(シュタイナー『死について』内「思考の変容」第四講252頁以下からの抜き書き)
・……死せる認識!こんにちの物質的な地上の認識は、いつでも死せる認識だったのではありません。死せる認識になったのです。古代に遡っていけば、ゴルゴタの秘蹟以前には、通常の地上の認識も、生きていました。太古の高次の認識の遺産が、まだ残っていたのです。
・……そのことは、さまざまな人類の聖典の中に、見てとることができます。
・……この遺産は、ゴルゴタの秘蹟の時代に、消えてしまいました。
どうぞ、今言ったことを正確に受け取って下さい。もしも皆さんのうちどなたかが、今言ったことをうわさにして広めて、古代の先祖返り的な見霊認識は、ゴルゴタの秘蹟によって消された、と私が言っていた、と言いふらすなら、私の言ったことと正反対を言いふらすことになるのです。
・……ゴルゴタの秘蹟は、次第に失われていったものの代りになってくれたのです。別の側からいのちを人間の魂の中にもたらしてくれたのです。
・……古代の伝承を見てみると、ゴルゴタの秘蹟以前に、さまざまな仕方で科学的な思考が働いていたことが分かる。しかし古代の人びとは(略)、そういう仕方で認識できるのは、低次元の事柄にすぎないと思っていたのだ、と。
・……すでに『神秘的事実としてのキリスト教』の中にも、この死につつある太古の叡知に代って、ゴルゴタの秘蹟がひとつの埋め合わせをしたことを…
・……神秘学の観点から考察しますと、人間の物質的なこの世の認識は、死せる認識なのですが、ゴルゴタの秘蹟によって、この物質的なこの世の認識を充実させ、いのちをその認識の中に注ぎ込むことができるようになり、その結果、高次の認識段階である霊視認識がもてるようになったのです。
・……この霊視認識は、人間の古い本性に通じています。月紀への回帰であるともいえるのです。言い換えれば、(略)こんにちの人間本性の中には、太古の月紀の時の夢幻的な認識が、先祖返り的に、ふたたびたち現れてくる場合がありますから、霊視認識によって知ることのできるかなりの部分は、現代の見霊者が、月紀意識の先祖返りによって得られるものと合致しているのです。
けれども霊聴(インスピレーション)の道を通って人間の魂の中に入ってくるものは、先祖返り的な手段によっては獲得できません。そのすべてが、人間本性からもっと離れた、もっと遠い存在なのですから。
霊聴は、本質上、太陽紀のはたらきなのです。太陽紀に人間が受容した生命要素が、人間本性の深いところに保たれ、それが今、霊聴によって意識的に認識されるのです。
そして昨日述べたように、芸術を体験するときに、この太陽紀の働きが人間の遺産となって無意識の中から引き出されます。言い換えれば、魂の隠れた深みに存在している事柄が、意識のいとなみにまで引き上げられると、芸術上の霊感になるのです。
・…識域下のイメージは、思い出すことで得られる日常意識のイメージ内容とは非常に異なっています。けれどももっと極端に異なっているのは、芸術家の魂の深層の中に生きているイメージと、芸術家の意識に上ってくるイメージとの違いです。
そもそも霊聴そのものを理解しようとするには、ある特別な事情をはっきりと魂に記しづけなければなりません。すなわち、霊聴が生じる時は、客観的な自然法則と魂の体験との間に、何の違いもなくなるのです。その時の芸術家は、自分の魂の中に生きているものを自分の一部分だと思うだけでなく、自然法則をも自分の一部分だと思うのです。
霊聴を体験する人が、なにかの動機に駆られて、何かをやろうと決めるとき、その動機の根底にひとつの合法則性が働いている、と感じます。そしてその合法則性を、自分の胸の合法則性だと感じているのですが、その合法則性は、毎朝東の空に太陽が昇ってくるという客観的な法則と同じ合法則性なのです。
こうも言えます。──私が自分の腕時計を手にとるとき、それはこの物質界での私の私的な問題だと思っています。朝、日が昇るのは、私の私的な問題だとは思いません。しかし霊聴体験に衝き動かされる時には、自然現象と私的な問題との区別がもはやなくなるのです。
本当に個人の関心が自然の出来事にまで拡がり、自然の出来事が個人の関心事になるのです。私たちが植物のいのちのいとなみを自分の体験のように身近に感じるのでない限り、真の霊聴になっていません。水面にとびこんで水しぶきを上げる蛙を、自分の体験のように感じとれない限り、霊聴は真実なものではありません。自分の中の何かの方が自然のいとなみよりも手ごたえがある、と思っている限り、真の霊聴とはいえないのです。
