四日 奥州の境に入り棚倉といふ城下に來りぬ。三十日あまり照つづき侍れば暑さも日に/\いやまさりてくるしく、道々の事も覺へ侍らで目のとどまらず、申の時ばかりに宿をかりぬ。あるじとみへたるは老女なり。外に二十ばかりと十四五なるわかき女ども二人あり。座敷は縁ありてすり鉢めく物に石菖うちかをり、藪の中より細きながれみへていとすずし。宵月の入る程に飛びかふほたるのひかりおかしく、障子のひまより風の心よきままにさし覗き居たるに、いづこよりともしれず長刀さしたる男の、庭よりやをら這ひ上りて縁のはなに來る。こはいかに、あの流より白波のよせ來るにやとおそろしく、身じろきもせで守り居たるに、こなたの妻戸をそと明けてすべり出づる女の氣はひ。縁につたひ寄りていふを聞けば、あし分小舟のさはり多くてとばかりきこへて、渡りだにたへはてぬるは外によるべの磯もやとうしろめたふこそと、恨みこゑにて泣くに、男の聲の口ごもりだみたるが、さうらみ給ひそ、過し夜蚊にくはれたる跡のいみじくかぶれいたみて、ここちも例ならずして來らざりけるといへる程に、臺所に老人のこゑして籠のいをを猫なん落しけり、灯かかげよとのゝしるにぞ、かの女はこは作りして、あまりに暑さのたへがたくて背戸にすずみけりと獨りごちて内に入りぬ。男はとる物もとりあへずいづちともなく成りぬ。かかる東のはてまでも情の道はかはらざりけりと、哀にやさしくぞ覺え侍る。
五日 空曇りて例よりもすずし。五里ばかり行きて雨降りけるに、草木も田面も色を起して、道行く人も足かろげにさざめきわたりけり。日ぐれの頃須賀川のむま屋につく。徳善院のもとを尋ねけるに、せちにとどめられて蓑笠の雫をはらひけり。
六日 雨晴れぬれば立出て、花かつみ生ふとききし淺香の沼をみる。きのふの雨に水まさりていづれをそれと引きわづらふ。
○花かつみうづみて水の濁りけり
淺香山はみどりの衣を一重打著せたらんやうに、濱松一木風かをりて、いくちとせのむかしより萬代のしるしとも成りなんと、目出度詠めなり。山の井は遙に所をへだてて遠しとや。
○淺香山の蔭さへ見えぬ暑さかな 只言
七日 元宮の青龍師をとふ。また二本松の一聲上人を尋ねまゐらせけるに、安達ヶ原の窟みよとて案内者を添へらる。阿武隈川をわたりて御寺に歸る。
八日 八町目菊隠子を音訪る。福島に泊る。
九日 しのぶずりの石を見る。
○汗ながらしのぶ摺らばや旅ごろも
伊達の大木戸判官どのの腰かけ松などいふを見て過ぎけり。越川にとまる。
十日 白石の城下、千手院とて驗者のおはしける、風雅の道には麥羅とて名高しと聞きて尋ねけるに、淺からずもてなされて日高けれど宿る。
十一日 舟岡の大光寺と申す御寺に行く。これは也蓼和尚と聞へおはします大徳なり。手づから五百羅漢の尊像をきざみて後の山に安置し給ふを結縁す。
十二日 笠嶋の道祖神にぬかづく。宮の奥なる實方中將の御墓所をたづね見るに、一むらすすきの生茂りたる中に苔むせるしるしあり。峰のあらし梢の蝉をのづから哀を催す。やがて歸りなんと思ふだに、旅はものうく都の戀しき習ひなるに、かかるわびしき山の中に跡をとめ給ひぬる事のいかばかりかはと、ふりにしむかしをしのぶにもなみだぞこぼれける。草をむすび手向けとなして過ぬ。岩沼に出てみきとこたへんと有りし武隈の松の二本を見る。
○風薫る松やいづれを想夫戀
