シドニーの風

シドニー駐在サラリーマンの生活日記です。
心に映るよしなしごとをそこはかとなく書き綴ります…祖国への思いを風に載せて。

新年に向けて

2008-12-31 21:04:59 | シドニー生活
 31日には、恒例のハーバー・ブリッジNYE(ニュー・イヤー・イブ)花火大会が行なわれました。9時からはファミリー向けに、深夜カウントダウン後は豪華版が文字通り華々しく打ち上げられました。オペラ・ハウス、ハーバー・ブリッジ、ダーリン・ハーバー、更に北岸のミルソンズ・ポイントやタロンガ動物園界隈まで、朝から物凄い人出だというニュースが流れていました。シドニー・ハーバー周辺で推定150万人、花火の量は5トンと言われます。我が家も出掛けたかったのですが、明日朝が早いため、おとなしく自宅で観賞しました。上の写真は、ちょっと寂しいですが、自宅バルコニーから撮ったもの。手前の白く光る家の上にハーバーブリッジが微かに見えます。
 2008年最後のブログは辛口ではなく前向きに、この花火とともに、新らしい年は、人・地域・国それぞれに幸多かれとエールを贈ります。

年の瀬

2008-12-31 07:55:18 | シドニー生活
 昨日、残務処理のため半日だけ出勤しました。いつもは30分かかる通勤路は、交通量が十分の一で、殆どブレーキを踏むことなく、ものの15分で到着しました。近所のレストランでも、クリスマスあたりから二週間、場合によっては三週間以上も閉店するところが見られます。もともとオーストラリアは国民の祝日が少ないため、独自に休暇を(長く)取る傾向にありますが、こうしたところにもヨーロッパの文化が生きているように思います。
 真夏の年越しは、常夏のペナンで三度、今年のシドニーを含めると4度目になります。いつの間にやら季節感のなさ、あるいはミスマッチに慣れてしまいましたが、やはりコタツで過ごす年越しが懐かしい。
 日本の今年一年を象徴する漢字は「変」でした。漢字文化圏では、似たような発想をするのか真似するのか、台湾における一字は「乱」で、韓国における四字熟語は「護疾忌医」だったそうです。韓国の場合には所謂識者アンケートで選んだもので、病気にかかっても医者に行かない、問題や間違いにも周囲の忠告を聞かない意で、体制批判的な表現になっていますが、結局、世の中で起こったことが「変」であり「乱」であったことを暗示することに変わりありません。問題は起こるもの、その対応を誤るとすれば人災と言えます。しかし如何に政治と言えども、私たちが選択したものであり、私たち一人ひとりの危機意識や危機対処能力を反映したもの、つまり民度を映す鑑と考えるべきです。その意味で、政治を批判するのは天に唾するようなもの、つまるところ自己批判となりかねないことを弁えた方がよい。
 最近のNHKニュースを見ていると、派遣切りなる新語が出てきて、解雇される派遣労働者を守るキャンペーンでも張っているかのようです。もともと派遣労働者とは雇用が安定しないもの、もし企業が契約に則って行動していないのであれば追及すべきですが、そういう話は聞きません。それだけ派遣労働者の比重が増え、社会に与えるインパクトが大きくなった証拠だろうと好意的に解釈し、社会としてこうした人たちを守る動きは歓迎しますが、当の本人たちに被害者意識が強く依存心が高まっているのではないかと気になります。この最後の言葉は、派遣労働者だけに限ったものではありません。私たち一人ひとりがネガティブな意識をポジティブな行動に転換しない限り、地盤沈下する今の日本の状況は変わりそうにありません(これはまさに自戒するところ)。そんなことをつらつら考える、今日は大晦日。シドニーでは、抜けるような青空が広がっています。ちょっと身辺の掃除をして、心身ともにすす払いすることにします。

