにそれで一時的には話はつくが、問題の本質が片付いたわけではなく、後になってこじれる。第二臨調をみても、手のつけやすい部分の答申は出したが、面倒なところ、つまり利害が入り組んでいて官僚の発言が強い面には一切介入していない」と第二臨調事務局の仕事に携わった者に見透かされているような内容であった、ということだ。
ここで、だからどうなんだ?それで何が悪い?とのご批判が出てくるのが目に浮かぶ。
同書273Pからの引用。
『財界人の何人かに取材スタッフは取材を申し込んだ。むろん第二臨調にも行革審にも加わっていない50代、60代の財界人だ。彼らの一人が声を震わせ、「瀬島さんのことについてのインタビューはお断り致します。あの方は、これまで責任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任を全くとっていないじゃないですか。伊藤忠までは許せます。戦後は実業人として静かに生きていこうというのなら、個人の自由ですから、とやかく言うことはありません。それが臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうの、教育がどうの、という神経はもう許せません。私たち学徒出陣の世代だって、次代の人たちに負い目を持っているのに、瀬島さんは一体何を考えているのかまったくわかりません」と電話口で語気を強めた。その激しさに、私の方が驚いてしまった。』
著者である保坂正康氏は、同著作を閉じるにあたって274~5Pにかけてご自身の意見を次のように語られている。
『しかし、公人として日本の将来を語り始めた瀬島には、もう自らの軌跡、自らの責任を語るのを避けるという立場は許されないのではないだろうか。太平洋戦争で死んでいった兵士、なかんずくレイテ決戦で死んだ将兵たち、沖縄戦で特攻機に乗り込んだ学徒たち、シベリアで重労働のため晋だ兵士と民間人、ソ連への協力を拒否して雪原に消えた将兵たちーー彼らへの責任は、「語る」ことでしか果たせないはずだ。語らぬままに再び国民の将来を左右する公人であり続けるのは、不可解なことである。』
保坂氏が本書で書き記した数々の文章は、いまこの瞬間の現代を解き明かす上でも実に参考になる内容である。
私がこのコメントを取り上げた真意も、まさにそこにある。
日本人の美徳から、「責任」をとるという行為が消え去ってしまったのは何時の頃からなのであろうか?
日本の行政を牛耳る官僚が、「責任」をとらなくて済むようになったのは何時の頃からなのであろうか?
瀬島氏の華麗なる人生模様を解きほぐしていくと、現代日本の背負う「アヤマチ」の幾つもの要素が散りばめられていることに気づく。
そのアヤマチを正して行かない限り、日本は再び同じアヤマチを近い将来に繰り返し、多数の日本国民に悲劇がもたらされることがあり得るのではなかろうか?
その思いは、単なる私だけの杞憂に過ぎないのであろうか?
最後に、勇気あるノンフィクション作家・保坂正康氏に敬意を捧げたい。
本当だろうか?それならば、なぜ劣勢な兵力で4年も連合軍に対峙し、しかも日本本土で本土決戦も行わないで終戦にまで持ち込めたのだろう。よく言われるノモンハン事件もソ連側が日本側以上に被害を出したといわれているし、
評論家、歴史化の言うことはあてにはならない。戦後の視点で見ているだけだし、無責任な立場から言っているのにすぎない。
思うように解き明かしてくれました。現代史を教えてくれなかった教育界。批判大ですが、私の兄も教師でした。現代史に触れると「反省!」
今の私も 中学時代の恩師の影響を受けました。
要は同じ過ちをどうやって防ぐか でしょうね。
よろしく。
世界の恒久平和を祈ります。戦争は二度ど繰り返してはなりません。日本の平和が、社会規範とモラル、日本文化など良い面が生かされる社会を反映されるもので有ること、近代テクノロジーに毒されつつあることを危惧しております。
長文お許し下さい。
その『瀬島機関』の生存者が現在私の身近におられて
詳細を証言できるとしたら皆様はどう思われる
でしょうか。もしご関心があれば当記事コメント欄
にてご返答頂きたく。時々チェックしております。
ご関心無くばこのまま放置下さい。
身内の方が満州におりました。
お一人はシベリアから31年に帰国しました。
参謀本部の上位にいたと聞いております。
生前、戦時中のことを問いかけるには、幼くもあり、ためらいもあり、やっと一言たずねただけでした。
真実は、根底からくつがえされることもありうる現実もあり、未知の恐怖を含みますが、虚偽のうえに積み上げられてきた現実も存在するわけです。
自分自身、足りなかった問いかけを補おうと、文献・資料を検索しはじめました。自分につながる 未知の歴史と向き合おうとして・・。
ありのままの歴史については、検索できる道すじは残して置いてほしいと希望します。判断は後にあずけて・・
正か否かの判断は、(現在はどうなのか)世の中によってまったく異なることもにもなるのですから。