blog

blog

シュタイナー「思考の変容」第四講(最終講)

2017-09-18 00:38:11 | ウェブログ

(シュタイナー『死について』内「思考の変容」第四講252頁以下からの抜き書き)

・……死せる認識!こんにちの物質的な地上の認識は、いつでも死せる認識だったのではありません。死せる認識になったのです。古代に遡っていけば、ゴルゴタの秘蹟以前には、通常の地上の認識も、生きていました。太古の高次の認識の遺産が、まだ残っていたのです。

・……そのことは、さまざまな人類の聖典の中に、見てとることができます。

・……この遺産は、ゴルゴタの秘蹟の時代に、消えてしまいました。
どうぞ、今言ったことを正確に受け取って下さい。もしも皆さんのうちどなたかが、今言ったことをうわさにして広めて、古代の先祖返り的な見霊認識は、ゴルゴタの秘蹟によって消された、と私が言っていた、と言いふらすなら、私の言ったことと正反対を言いふらすことになるのです。

・……ゴルゴタの秘蹟は、次第に失われていったものの代りになってくれたのです。別の側からいのちを人間の魂の中にもたらしてくれたのです。

・……古代の伝承を見てみると、ゴルゴタの秘蹟以前に、さまざまな仕方で科学的な思考が働いていたことが分かる。しかし古代の人びとは(略)、そういう仕方で認識できるのは、低次元の事柄にすぎないと思っていたのだ、と。

・……すでに『神秘的事実としてのキリスト教』の中にも、この死につつある太古の叡知に代って、ゴルゴタの秘蹟がひとつの埋め合わせをしたことを…


・……神秘学の観点から考察しますと、人間の物質的なこの世の認識は、死せる認識なのですが、ゴルゴタの秘蹟によって、この物質的なこの世の認識を充実させ、いのちをその認識の中に注ぎ込むことができるようになり、その結果、高次の認識段階である霊視認識がもてるようになったのです。

・……この霊視認識は、人間の古い本性に通じています。月紀への回帰であるともいえるのです。言い換えれば、(略)こんにちの人間本性の中には、太古の月紀の時の夢幻的な認識が、先祖返り的に、ふたたびたち現れてくる場合がありますから、霊視認識によって知ることのできるかなりの部分は、現代の見霊者が、月紀意識の先祖返りによって得られるものと合致しているのです。
けれども霊聴(インスピレーション)の道を通って人間の魂の中に入ってくるものは、先祖返り的な手段によっては獲得できません。そのすべてが、人間本性からもっと離れた、もっと遠い存在なのですから。
霊聴は、本質上、太陽紀のはたらきなのです。太陽紀に人間が受容した生命要素が、人間本性の深いところに保たれ、それが今、霊聴によって意識的に認識されるのです。
そして昨日述べたように、芸術を体験するときに、この太陽紀の働きが人間の遺産となって無意識の中から引き出されます。言い換えれば、魂の隠れた深みに存在している事柄が、意識のいとなみにまで引き上げられると、芸術上の霊感になるのです。