メルボルン紀行(下)落穂拾い

2008-12-29 20:10:00 | シドニー生活
 最後の日は、朝、散歩がてらフリンダース・ストリート駅まで歩いて(昨日の写真の通り)、カフェで朝食を取り(とカッコ良く言いたいところですが、実際に立ち寄ったのは子供が好きなマクドナルド)、ホテルをチェック・アウトした後はメルボルン・ミュージアムに行きました(これも子供のリクエスト)。そこの駐車場代が終日10豪ドルなので、そこを拠点に、州会議事堂やその裏手の聖パトリック大聖堂まで散歩したり、中華街で昼食を取ったりしました。この州会議事堂は、1856年建造のコリント様式で、1927年に首都がキャンベラに移るまで連邦議事堂として使用された由緒ある建物です。聖パトリック大聖堂の方はゴシック様式で、1858年から80年以上かけて1940年に完成し、内部のステンドグラスが素晴らしいことで知られますが、この日は大事な行事が入っていて(恐らく著名人のお葬式)、残念ながら拝観できませんでした。
 今回の旅行では、海岸通りを走ること、フリンダース・ストリート駅(「魔女の宅急便」!)を見ることの二つが主目的でしたが、もう一つ、カンガルーやコアラに注意!の道路標識の写真を撮ることも隠れた目的の一つとしていました。以前のキャンベラ紀行では果たせなかったその目的を果たすとともに、実際にいろいろな野生の動物たちに出会えたことも大きな収穫でした。
 初日の夜に泊まったのは、Apollo Bayそばの高原にある山荘でしたが、翌朝、コアラが20mほど先の藪の中に駆け込むのを偶然見つけました。カンガルーはまたしても道路傍に転がっている不幸な姿を見ただけでしたが、ペンギン・パレードのツアーでは、時間潰しに海沿いの高原の道をゆっくり走ってくれて、野生のワラビーを見ることが出来ました。そして、ペンギンはどこの動物園でも水族館でも見ることが出来ますが、野生のペンギンだけは南半球でしか見ることが出来ません。
 家族旅行を企画する者として何が嬉しいかと言うと、子供が喜んでくれるのが何よりも嬉しい。顧客満足度ならぬ子供満足度で、結局、その旅行が成功したかどうかが測られます。勿論、知らない土地を旅することは私自身も大好きで、自分の興味の対象もあり、それが子供の興味と一致するとすれば幸運なことですが、到底そこまでは期待できません。そういう意味で、今回の旅行は、子供を楽しませながら自らも楽しむことが出来た珍しいケースと言えます。その鍵となった最大の共通項は、恐らくどこの親子も同じだと思いますが、自然でした。オーストラリアの雄大な、神聖とも言える自然に抱かれ、その懐に触れて、その厳しさと暖かさを体感し得たことは、とても幸せなことでした。オーストラリアという国の豊かさを再び実感した旅となりました。