休粹といふくすしの許をたづねて、くれちかき程に仙臺につく。心ざしける方もはやみわたすほどに成りければ、嬉しさたとへんかたなし。かねて契り聞へたる舊國のぬしもとくより爰に來ましてありけるを尋ねて、その宿に笠をぬぎてこの日ごろの床しさをかたる。此ぬしは尾張の國鳴海がたにて別れしより、先だちて爰に下りけるなり。その夜半ばかりより心地なやみて常ならず。されど誰かれ訪ひ來ませる人々と風雅をかたりて、淺からぬ言葉にみじかき言葉をつぎて、病のくるしさもやゝまぎれけるに、日にそひていたづき重くなりて起居もくるしく、さらぬだに覺束なき老の身の三百里の遠きにたどり來て、いくべきとも覺へず悲し。松島もただ一日のほどに成りてかかる病にふしけるは道祖神も捨てさせ玉ふにやとあぢきなく、夢うつつにも唯松しまと片心にかかりて露わすられず、かく道芝の露とも消なばなどいとゞ物うし。
暑き宵の程は障子引明けて、吹き來る風はいづちよりととへば西なん吹くといふに、そぞろに古郷のみ戀しくおもひやられて月のかたぶく迄詠めぬるに、蚊帳の中迄名ごりなくさし入るにぞ、頭をたれて古郷をおもふと聞へし唐うたも身の上にて、わが身ひとつの秋にも成けらし。かかりけれど主の頼もしく、くすしねもごろにあつかひたうべければにや、すこし心地すずしく覺へ侍りて
○氣がるさもまづ鄰からけさの秋
夕べのさびしきにふたり三人何となくうち語りて、晴れくもるほし合の空あはれがりて、月入かたの山はいかにととへば、茶臼ヶ嶽、戀路山などとこたへたるも折にふれておかしくめづらかに詠めやりぬ。音に啼く虫のさまざまなる中に、鈴むしのあまた度ふり出せる聲のいみじく聞ゆ。あるじの言ひけるは宮城野よりもとめ出しぬ。なべてならず音のすぐれたる名所になん有と聞くに、猶あかず思ひ侍る。明ちかく成るままに名殘をそふる鐘の聲も霧にむもれて、露の光のみあざやかに草の葉ごとに玉をならべたらんここちせり。
○こもるらん蚊帳つり草に二つぼし
魂祭るころにもなりぬ。都だに物かなしき時なるに旅の空にやみて、徹書記のなき魂ならば古里へ歸らんものをと詠め玉ひしも、哀に思ひあたる。何くれと西の空のみ詠やりて
○誰ためとしらぬ行衛や高燈籠
廿日ごろよりつづきて心地よかりければ、おくの細道へ立ち侍らんと思ふに、くすしもゆるしきこへければ、廿五日といふに竹もてあめる駕にたすけのせられて松島に赴き侍る。海にわたしたる橋をわたり雄嶋の磯に着てみれば、げにも千嶋の風景、いかで眼に及びぬべしとも覺へず。はかなき世にもながらへぬればこそと嬉しく、年月の思ひもはるばる來ぬる旅路のうさも、けふはみな忘れ侍りぬ。やがてそのあたりの苫屋にやどり、月なき程の宵の間もなごり多く、蔀おし上げてみわたしけるに、いさり火の影はるかに島の間々に見えかくれて行衛覺束なし。いねもやらでまち出づる月の光さやけく、嶋々に生る松の影海づらにうつりて景色をそふ。
○松しまや千島にかはる月の影
○帆も霧の中に數へて千松島 只言
夜明けぬれば瑞巖寺へまうでて、それより富の觀音にのぼる。庭より目の下に見下す景色、またことかはりてみゆ。
○島々や松の外にはわたり鳥
舟にのりて鹽竈に行くほどは、三里ばかり繪の中をしのぎ行く心ちしておもしろさかぎりなし。
○露ちるや籬がしまの波の花