しかし誰かが、霊聴を体験する私たちの頭をぶんなぐったとき、私たちがそのことをも火山の噴火のように客観的に感じとるべきだと思ったとしたら、まったくのナンセンスです。誰かに頭をぶんなぐられた瞬間、私たちは霊聴を失っています。
私はハーグの連続講義(『人間のオカルト上の進化は肉体、エーテル体、アストラル体、自我にとってどんな意味があるのか』)の中で、認識を拡大することは、関心を拡大することである、と申し上げました。わずかな時間だけでも、自分のことから離れることのできない間は、もちろん霊聴を体験することができませんけれども、いつでも自分を忘れろ、と言っているのではありません。反対です。自分への関心と自分の霊聴の対象とをはっきり区別することは、いつでも大切なのです。
けれども自分の関心を自分の外にまで拡げて、生長する植物のいとなみを、自分の人生の一部であるかのように感じとる人、外で芽を出し、成長し、枯れていくいとなみを、自分自身のいのちのいとなみであるように身近に感じとる人は、眼の前の植物を介して、霊聴を体験しているのです。
しかしその場合、関心をもつこのやり方は、必然的に、すでに述べたゲーテの人間評価に通じるような人間評価に至ります。ゲーテは、すでに述べたような思考への努力によって、人間本性と人間の能力とを区別することを学びました。そしてこのことは、非常に、非常に重要なことなのです!
私たちのやること、やったことは、客観的な世界に属するものであり、カルマの働きです。一方、私たちの人格は、絶えず生成しています。ある人の行為についての私たちの判断は、その人の人格の価値についての判断とはまったく違った事柄です。私たちが高次の世界に近づこうとするなら、石や植物や動物に客観的に向き合うのと同じように、人格にも客観的に向き合えなければなりません。私たちは、どうしても評価できないようなことをやってしまった人の人格にも関与できなければなりません。人とその人の行為を分けるのです。そして人とその人のカルマとも分けるのです。高次の世界と正しい関係をもてるようになろうとするのでしたら、この区別を正しく行えなければなりません。
そして私たちの霊的認識の立場が私たちの時代の唯物主義の立場とはっきり対立する場合のひとつがここにあることを、知らなければなりません。私たちの時代の唯物主義の立場は、人格をその行為とますます結びつけて判断しようとする傾向を強めています。
どうぞ、次のように考えてみて下さい。近来[引用者註・本講義は1915年]、司法の分野で、ますます次のような傾向が現れてきているのです。誰かが特定の犯行を犯したとき、その人の人間性全体をも観察して、どんな魂の持ち主なのか、どのようにしてその犯行に及んだのか、精神的に劣っているのか、正常なのか、等々についても顧慮する必要がある、という方向になってきています。それどころか、ある立場の人たちは、法廷で裁きを行うのに、立会人として医師だけでなく、心理学者をも召喚すべきである、と主張しているのです。しかしもっぱら外的な生活に関わる行為について裁く代りに、人間の内面生活をも裁こうとするのは、権力の不当行使だと言わなければなりません。
現代の哲学者の中では、たったひとりだけ、この問題について注目していました。私の『哲学の謎』の中でもこの人物に言及していますが、法廷が心の裁判などから離れていなければならないことに注目したのは、ヴィルヘルム・ディルタイなのです。
人間の行いは二つの分野において生じます。ひとつはカルマの分野においてです。カルマは、すでにカルマ固有の因果関係の中で裁かれています。カルマはほかの人とは関係ありません。キリスト自身は不倫を犯した女の罪を裁きませんでした。その罪を地面に書き記したのです。なぜならその罪は、カルマの経過の中でおのずと決着がつけられるでしょうから。
もうひとつの人間の行いは、人間関係の中での行いです。そしてこの観点からでなければ、人間の行いは裁けないのです。人間のカルマについて裁く資格は、外的な社会秩序にはまったくないのです。
・……霊的な立場にとって大切なのは、役に立つことであって、いずれにせよ、裁くことではないのです。役に立とうとしなければならないのです。霊的認識は、人間の魂の中で生じる事柄をひたすら理解しようとするときにのみ、私たちの役に立つことができるのです。
もちろん、霊的な立場の人が見せかけだけでなく、本当に役に立とうとするのでしたら、世の中から途方もなく誤解されてしまうでしょう。なぜなら、手をさしのべようとする当の相手が、役立とう手をのばす人を正当に評価する筈などまったくないでしょうから。(略)当人が思っているような仕方で、その人の役に立とうとするのは、たぶんもっとも下手なやり方になってしまうのです。