・…識域下のイメージは、思い出すことで得られる日常意識のイメージ内容とは非常に異なっています。けれどももっと極端に異なっているのは、芸術家の魂の深層の中に生きているイメージと、芸術家の意識に上ってくるイメージとの違いです。
そもそも霊聴そのものを理解しようとするには、ある特別な事情をはっきりと魂に記しづけなければなりません。すなわち、霊聴が生じる時は、客観的な自然法則と魂の体験との間に、何の違いもなくなるのです。その時の芸術家は、自分の魂の中に生きているものを自分の一部分だと思うだけでなく、自然法則をも自分の一部分だと思うのです。
霊聴を体験する人が、なにかの動機に駆られて、何かをやろうと決めるとき、その動機の根底にひとつの合法則性が働いている、と感じます。そしてその合法則性を、自分の胸の合法則性だと感じているのですが、その合法則性は、毎朝東の空に太陽が昇ってくるという客観的な法則と同じ合法則性なのです。
こうも言えます。──私が自分の腕時計を手にとるとき、それはこの物質界での私の私的な問題だと思っています。朝、日が昇るのは、私の私的な問題だとは思いません。しかし霊聴体験に衝き動かされる時には、自然現象と私的な問題との区別がもはやなくなるのです。
本当に個人の関心が自然の出来事にまで拡がり、自然の出来事が個人の関心事になるのです。私たちが植物のいのちのいとなみを自分の体験のように身近に感じるのでない限り、真の霊聴になっていません。水面にとびこんで水しぶきを上げる蛙を、自分の体験のように感じとれない限り、霊聴は真実なものではありません。自分の中の何かの方が自然のいとなみよりも手ごたえがある、と思っている限り、真の霊聴とはいえないのです。
しかし誰かが、霊聴を体験する私たちの頭をぶんなぐったとき、私たちがそのことをも火山の噴火のように客観的に感じとるべきだと思ったとしたら、まったくのナンセンスです。誰かに頭をぶんなぐられた瞬間、私たちは霊聴を失っています。
私はハーグの連続講義(『人間のオカルト上の進化は肉体、エーテル体、アストラル体、自我にとってどんな意味があるのか』)の中で、認識を拡大することは、関心を拡大することである、と申し上げました。わずかな時間だけでも、自分のことから離れることのできない間は、もちろん霊聴を体験することができませんけれども、いつでも自分を忘れろ、と言っているのではありません。反対です。自分への関心と自分の霊聴の対象とをはっきり区別することは、いつでも大切なのです。
けれども自分の関心を自分の外にまで拡げて、生長する植物のいとなみを、自分の人生の一部であるかのように感じとる人、外で芽を出し、成長し、枯れていくいとなみを、自分自身のいのちのいとなみであるように身近に感じとる人は、眼の前の植物を介して、霊聴を体験しているのです。
しかしその場合、関心をもつこのやり方は、必然的に、すでに述べたゲーテの人間評価に通じるような人間評価に至ります。ゲーテは、すでに述べたような思考への努力によって、人間本性と人間の能力とを区別することを学びました。そしてこのことは、非常に、非常に重要なことなのです!
私たちのやること、やったことは、客観的な世界に属するものであり、カルマの働きです。一方、私たちの人格は、絶えず生成しています。ある人の行為についての私たちの判断は、その人の人格の価値についての判断とはまったく違った事柄です。私たちが高次の世界に近づこうとするなら、石や植物や動物に客観的に向き合うのと同じように、人格にも客観的に向き合えなければなりません。私たちは、どうしても評価できないようなことをやってしまった人の人格にも関与できなければなりません。人とその人の行為を分けるのです。そして人とその人のカルマとも分けるのです。高次の世界と正しい関係をもてるようになろうとするのでしたら、この区別を正しく行えなければなりません。
そして私たちの霊的認識の立場が私たちの時代の唯物主義の立場とはっきり対立する場合のひとつがここにあることを、知らなければなりません。私たちの時代の唯物主義の立場は、人格をその行為とますます結びつけて判断しようとする傾向を強めています。
どうぞ、次のように考えてみて下さい。近来[引用者註・本講義は1915年]、司法の分野で、ますます次のような傾向が現れてきているのです。誰かが特定の犯行を犯したとき、その人の人間性全体をも観察して、どんな魂の持ち主なのか、どのようにしてその犯行に及んだのか、精神的に劣っているのか、正常なのか、等々についても顧慮する必要がある、という方向になってきています。それどころか、ある立場の人たちは、法廷で裁きを行うのに、立会人として医師だけでなく、心理学者をも召喚すべきである、と主張しているのです。しかしもっぱら外的な生活に関わる行為について裁く代りに、人間の内面生活をも裁こうとするのは、権力の不当行使だと言わなければなりません。
現代の哲学者の中では、たったひとりだけ、この問題について注目していました。私の『哲学の謎』の中でもこの人物に言及していますが、法廷が心の裁判などから離れていなければならないことに注目したのは、ヴィルヘルム・ディルタイなのです。
人間の行いは二つの分野において生じます。ひとつはカルマの分野においてです。カルマは、すでにカルマ固有の因果関係の中で裁かれています。カルマはほかの人とは関係ありません。キリスト自身は不倫を犯した女の罪を裁きませんでした。その罪を地面に書き記したのです。なぜならその罪は、カルマの経過の中でおのずと決着がつけられるでしょうから。
もうひとつの人間の行いは、人間関係の中での行いです。そしてこの観点からでなければ、人間の行いは裁けないのです。人間のカルマについて裁く資格は、外的な社会秩序にはまったくないのです。

