「新章 神様のカルテ」
「あらすじ」
「第二章 青嵐」 その3
<外来、病棟、ベッド管理と多忙な月曜の午前の勤務>
月曜日の午前中は、私にとって外来の日である。外来が始まったとたん番長から「月曜の朝からすみません」と、呼び出しがあった。
第四内科病棟の個室のトイレが真っ赤になっている。
私は背後のベッドを振り返った。
「いや、大したことはないんですけれどね。久しぶりの血便でして」
ベッドの上で苦笑を浮かべつつそう言ったのは潰瘍性大腸炎で入院中の岡さんだ。
潰瘍性大腸炎は比較的若い男性に多い、原因不明の疾患である。大腸に潰瘍ができて、しばしば血便や腰痛を起こす。20代で発症する患者も多いが、岡さんは42歳で診断された。半年ばかり、近くの病院で治療を受けていたが病状が安定せず、2か月ほど前に大学病院に紹介されて来たという経緯である。
私は番長に血液検査はとったかと訊くと、「まだです。オーダーします」と言って病室を飛び出していった。
岡さんは、大学に来てからの2か月間も大量の血便が出るたびに入退院を繰り返しており、病院という環境にも慣れてきており、研修医の番長を見守る岡さんの目には不安やわずらわしさよりは親しさがある。ありがたい存在だ。
一通りの診察をする。血圧は落ち着いており、貧血は目立たず、腹部所見もない。
「ステロイド(ステロイドホルモンを薬として使用)を減らすとすぐに症状が憎悪します。やはり免疫抑制剤を使わなければいけないかもしれません。明日にでも大腸カメラで確認の上、追加の治療を考えます」
「また薬が増えるんですか ? こいつは厄介ですね。カメラのための絶食のほうは了解です」
岡さんは、痩せた肩をすくめてそう応じた。
とたんに白衣のPHSが鳴り響いて、当方も胸中ため息が漏れる。確認するまでもなく外来からの呼び出しである。すでに30分以上、外来を止めている。
私にとって、月曜は鬼門である。
しかも、この厄介な外来の日に限って、利休が外勤で大学内にいない。
自然、病棟で何か問題が起これば外来に直接電話がかかってくることになり、私は外来棟と病棟とを無闇と往復する1日を過ごすことになるのである。
宇佐美先生からの突然の呼び出しの電話がかかってきたのは、かかる困難な午前中をようやく乗り越えた午後2時過ぎのことだった。ほっと一息ついて気が緩んだ瞬間をとらえた絶妙のタイミングであったのは、いかにも一流の策士である宇佐美先生らしいやり方だ。
「少し疲れているようだね。栗原先生」
准教授室に入ってきた私に、御家老は第一声を投げかけた。
「実は君の第3班にいるある班員について、いくらか私は困っている。先日の胃瘻の患者の件のときも手数を要したが、今回も例の10歳の子供を早く退院させるよう指示したものの、まだ無理ですの1点張りだ。彼は大学病院のルールというものを理解していないようだね」
何が "君の第3班にいるある班員" だと私は胸中悪態をついた。
「病棟の古見病棟長からも、第3班の患者の平均在院日数が長すぎるのではないかという提言が来ている。あの進行膵癌の女性患者についてはやむを得ない。潰瘍性大腸炎の患者も仕方がないだろう。しかし、重症膵炎の患者(青島さん)は熱が出ていても全身状態は良いはずだ。紹介元の病院に戻しない。10歳の少年についても、診断がつかず退院が難しいなら小児科に転科を依頼しなさい」
淡々とした声が、反論を許さぬ圧倒的な存在感を伴って響いてくる。
冷房の効いて涼しい准教授室で、額になぜかかすかに汗が浮かんでくる。
「明後日には、第1班に肝移植予定の患者が、第2班に重症の自己免疫性膵炎の患者が入院してくる。ベッドに余裕がないから」
パンの数が足りないということだ。
「努力します」の返答に「努力の有無は問わない。結果が全てだ」
<家に帰りたいが、親から嘘を押しつけられていて帰れない拓也君>
「いよいよ、ややこしいことになってるみたいだなぁ、栗ちゃん」
実験室に逃げ出してきた私を、まるで待ち受けていたかのように北条先生が迎えた。
「午後の仕事をさぼって実験なんか始めてていいのかい ? 」
「院生が一人現場から消えたところで大勢に影響はありません。先生こそ、こんなところで昼寝をしていても良いのですか ? 今日の午後は医学部の講義があったはずですが」
「休講にした。それより、散々パン屋にいじられた栗ちゃんは、とてもストレスが溜まっているな」
私はなるほどと胸中首肯(しゅこう)した。
