眼鏡が合わなくなり買い換えた。
勿論、老眼鏡である。
私にとって五感の中で視覚は最も大事なものである。
五感(視・聴・嗅・味・触)の働きで私たちはものを認識する。
人それぞれに感性は違う。
その感性だが年とともに衰える。
私の場合の視覚は老眼という、どうしようもない衰えである。
物を書くという作業にとって致命的だ。
眼鏡の交換で今まで見えていなかったものが見えてくる。
その「見えていなかったもの」を考えた。
見えていなかったのであるから、それが何なのか解らない。
しかし私はそういう状態で物を認識し判断していた訳である。
つまり人間の判断はその人の感性に委ねられている訳である。
絶対音階の持ち主と聴力の弱い人との
受け入れる情報量は、当然雲泥の差である。
この様に私たちの認識や判断を導く情報量は、個人差がある。
世の中には見解の相違とか、感性の違いなどと言って
他人を受け入れない人がいる。
もしその当事者同士が、全く同じ情報量を持っていたとしたら、
上記のような仲たがいをしたであろうか。
私は自分の認識や感性を大切にしているが、
そのベースとなるものがあやふやだとしたら、
そんなことを考えながら、眼鏡を磨いていた。
勿論、老眼鏡である。
私にとって五感の中で視覚は最も大事なものである。
五感(視・聴・嗅・味・触)の働きで私たちはものを認識する。
人それぞれに感性は違う。
その感性だが年とともに衰える。
私の場合の視覚は老眼という、どうしようもない衰えである。
物を書くという作業にとって致命的だ。
眼鏡の交換で今まで見えていなかったものが見えてくる。
その「見えていなかったもの」を考えた。
見えていなかったのであるから、それが何なのか解らない。
しかし私はそういう状態で物を認識し判断していた訳である。
つまり人間の判断はその人の感性に委ねられている訳である。
絶対音階の持ち主と聴力の弱い人との
受け入れる情報量は、当然雲泥の差である。
この様に私たちの認識や判断を導く情報量は、個人差がある。
世の中には見解の相違とか、感性の違いなどと言って
他人を受け入れない人がいる。
もしその当事者同士が、全く同じ情報量を持っていたとしたら、
上記のような仲たがいをしたであろうか。
私は自分の認識や感性を大切にしているが、
そのベースとなるものがあやふやだとしたら、
そんなことを考えながら、眼鏡を磨いていた。
私は耳が聞こえません。健常者の方々と違い、大きなハンディがあります。その為、人一倍、情報を得ることに努めています。読書、インターネット・・etc この記事を拝見して今さらながら情報を得る努力の大事さを再認識しました。国、企業等にとって情報は死活問題と言われていますが、個人レベルでもいかに大事かということを改めて思い知りました。投稿者様に大感謝です。これからもどうぞお体に気をつけられて、すばらしい記事をお書きくださいませ。