第四章 (銭湯で互いに話したカッちゃんが逝き、現れた峰子とデートする竹脇)
「川の流れる町」 (カッちゃんと銭湯に行き、お互いに過去の話をし、まぼろしを見る)
「おい、竹脇さん。退屈だろう。ちょいと出掛けねえか」
見知らぬ老人が、僕を覗きこんでいた。
「あのどちらさんでしたっけ」
「お隣さんだよ。あんたはまだ三日かそこいらだろうが、こっちはもう1週間になる。いやもう、ひまでひまで」
「せっかくのお誘いですが、ちょっと具合が悪いもので」
「具合が悪いのは俺も同じだよ。だが、あんた、退屈しねえんか」
「そりゃまあ、退屈ですが。お名前を伺ってもよろしいですか」
「ああ、そうだ。申し遅れました。榊原勝男と申します。カッちゃんでいいよ。あんた、マーちゃんだろ」
中略
「ちょっと、出ましょうか」
「おう、そうこなくっちゃ」
カッちゃんは、さも嬉しげに立ち上がってトレーニング・ウェアに綿入れの半纏、毛糸の帽子、様子は悪いが笑顔の綺麗な人だった。
僕の服装は紺のスーツに白いワイシャツなので、「もうちょいとマシな服はねぇもんかね」と、カッちゃんは僕の背広姿をしげしげと見ていた。
コートに腕を通しながら、隣のベッドを覗きこんだ。もう一人のカッちゃんが安らかに眠っている。
ナース・ステーションでは、夜勤の看護師二人が働いていた。
「こっちの若いほうが愛ちゃん。向こっかしの色っぽいのが児島さん」
児島さんと呼ばれた看護師と目が合って、僕はひやりと立ちすくんだ。親しみのある看護師だと思い、こうして遠目に見ると、身近な人のような気がした。
思い出した。荻窪駅から地下鉄に乗り合わせる人。間違いない。下車駅は新中野だった。
ナース・ステーション前の廊下では不安げな家族たちが囁き合っていた。
「俺にも、できのいい倅もかわいい孫もいるんだが、来なくていいと言ったんだ」
見え透いた負け惜しみである。
「それにしても、マーちゃんは大変だな。毎日毎日、とっかえひっかえ人が来て、泣いたり、騒いだり」
「お騒がせしています」
エレベータのボタンを押しながらカッちゃんは呟いた。
「死んじゃなりませんよ。まだ泣く人がいるうちは」
1階の夜間出入口で、カッちゃんは傘立てから、ビニール傘をいいかげんに掴み出して僕に渡した。
歩き始めると、じきにカッちゃんは思い出話を始めた。
「子供の時分にはな、他人様の傘をかっぱらって闇市で売ったものだ。ビニールなんざ、ねえ時代だから、傘は値打ちものだった」
「そのうち、靴泥棒も覚えてよ。そこいらの家の玄関や勝手口から、かっぱらうわけさ。ついでに傘もあれば御の字だ」
「あの、まだ小さかったんじゃないですか」
カッちゃんは答えず、「みんな、どうしているんかな。80まで生きられたかな」と呟く。
僕はカッちゃんの年齢を数えた。80歳ならば、終戦の年は9歳の子供だ。
交差点で青信号を待ちながら、カッちゃんは言った。
「ひと風呂浴びるか」
「は?」
「中野。高円寺。この辺りは関東大震災や戦災で焼け出された人が住み着いた人が多く、それで下町になったのだ」と言って、一人暮らしだった我が家に入っていった。
「お待たせ。ほい」
手拭石鹸箱を渡された。どうやら本気で銭湯に行くつもりらしい。
「 マーちゃんは、湯屋で育った口かい」
「はい、懐かしいですね」
家がなかったのだから、銭湯に通ったわけはない。だが、懐かしい思い出に満ちている。
施設の近くに、子供らを月に一度招待してくれる銭湯があった。また、高校生になって住みこんだ新聞配達店は銭湯通いだった。そして、子供の春哉にせがまれて、社宅のそばの銭湯にもときどき行った。
「おう、カッちゃん。遅いじゃねえか」
戸を開けたとたん番台から声がかかった。
「早え遅そえはこっちの都合だ。はい、二人」
カッちゃんと銭湯のおやじは、自然な会話を交わしている。
意識を失っている自分が、無意識下でも渇望しているものをリアルな夢に見ているのである。
空腹だったから、レストランでディナーを摂った。太陽と健康が欲しかったから、夏の入江を訪れた。そして、今は足を伸ばして熱い風呂に浸かり、三日分の垢をこそぎ落としたいのだ。