・……霊的な立場にとって大切なのは、役に立つことであって、いずれにせよ、裁くことではないのです。役に立とうとしなければならないのです。霊的認識は、人間の魂の中で生じる事柄をひたすら理解しようとするときにのみ、私たちの役に立つことができるのです。
もちろん、霊的な立場の人が見せかけだけでなく、本当に役に立とうとするのでしたら、世の中から途方もなく誤解されてしまうでしょう。なぜなら、手をさしのべようとする当の相手が、役立とう手をのばす人を正当に評価する筈などまったくないでしょうから。(略)当人が思っているような仕方で、その人の役に立とうとするのは、たぶんもっとも下手なやり方になってしまうのです。

・……そういう相手には、そっとしておくことの方が、気に入られようとすることよりも、役に立つのかもしれません。おもねるような態度で相手ののぞんでいることに手を貸すよりも、はっきりと拒絶する方が愛情ある助けになるのかもしれません。何でも言うことを聞いてあげるよりも、時には厳しい態度で接する方が親切な場合もあるのです。しかしもちろん、そういう場合には誤解がついてまわります。そういう向き合い方だと、ろくな結果になりません。しかしそのことが問題なのではなく、大事なのは、どんな場合にも魂と霊の観点から理解しようとすることであって、裁判官になることではないのです。

・……人間の本性は、多かれ少なかれアーリマンとルツィフェルにつかまえられています。なぜなら、そもそもどんな人の人生も、アーリマン衝動とルツィフェル衝動の間を右往左往しているのですから。ただ世の中の方が、バランスをとってくれているのです。そして生きるとは、まさに世の中と一緒に、バランスをとることにあるのです。

・……人間に影響を与えているアーリマンかルツィフェルかの作用を深く洞察するのに必要なことは、私たちが決して道徳的な価値判断をしようとしないこと……

・ある植物の花が青くなく赤いからといって、その植物を裁いたりすることがないように、ある人の中にアーリマンかルツィフェルが生きているからといって、その人を裁いたりしてはならないのです。ある人の中の何かがアーリマン的であるとか、ルツィフェル的であるとか思うことが、決してその人を裁くことになってはならないのです。植物の花が赤いか青いかを知ることが価値判断の根拠になりえないのと同じようにです。
大切なのは、認識行為の中になんらかの情念や主観を混入させないよう努めることです。認識を純粋に認識であるように保つこと、そのためには、今述べたことをできる限り真剣に行おうとしなければなりません。
ゲーテは、まさに彼のもっとも成熟した時代に、人びとの行為を自然現象であるかのように受けとろうと努めました。もちろん人間関係を機械的な関連の中に持ち込もうとするのではありません。そんなことができる筈がありません。人生におけるさまざまな人間関係に対して、私たちが、次第に、自然現象を考察するときのような客観的な愛をもって対せるように願っているのです。そうすれば、認識そのものから生じるあの内的寛容性がもてるようになるでしょうから。
しかしそうしようとしても、私たちはつい、認識の中に取り込んではならないものをも、認識の中に取り込んでしまうのです。

