村上文緒はアマデウス先生の嫁(仮)

いい風が吹いていますよ~ 村上文緒

11月18日(火)のつぶやき

2014-11-19 07:33:04 | 日記

@itsusikiritsuko @ryosuke_the_3rd 当ー然ですニャ!僕のりょすけは貴公子然ですニャ!40歳手前で貴公子を維持するりょすけはストイックニャ!だらしない朝鮮人とは違いますニャ!


@ryosuke_the_3rd @kittyhachuhachu 韓国語を学ぶとすぐに朝鮮人だとデマを書くお馬鹿がいるニャ!
語学をやるだけマシな人間ニャ!
お馬鹿に文句を言われたら、「私の戸籍謄本を見せてください。話はそれから」と言えばいいニャ!


ロンドン交響曲集の12曲の中で、短調の作品は第95番だけである。そしてほかの曲の第一楽章は、ソナタ形式の快速な部分の前に、すべてゆったりとした序奏部がついている。ところが第95番は序奏なしで、いきなり第一主題から始まるのである。


「第一主題は主調を決定するのみならず、作品の重要性を宣言する」。ところが長調作品におけるハイドンの快速な主題はどれも「軽い」といわざるをえない。どの曲を思いうかべても(たとえば第98番のような比較的ゆったりとした主題でも)、このことは確認できる。


ハイドンにとって、交響曲はただの娯楽のための音楽ではなかったはずである。彼の交響曲のスコアには「神の御名において」と記したほど。だから「軽い」主題で交響曲を始めることはためらわれたに違いない。そこでどうしたか。直接アレグロの第一主題で始めるのではなく、厳粛な序奏部を置いた


テンポを遅くすることは音楽の性格をより「重く」する。さらに多くの場合、ハイドンは序奏部を短調にした。こうした厳粛な開始がもたらされるのである。しかし第95番はハ短調である。当然のことながら、第一主題は短調となるが、短調は音楽を厳粛にするひとつの要素である。


しかもユニゾンによる決然とした開始は「作品の重要性を宣言」するにふさわしい。とすれば、緩徐な序奏は必要でなくなった。