千賀の浦にやどる。今は鹽やくあまもみへず、うかれめなん有ける。夜ふけてうたふ聲いとやさし。
○袖ぬらせとや藻にすむ虫の聲
廿七日 野田の玉川をこゆ。
○秋されやその玉川も虫のこゑ 只言
すゑの松山をたづね見る。海のかたへは遠き所なり。
○松やまや今越るのは雁の聲
多賀城の跡にいたりてつぼの碑をみれば、いく千載のむかしをおもふ。都を去る事一千五百里とあるにぞ、いとどしく過ぎ來しかたの戀しさやるかたなく覺へ侍る。十符の菅といふ物も此あたりちかしと聞けど、身ままならざれば見で過ぎけり。なべて此あたりを奥の細道となん翁の文にくはしく書給へば、かれこれ思ひあはせて、床しさも一かたならず。宮城野に分け入れば草の色々咲みだれ、旅のやつれもいつしか錦につつまれし心地して
○宮城野や行きくらしても萩がもと
つつじが岡は夜の程に過ぎぬ。
八朔のころは起ふし常の樣になりぬれば、夜寒をつぐる雁の群にいとど都戀しくて、葉月五日、舊國のぬしに別れて此宿を立出で侍りぬ。名ごりは都を出し時にもまさりて覺ゆ。名取川うちわたりて、もと來し道の情ふかかりし人々にいとま申してゆく。桑折の廻車と申す人の、此程まち侍るとてもてなされけるに一夜とまる。庭もせに萩の咲けるに、さきに分け入し野べの夕ぐれもおもひいづ。
○寢ごころををしへよ萩に宿からん
葛の松原へ行かばやと思へど、きのふの雨に道のほどあしかりなんといひければ行かずなりぬ。福島の呑溟のぬしが許にいたり、とどめられて三日ばかり宿る。覺束なき日數つもりて十二日には白川の關に出でぬ。山も野もをしなべて色づきわたる。木ずゑどもの川づらにうつりてからくれなゐに染なせる景色、都にはまだ青葉にてみしかども紅葉ちりしくと詠じたるも、そぞろに心にこたへて
○いつとなくほつれし笠やあきの風
白川と白坂の間に境の明神と申す神おはす。みちのくと下野の國の境成とかや。西行上人の清水流るると詠み給ひける所は田の中を行く水なり。流にそひて柳多し。
○落し水にさそはれてちる柳かな
この柳がもと芦野といふ所にやどる。
十三日四日 那須野の原を通る。秋の野のひろきもまたなし。しれる草花の數かぎりなき中にも
○物いはば聲いかならん女郎花
○分入れば鳥の出て行くすすきかな 只言
かくて日光山に登り櫻正院といふ坊にやどるに、山の端ちかくさやけき月の手にとるばかりにて、庭の千草尾上の紅葉も色をあらそふ風情。されば物の情は夜こそと思ひしらる。
○待よひも光みちけり坪のうち
明るをまちて御宮にまうづ。露吹きはれて朝日の光り玉籬にかがやき、蔓をつたふ露の雫もるりこはくの玉かとあやまたる。まことに極樂國のしやうごんもかくやと思はれ、おそれみ/\ぬかづき奉る。心の中にもかかる日影のどけき御代にむまれあひたる我も人も、一度まうでざらましかばと、尊さの身にも心にもあまりて、泪さへとどめがたく下向し侍りぬ。晝より雨のふりてやまねば、鹿沼といふ所にとまる。今宵の月を同じ心にとちぎり置きし都の空はいかならんと、宿のいぶせきにいとどかきくらさるる心ちして
○はたごやの燈細し月の雨
十六日 いづるの觀音に來りてその麓の家にとまる。此ごろは病後のつかれにや、足いたみて起臥心ぐるしく、晝は馬にかきのせられ、夜はそのまま枕につきて、室の八嶋のけぶりだに見ずして過けり。