メルボルン紀行(中)Penguin Parade

2008-12-28 21:40:15 | シドニー生活
 さて、二日間かけてWarrnamboolまで行き、三日目に内陸の高速道路を突っ切ってメルボルンまで戻ってきた私たちは、休む間もなく、その夕方、メルボルンから南に車で約1時間半のところにあるフィリップ島まで、野生のペンギンを見るツアーに参加しました。
 今回、フライトだけは早めにJet Starを押さえて、余裕綽々だった私は、世の子供たちがSchool Holidayに入ったクリスマス休暇を甘く見ていたようで、ホテル予約ではすっかり出遅れてしまい、目ぼしいホテルは完売で、仕方なくStamford Plazaという、値段だけは高くて豪華だけれどこれと言って特徴のないシティ・ホテルに泊まることにしました。さすがにこういったホテルは日本人観光客が多いらしく、ロビーの一角にJTB提携のツアー・デスクがあり、日本語が話せるスタッフが常駐していて、日本語のペンギン・ツアーは売り切れていましたが、現地のツアーを予約してくれたのでした。
 夕方5時半、バスが出発するやいなや、いきなり飲・食料品の持込み禁止、写真・ビデオ撮影も禁止などとうるさいことを言われます。大人120豪ドル、子供60豪ドル、家族4人で360豪ドルもかけているのですから、俄然、見る目は厳しくなります。現地の食堂で高い夕食代まで払って、すっかりツアー側の思う壺の私たちには、既に海岸ベリの座席は埋まってしまって立見席しか残されておらず、半ば自棄気味に待っていたのですが、ペンギン・パレードが始まると、厳しい目はどこへやら、いつのまにかメロメロで、すっかりペンギンたちのとりこになっていました。
 人間の観客席は、あたり一面にペンギンの巣がある丘の中を細い一本道で通り抜けて、浜辺までせり出している形ですが、勿論、野生のペンギンですから、パレードと呼ばれても、そうすんなりと行進してくれるわけではありません。夜9時過ぎ、あたりが夕闇に包まれ始めた頃、ようやく第一陣の八羽が海からあがりました。毎日のこととは言え、約100人、200の瞳が闇夜に目を凝らしているわけですから、ペンギンたちも警戒してなかなか動き出す気配がありません。一同、何やら対策を協議しているようにも見えます。その内、意を決して、一斉に動き始めました。えっちらほっちら、人の視線を気にするかのように、ネグラを目指して、小走りに進みます。その成功を見届けたわけでもない第二陣が海からあがると、またしても全員で何やら協議しているかのように、立ち止まり、また海に戻ったりと、警戒しているのが見えます。その内、意を決して、ネグラを目指して一斉に歩み始めます。時折、立ち止まってじっと硬直したように見えるのは、実はフンをしているだけだったりする、とってもお茶目なペンギンたちです。海の中は冷えたのでしょうか。観客席で座って遠目に見るよりも、沿道に立って間近に見るペンギンたちが、とてもかわいい。10時出発までの小一時間は、人間の方が気を遣ってひそひそ声で、ペンギンたちがネグラを争っていがみ合う声が響く中、灯明の横をひょこひょこ通り過ぎるペンギンたちの姿は、幻想的ですらあり感動的でした。
 なおこのツアーには20豪ドル程の差の二種類の料金設定がありますが、高い料金の方がペンギンたちの通り道に近く、断然、お得です。一方、日本語ツアーの方は、恐らく、シティのST. Kildaの桟橋近くの石垣に棲んでいるペンギンたちを、海の上からボートで見るのだろうと思われます。いずれも世界最小、体長30センチほどのフェアリー・ペンギンで、フィリップ島には1万5千羽が棲んでいると言われます。
 残念ながら可愛いペンギンたちの姿を写真で披露することは出来ませんが、今回の旅行で、もう一つの目玉だったフリンダース・ストリート駅の時計台(例の「魔女の宅急便」に登場した時計台のモデルと言われるもの)の写真を添付します。

