心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

弁証法とは

2011年04月24日 | 哲学
3月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で第十ニ話「弁証法とは」です。

 

 東北地方太平洋沖大地震につきまして、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々と、そのご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。


雑感
東日本大震災について思うこと①(地震について)

 まず、知っておかなくてはならないことは、弁証法で学びましたように、物質や社会は生きいきとダイナミックに運動しながら変化・発展をしているのだということを念頭におかなければならないということです。

 わたしたちが、何も気にせずに暮らしている地球の大地は、じっとしていて安定していると思っています。ほんとうにそうでしょうか?

 地球は、時速1,674kmで自転していますし、ましてや太陽の周りをまわる公転速度は、時速107,280kmです。地球を含む太陽系自体も天の川銀河の中を時速約800,000kmの速さで進んでいます。

 ものすごい速度ですね。では、何故、振り落とされないのでしょうか?
 引力があるからですね。





 次に、地球自体も間断なく動いています。地球の核は、マグマオーシャンの中に沈んだ金属鉄です。地球の深部には、現在も誕生当時(約46億年前)のエネルギーが封じ込められています。
 このエネルギーによって外郭の金属物質は導電性の流体の状態を保っています。
 ちょうど火にかけられた鍋のように、ふつふつと煮えたぎるような運動をしています。
 温まった流体金属は上昇し、マントルに振れることで再び冷やされ、今度は下降するという、対流運動を続けています。
 これにより電流が流れ、電磁誘導で磁場が生じます。つまり地球はその内部にダイナモ(発電機)を抱えているのです。

 余談になりますが、このおかげでわれわれ生命体は生きていられるのです。
 この運動によりまして、地球は磁気による天然のバリアをつくりあげました。(約27億5000万年前)地磁気による、磁気圏の誕生です。
 このおかげで、太陽の核融合反応の副産物である放射線から、生命体を守ってくれているのです。




 いずれにせよ、地球自体も地球の内部も激しく運動しているということです。 
 次に、地震ですが、地震が起きるのはプレート(厚さ70~150km)とよばれる巨大な硬い岩盤の動きが主因です。
 地球の表面は10数枚のプレートによっておおわれています。そしてそれぞれは独自の方向に動いています。その速さは、速いもので年に10センチ、遅いもので年に1センチ程度です。
 ちなみに、日本列島付近で地震がよく起きるのは、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北アメリカプレートという4つのプレートが複雑に押し合いへしあいする場所に日本列島が位置しているからです。



 というように、われわれを取り巻く、宇宙や自然は、われわれ自身を含め、生物も無生物もダイナミックに運動しているということです。

 それと、自然の摂理が実にうまく働いているということです。
 地球に核や導電性の流体や、水や、空気がなければ、また、温度が適温でなければ、人間は生きることはできません。
 ほんとうに微妙なところでわれわれは、生きている、生かされていることを今回の地震で学びました。
 ですから、われわれは、人と人や、国と国とが争ったりすることが、いかに意味のないことであるかを痛感します。そしてわれわれ自身が自然の一部でることを深く認識し、自然や他の生物、人間同士がお互い感謝、尊敬しあう関係を目指さなければなりません。




本日の学び
本話より抜粋 「弁証法とは」


 上巻では、物質こそが世界の第一次的な本源的な存在物であって、意識・精神は人の脳髄のはたらきが生んだものであることをのべてきた。
 
 自然のなかで発生した生物は進化して人間を生み、人間は社会を形成してやがて精神を有するようになる。この発展過程自身、物質の運動がきわめてダイナミックなものであることを端的に示している。

 上巻はこの物質の運動の特徴を弁証法的と呼んでむすびとした。一方、わたしたちの思考自身もまた物質の運動と同じ特徴を有しているのであって、その意味で弁証法的ということができる。

 下巻では、この物質の運動と同じ特徴をさらに立ち入ってのべていくことにする。まずその手はじめとして弁証法という言葉についてのべることにしよう。


ダイナミックな物質の運動の特徴

 自然はその途方もなくながい歴史をとおして、たえまなくダイナミックな変化発展をとげてきた。

 銀河系や銀河団の形成と発展。これをささえる星の誕生と消滅。自然のなかの画期的なできごとである生命の誕生。そのたえざる進化。

人間の誕生と意識の発生。

 社会の形成とその発展―――これら客観的実在のしめすスペクタクル(光景)は、質的に新しいものを絶え間なく生成してきた自然と社会の歴史的過程である。

 それは、世界全体をささえるあらゆる物質の休むことのない変化発展、すなわち運動のあらわれである。

 
 弁証法的という用語の使い方に違和感はあるが、とにかく生きいきとダイナミックに運動している物質の変化発展を弁証法的と呼ぶことにする。

 したがって、弁証法的唯物論とは、本源的な存在である全物質がたえず弁証法的に運動しているとする見方である。

 とくにここでは、意識・精神の積極的な役割をきわめて有用視しているのであるが、その一方で意識が物質の発展のある段階で発生したという見方をとっている。

 このことが弁証法的唯物論の重要な点である。

 また、意識は現実の動きよりも先行することができる。
 
 したがって、自然と社会は意識を発生させることによって自らよりも先行するものを内に蔵することになったのであって、このような立体的な世界の発展をとらえることができるもの、それが弁証法的唯物論である。