十七日 上野の國桐生といふにとまる。それより米野、原の町、大篠などいふ所に宿りて、廿一日は八里峠といふにかかる。左の方は淺間山たしかにみゆ。
○朝ぎりや麓の家はけぶりたつ
坂を下りて、保科といふ所のあやしの家の軒のまはりに、鶏頭の花あまた咲たるに心とまりて宿をかりけるに、みしにもたがはで、入り見れば疊も敷かで竹の簀子に筵まばらなり。かくてはいかで寢もしなんと思ふに、宿の女房と覺しきが家の奥の方に疊二枚ばかり敷る處にともなひ行て、爰は佛間にてなん候、此程三ツになりし寵愛の子をうしなひ、けふは七日にあたり侍る。善光寺へまうでさせ給ふ御僧達ならんに、回向し給はり候へとかきくどきていふ。かかるあはれを聞き侍るもさるべきすく世のゐん縁にやと、念珠くり返して弔い侍る。
廿二日 善光寺へ行く程に大河をいくつもわたる。爰なん川中嶋といふ、むかしたけ田長尾など聞えし大將のかせんありし所になん。人の軍書よめるを聞きて所々耳にとまりたる事を思ひ出て、かくおさまれる代のしづけく、今は法の道すじと成りて老たる尼ほうしまでうちつれて行かふさま、誠に有難くぞおぼゆ。
さて善光寺に着ぬ。此ころまで命もあやうき程なりしに、ともかくも成りなば、くらき闇よりたどりつべきをひとりに佛の御しるべにやと、かたじけなさいひつくすべうもなし。御堂の下はるかにふかくくらき所を念佛しめぐる六道めぐりと申すよし、うき世の事わざみなわすれて信おこりぬ。その夜は御堂にこもりて念佛申しあかすに、寅の時ばかりに御經はじまり、しののめのころ御扉ひらけ、錦の御帳に燈の影うつろひ、光明てりかがやきて、誠に二十五の菩薩も來迎し給ふにやと思ふばかりなり。此夜ばかりは都の事もわすられて、ただ一すじに後の世の事のみ祈り奉る。
○すみわたる心や西へ行く月も
老の身のまた參りなん事のかたければ、名殘多くて二夜まで御堂にこもりぬ。
廿四日 榊の宿を通るとて姥捨山の麓をすぐ。夜ならましかばとしばしやすらひて
○暮るまで田ごとの落穂ひろはばや
中窪といふ所にて馬より落ける時
○蓑むしや落ちても草の花のうへ
廿六日 諏訪のいでゆに入りて此ごろのつかれをやしなふ。湖水のほとりを過ぐるに、右ひだりの山々紅葉してその景またなし。飯田より新道といふ難所をこへて、やう/\九月朔日美濃路に出づ。大久手、鵜ぬま、垂井にとまる。醒井の清水はまたも掬はまほしけれど、あゆむ事の自由ならざれば見てのみ過ぎけり。番場の辻堂を後になしすり鉢の峠にのぼれば、琵琶のうみは手のとどくべく、竹生嶋も目の下にみゆ。比叡の山を見付けたるぞ、はや都に歸り着きたる心に、うれしさたぐひなし。いとど心も空にいそぎ立ちて、愛智川に宿る。
四日 夜をこめて宿を立ちてもり山にいこふ。若葉の雫にぬれし事を思ふに、いつしか下葉のこらず色付ける此にも成けらし。さればみるもの聞ものになぐさみあれば、病にくるしみ道につかれ、さまざまなりし事ども、多く夢とのみぞ覺へ侍る。七ツ下りのころ石山に着きて、世尊院の方丈に頭陀袋をほどく。誠に大とこたちの朝夕に祈りたび給へりしゆへにや、あやしの老の身のつつがなく二度まみへ參らすにも、大慈大悲の御惠みなるべしと、なきみわらひみ物がたりて、夕ぐれの程に御堂に登り諸願成就の法施奉り、月見の亭に行てみれば、夕附夜の空はれて風は律といふ調にやかよふらんと、やゝ時をうつす。
○はらり/\萩ふく音やびはのうみ
〈完〉