メルボルン紀行(上)The Great Ocean Road

2008-12-28 01:02:38 | シドニー生活
 オーストラリアは、25日(クリスマス)に続き26日(Boxing Day)も祝日で4連休だったので、School Holidayで退屈している子供たちを連れてメルボルンに行ってきました。一足早く24日も休暇にして、三泊四日で、今日、帰宅したところです。本稿タイトルはメルボルンですが、メルボルン市街に滞在したのは丸一日だけで、残り三日間は、レンタカーを借りて郊外の海岸沿いのドライブを楽しみました。
 メルボルンの西南Torquayから更に西のWarrnamboolまでの約300Kmにわたる海岸沿いの道はThe Great Ocean Roadと呼ばれ、所謂12使徒をはじめとする奇岩群や、日本人にはちょっと珍しい美しい断崖絶壁や、日本人には懐かしい美しい砂浜が続き、景勝の地として有名です。波が荒いため、Torquayなどサーフィンのメッカになるとともに、激しい波が描く模様が奇岩群を写す写真に彩を添えます。西の果てWarrnamboolは鯨の街としても有名で、その途中にはOtway国立公園の自然が残り、カンガルーやコアラや色とりどりのオウムなど野生の動物の宝庫になっています。
 私たちは子連れの旅のため、途中Apollo Bayで宿をとり、Warrnamboolまで丸二日かけましたが、大人だけなら一日で十分走れる距離ですし、メルボルンのダウンタウンから昼出発して夕焼けの12使徒を見て真夜中に再びメルボルンに戻る半日ツアーもあるようです。
 インターネットで調べると、このThe Great Ocean RoadはカリフォルニアのRoute 1にも比すべき美しさだと評する声もあり、ちょっと期待していたら、大いに期待を上回る素晴らしさでした。ご存知の方も多いと思いますが、アメリカなどはプライベート・ビーチが多いため、海岸沿いの道を探そうにもなかなか見つかりません。そうした中で、Montereyから南のロサンゼルスに向かうRoute 1は、Big Surと呼ばれる美しい海岸を走り抜け(マラソン大会も開かれ、アップ・ダウンが多い難所です)、途中にはアザラシが生息する自然も満喫できて、私のアメリカ滞在中、最も思い出に残るドライブの一つでした。このThe Great Ocean Roadも、世界で最も美しいドライブを楽しめる海岸道路の一つであることは間違いありません。いつもなら滅多なことでは興味を示さず、キャンベラ旅行で何が楽しかったかって(キャンベラは子供には退屈な街ですが)砂浜で砂遊びしたのが一番楽しかったと答えた下の娘が、12使徒の奇岩群を見て、あっと感動の目を見開いたほどです。ご覧の通り、日々、侵食が続いていて、上の写真の手前にさも崩れたあとの残骸らしきものが見えますが、買った写真集を見ると、確かに2005年に大きな柱が崩壊したのだそうで、あと数年、数十年すれば、また表情を変えているかも知れません。
 好天にも恵まれ、日焼け止めで武装していた子供たちはケロッとしていますが、Scenic Outlookで車を止めて、ちょっとした散歩をした程度のはずが、私のオデコはすっかり日焼けしてしまいました。それだけオーストラリアの紫外線は聞きしに勝る強さだということでしょう。くれぐれもお気をつけ下さい。

「魔女の宅急便」

2008-12-23 20:48:06 | シドニー生活
 映画ネタが続きます。今回は、オーストラリアにおける映画そのものではなく、オーストラリアが日本のアニメに材料(風景)を提供しているという話です。
 アメリカの映画・娯楽産業は世界を席捲していますが、その中で唯一頑張っているのが、麻生総理お気に入りの日本のアニメではないでしょうか(もっともアメリカ中心をグローバル・スタンダードと思い込んで、ヨーロッパ圏の文化に触れていないだけのことかも知れませんが)。アメリカにも「スーパーマン」や「スパイダーマン」はじめコミックがありましたが、アニメとなると、ディズニーですらかつての勢いはありません。これを以って、アメリカにおいては、コミックやアニメすら初めから商品の如く不特定多数の流れ作業で生産されたからだと評した人がいましたが、制作形態はともかくとして、そこに商品としてのコミックなりアニメの個性(商品力)を守り続ける意志が弱かったのは事実かも知れません。それに引き換え日本では、サザエさんにしても、ドラえもんやクレヨンしんちゃんにしても、もはや一人の作者の枠を越えて、一種の公共財としてプロダクション(グループ)によって制作され、最近は中国や韓国に下請けに出しているものも見かけますが、日本の場合には、あくまで特定の作者名が(原作者としてであれ)冠せられ、依然、その個性が脈々と受け継がれていて、その作者の作品であり続けていると言ってもよい状態にある点が異なると思われます。もっともアメリカでも、コミック・アニメの世界はCGに置き換えられ、ピクサーという個性が現れました。
 前置きが長くなりました。タイトルに挙げた「魔女の宅急便」は、誰もが知るスタジオ・ジブリ(宮崎駿さん)の作品ですが、この映画のシーンにはオーストラリアの街がいろいろ使われているそうです。
 初めて「魔女の宅急便」を見た時、ストーリーよりも先に、素敵な街だけれども、宮崎駿さんの頭の中の理想の街なのだろうか、それとも世界のどこかにモデルとなった街があるのだろうかと、ずっと気になっていました。どうやら映画の舞台となっているキリコの街の時計台は、メルボルンのフリンダース駅がモデルのようで、主人公キキが下宿したパン屋のモデルはタスマニア州の中ほどの小さな田舎町ロスにあり、キキが街に降りる時の風景はタスマニア州の州都ホバートの街並みで、キキが乗った電車は、シドニー~パースや、メルボルン~アデレード~ダーウィンと、オーストラリア大陸を縦横に走るインディアン・パシフィック号がモデルなのだそうです。
 「となりのトトロ」には日本の原風景が広がっていて、懐かしい思いをした人が多かったと思いますが、「魔女の宅急便」に風景を提供するオーストラリアの街並みもまた、その素晴らしさを実感します。

