T.NのDIARY

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「秋月記」を読み終えて!! ー1/6ー

2013-01-22 12:58:25 | 読書

「本書のあらまし」

 2012年146回直木賞受賞作家・葉室麟の受賞3年前の時代長編小説。

 「筑前の小藩・秋月藩で、専横を極める家老・宮崎織部への不満が高まっていた。間小四郎は、志を同じくする仲間たちと共に糾弾に立ち上がり、本藩・福岡藩の援助を得てその排除に成功する。藩政の刷新に情熱を傾けようとする小四郎だったが、家老失脚の背後には福岡藩の策謀があり、いつしか仲間との絆も揺らぎ始めて、小四郎は一人捨て石となる決意を固めるが……。」(裏表紙より)

 「本藩の福岡藩とその支藩の秋月藩の間には様々な確執というより、もっと有体に言えば、本藩が支藩を自らの傀儡にしようとしているが、秋月藩側の必死の努力により、辛うじて阻止されているという事情がある。こうした微妙な政治状況の中、物語の前半は主人公間小四郎をはじめとする8人の若き藩士たちが、専横を極める家老宮崎織部を権力の座から放逐する政変《織部崩し》を中心に描くことで進んでいく。小四郎は幼い時は怯懦で、剣の師・藤田伝助の「臆病者の剣を使え」という逆説の指導により、心身両面の弱さを矯めていく。

 本当の物語は、実は織部崩しの後から始まる。百姓娘・いとが葛作りを藩財政の打開策として小四郎に提案したり、藩政を維持すべく宮崎家老同様捨て石となる決意をした小四郎を優しく包む猷(みち)の漢詩などが読者を魅了する。」(解説より)

 《登場人物》→小四郎と志を同じくする幼馴染6人(全員総領)

 伊藤惣一 : 100石上士の家柄、藩校の友、長じて惣兵衛、吉左衛門と名乗る。

        最後は中老となる。

 手塚六蔵 : 180石上士の家柄、藩校の友、長じて安太夫と名乗る。

         政変後、勘定奉行となる。

 坂田第蔵 : 十数石の軽格、藩校の友、一緒に江戸遊学。

         政変後、銀奉行となる。

 坂本  汀 : 十数石の軽格、藩校の友、一緒に江戸遊学。

         政変後、御納戸頭取となる。

 手塚龍助 : 十数石の軽格、藩校の友、一緒に江戸遊学。

         政変後、御留守居添役となる。

 末松左内 : 藩校の友、政変後、御納戸頭となる。

                                              

「あらすじ」

 支藩の秋月藩が財政窮乏の中、本藩福岡藩の自分らの操り人形としての支配から、自立するために小四郎たちが必死の努力をしていくその出来事と、その過程で、小四郎と幼馴染の友が執政の中枢に入った頃は政事に対する意見の齟齬をきたしていき、小四郎が宮崎織部と同様に捨て石となって幽閉されるといったところにポイントを置いて、以下にあらすじを纏めました。但し、本書では小四郎が老年に幽閉されるところから回想の形をとっていますが、時の流れ通りに直しました。そして、いつものように心に残った文章等を『』で記述しました。

「第一章」

ーー 小四郎は無類の臆病者だったが、

       父や剣の師匠によって勇気をもっ武士に成長 --

 小四郎は、秋月藩200石、吉田家の次男として生まれた。

 父親は豪胆で精悍な人物だったが、小四郎は臆病者で、大きな犬に吠えられて怯え、一緒にいた妹を助けることができず、妹は恐怖で発熱し種痘が受けられず死亡した。その事について、後年まで自責の念に駆られていた。

 父から、「恐ろしいと思うことは恥ではない。それを乗り越えることで人は勇気を持つのだ。」と言われ、「逃げない男」になりたいと思った。

 10歳になった小四郎は、藩校の稽古館で剣術の稽古に励んだ。師範の藤田伝助から真剣での形稽古を毎日行えと指示された。それによって「臆病者の剣」を使えと言われ、「臆病者だと諦めてしまえ、怖いが為に夢中で剣をふるうのだ、されば無心になれよう。」と教えられた。

 やがて、臆病で寡黙であった小四郎も頭角を現して、伊藤惣一、手塚六蔵などと友情を結んだ。

ーー 夫婦養子の縁組と江戸遊学が決まる小四郎 --

 小四郎は元服し、剣の腕前も目録まで進んだ。そして、250石の間家の夫婦養子になることになった。嫁は間家の遠縁の娘・もと、器量も気立ても評判の女だった。

 しかし、その縁組が2年間延期になった。小四郎が江戸遊学の機会を与えられたのだ。小四郎の他に坂田第蔵、坂本汀、手塚龍助の稽古館の仲間が一緒だった。

「第二章」

ーー 後年まで親友となる海賀藤蔵と会う --

 小四郎は江戸で新道無念流の道場に入門した。そこで伊賀同心だった柔術の海賀藤蔵に出会い、後年まで親交を結んでいくことになった。

ーー 当時の秋月藩藩政の情勢 --

 当時、秋月藩では筆頭家老の宮崎織部と家老の渡辺帯刀の専横ぶりが取り沙汰されていた。織部が七代藩主長舒の世継に力を尽くしたことから、藩主の信頼を得ていたし、帯刀は織部に常に迎合していたので、織部の権力は揺るぎないものがあった。

 また、藩主長舒は中興の祖とも言われていたが、治世19年の終わり頃は、藩主が政治に倦んだ気配があると囁かれていて、2200石の身分でもある織部が、これに付け込み藩政を牛耳りつつあるのだと言われていた。

 第蔵なんかは、「宮崎家老は君側の奸で、専横を許せば御家が危ない」とまで言っていた。しかし、当時の小四郎は政事の意見を問われると、「自分の怯懦を憎むだけで、そのため剣の修行をしているのだ」と言うだけだった。

「第三章」

ーー 小四郎は、石橋建設の裁可状と

      第蔵の内儀への手紙を持って帰国 --

 藩では、国元に急使をたてる必要ができて、小四郎がその役で帰国を命ぜられた。

 江戸からの書状は、建議が出されていた石橋建設について、財政窮乏の折りにと反対論もある中、在府中の藩主からの裁可がおりたことを宮崎家老に伝えるものだった。その石橋は長崎に幾つかあるオランダ橋と同様のものだったので、吉田の家などでも評判になっていた。

 翌日、間の家に行った後、第蔵からの内儀宛の手紙を預かっているので持参する予定だと言うと、もとも同伴すると言うので何故かと思っていたら、夕刻来宅した惣兵衛と安太夫から、第蔵の新造・とせには不義密通の噂があるのだと聞く。相手は福岡藩の鷹匠頭の子で、宮崎家老の推挙により藩士となった姫野三弥との噂だった。

ーー 第蔵の内儀・とせの哀しい死亡 --

 次の日に小四郎は稽古館に行き、藤田師匠に帰国の挨拶をした。たまたま三弥が来ていて稽古の相手をすることになったが、得体の知れない男だと戸惑いを感じた。

 10日後、安太夫が訪ねてきて、とせが若党と駆け落ちしたと知らされた。

 後日、とせは遊女屋に売られ、その後に、病人の職人と心中したのだ。

 その事を聞いた小四郎には、やり場のない怒りを抱えた第蔵の思いを痛いほど感じた。

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