T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1395話 [ 自分史「―温故知新―」 17/? ] 12/14・木曜(晴・曇)

2017-12-13 13:57:08 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                         

8. 再度の現場2 (局長)

(1)「天国と地獄」

 電電公社が民営化する2年前の昭和 59年(1984)2月に、愛媛県の山間部の局に機関長として赴任した。長女がまだ高校生だったので、初めての単身赴任である。

 局の管轄区域は、2町3村に跨っていて、香川県の1/3と広いので、人口は少ないが、社員は90名と割合に多かった。

 局舎は愛媛県と高知県の県境の海抜700mの高原に存在していて、厳冬期には、1,2回、朝の気温が-15℃にもなり、ダイヤモンドダストが見えるほどで、そんな寒さのときの朝は、窓ガラスにできた結露が凍ってカーテンが窓ガラスに凍り付くこともあったし、朝、目が覚めた時に部屋の中で吐く息が白く見えるほどであった。

 だから、年末年始に帰郷で社宅を留守にするときは、水道管がが水で凍らないように少し出しっぱなしにしておくのだ。

 当然、積雪もあり、玄関から道路までスコップで除雪したことも度々あった。

 そんなことから、赴任前にわざわざ友人の前任者から寝具は十分に準備し、寝るときに使う毛糸の帽子も用意した方が良いよと教えてくれた。私は綿入れの丹前と半纏も用意し、これが大いに役立った。

 そんな寒さのため、社員や町民の方と酒を飲むことも多かったが、飲み屋から家までの10分ほどの道のりなのに、家に帰りついたときは酔いは醒めてしまっていた。

 夏は、その代わりに、夜は冬の上布団が丁度良いぐらいであった。また、ゴルフ場も、町内に、車で10分もかからない処に2個所もあって、夕方には涼しい風が吹くので、毎週通っていて、いい休養になった。

 しかし、生活の上で苦労したことが二つあった。

 一つは、社宅が一戸建ての平屋で、大層広い庭がついていたので、年3回は除草しなければならず一人では無理で、その度に、他県から泊りがけで妻が除草の手伝いに来てくれた。大変だったろうと妻に感謝していた。

 もう一つは、休日の食事であった。朝食はパン食で済ませていたが、昼食と夕食は食堂を利用していたため、食堂が休みの時は、今のようにコンビニもなく、パンに缶詰だけの食事となった。

 局情について記述すると、社員は、全員が真面目で礼儀もちゃんとしていて町民にも親しみを持たれていた。一例をあげると、冬のどんなに寒い日でも、外で仕事をする線路社員は全員、安全のため始業前にまず外で体操をしていた。他の課の社員も大半が同じ行動をとっていた。

 前任地でありえなかったが、組合員の社員と酒を飲むこともあり、天国と地獄の違いであった。そんな事から労務対策にはまったく苦労することはなく、ために業務にも大いに取り組むことができた。業務のことは次の項で記述する。

  次に、「町の電報電話局」へ続く

 

 

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