・……ユーモアぬきで霊界に向き合うと、おそろしい弊害が生じます。自分はホメロスやソクラテスやゲーテのような人間だ、と空想する人がいますね。そういう人が、そのつもりで人前に現れることがどんなに滑稽なことかに気づくなら、自分の立場を健全なものにするのに役立ってくれますよね。でも自分のセンチメンタルな、不健全にまじめな生き方が、ユーモアを受けつけようとしない限り、そういう自己認識にいたる可能性はないのです。


・……ユーモアのない人は、自分を不純にし、まじめさをセンチメンタルな気分によってごまかしてしまいます。そしてセンチメンタルな気分くらい、人生の深刻な事情を深刻に受けとめるのに妨げになるものはありません。


・……私としては、事柄の深刻さから自由になれたら、と思ったのです。

・……考えてみて下さい。私たちの場合、もっぱらセンチメンタルな気持ちで事柄に向き合うと、容易にその事柄を歪曲してしまうのです。なぜなら、センチメンタルな気分だけで、すでに十分に高次の世界に入った、と感じられるからです。そうなると、柔軟性のある、動的な理解力でも霊界に昇っていけるとは、信じられなくなるのです。

・……深刻さはその時おのずと生じます。深刻さは、霊的認識のために一生懸命努める努力からおのずと生じるのです。

・……この世で詩人であろうとする人は、詩人の脳を持たなければなりません。言い換えれば、霊界によって脳がそのために整えられているのでなければなりません。画家であろうとする人は、画家の脳を持たなければなりません。

・……骨が私の誕生から死までの間、私の一部であるように、空気の流れも私のものです。ただ空気の流れが私のものであるのは、吸ってから吐くまでの間だけです。そして私の骨が私のものであるのは、生まれてから死ぬまでの間です。空気と骨との違いは、時間の問題にすぎません。


・……人間の息とインスピレーションとの間にはひとつの深い関係があるのです。インスピレーションの語源を考えてみて下さい。この言葉の中に、すでに、息と霊聴との親和関係が表現されています。なぜならインスピレーションとは、息を吸うことなのですから。

ゲーテ「植物のメタモルフォーゼ」

2017-06-04 20:43:48 | ウェブログ

この庭一面に咲く百花繚乱の花は、愛する人よ、あなたを混乱させます。
たくさんの花の名まえを聞いても、
聞き慣れない響きをしているので、一つも耳に残りません。
すべての形態は似ているけれども、
一つとして同じではありません。
それらの群れは、秘密の法則、
聖なる謎を指し示しています。
愛らしい友よ、あなたに
謎をとく言葉をすぐ伝えることができたらどんなにいいでしょう。
植物がしだいに生成する様子をごらんなさい、
段階的に導かれ、花と果実へ形成されていきます。
地下の静かにはぐくむ母胎から生へと送り出されると、
種子は生長しはじめます。
発芽した葉の可憐なからだはすぐ
永遠に生動する聖なる光の刺激にゆだねられます。


種子の中には単一な力が眠っています。外皮に覆われて
これから始まる雛型がまだ内部に閉ざされているのです。
葉と根と芽はまだ形がよくできておらず色もまだありません。
穏やかな生を保護しているのは乾燥した種子の核です。
核はやさしい湿り気に会うと勢いよく伸びはじめ、周りの闇からすぐ立ち上がります。
しかし最初の現象形態は単純です。植物のあいだでも子供はそれと分かります。
引き続きあらたな衝動が起こってきます。
結節から結節へと積み重なりますが、依然として最初の形成物です。
もちろん、いつも同じではありません。多様につくりだされ、
形成されていくのは、あなたがおわかりのように、いつも次の葉です。
拡張されると、刻み目をつけられ、先端と部分に分けられます。
あらかじめ下の器官に癒合して安らっていたのです。
こうしてまず最高に規定された完成に達します。
それは多くの種属においてあなたの目をみはらせます。
葉脈と鋸状の葉ができ、分厚い表面で、豊かな衝動はさらに進展し無限のようにみえます。