オーストラリアの映画

2008-12-22 23:49:54 | シドニー生活
 映画の話が出たついでに、オーストラリアの映画全般について。
 オーストラリアの映画産業は、他の英語圏と同じで、アメリカとの競争に晒され、むしろアメリカを中心とする映画文化に呑み込まれているのが現状だろうと思います。朝のニュース番組で、ハリウッド・ゴシップというコーナーがあるのは、以前、本稿でも触れた通りですが、才能ある監督や俳優はおよそハリウッドに吸い寄せられますし、鑑賞する我々もハリウッドを向いています。
 オーストラリアでハリウッド映画制作が行なわれているのも事実で、これを支えているのが、シドニー近郊で映画関係の人材育成を行なってきた国立演劇芸術学校(NIDA)と、98年にメディア王マードック氏がシドニーに開設した「フォックス・スタジオ」の存在です。「ムーラン・ルージュ」はバズ・ラーマン監督はじめ、脚本家や衣装デザイナーや俳優の多くがNIDA出身だったそうですし、オーストラリアを代表する映画俳優メル・ギブソンもその出身です。また、「マッド・マックス」シリーズや「クロコダイル・ダンディーⅠ&Ⅱ」、「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」、「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」など世界的ヒット作品がオーストラリアで制作されました。
 しかしこれもハリウッドを中心に地球が回っていることの証左にほかならず、オーストラリアは相対的に人材が豊富な割りに人件費などのコストが安いという特殊事情に依るものでしょう。オーストラリアのスターと言えば、さきのメル・ギブソンのほかジュディ・デイビスがいますが、この二人に続くのはニコール・キッドマンくらいでしょうか。1996年に「シャイン」でオーストラリア人初のオスカー(アカデミー主演男優賞)に輝いたジェフリー・ラッシュ、続いて2000年に「グラディエーター」でアカデミー賞主演男優賞を獲得したラッセル・クロウがいるようですが、私はほとんど知りませんでした。ハリウッドのしがらみから抜け出すのは簡単ではなさそうです。

映画オーストラリア

2008-12-19 19:56:33 | シドニー生活
 オーストラリア・・・と言っても、同名の映画の話です。
 第二次大戦中のオーストラリアを舞台に、英国貴族出身女性と地元カウボーイ(オーストラリアではドローバーと言うそうです)とのラブ・ロマンスやアボリジニ少年との絆を描く豪・米合作のエピック・アドベンチャー・ロマンス(と公式に呼んでいる)超大作「オーストラリア」が先月(11月26日)封切られました(日本では来年2月公開)。監督は「ロミオ&ジュリエット」「ムーラン・ルージュ」のバズ・ラーマン、出演はニコール・キッドマン、ヒュー・ジャックマンをはじめ、デービッド・ウェンハム、ブライアン・ブラウンなど豪州出身で固めていることに加え、総製作費1億3千万豪ドルと、豪映画史上最高額がつぎ込まれ、随所に北オーストラリアの荒々しくも美しい自然描写が織り込まれ、さながら観光案内となっているところが話題です。実はこの制作費の40%は豪政府が負担し、国際的な観光キャンペーンを繰り広げました。頻繁に流されたテレビCM自体もラーマン監督自身が手がけたものと言われます。
 制作費の一部は、「ムーラン・ルージュ」の実に4倍にあたるとされる2千着近い衣装にもつぎ込まれました。ストーリー展開とともに主人公キッドマンの衣装も変わり、彼女自身の変わりようを映すと言われるところも見どころだそうです。そして、前夫トム・クルーズとの別離の理由のひとつに子供が出来なかったことが伝えられていたキッドマンは、撮影中、ロケ地近くにあった不妊治療に効果があるという言い伝えがある滝つぼで泳いで、ほかのスタッフともども次々に子宝を授かったというオマケつきです。
 もう一方のヒュー・ジャックマンは、米ピープル誌が毎年選ぶ “最もセクシーな男性”に、ジェームズ・ボンド役のダニエル・クレイグ、「ハイスクール・ミュージカル」のザック・エフロン、オリンピック金メダリストのマイケル・フェルプス、デヴィッド・ベッカムなどとともに選ばれました。極めつけは、2009年のアカデミー賞で司会を務めることに決まったという報道です。アカデミー賞の司会はおよそ米国人コメディアンが務めるのが恒例だったので、オーストラリア出身であり、コメディアンではなく俳優(ミュージカル俳優)だということで、意外性と驚きをもって迎えられました。
 なにかと話題には事欠かない作品ですが、ここまで気合いが入っていると、逆に引いてしまうのが私の性分です。アカデミー賞候補としても前評判が高く、準主役自身の司会で賞を射止めることが出来るかどうか、そっと見守りたいと思います。