ガラス戸を開けると巨大な富士山が僕を迎えた。思わず、「おお」と声が出た。
「家の風呂より熱いだろう」
僕の表情を窺いながら、カッちゃんが訊ねた。
「こうじゃなくちゃ」
僕は熱い湯にザっと、節子はぬるま湯の長湯で、風呂の温度設定は揉め事の種だった。
肌にしみてくる。体がとろけてゆく。いったい何十年ぶりの銭湯だろうか。
ほかの客が出て行って二人きりになると、それを待っていたかのように、カッちゃんが悲しい告白を始めた。
「俺ァ、戦災孤児だった。昭和20年3月10日の晩のことは何ひとつ覚えてちゃいねえ。たった一晩で10万人が死に、100万人が焼け出されたんだ。そんな空襲の真っ只中にいて、何を覚えているはずもねえさ」
傘泥棒や靴泥棒が結びついた。
どうにか生き抜いて大人になったカッチャんは、東京オリンピックの年にこの町で所帯を持った。やがて飲む打つ買うのあげく、女房子供に愛想をつかされた。話に嘘がないとすれば、あらましそういう人生なのだろう。
「実は、僕も親がいなかったんです」
僕がそう言ったのは、カッちゃんが恥を晒したと思ったからだった。
「へえ。そうかい」と言ったり、カッちゃんは何も訊ねようとはしなかった。
「湯屋の板場荒らしでパクられてな。10かそこいらの身よりもねえガキだから、救護院に送られたんだが、じきに脱走して上野の野宿場(オンカバ)に舞い戻った」
「板場荒らし、ですか」
「いくつか齢上の峰子という女が共犯でな。番台のおやじが峰子に気を取られている隙に―――」
僕の湯気の向こうにまぼろし(カッちゃんら戦災孤児の)を見た。
男湯の戸がわずかに開いて、薄汚い子供が忍び込んできた。カッちゃんだ。
手近の脱衣籠から、衣類をごっそり抱え上げて逃げる。湯屋から駆け出したカッちゃんは、電信柱に隠れていた仲間にバトンタッチする。
「峰子は器量よしだけじゃなかった。俺たちゃ、みんな峰子の言いなりだった。役回りも分け前も、何から何まで峰子が決めた。誰も文句は付けなかった。割の合わねえ仕事でも峰子と一緒なら面白かった。俺ァたぶん、峰子に惚れてたんだ」
「初恋ですか」
「そうかもしれねえ」
中略
湯気の向こうにまぼろし(カッちゃんと一緒に竹脇自身の)が見えた。
――こんばんは。
子供らは脱衣場に入るとまず、番台のおやじにきちんと頭を下げて挨拶をした。
――はい、いらっしゃい。
懐かしい思い出である。
まぼろしの子らに目を細めながら、カッちゃんが言った。
「幾つまで居たんだね」
「中学を卒業して、新聞販売店に住み込んだんです。施設には高校生まで居られたんですが、ともかく外に出たくて」
子供らの姿が消えると、店主に連れられた坊主刈りの少年が戸口から入ってきた。
――これ、新入り。きょうからよろしく。
――あいよ。
番台のおやじは新聞を手にしたまま老眼鏡をかしげて、僕の面相をちらりと検めた。
「よろしくお願いします」と、言いかけて口を噤(ツグ)んだ。店主が湯銭をおごってくれた。金を払った客なのだから頭を下げる必要はないと思ったのだ。
そう思った途端、叫び声をあげたいほどの自由を感じた。
新聞販売店にもさまざまの規則はあったが、それれは新聞配達という仕事に付随する掟で、決して生活そのものを束縛するものではなかった。僕は生まれて初めて、思いがけない場所で「自由」を発見したのだった。
学校から飛んで帰って、夕刊の配達をして、勉強して、11時の仕舞場に行った。
自由を獲得した少年の姿が消えると、親子連れがやってきた。
――コラ、春哉。行儀が悪いぞ。
――なになに、危なくはありませんや。この頃の子供は、行儀が良すぎていけねえ。
土曜日の夕方には、春哉を連れて銭湯に行った。社宅に住んでいたころの習慣だった。
このまぼろしは見たくない。僕は湯船の縁に腰をかけて俯いた。
「どうした、マーちゃん」
「いえ」と、言葉を濁して、僕は洗い場に座り込んだ。鏡の中には、幸福な父と子のまぼろしがあった。
苦労を苦労と思わずに生きてきたが、これだけは別だ。春哉のおもかげが胸をよぎるたびに、たとえ、それが幸福な記憶であったとしても、息を止めて、俯いて顎を噛みしめてやり過ごさねばならなかった。
「はい、そっち向け」