ところがここで自然は、力強い手で形成をとめ、
ゆっくりと、より完全なものへ導いていきます。
自然はいまや汁液を少なくし、導管をせばめます。
するとすぐ、形態はより繊細な作用を示します。
進展する葉の緑の衝動はしずかに後退し、
葉脈はより完全に形成されます。
葉はなくても急により繊細な茎が立ち上がり、
奇跡の形成物が眺めている人の目を惹きます。
円く環をなして小さな葉が似たような葉のそばに、
一定数あるいは無数にならびます。
軸の周りにぎっしりと、支える萼が分離し、
色のある花冠を最高の形態をとるよう送りだすのです。
このように自然は、豊富な現象を誇らかにみせ、
区切られた節また節と段階的にならべて示します。
交互についた葉のほっそりとした足場の上で、花が茎のところで
揺れ動くようになると、あなたはまた改めて目をみはります。
しかし、この華美も新しい創造の告知です。
色のついた葉は神の御手を感じ取ります。


それが収縮すると、いとも纖細な形のものが
ふたつ勢いよく伸び、一つになる定めにあります。
愛らしい数々のペアはいまや婚礼のように一緒に立っています。
それらは多数の組になって清められた祭壇の周りに並んでいます。
婚姻の神が静かにやってきて、すばらしい香気が
つよい匂いを撒き散らし、すべてのものを生気づけます。
するとすぐに無数の芽が膨らみ、
膨らむ果実の母胎の中へやさしく包まれます。
自然はここで永遠の力の環を閉じます。
しかし新しい環がまえのにつながり、
鎖は永劫未来にのびていきます。
こうして個も全体も生を付与されます。
愛する人よ、色とりどりの群れに眼差しを向けてください、
それはもはや精神のまえで混乱を引き起こさないでしょう。
どの植物もあなたに、永遠の法則を告げています。
どの花もますます大きな声であなたと語ります。
ここで女神の聖なる文字を解読すれば、
筆跡が異なっていても、それを至るところで見ることができます。


蛹はゆっくりはい回り、蝶は忙しく飛び回り、
人間は自己を形成しつつ一定の形態に変わりなさい。
それからまた、知己の芽からしだいに私たちの間に
友情にみちた習慣が生まれたことを思い出してください。
愛情が私たちの内部に力強く芽生え、
アモルが最後に花と果実を生み出しました。
考えてください、いかに多様な形態を、静かに展開しながら、
自然は私たちの感情に与えてくれたことでしょう。
また今日という日を喜んでください。
聖なる愛は伸びて
同じ気持ちという最高の果実に高まります。
同じ事物の見方をして、調和した直観のうちに
ひと組の男女が結ばれ、高次の世界を見出すためです。


(ゲーテ『ゲーテ形態学論集・植物篇』木村直司 訳)


空気の観察──水中

2017-05-14 12:14:08 | カオス
【《空気*における水の感覚》の観察】
(*ここで《空気》とは、変化する感情の流れをさす。)


・2017/5/12(金)曇り。夜に強い雨。満月の次の日(15.1)。
きっかけは、4月に一度感じた大気内の水の通り道のような感覚の再来。曇りで前日までの暑さはなく、冷たい水気を多く含んだような風。バイク走行中に胸をつきぬけていく明らかで特殊な清涼感。言うなれば水を含んだ空気内を泳ぐように飛行している感覚。主に嗅覚と触覚(あるいは熱感覚)。視覚的に何が特殊なのかが発見できない。
・公園の前。白く銀に光るおそらく高層雲の曇り空。上空を西へ飛ぶ一匹の鳥(種類は不明)に水中の清浄さ。滑空し旋回。東へ飛ぶ鷺系の鳥にはそれがない。

・5/14(日)晴れ。
同じ海沿いの道を同じようにバイクで走行。晴れですこし暑いが風は涼しい。だが水中の感覚はない。潮の香りを含む。上空の鳥(鳶)の滑空にもそれはない。