・……そういう相手には、そっとしておくことの方が、気に入られようとすることよりも、役に立つのかもしれません。おもねるような態度で相手ののぞんでいることに手を貸すよりも、はっきりと拒絶する方が愛情ある助けになるのかもしれません。何でも言うことを聞いてあげるよりも、時には厳しい態度で接する方が親切な場合もあるのです。しかしもちろん、そういう場合には誤解がついてまわります。そういう向き合い方だと、ろくな結果になりません。しかしそのことが問題なのではなく、大事なのは、どんな場合にも魂と霊の観点から理解しようとすることであって、裁判官になることではないのです。
・……人間の本性は、多かれ少なかれアーリマンとルツィフェルにつかまえられています。なぜなら、そもそもどんな人の人生も、アーリマン衝動とルツィフェル衝動の間を右往左往しているのですから。ただ世の中の方が、バランスをとってくれているのです。そして生きるとは、まさに世の中と一緒に、バランスをとることにあるのです。
・……人間に影響を与えているアーリマンかルツィフェルかの作用を深く洞察するのに必要なことは、私たちが決して道徳的な価値判断をしようとしないこと……
・ある植物の花が青くなく赤いからといって、その植物を裁いたりすることがないように、ある人の中にアーリマンかルツィフェルが生きているからといって、その人を裁いたりしてはならないのです。ある人の中の何かがアーリマン的であるとか、ルツィフェル的であるとか思うことが、決してその人を裁くことになってはならないのです。植物の花が赤いか青いかを知ることが価値判断の根拠になりえないのと同じようにです。
大切なのは、認識行為の中になんらかの情念や主観を混入させないよう努めることです。認識を純粋に認識であるように保つこと、そのためには、今述べたことをできる限り真剣に行おうとしなければなりません。
ゲーテは、まさに彼のもっとも成熟した時代に、人びとの行為を自然現象であるかのように受けとろうと努めました。もちろん人間関係を機械的な関連の中に持ち込もうとするのではありません。そんなことができる筈がありません。人生におけるさまざまな人間関係に対して、私たちが、次第に、自然現象を考察するときのような客観的な愛をもって対せるように願っているのです。そうすれば、認識そのものから生じるあの内的寛容性がもてるようになるでしょうから。
しかしそうしようとしても、私たちはつい、認識の中に取り込んではならないものをも、認識の中に取り込んでしまうのです。
・……ユーモアぬきで霊界に向き合うと、おそろしい弊害が生じます。自分はホメロスやソクラテスやゲーテのような人間だ、と空想する人がいますね。そういう人が、そのつもりで人前に現れることがどんなに滑稽なことかに気づくなら、自分の立場を健全なものにするのに役立ってくれますよね。でも自分のセンチメンタルな、不健全にまじめな生き方が、ユーモアを受けつけようとしない限り、そういう自己認識にいたる可能性はないのです。
・……ユーモアのない人は、自分を不純にし、まじめさをセンチメンタルな気分によってごまかしてしまいます。そしてセンチメンタルな気分くらい、人生の深刻な事情を深刻に受けとめるのに妨げになるものはありません。
・……私としては、事柄の深刻さから自由になれたら、と思ったのです。
・……考えてみて下さい。私たちの場合、もっぱらセンチメンタルな気持ちで事柄に向き合うと、容易にその事柄を歪曲してしまうのです。なぜなら、センチメンタルな気分だけで、すでに十分に高次の世界に入った、と感じられるからです。そうなると、柔軟性のある、動的な理解力でも霊界に昇っていけるとは、信じられなくなるのです。
・……深刻さはその時おのずと生じます。深刻さは、霊的認識のために一生懸命努める努力からおのずと生じるのです。
・……この世で詩人であろうとする人は、詩人の脳を持たなければなりません。言い換えれば、霊界によって脳がそのために整えられているのでなければなりません。画家であろうとする人は、画家の脳を持たなければなりません。
・……骨が私の誕生から死までの間、私の一部であるように、空気の流れも私のものです。ただ空気の流れが私のものであるのは、吸ってから吐くまでの間だけです。そして私の骨が私のものであるのは、生まれてから死ぬまでの間です。空気と骨との違いは、時間の問題にすぎません。
・……人間の息とインスピレーションとの間にはひとつの深い関係があるのです。インスピレーションの語源を考えてみて下さい。この言葉の中に、すでに、息と霊聴との親和関係が表現されています。なぜならインスピレーションとは、息を吸うことなのですから。