Cafe Sydney

2008-12-19 06:30:15 | シドニー生活
 これまで少ないながらも高級レストランっぽいところで食事して来ましたが、ようやくこの場で自信をもってご紹介できるレストランに出会いました。税関ビル5階にあるCafé Sydneyです。早い者勝ちで名付けたような、覚えやすい名前で、得していますね。
 料理のカテゴリーは、ガイド・ブックによるとコンテンポラリーとありますが、シーフードを中心として、イタリアンなど既存のヨーロピアンでもなければアジアンでもない、強いて言えば無国籍料理(あるいはオーストラリア料理!?)で、味自体は、実は十人並み(シドニーですから美味しくないわけではありません)ですが、サーキュラー・キーに面した眺望が素晴らしい。今のこの季節でも心地良い風に吹かれて、暮れなずむハーバーブリッジを眺めながら、オープンなテラス席で、食事や酒はそこそこに、くっちゃべってリラックスしたムードは、まさにオーストラリアを満喫できます。
 場所柄、値段も一流で、メイン一皿35~40豪ドル、デザート・メニューも14~16豪ドル、ワインをボトルで頼んだ日には一人当たり軽く150豪ドルを越える勢いですが、日本からお客さんが来た時のために、とっておきのレストランとして覚えておいて損はありません。こういう店ですから予約をお勧めします。
 ここでは残念ながらオペラハウスは7割方が遮られて見えませんが、眺望で選ぶなら、ロックスにあるPeter Doyle @The Quayも素晴らしい。シドニーでは味に関してはハズレはありませんから、後はロケーションとレストランの雰囲気と値段とのバランスで選ぶことになるのでしょう。まだまだお気に入りレストラン探訪の旅は続きます。

大都会シドニー(後)

2008-12-18 06:46:44 | シドニー生活
 昨日、シドニーの集中度に触れましたが、シティ(Central Business District)では、渋滞緩和や排ガスによる環境問題に配慮してか、自転車専用レーンを設置する計画が進んでおり、一部工事も始まっているようです。
 オーストラリアには所謂ママチャリはありません。商店街で人を避けながら走り抜けるママチャリは、もはや日本の原風景でしょう。オーストラリアで走る自転車は所謂サイクリング車かマウンテンバイクで、ヘルメットを着用して車道を走る取り決めになっています。日本でもどうやら(いつの間にか)自転車は車道を走ることになっているのは、同じ発想でしょう。自転車と老人などの歩行者との事故が絶えないと聞きます。ところがシティでは、歩道を広げて歩行者と共有する案が提出され、それがまた議論になっているようです。市当局は自転車の速度を時速10kmに制限して事故防止に備えると主張しますが、歩行者団体は制限速度遵守に懐疑的です。
 以前、ブルーマウンテンの項で、高速道路に自転車レーンがあった話をしましたが、ところ変われば品変わる、日本ほど自転車が普及していないオーストラリアでは、扱いも違います。多様化を目指す当局の気持ちは分りますが、シティだけに自転車専用レーンを設けても効果があるのか、ちょっと疑問ではあります。