・ここで考察している《水中的空気》は、
①たんに涼しい風ということではない
②曇りから雨に変わる天候という条件下の感覚か、たんに「雨の前の湿度を含む風」という凡庸なものか(だが4月に感じたその日は晴れており、その後1日雨はなかったはず)、あるいは見落としている他の条件があるのか
③観測を歪める主観的バイアスは何があるか


・空気の観察に何の意味があるのか。個々のもの(特殊)が普遍になりうる期待はまだできない。鋭く分類していく方法は。どのように発展しうるか。視覚的な発見がなければ意味が生じないように思う。



・公開後の追記
自己の身体内部の希薄さ・空虚さがあり、自然観察(感覚印象)から主観的に受けとる得体の知れない感情がある。僕にとって自然は、特殊な例外を除いて、大抵よそよそしい力と感じるものにすぎない。あるいは優しいが、拠り所のない、自我を霧散し弱められるような性質である。

・5/20(土)晴
この日の観察で得た仮説は、「《空気》における水中的感覚は、それを考察しはじめたきっかけ(詳細は記していないが上記4月のもの)の時と同様、他人の感受を触媒として間接的にそれを感受しているのではないか」という、ねじれたものであった。言い換えると、「人の《空気》を介在して間接的に自然の《空気》を感受するとき、あたかも感受の強度が増したかのように錯覚する」というものだ。
そもそも《空気》の感受というものは、しばしば錯覚や妄想などの主観的な感じかたにすぎず客観的事実性を獲得しがたい、と見なす疑念は当然のものだ。その目で見、その手でふれることもできず成分分析もできない以上、あるともないとも知れないのだから。──とはいえ、それが一般に広く知れ渡った「秋の日の寂しさ」等の《空気》ならば差し当たり問題はない(秋が寂しさの感情と結び付いているのは自明すぎるので、特に疑問を差し挟む者はいないという意味で)。あるいは、それを詩や絵等の個人的芸術として万人にそれが虚構だと了承された枠内で表現するなら、妄想的でも差し当たり問題はないだろう。あるいはそれが常に人間にとって同じ錯覚をひきおこす、という共通性が研究され証明されていれば、それは「常に人間に錯覚をひきおこす特異な現象がとにかくも存在する」という事実になるだろうが、ここでは《空気》内部の水という特殊な観察の客観的な共通項を模索している。
この仮説への疑念は主に、例えばこどもを媒介としてそれを感受したように思うとき、それはただこどもを見ることによって己の過去の記憶(いまは鈍麻しているがこども時代にそれを強く感じたという記憶)を呼び起こされているにすぎず、だから「他人の感受している《空気》をありのまま感受した」という思考は誤りだ、というものだ。そうでないことを示す比較対象はあるが、それはまだ記さない。

・普遍性──?
個々のもの、特殊な観察内容の総計がいずれ普遍性に高まる可能性がなくては意味がない。それが得られる期待が持てなくてはいけない。なぜそうなのかはいちいち記述しない。
そこで、〈生命の水〉という概念があるのだが、そのようなもの(水の感覚をともないつつ生命を賦活させると感じるイメージ)を、因果関係が見通せないままふいにあらわれる記憶内容に感じるときがある。その内容のイメージは常に水とは関係ないのだが、しかしそう感じる。
そして、遠い過去の記憶内容でなく(「遠い」というのは、上のようなイメージは近い過去でなくいつもかなり以前の記憶イメージだから)、現在の観察内容ではあるのだが、この《空気》における水中的感覚もそのようなものを含む。つまりこのテーマにおいては過去のイメージがあり、現在の観察のイメージがある。それがポイントだろうか。

・追記5/23(火)晴
感情の水位が一定レベルまで上がっていることがその条件のひとつだと思うが(他の条件は不明)、一瞬、《他人を媒介とした水中的空気の感受》の体験の強度が、非日常的に高まる。世界の内容らしきもの(曖昧で話にならないが)を強く感じた一瞬。

