久安百首◆藤原俊成≪弐≫
011 つらきかな などて桜の のどかなる春のこゝろにならはざるらむ
薄情なものだ どうして桜は
のどかな春の情趣に従わないのだろう
貫之の「しづ心なく」と同趣向。のんびりした春の風情にふさわしく、桜ものんびりと咲いていてくれればよいのに。「なな」「のの」「ここ」の繰り返しが面白いが、初句で心情を述べてしまったせいか印象の弱い歌になっている。
夢のうちもうつろふ花に風ふけば しづ心なき春のうたゝね
(続古今集 春 式子内親王)
うたた寝をして夢を見ているうちにも花が散っていくのではないか。内親王の歌は擬人法など使わないシンプルな表現で落ち着かぬ春の心を詠っている。
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012 散る花のをしさをしばし知らせばや 心かへせよ春のやま風
散る花の惜しいことをちょっと知らせてやりたい
だから心を返しておくれ 春の山風よ
あくがれて出て行ってしまった心に惜しむ気持を教えてやりたい。心が奪われるとは心が身から離れていくことを意味した。為尹卿によれば花に惹かれる心のままに歩いていくと、帰り道が遠くなってしまうようで…
あくがるゝ心のまゝに越えきつゝ かへるさ遠き花の山ふみ
(為尹卿千首 春)
「山踏み」は山歩きをいう。「越ゆ」は峠を越すとは限らず、通り過ぎることをも指す。思えば遠くへ来たもんだという感慨。
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013 あぢきなや何とて花のをしからむ わが身は春のよそなるものを
無益なことさ どうして散る花が惜しいことがあろう
我が身は華やかな春になど縁がないのだから
などと言いつつ惜しんでいるわけだ。咲いたの散ったのと浮かれている境遇ではないのに、桜が散ると聞けばそわそわしてしまう。やせ我慢というか、ポーズにすぎないように感じられるが。
九重も花のさかりになるなかに わが身ひとつや春のよそなる
(玉葉集 雑 藤原実頼)
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014 さくらばなおもふあまりに 散ることのうきをば風におほせつるかな
桜の花を思うばかりに
散ることのつらさを風のせいにしてしまったことだ
「おほす」は「負ほす」と書いて責任を負わせること、罪を着せること。責任転嫁を反省している歌である(たぶん)。
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015 ふく風のこゝろとちらす花ならば こずゑにのこす春もあれかし
吹く風が心のままに花を散らすのなら
せめて梢に残す春があってもよいだろうに
「こころと」は心から、自分からを意味する副詞。
つくづくと思へばやすき世の中を こゝろとなげくわが身なりけり
(新古今集 雑 荒木田長延)
よく考えればどうってことない世の中なのに、勝手に嘆いている我が身。
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016 道とほくなにたづぬらむ山ざくら 思へばのりの花ならなくに
道遠く何をたずねようというのか
山桜は 思えば仏の教えの花ではないというのに
「道遠く」とあるから「のり」はこの場合仏法だろう。追い求めるほどのものでもないのに、なぜ山桜をはるばる尋ねていくのだろうという自問自答。
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017 桜花まつとをしむとするほどに 思ひもあへずすぐる春かな
桜の咲くのを待ち 散るのを惜しんでいるうちに
気づけば過ぎていく春であることよ
咲くの散るのと気になってしょうがないとは、お忙しいのお暇なのか。いや、これは俊成の実感ではなく、春の足の速さを桜への賛美にかさねて詠ったものだと考えよう。
同じ咲くの散るのでも貞成(さだふさ)親王(=後崇光院)はちょっとちがう。
待つも散るもこゝろづくしの山桜 花はうき世のほだしなりけれ
(沙玉集 貞成親王)
花を待つのにも散るのにも気をもむ山桜よ
花は憂き世のさまたげなのだったな
ほだし(絆)は手かせ足かせ。「うきよ」は近世に至って「浮き世」となるが、この頃はまだ無常の世だった。浮かれたり気をもんだりしている場合ではないのである。
過ぎ行く春を詠った和歌をいくつか。
風吹けば柳の糸のかたよりになびくにつけて すぐる春かな
(金葉集 春 白河院)
「かたより」は「片縒り」。糸を縒るとき、片方だけに縒りをかけること。枝垂れた柳が風に靡くさまがそんなふうに見えたのだろう。
なれきつるかすみの衣たち別れ 我をばよそに過ぐる春かな
(新勅撰集 春 九条教実)
掛詞、縁語の使い方がうまい。
いかにせむ眺めもあへず春すぎて のこりすくなきあけぼのゝ空
(御室五十首 賢清)
いかにせむと言われても。
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018 桜さくふもとのをだのなはしろは たねよりさきに花ぞ散りける
小田の苗代に散り落ちる桜の花びら。水面の桜も美しい。
山川をなはしろみづにまかすれば たのもに浮きて花ぞ流るゝ
(風雅集 春 阿仏)
山からの流れを苗代田に引くと、山桜の花びらが流れてきて田の水面を薄桃色に染めてゆく。「まかす」は「引す」と書く。田に水を引くこと。
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019 ますらをはおなじふもとをかへしつゝ 春の山田に老いにけるかな
秀句。丈夫(ますらを)は頑丈な体躯の男子。梺の田を耕す日々を重ねてきたその姿を「老いにける」と見た俊成、羨望のまなざしだったかも知れない。
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020 ゆく春のかすみのそでを引きとめて しをるばかりやうらみかけまし
三月尽。「しをる」は「萎る」のほか「責る」ともとれる。いずれにせよ大袈裟である。「かすみのそで」なら俊成の娘にこういうのがあった。
たちなれしかすみの袖も波こえて くれゆく春の末の松山
(建保名所百首 春 俊成女)
「たち」「なれ」は「袖」の縁語。「波」は「無み」にかけられ「波こえて」は「末の松山」の縁語でもあろう。「春の末」と「末の松山」も掛詞。
けふくれぬ 花の散りしもかくぞありし ふたゝび春は物をおもふよ
(千載集 春 前斎宮河内)
河内(こうち)は永縁僧正の妹、前斎宮俊子内親王の女房だった。春の暮れる日、花の散る日もこんな思いをしたなぁと、振り返っているのである。
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参考:日文研データベース