久安百首◆藤原俊成≪参≫
021 夏来れば衣がへして 山がつのうつぎかきねも白かさねなり
夏が来ると衣更えをして 山の民の空木(うつぎ)の垣根も
白い襲(かさね)になっているよ
「衣」と「打つ」は縁語。4月1日と10月1日、平安貴族は衣だけでなく几帳や畳までも替えていたという。山賤(やまがつ)はそういう生活はしていないし、襲を着ることもない。ちなみに白襲(しらがさね)は表も白、裏も白という配色。
花の色にそめしたもとのをしけれは 衣かへ憂きけふにもあるかな
(拾遺集 夏 源重之)
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022 千早振る賀茂の社の葵草 かざすけふにもなりにけるかな
賀茂祭は葵祭とも呼び、夏の訪れを告げるものとして名高い。今でも葵の葉をかざし、平安時代の装束で行われている。
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023 さらぬだに臥すほどもなき夏の夜に 待たれても鳴くほとゝぎすかな
そうでなくとも寝る間もないほど短い夏の夜に
皆に待たれてなくほととぎすであることよ
すぐ夜が明けてしまうのだから待たせるなよと。春の夜は短いものの例えによく引かれるが、夏の夜もその短さで嘆かれるのがならわし。
はかなしや菖蒲(あやめ)に匂ふみぢかよの 夢路あけゆく軒のしら露
(春夢草 肖柏)
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024 時鳥なきゆくかたにそへてやる こゝろいくたび声をきくらむ
ほととぎすの飛んでいく方に自分の心(=魂)をついて行かせるという離れ技。あこがれると心が身体からさ迷い出すと考えられていたので、手の届かないところに行ってしまう心が何回ほととぎすの声を聞くのかわからない。
ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞのこれる
(千載集 夏 藤原実定)
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025 さつきこそなれが時なれほとゝぎす いつを待てとてこゑをしむらむ
五月こそおまえの時ではないかほととぎすよ
いつまで待てといって鳴き声を惜しむのだろう
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026 夏もなほあはれは深し 橘の花散る里に家居せしより
夏もやはり感慨深いものだと思うようになったよ
橘の花散る人里に家をもってからは
「あはれ」というと秋、あるいは春の情感のように詠われがち。夏はほととぎすと七夕くらいしか「あはれ」を誘うものがないのかも。
あはれともとはれぬものを 夏虫の身をいたづらに幾夜燃ゆらむ
(為家千首 恋)
藤原為家が慈円の勧めによって5日で千首を詠んだという《為家千首》から。火に入る夏の虫をだれもかわいそうと思ってくれないように、わたしも毎夜ひとりで身を焦がしているという恋の歌。
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027 五月雨は焚く藻の煙うちしめり 潮垂れまさる須磨の浦人
「潮垂る」は海水などに濡れてしずくの垂れることをいうが、涙を流す、悲しむ喩えにも用いられる。
しほたるゝ身は我とのみ思へども よそなるたづもねをぞなくなる
(拾遺集 雑恋 大中臣頼基)
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028 庭の面の苔地のうへに からにしきしとねにしける常夏の花
常夏(とこなつ)はなでしこ(撫子)の異名。唐織の錦のような苔地(?)を敷物にして咲いているなでしこ。「とこ」が「床」に通じることから「ぬる」と組み合わされることが多い。俊成は褥(しとね)を縁語として用いた。
ちりをだにすゑじとぞ思ふ さきしよりいもと我かぬるとこ夏の花
(古今集 夏 凡河内躬恒)
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029 小舟さし手折りて袖にうつし見む 蓮の立ち葉の露のしらたま
蓮の葉の上に揺れる露の玉は美しい。それを小舟をさして採りにいきたいというのだ。古歌には「手折る」という表現がよく出るが、実際気軽に手折っていたらしい。みやげや贈り物にするのである。蓮葉の露は無理だと思うが…。
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030 いつとてもをしくやはあらぬ年月を 禊に捨る夏の暮かな
いつ果てても惜しくさえない年月ではあるけれど
また六月の祓をする夏の終わりであることよ
六月祓。かつて一年を二つに分けて捉えていた名残で、六月の最終日には半年分の穢れを落とした。各地の神社で行われる茅の輪くぐりはそれを今に伝えるもの。夏越(なごし)の祓い。
みそぎする川せにさよやふけぬらむ かへるたもとに秋かぜぞふく
(千載集 夏 よみ人知らず)
六月祓をした帰途、もう秋風が吹いているという気の早い歌。禊(みそぎ)は穢れを流すだけでなく、千歳を延ぶるまじないでもあった。めでたい行事なのである。
千代までとあらぶる神にいのるかな 三たびすがぬく夏祓して
(宝治百首 夏 藤原成実)
こよひ又ちとせをのぶるみそぎして いとど久しき御代ぞしらるる
(宝治百首 夏 藤原基良)
→久安百首目次
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参考:日文研データベース