・不明な他の条件は?
短時間集中的に行うことでその強度が高まるのか、それとも人間タイプ(とその体調や気分や考え方など)によるのか。または、時(変化する季節と天候、あるいはその他の条件)と場(美的な環境など)によるのか。

・ある種のタイプの人間(どういう類型かはまだ明確に示せない)を媒介して感受する「《水中的空気》の感受」という感覚をさらに抽象化すると、「他人を媒介して感受する、その日の天候等の自然の感覚印象」といえる。
それは以前からよく観察されていたが、以前は〈媒介的〉だと意識化してなかった。たとえば「雨の日特有の感覚を強く感じる人間──を媒介して感じる自然の感覚印象」などである。単独でそれを感受しようと思っても、〈媒介的〉な感受よりどうしても弱い(その場合、大抵自然はよそよそしい力であり、快だったり美だったりしても結局空虚に感じる)。

・ある種のタイプの人間とは?
まだ材料が不足なので抽象的判断は控えるべきなのかもしれないが、いまのところ、「男女問わずこども・ある種の(どういう種類かはまだ分類できない)女性・老人の男性(少ないが)」がそれだと思える。それは世界(つまり人為的かつ恣意的でない自然)に開かれたタイプ(逆にいえば、周囲をはねつけてないタイプ)なのか。
・老人の男性に、圧倒的にそれを感じる人がいた(農作業者)。ひどく年老いていたが。
・おそらく、媒介され中間(僕─他人─自然の中間)にいる当人が、自己の感受性の強度や、その価値や、感受しているものの〈正体〉が何なのかを明確に意識してない可能性がある。「自分でもよくわからないけど、言われてみればなんとなく、身体的に自然(世界)に開かれている感覚はある」……というような。あるいはたんに「天候や季節などの自然の変化が、視覚や匂い等の感覚的知覚で(自分で発見した法則性か教え込まれた知識として)経験的にわかる」、というだけで満足し、精神的・詩的な表現にまで高める必要を一切感じてない等。実際に対話してみるとどうなのか。




ハワードの術語(ゲーテ『地質学論集・気象編』より)

2017-03-05 15:53:52 | ウェブログ

ハワードの術語



層雲(Stratus)

この言葉で把握されるのは、帯状あるいは層状に地球にいちばん近く関係するすべての雲である。沼沢あるいは湿った草地から立ち昇り、しばらくその上に漂っているたなびく霧から、山際あるいはその頂上をおおっている層をなすすべてのものが、この名称で表示されうる。すでに述べたように、水平に横たわっている雲は地球と一番近い関係を持っているので、付記すると、さまざまな雲はこの形を大気圏の一定の高さまでしか保つことができないということである。私の思うに、それらは1200トワーズ(1トワーズ=1.949メートル)、すなわち、せいぜい国の雪線までしか達しない。(参考)ロイス川がフィアヴァルトシュテッテ湖に流れ込む谷間で、私はこれらの雲を見た。そのとき、これらの細長い帯は、つるしてある書き割りが側壁から側壁へ揺れ動くように、一方の岩から他方の岩のほうへ水平に引っ張られていた。それを描いた重要なスケッチが一枚、いまなお私のコレクションのなかにある。
これらの雲の層が一定の高度でしか起こらないので、それらはまた、バロメーターが上がるや否や、その形の変化を蒙らなければならない。それゆえ、下のほうでは雲がまだ帯状あるいは層状に水平に漂っているのに、上のほうでは、凝縮しかたまった量塊が垂直に高く発展していく。


層積雲(Strato-Cumulus)

こう呼ばれるのは、ここで記述された現象である。すなわち、定義される二つの雲形、すでに扱われた層雲と次に扱われる積雲がまだ連繋し、両者がまだ区別されていない場合である。


積雲(Cumulus)