大都会シドニー(前)

2008-12-16 19:51:50 | シドニー生活
 NSW州のドライバー団体(NRMA)は、シドニーの交通渋滞が年々ひどくなり、ビジネスが逃げ出すのではないかと懸念しています。先日、州政府が行った監査によると、4年前と比較して市内を移動するのに要する時間が増え、市内に至る高速道路の平均速度も場所によって時速7~11km落ちており、ビジネスにとっても通勤者にとっても生産性が下がり、社会全体でコスト・アップになっているというわけです。
 確かにシドニーへの集中度は、オーストラリアという国の中で考えると極めて高く、不動産価格や物価も上昇し、以前より(と言っても私は以前を知らないので、予想していたよりということになりますが)住みにくい印象で、やや東京に似ています。
 日本でも首都移転論議がありましたが、いつの間にか消えてしまったかのようです。東京であれだけの集中度を維持し得ているのは、忍耐強くて従順で、「袖振り合うも多生の縁」と言っていられるほど、動物としての個体間距離が近いことを気に留めず、広さにさほどの価値をおかない、むしろ何でも手に入る便利さを優先する国民性と、電車・地下鉄といった公共交通機関の運行の驚異的な精度の高さに支えられていると言っても過言ではありません。
 日本人は与えられた条件の中で工夫して住みなす美徳がありますが、社会全体でコスト・アップになっているにも関わらずそれをギリギリで持ち堪え、多くの人が通勤地獄でストレスを感じているにも関わらずそれをもまたギリギリで持ち堪える社会は、決して健全とは思えません。もしオーストラリア人に平均的な日本の(と言うより東京の)サラリーマンを演じさせれば、三日ともたないどころか、初日の朝、オフィスに到着した時点で一日分の体力を使い果たして、そのまま果ててしまうのではないでしょうか。巷間よく言われるように、日本に違うパラダイムを持ち込むためには、あるいは次なる地平に進むためには、内からの変化の胎動には期待できず、外からの変化の圧力に頼る外にはないのでしょうか。

偶然と必然

2008-12-15 22:05:51 | あれこれ
 歴史を考える時に、偶然か必然かが問題になることがあります。通常、後から振り返れば、と言うことは、後に続く歴史を知っている者の目で見れば、必然と思われるようなことでも、その当時に身を置けば、偶然でしかないというのが歴史の本質のように思います。人間の自由意志を信じるために、敢えてそう信じたいと思います。
 これに関して一つ思い出されるのは、戊辰戦争に関して、司馬さんの「燃えよ剣」だったと思いますが、鳥羽伏見の戦いが始まった段階では、新政府軍(官軍、西軍、薩長軍)に比べ、旧幕府軍(東軍)の兵力や兵站は圧倒的に優勢で、新政府軍が勝つことを予想した人は殆どいなかっただろうと司馬さんは断じておられました。潮目が変わったのは最高指揮官である徳川慶喜が敵前逃亡してからだったと言われます。
 ちょっと旧聞に属しますが、9月の米科学誌「サイエンス」には、恐竜が地球上で支配的になった理由は、生理学的な優位性によるものではなく、単なる幸運によるものだった可能性が高いとする論文が発表されました。
 三畳紀末期、恐竜と同じ資源を巡って争っていたのがクルロタルシで、ワニの祖先とされますが、現在のワニと比較すると驚くほど種類が豊富で、二足歩行や四足歩行のものもいて、恐竜よりも、大きさ、体形、餌、生態の多様性に富んでいたことが、頭蓋骨の特徴から判明したそうです。ところが約2億年前、恐らくいん石の衝突が原因で地球は急激に温暖化した際、恐竜よりも適応性があると思われるクルロタルシが突然絶滅したのに対し、恐竜は何故か生き残り、今のところその答えは出ていないようです。競争相手がいなくなった恐竜は、その後1億3500万年間にわたって繁栄を謳歌し、恐らく別のいん石の衝突が原因で絶滅することになります。こうして見ると、恐竜が滅亡した後に哺乳類が繁栄したのも、単に偶然の産物かもしれないと、その研究者は語っています。
 勿論、地球の歴史と人類の歴史を同列に扱うわけにはいきませんが、歴史とは、小さい偶然が集積して、結果としてある流れを作るものであって、必然的にある方向に導かれるものではないと思いたい(宗教によってはある意志を読み取る決定論の構造をとるものもありますが)。しかし事実の羅列にとどまる限り、人間にとっては意味をなしません。歴史Historyという言葉はStoryと同じ語源をもつように、「歴史」とは、事実の羅列の中にある意味を読み取り、物語をつくり、人間の理解を助けるものです。逆に言うと、人は多かれ少なかれこうした物語によって初めて歴史的事実を「歴史」として認識するのでしょう。歴史とは、そういった人間の知的作業にほかなりません。