カッちゃんが背中を流してくれた。垢が根こそぎ落とされてゆく。
「忘れなきゃ、てめぇが生きてけねえってこともあるぜ」
背中から僕の胸の奥を見透かされたのだろうか。それとも、幸福な父と子ののまぼろしは、カッちゃんの目にも見えているのだろうか。
「俺ァ、戦災した3月20日の晩のことを何ひとつ覚えてねえんだ。てめえで消してしまったのか、神様が忘れさしてくれたのか知らねえが、ハッと我に返ったら、焼け跡に立っていたんだ」
丁寧に湯をかけてから、カッちゃんは僕の肩をポンと叩いた。
「背中、流しましょう」
カッちゃんが痩せた背中を向けた。カッちゃんの肩と背には、いくつもの火傷の痕があった。
「灸を据えた見てえらしいな。焼夷弾の油が飛んだんだよ」
家も親も、自分の肉体までも焼かれた少年の苦痛など、想像の及ぶはずはなかった。忘れなければ生きられなかった出来事とは、そうしたものなのだ。
父と子のまぼろしは消えていた。僕はカッちゃんの背中に詫びた。
「さあて、暖まって出るか。どうだい、湯上りに一杯。川に蓋を着せちまった公園にな、くたばり損ないの屋台が出てるんだ」
いいですね、と僕は笑い返した。
銭湯を出て少し下った先に、リャカーを改造した古式ゆかしい屋台があった。
「いらっしゃい。アレ、あんた死んだんじゃねえんか」
「まだ死なねえよ。勝手に殺すな」
「倅かい」
「俺の隣のベッドにいる病院仲間だ。この人はでかい会社の重役さんだったんだがよ、命の目方は同じわけで、エリートもろくでなしも、死ぬときァ一緒だ」
タマゴ、昆布、ガンモ。適当に見つくろった割には僕の好みのネタが出た。
熱燗が喉にしみる。年齢と共に、日本酒の熱燗は世界一の酒だと、思うようになった。
「なあ、マーちゃん」
カッちゃんがふと目覚めたように語りかけてきた。
「他人の人生をとやかく言うほどえらかねえがよ。あんた、できすぎたぜ」
褒められたのか貶(ケナ)されたのか分からずに、僕は問い返した。
「おっと。言い方が悪かったな。あのな。そうじゃなくって、てぇしたもんだと思ったんだよ。親がなくても子は育つっていうが、あれァ嘘だ。だが、あんたは大学も出て出世した。てぇしたものだと言いたかったのさ」
「そんなことはありませんよ」
「あんた、親の顔を知ってるんか」
「知りません」
「ひでえ話だ。どうせそんなことじゃねえかと思ってたが」
「そうですかね。親を知らない子供よりも、親を忘れた子供のほうが可哀そうでしょう」
「忘れるほうがマシだろ。あんたの親はどうなんだ。もしや、生きてたんじゃねえのか」
「この話はもう止めませんか。せっかくの酒がまずくなる」
「おう。止めてやるからハッキリさせろや。どうして親の顔を知らねえんだよ」
「捨て子です。昭和26年のクリスマス・イブに捨てられました。12月15日という戸籍上の誕生日は推定です。誰が捨てたのかもしれません。知る必要もないでしょう」
それが僕自身の知る出自の全てだった。
このことは妻にすら伝えていない、女の胸にはひどすぎる話だと思うからだった。
最も憎むべき父と母の顔も名前も知らない。それと同時に、最も愛すべき人々の顔も名も知らないということだった。
ふと、65年の人生は短すぎるな、と僕は思った。
捨て子の境遇が幸福だなどと、強がりにもほどがある。正しくは不幸を挽回したのだ。
だが、65年で終わったのでは、帳尻が合わない。人の人生が均等な禍福であざなわれているとするなら、この先まだ15年や20年の幸福な時間が、余っていなければおかしいと思う。
それとも、そう思うのは我がままなのだろうか。命が尽きようとするときには誰もが、その人生の幸不幸の容量とはかかわりなく、同じ欲を抱くのだろうか。まだ帳尻が合わないと。
「俺ァ、もうたくさんだよ。九つで焼け死ぬはずが、80まで生きたんだ。ここで命乞いなんぞしたらおめえ、ただの欲張りじいさんじゃねえか」
カッちゃんは勘定を済ませると、屋台の暖簾を分けた。歩き出した途端、街路樹の濡れた幹に縋りついた。
第四章「赤と白の列車」に続く
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