積み重なった雲塊はこう呼ばれる。それらは地平線のところで盛り上がり、独自の動きを追求する。もちろん、これはすばらしい現象で、これらが最も本来的に雲の名にあたいする。それらこそインドで、南から北へ無限の形態変化を示しながら移行し、巨大な半島を一歩一歩とかすめて山脈まで近づき、周期的な豪雨を降らせるのである。この雲の行列に向けられているのが、最近になってカルカッタから伝えられた優れた詩「メガドゥーター」である。ザクセンとボヘミアを分かつ山脈で、この現象はしばしば完全に認められる。しかし積雲が大気圏のそれに同じく指定された高度に達するか、バロメーターの示度が高まると、新しい変化が現われる。
付記すると、これらの雲の上部は吸収されて綿くずのような薄片に梳かれ、大気のもっと高い領域へと導かれる。これらの薄片が凝固したような雲から直接発達し、それからまだ分離していないと、この現象は学名で


絹積雲(Cirro-Cumulus)

と呼ばれる。これに対し、ドイツ語で羊雲といわれる軽い綿くずのような雲は、それだけで空にかかっていたり移動したりすると、


絹雲(Cirrus)

と呼ばれる。この雲はしかし多様な形態をとって現われるので、迷わないため、観察者はそれらをよく知っていなければならない。誰にでも知られているのは、それらが押し合う羊の群れ、あるいは巻いた綿くずのように何列にもなって現われる場合である。しかし空が箒で掃かれたようにみえることもある。薄い雲の帯は一定の方向がなく、その時その時の奇妙な形で比較的高い大気圏にかかっている。さらに、美しいけれども稀な光景は、空の大部分が市松模様になっているときである。これらすべてのケースは、絹雲という名称で表示されることができる。また、あの軽く浮かんでいるさまざまな雲は、月の付近を漂うのが好きである。将来、これらすべてのために下位区分する術語が見出されるであろう。しかし、まずはしばらく観察を続けることである。さもないと、性急なあまり定義が無限に広がり、区別全体が止揚されかねないのである。追加しなければならないのは、


絹層雲(Strato-Cirrus)

である。すなわち、とくに冬季に次のようなケースが起こりうる。たとえばエッターズベルクのような山の背にかかっている屑雲がかたまっていちおう積雲となることなく、空中ですぐに引き離され、絹雲として上の領域へ連れ去られてしまう。そうすると、この名称が必要になる。最後にくるのは


雨雲 (Nimbus)

である。これで表示されるのは、夏季、ある広い地域に雷雨のように暗雲が押し寄せ、下のほうはもう降雨となっているのに、上部の緑はまだ太陽に照らされているケースである。
ハワードはこれだけにしよう。
まだ欠けているように思われる術語を私がとりあえず提案するとすれば、それは


壁雲 (Paries)

とでも言えよう。すなわち、地平線の果てに層雲がぎっしりと重なり合い、もはや中間の空間が認められない場合、それらは地平線をある高さで閉ざしてしまい、上方の空だけが晴れわたる。するとその輪郭は山の背のようになり、遠くの山脈を見ているような印象をうけることも、やがて雲として移動することもある。一種の積層雲が生ずるといえる。



(ゲーテ『ゲーテ『地質学論集・気象編』木村直司 訳)






ゲーテ「ハワードの雲形論への三部曲」

2017-03-03 15:17:15 | ウェブログ

「世界は果てしなく大きく、
天も広大無辺だ。
すべてを眼で捉えなければならないとすれば、
とてもすべてに考えがおよばない。」

無限なるもののうちに汝を見出すために、
区別し、ふたたび結びつけなければならない。
それゆえ、翼ある私の歌は感謝する、
さまざまな雲を区別した人に。


(中略)


区別したならば、
われわれは区別されたものにまた
生きた賜物を賦与し、生命の連続を喜ばなければならない。

画家や詩人は
ハワードの区別に親しみ、
朝な夕な、ひねもす
大気圏を注意深く眺め、

雲の特徴が正しいことを認める。
しかし大気の世界はそれに許容する、
過渡的なもの、穏和なものを。
それを把握し、感じ、形づくるように。(ゲーテ「ハワードの雲形論への三部曲」)