まちづくりコンサルの独り言 鈴木 隆男

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
商店街など現場を訪れ日々の出来事を描く

本日仕事始め

2018年01月05日 | 日記
本日仕事始め
今日からの相談業務が仕事始めとなる。案件は1件、創業相談である。
ランチはいつもの下町食堂で「タヌキそば」をスカイツリーを眺めながら食べる。






箱根駅伝2018

2017年12月27日 | 日記
箱根駅伝2018
大学駅伝の最高峰である、「第94回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝2018)」が 、平成30年1月2日・3日の2日間にわたって行われます。 そして、平成29年10月14日に 実施された予選会の結果、箱根駅伝本選への出場権を獲得した10校が決定し、関東学連加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した10校と、予選会を通過した10校、および関東学生連合を加えた合計21チームが出場します。
東京・読売新聞社前~箱根・芦ノ湖間を往路5区間(107.5Km)、復路5区間(109.6Km)の合計10区間(217.1Km)で競う、学生長距離界最大の駅伝競走です。
 箱根駅伝が誕生したのは、大正9年(1920)、今から90年も前のことです。創設の原動力になったのは、マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いだったそうです。金栗は、東京高師の学生時代に日本が初参加した明治45年(1912)のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したが、途中棄権に終わり、失意のまま帰国、大正6年(1917)に日本で初めての駅伝「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われました。読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都と東京の間516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーでした。東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となりました。「東海道駅伝」の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたのが、創設の経緯で、第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われたのは、このような事情によるものでした。


田端環状積石遺構

2017年12月23日 | 日記
田端環状積石遺構
 京王相模原線の多摩境駅から歩いて5分ぐらい、日本一駅から近いストーンサークル・田端環状積石遺構を業務のついでに見学する。この遺跡、昭和46年3月の東京都指定史跡田端環状積石遺構指定されている。
 昭和43年、畑を耕作中に偶然発見された、縄文時代後期から晩期(約3500年~2800年前)の墓地・祭祀場である。30基の墓からなる集団墓地が形成された後、その上に9×7mの環状積石遺構(ストーンサークル)が作られた。現在は実物を埋め戻して保存し、その上にレプリカで遺構を復元している。
京王相模原線多摩境駅から徒歩5分、日本で最も駅から近く、また都内では唯一見学できる縄文時代のストーンサークルで、この遺跡からは、境川対岸の相模原台地、そのはるか後方の丹沢山地や富士山も見渡すことがで、縄文時代人が年間の日の出や日の入りの天体観測を行い「夏至・冬至・秋分・春分」を理解し、作物の栽培に利用したり。神聖な場所として祈りをささげた。また訪問当日は丁度冬至の日、日没時には丹沢山地の方角に太陽が沈む様子が見られた。












八王子中町黒塀

2017年12月21日 | 日記
八王子中町黒塀
織物の街として、大正から戦後間もなくまで繁栄した八王子の中町界隈には、多摩地域で唯一の花街があり、賑わいをみせていた。
 昭和27年には料亭45軒・芸妓250人と繁盛を極めたが、昭和30年後半から織物業の衰退と共に芸妓、料亭数が減少し、平成9年には、料亭6軒、割烹料亭5軒、芸妓14名であった。
繊維業の衰退とともに風前の灯となった花街の伝統を守るべく、有志が「黒塀を楽しむ会」を結成。柳の植樹運動などを展開し、風情あふれる花街の姿を、今に伝えている。
 平成20年には住民や商店主による中町地区まちづくり推進準備会が発足した。平成21年東京都に申請した「江戸・東京まちなみ情緒の回生事業」が日本橋と共に選定され、花街黒塀通りの石畳舗装・外壁の黒塀風塗装・街灯の整備など行われた。
平成22年には中通り(見番前の東西道路)が石畳風に改修され、伝統と文化が薫るまちの再興に向けた気運がさらに高まっている。現在は準備会から発展した「中町地区まちづくり協議会」が八王子市に認定され、駐車場のネットフェンスの黒塀化・灯りのプロジェクト・まちづくり通信の発行など、地元主体のまちづくり活動を行っている。












八王子市(はちおうじし)

2017年12月20日 | 日記
八王子市(はちおうじし)
八王子市は東京都の多摩地域南部にある市で、東京都唯一の中核市に指定されている。八王子市は、明治元年から昭和18年の東京府時代に東京市(現在の東京都区部)に次いで大正6年(1917年)に市制を施行した市である。 
 昭和61年に国土交通省より業務核都市と定められている。平成19年4月に東京都で初めての保健所政令市に指定され、平成27年4月1日には東京都で初めて中核市に移行した。八王子市の人口は約58万人で、その周辺部も含め23の大学等(大学・短期大学・高専)があり、外国人留学生約3,100人を含む約11万人の学生が学んでいる全国有数の学園都市でもあり、JR中央線や京王本線があり、ベットタウンとしての面もある。
 中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、川越・桐生・日光脇往還など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、戦国時代には城下町、江戸時代には、甲州街道の宿場町(八王子宿)として栄えた。 
 明治時代には南多摩郡の郡役所所在地となり、多摩地域内で最も早く市制施行した。かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑の都」及び「桑都(そうと)」という名称があり、西行の歌と伝えられてきた「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」という歌もある