唯物論の歴史

 さて、唯物論的な考え方はけっして新しいものではなく、古くから多くの国の人びとによって展開されてきた。この見方はヨーロッパやギリシャでのみ見いだされたものではない。

 インドや中国にも唯物論的な見方があった。唯物的な見方が一つのまとまった思想として体系化されたのは紀元前六世紀ころのギリシャであった。


弁証法の意味は

 弁証法という語の意味をつかむ上でまず知っておくべきことは、これが自然と社会の現象や意識のはたらき全体のそこに横たわる基本原理であるということである。
 
 さて、弁証法はディアレクティークの訳語で、直訳すれば対論的あるいは対理的であって、実際また、問答法等論述ということである。討論とは、多数とともに論ずることである。弁証法的という訳語は、この討論術的という意味をもたせた訳語である。
 
 それでは、この討論術的=弁証法的という表現がこれまでのべた物質の運動を特徴付ける表現としてなぜ適切なのであろうか。

 それは対話や討論の本来の姿からきている。
 本来の討論では、つぎからつぎへと話題がいきいきとしてつながり、物事のいろいろな面を論じていくのであって、そのさまがさきほどのべた基本原理の特徴を思わせるからである。


弁証法的唯物論

 さて、いままで、たびたび私たちの唯物論的認識の特徴をのべてきた。
 この自然と社会の生きいきとした運動をとらえ、意識と客観的実在の関係を正しく把握することにあった。

 物質の運動のみなもとはなにか、またどのようにして物質の運動が発展していくのか、これらの点を具体的に認識してはじめて、私たちは客観的実在の運動を深く認識するとともに、その発展の方向を予測することができる。

 自然と社会の運動および意識について広く研究がすすんでいるが、それをまとめていえば、つぎのようになるであろう。

 すなわち、いっさいの現象の運動・発展のみなもとはその現象の内にある。この意味で運動は本質的に自己運動である。現象のなかには互いに作用しあういろいろなものが存在している。
 
 現象を現象たらしめながら互いに対立しあっているいろいろなものが存在している。
 これらの内的関係が現象の変化発展のみなもとになっている。

 物質の運動を自己運動として認識すること、すなわち物質の運動のみなもとを物質のなかにもとめることは唯物論にとって基本的なことである。

 もし物質の運動の原因が物質にもとづくものでないとすれば、結局、運動の原因として物質以外のものをもってこなければならない。その結果、物質がこの世界の本源であるという唯物論の基本に反することになる。

 現象の変化発展が弁証法的であるということは、現象の中に対立しあうものがあり、この対立物の相互関係にもとづいていることであるが、このことをとにかく指摘しておく。

 ふたたびくり返すことになるが、対立しあう面が互いにからみあって変化発展していく一つの典型が「討論」そのものである。
 したがって、討論術=弁証法的という用語は私たちの唯物論をみごとに特徴づけていると考えてよい。

 これから弁証法と聞いたとき、この表現はくるくる展開していく討論のように、対立物の生きいきとした相互関係としてという意味に直観的に解することにしよう。またこの意味で、私たちの唯物論は対論的、または対理的唯物論という意味合いを含んでいる。


 と筆者はいっています。

 では、
 
 なぜ、われわれは、客観的実在を認識しなければいけないのでしょうか?
 
 なぜ、われわれは、ものごとの本質を知らなければならないのでしょうか?

 唯物論も弁証法も世界を知るための考え方の道すじを示すものだと思います。
 
 ものごとには、混沌としているように見えても合法則的に進化・発展しているように思われます。
 
 やはり人間を含めた自然が、どのように変化してきたのかを知ることが、人類が自然と共生して永続的に種を継続していくためにも必要です。
 
 そして人間には、他の生物にない精神の能動性と意識の先行性をもっていますので、その精神や意識を適切に働かすことによって全体をコントロールすることもできます。
 
 今後も本質からものごとや現象をとらえ、一時の感情や浅はかなイデオロギーに振り回されないように、自立して生きていくことが必要だと思います。


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