風に吹かれて、気の向くまま

人生折り返し地点を過ぎた下町男の思いつき。

76 京橋竹がし

2007年01月29日 | 今昔 江戸名所百景 
76 京橋竹がし


京橋の先に描かれている橋は、手前から炭屋橋(中ノ橋)と白魚橋で
竹河岸の裏に炭町があり、その先の右岸に白魚屋敷があった事から名付けられた。
白魚橋下流の左岸には本八丁堀、右岸には南八丁堀が続いていた。

白魚屋敷は、将軍に隅田川で獲れた白魚を献上した白魚役が拝領した屋敷。
(現 銀座ラフィナートホテル辺り)


江戸城の東側の外堀から、江戸湾までの通船掘として開削された八丁堀。
その八丁堀の上流を京橋川と呼び、京橋川と東海道が交わる橋を京橋と呼んだ。
京橋の名は、京都へ上がる街道にあるから、とか、京都三条の大橋に似ているから
などから名付けられたと云われている。

京橋より下流の北側は竹河岸と呼ばれ、河岸に竹問屋が並んでいた。


八丁堀、白魚屋敷(橋)の名前は、首都高速白魚橋入口や、地下鉄日比谷線八丁堀駅、JR京葉線八丁堀駅などに残る。



現在の京橋は、川も流れて居らず、通ってみても此処が橋であった面影は道路には無い。頭上には、東京高速道路が走る。(都内で初めての自動車専用道路)







近辺を歩いてみると、この写真の左手前に交番があり、その脇に京橋の親柱の説明看板と親柱があります。


『京橋の親柱』
京橋は江戸時代から日本橋と共に有名な橋でした。
橋は昭和34年(1959)京橋川の埋立てにより撤去され、現在では見られませんが
その名残をとどめるものとして、3本の親柱が残っています。~略



この史跡から日本橋川を渡ると、左手に江戸歌舞伎発祥の地に史跡があり
そこのチョットした広場は、一服するサラリーマンの溜まり場になっていました。
ついでに…オイラモ( ゜Д゜)y─┛~~


因みに…歌舞伎発祥の地となった京橋の中橋広小路にあった芝居小屋だが、
中村座(楽屋)から火事が発生した事で、現在の浅草6丁目辺りに移された。
詳しくは90 猿わか町よるの景を。

その広場から、通りをはさんだ向かいにも京橋の親柱が残り
その後ろには警察博物館がありました。


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