歴史観(下)

2008-12-14 22:27:38 | あれこれ
 なんとなく言い足りなくて、しつこく書きます。先日、中国の歴史について、再構成が行われて来たという話をしましたが、ご存知の通り、日本の歴史観についても、読み替えが行われて来ました。例えば、明治維新を境に、それ以前の徳川時代は暗黒時代と断じ、その後の薩長を中心とする藩閥政治や官側の論理に基づき、日本の歴史を再構成し、新撰組は単なる殺人鬼集団と切り捨てたのはその一例です。同じように、太平洋戦争を境に、戦前を暗黒時代と断じ、戦後民主主義の思想に基づいて、日本の歴史を再構成し、憲法改正や自衛権を語ることもタブーにしてしまう(それを語る人を保守反動とか反平和主義とまで呼んでしまう)のも、その一例なわけです。
 しかし歴史観に関して最も大事なことは、現代の私たちの感覚で、過去を裁くことは出来ないということでしょう。別の言い方をすれば、現代の私たちがもつ道徳的価値判断や功利的価値判断(ある理想をもとに、それに都合が良いか良くないかで判断)を持ち込まないことだと思います。
 侵略という言葉で戦前の日本の行動を総括するのは容易いことで、少なくとも東京裁判で平和に対する罪を史上初めて認めて以降の現代の世界においては、それを一方的に悪と断罪するのは故なしとしません。しかしそれは現代の私たちがもつ道徳的価値判断によるものであって、良く言われるように、当時の帝国主義の時代にあっては、防衛線を満州におくのはある意味で当たり前の発想であり、さらに大恐慌以降ブロック経済化が進展する中で、大陸経営に益々傾斜して行ったのは、資源のない日本として祖国防衛のために止むを得ないものであったのは、戦後、マッカーサー元帥がそう証言してくれたのを待つまでもありません。戦争は外交の延長にあり、日本だけが侵略の意図を有していたのではなく、イギリスのチャーチルは、欧州における対ドイツ戦に備えてアメリカを戦争に引き込むために日本を追い込もうとした意図は今ではほぼ明らかになりつつあり、またソ連のスターリンは、国民党政府との泥沼の戦いに日本を引きずり込み、漁夫の利を狙っていた意図もまた今ではほぼ明らかになりつつあり、そうした世界情勢の中で、対米交渉が徒労に終わり対米戦を仕掛けるのは、きっかけではなくそれらの結果でしかありません。そのあたりの事情は、先日、公開されることになった野村吉三郎・元駐米大使の日記のほか、当時のいろいろな関係者の証言に詳しいですが、間違っても、田母神論文にある、日本は日中戦争に引き擦り込まれた被害者だというような言い方は間違いで、自己矛盾を来たしています。日本にしてもイギリスやアメリカやソ連にしても、あくまで対等と考えるべきで、彼らが侵略でないとすれば日本も侵略ではないと言う、田母神論文の別の発言の方が正しく、喧嘩両成敗が当時の国際社会の常識です。