大学病院という場所はまことに奇妙な空間である。「病院」の2字がついているものの、この病院はただ来院する患者に対応しつつ、アルバイトや外勤の名の下に、普段から恒常的に他の病院の診療にもかかわって、多くの医師たちが院内と院外を往来している。かかる体制だけでも特異であるのに、その間に研究を行って論文を書き、学生や研修医に対する教育を行い、しかも、ベッド数の管理などという事務仕事まで医者が行う。
北条先生は第3班の班長でありながら、いくつもの実験プロジェクトを抱え、学会に参加すべくあちこち駆け回り、その足で学生講義まで受け持っている。
第1班班長の柿崎先生などは、せっかくの休日に他の病院のERCPに呼び出されている。
あまりも多くの都合が交錯し、しかもその複雑な体制を維持するための目に見えないルールが張り巡らされて、誰もががんじがらめになっているのである。
「おかしいよな、こんな環境は。それでも大学ってすげぇところなんだよ。俺は大学に敬意を払っているんだぜ」
にやりと笑ってそんな掴みどころのない返答をして北条先生は口調を切り替えた。
「ここはひとつパン屋の顔を立てて、患者の退院を急がせるってもんだな。例の長引いている膵炎を元の病院に転院させるか、10歳の子供をとりあえず退院させるか、それだけでも、パン屋は静かになるだろう。正義感にあふれた利休先生のほうは、宇治の抹茶でもプレゼントとして慰めてやってくれよ」
「お気遣いは不要です」との声に北条が振り返ると、実験室の戸口に件の利休の姿が見えた。
「夕方の病棟回診の時間ですので、先生を探しに来ました」
ここまで来なくてもと、私は白衣のポケットからPHSを取り出してみると、電池が切れていた。
「立川先生も病棟で待っていますので、行きませんか」
病棟の裏口近くの芝地に、車椅子の拓也君とそれを押す白衣の番長が見えた。
「立川先生、何をしているんだ」
「拓也君がどうしても外を散歩してみたいって言うものだから」
「たしかに独りで詰将棋をやっているよりは、散歩のほうが気も晴れるだろう」
「でも先生と一緒にやった将棋は楽しかったよ。またやろうよ」
「いつまでも病院で将棋ばかり指しているわけにもいかない。お母さんも心配しているだろう」
「心配なんてしていないよ。いつも仕事仕事で家に帰ってこないし……」
寂しそうな顔になる拓也君の横で、利休が控えめに頷く。
「僕のことなんてどうでもいいんだよ、ママは」
私が軽く目を細めたのは、子供らしい投げやりな声の片隅に、子供らしくない諦観が垣間見えたからだ。
「だから明日も将棋やろうよ、先生。どうせ僕が帰りたいって言ってもママが来なけりゃ退院できないんだし」
「妙なことを言う。退院の可否を決めるのはママではない。我々だ」
私の声に、少年は一瞬、間を置いてから「退院できるの ? 」と不思議そうな顔をする。
「家に帰ったとたん、百円玉を飲み込んだりしなければ、問題ない。もちろん五百円玉も駄目だ」
私が絶妙のユーモアを投げかけても、少年の様子は今一つ冴えない。
「帰りたくないのか ? 」
「帰りたいけど、先生たちがいいって言ってくれても、ママはダメだっていうよ。ちゃんと問題ないことが分かるまで病院に居ろって。昨日だって電話で大喧嘩したばかりだもん」
「大ゲンカ ? 」
「そうだよ。ママは僕が病院に居たほうがいろいろ楽なんだ。家にパパじゃない男の人を連れてくることもできるからね」
少年が突然投げ込んだ爆弾に、利休と番長はぎょっとした顔になる。
「……なるほど」
大仰に頷いて見せた。
「それで百円玉を飲んだのか」
黙って見返す少年に向けて、私は静かに語を継いだ。
「ろくに家に帰ってない母親の注意を引きたくて騒動を起こしたわけだな」
返事がない。しばしの沈黙ののちに、拓也君はポツリと問うた。
「怒ってる ? 」
「怒りはしないが、言っておきたいことがある。確かに母親の勝手な都合で君を放置しているのかもしれない。しかしだからといって、君が君の都合でたくさんの人に迷惑をかけてよいわけではない。少なくとも今の君には母親を非難する資格は微塵もない」
翌日の朝のステーションの前に、見慣れぬ女性が一人立っていた。背後に落ち着かない様子の拓也少年の姿もある。
私に、利休が感嘆したように呟いた。
「昨日の今日でいきなり子供を迎えに来るなんて電話一本でどういう手を使ったんですか ? 」
「大したことは言っていない。ただ拓也君が家に帰りたがっていることを説明したうえで、" 二人もパパがいるとお忙しいでしょうが、お子さんを迎えに来る暇はあるでしょうか "と問うてみただけだ。あとは先方が明日連れて帰りますと応じてくれた」
端末の前でカルテを入力している番長がその手を止めた。
「第三章 白雨」に続く