箱根そば 

2017年12月13日 | 日記
箱根そば(はこねそば)
 今年の後半から、小田急に乗車する気機会が増え、小田急新宿駅のホームに大きな「名代 箱根そば」の宣伝を見てから、一度は食してみたいと思っていた。今日は、町田駅バスターミナルのデッキの下にある名代 箱根そばでランチを取る。
箱根そばは、小田急電鉄の駅などを中心に店舗を持つ蕎麦チェーン店です。株式会社小田急レストランシステムが商標を持ち、同じ小田急グループのジローレストランシステム株式会社や神奈川中央交通も同名で店舗を出店しています。
愛称は「箱そば」といい、ブランドの統一及びロゴマーク更新により、現在はロゴマークにも「名代 箱根そば HAKOSOBA」のようにこの愛称が使用されている。そばは生麺を茹で上げ、だしの効いた優しい味わいのつゆを使い、自慢のかき揚げはひとつひとつ丁寧に手揚げをしています。かき揚げのてんぷらの油が程よく染み出てソバと絡みよい味を出しています。食べ終わるとどんぶりの底にかわいらしいイラストが現れます。








浅草寺・仲見世商店街、家賃値上げ騒動

2017年12月11日 | 日記
浅草寺・仲見世商店街、家賃値上げ騒動
浅草寺の仲見世商店街が家賃騒動に揺れている。建物の所有権が東京都から浅草寺に移り、平成30年1月から約16倍の値上げを提示されたという。家賃が跳ね上がれば廃業に追い込まれかねないため、商店街は「寺側と話し合いたい」としている。
 各店が家賃の値上げを知らされたのは9月で、10平方メートルあたり月1万5千円だった家賃を、1月から約16倍にあたる月25万円に値上げするというもので、理由は「周辺の家賃相場と釣り合いをとった」という。
 表参道に約90店が軒を連ねるが、1区画10平方メートルまたは2区画の20平方メートルの建物を借りている店が多く、値上げになれば月1万5千円の家賃は約24万円に、月3万円の家賃は約48万円になる。大幅な値上げの背景には、建物の所有権が7月に東京都から浅草寺に代わったためであるある。
仲見世商店街の土地は元々浅草寺が所有していたが、1871(明治4)年の上知令(あげちれい)で寺領が没収され、現在の都の管理下になり、戦後に浅草寺に戻されたが、戦災で焼失した仲見世はバラック状態の店を現在の建物は都が再建したため都の所有になっていた。都は店舗を管理し、商店街全体で年間約2,500万円を各店舗から家賃として受け取っていた。しかし6年前、こうした賃貸契約の見直しの動きが出て、浅草寺が都に建物の売却を求め、話し合いを続けてきたが、7月に約2千万円で買い取ることに合意した。売却にあたっては、歴史的な景観や伝統的な商店街の趣を維持することが確認事項として取り交わされた。








商店街の福引

2017年12月10日 | 日記
商店街の福引
商店街の福引きなどに用いられる抽選器をガラガラ、ガラポン、福引器(ふくびきき)などと呼んでいる。中に入れた多数の抽選球あるいは抽選玉という玉から、一つだけを無作為に放出されるものである。
抽選器には、六角形 や八角形の木製の箱にハンドルがついており、まわして出てきた抽選球の色によって賞品が決まる。赤、青、緑、そして白、コレが出てくると外れが多い。浅草の商店街で10回行ったが、白玉が10出てきた。外れの賞品は、「ドラえもん うまいパワーアップ棒」を10本頂いた。
このガラポン、正式名称は新井式廻轉抽籤器(新井式回転抽選器)といい、かつて東京で帽子屋を営んでいた新井卓也が客へのサービスとして考案したためこの名になったそうである。










商店街診断終了

2017年12月03日 | 日記
商店街診断終了
 11月から9人で開始した浅草の商店街診断が終了した。
いつものように、ひさご通りの「めん丸」で腹ごしらえ、報告会の場所は、区商連会議室
2時間ほどで終了、その後は、打ち上げ会を行うが、こちらの方が時間的には長かった。
お疲れさまでした。














川崎銀柳街商業協同組合

2017年11月30日 | 日記
川崎銀柳街商業協同組合
 現在の駅の東側、銀柳街あたりは戦後に発展をしましたが、 昔は古川と言う川が流れていて一面葦に覆われたところでした。その古川のあたりに柳の木が数本あり、戦後21・22年頃地域の住民たちが柳の木を植樹した。当商店街でも戦禍による荒んだ気持ちを和らげる意味で、柔軟で良く風雪に耐える『柳』をテーマに荘重にして深き光をたたえる『銀』をあしらい銀柳街と名づけました。
 昭和50年代に建てられた現在のアーケードは、県内唯一の可動式アーケードで、晴れた日は空が見える開放感を演出し、閉じれば雨や雪の日でも快適に過ごせます。
平成25年にはこの可動式アーケードを全面リニューアルし、日常の開閉だけでなく、災害などの万一の場合にも備え可動に必要な機器の取り替えを行いステンドグラスの屋根の張り替えによって街内を明るくしました。
 このたび旅行ポータルメディアfor Travel神奈川県の市場・商店街 クチコミ人気ランキング TOP40にて、銀柳街が神奈川県で人気の商店街2位に選ばれました。1位は横浜元町SS会でした

銀柳街 街づくりルールについて 
 銀柳街の秩序ある街並みづくりに向けて、街内で店舗を経営する方、土地・建物を所有する方や行政関係者が集まり、銀柳街 街づくり特別委員会を開催し、その成果として「銀柳街 街づくりルール」をまとめました。このルールは、街内での法令による規制が強化されていく中で、そうした法令を遵守しつつも、街内の買い物環境を皆様の総意で組合が自主的に管理することによって、街の特色を生み出し、新たなにぎわいと未来への発展を担保することを目的としています。