特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田市駅~境車庫線 その2

2016年09月10日 22時17分28秒 | 旅行

 野田市の南端にある『山崎』という土地でわたしは生まれ育ちました。山崎といっても山岳なんかどこにもないフラットな土地です。今回は地元とは逆方向、野田市の北端を貫いていた路線を乗りつぶした時の記憶を後世に伝えたいと思います。 
 この路線は、まず路線沿いに母の実家がある、祖母・母・そして小生と3代にわたりこの路線を知る者が身内にいる、という点でわたしにとって極めて思い出深いものです。そして距離・乗車時間ともに長大で、野田市南端の小学生にとっては大変アドベンチャーな路線でした。野田→柏と同じくらい長大な旅でしたが車窓の眺めはこちらの方が好みでした。 
 平成13年9月、朝日バスによる路線廃止で野田市の歴史から姿を消した路線の一つです。




 川間ゴルフ場を過ぎて関宿町に入っても再び陰鬱たる山道が続き、喜八堂というせんべい屋のあたりで初めて信号機に出くわしました。信号超えてもなおも車窓は森また森。
 「東宝珠花」は地面に小石が薄く敷かれただけの自販機一つ置いてない味わい深い折返場でした。「野12」とすぐ後に境営業所に移管される「春08」(だったかな?)という春日部駅東口行きの終点でした。通過時にちょいちょい車両が止まってるところが見れて、それだけならいいんですがたまに運転手がくわえタバコで立ちしょんしてることがあって、余計なものまで見ることがありました。路線全然違いますが柏の船戸木戸も阪東自動車の折返場になっててあそこもよく立ちしょんを見かけましたね。あの頃の折返場は肥やしに恵まれて雑草がよく育っておりました。

 東宝珠花を出てもなおも森の切り通しのような道が続いてさすがに見飽きてきますが、やがて町役場前とか商工会館前といった中心街を匂わせるバス停名が出てきます。水運の街宝珠花だけに流山街道をどれだけ進んでも信号が一つもありませんでした。総武自動車時代の野田町~中里~宝珠花河岸線はここいらへんを終点にしてたと思われます。


日枝神社から関宿町役場前へ向かう路線廃止直前の朝日バス、日野ボディの野田市駅行き(信号機設置後2001年9月)。昭和56、57年当時も宝珠花あたりの光景から目に見えない大きな歴史のオーラが感じられた。だが水運街としては江戸川対岸の西宝珠花の方が大きい。また路線バス的にも東宝珠花や日枝神社より埼玉県側の西宝珠花の方が車庫づくりで規模が大きかった。


 平成9年7月1日から境車庫~川間駅線が新設され野田市駅行きが10便減となったことを報じる記事。(『読売新聞』1997年7月2日朝刊)


 
 平成3年の関宿宝珠花の地図。今は関宿中央ターミナルがありますが当時はそんなもんありません。「次木入口」というただのバス停がぽつねんとあったきりで宝珠花橋へ上っていく側道ではなく本道を通り江戸川堤防の下を走っていました。堤防があってちょっと下に橋に通ずる急坂道があって、そのまた下に流山街道が走り、さらにそのまた一段低くなったところに大きな酪農家の牛舎が道に面してありました。
 数頭の乳牛が柵から顔をこちらに出してグチャグチャ顎を左右に揺らして反芻する様がバスから実によく見え、かぐわしい牛糞の香りとともに非常に楽しい車窓の記憶として今なお忘れることができません。
 『野田市史』には「宝珠花から愛宕の生協まで牛乳をバスで運ばされた」との元車掌さんの話が載っています。

 また次木入口の停留所は橋北に春日部~工業団地入口のもの・流山街道に境~野田市駅のものと2箇所に加えて橋南に春日部~東宝珠花線の「宝珠花橋」バス停と、分散配置されていて「よくまあ地元の人は混乱しないものだ」と思いました。
 後年、TBS「そこが知りたい」の路線バスの旅に春日部~工業団地入口線が出てきたことがあり、旧塗装の富士重工3E車両が登場してました。宝珠花橋を次木入口に向けて渡っている車窓を背景に女性客にインタビューがなされ、「毎日乗ってらっしゃってどうですか?」と尋ねられた女性は「本数が少なくて困ります」と怒りの回答をしていたのを覚えています。




  
昭和40年代、野田からの折返点になっていて待ち時間に運転手・車掌さんが地元からお茶・餅をもらっていたという諏訪橋と諏訪神社。

 
関宿はやま工業団地線が出来るまで区間便の折返場だった「工業団地入口」の跡。「貸地」の立て看板がある。
バス停自体は存続しさらに北方に移転していた。またすぐそばの信号機は昭和56年当時も存在していて誤視防止用のゼブラが付いていた。

 

車が通るたびに「ゴロゴロ」と音がしたのでカミナリ橋の異名があったという木製の境橋。(市報のだ)

 

      

 

 昭和56年すでにコンクリ製だった境大橋を渡るとあります「境町」バス停は現在こそ冷え冷えとしたやたら風通しの良いバス停ですが、ご存知のようにかつてはこちらが本家本元の「境車庫」。昭和56年頃ですとポールが8本立っていて、またシェルター付きの乗り場ホームが3つ、いかにも旧茨城急行本社らしい堂々たるバスターミナルの構えでした。
 
 終点の「境長井戸車庫」すなわち現在の「境車庫」よりもこちらのほうが断然大好きでした。うれしい記憶が多い。ちゃんとベンチもあって座って足ぶらぶらさせて遊んでたら朝日タクシーのおじさんがきて「何年生だ?うちの子は4年生だけどよ」などと尋ねてきて適当に返事してるうちに敷地内の自販機で暖かいコーヒーごちそうになったうえにオープンしたばかりの東武動物公園の入場券もらったり、バス待ちの時間が退屈ならすぐそばの土手の石段よちよち登って利根川じーっと見て「思えば遠くにきたもんだ」と武田鉄矢ばりに感慨にふけったり。その土手から見下ろす東武バスの行き来する様がまことに壮観でカメラを持ってなかったのが実に惜しい。前方方向幕が「結城駅」「若林」「古河車庫」・・・・いろいろ見れました。
 
 まあワンマンで野田からここまで来れば、どれほど若い運転手でも疲労のほどが子供にも見て取れるようになります。今みたいに女子供でもできるフィンガーシフトなんかないですよ。杖みたいにながーいギアのロッド、ゴリゴリ動かしてダブルクラッチでせいこらせいこら繋いだりするわけですからね。真冬に窓開けてるのに耳の後ろから汗たらして運転してる人いましたから。

ところで野田から関宿へのバス路線は流山街道から離脱して県道関宿我孫子線(我々世代は「裏県」と呼んでいた)を北上して東宝珠花に至る野12系統 野田市駅~東宝珠花線というのもありました。誰もネットに乗車記録をとどめていないようなのでミッシングリンクを防ぐために次回はこれに触れて後世に伝えたいと思います。


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