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89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧5---

2005-05-06 | 政治/歴史
5) 戒厳部隊の対立説について



 戒厳令が発布される前から、学生側からは軍内部に学生の主張に同情する向きがある、との宣伝がなされた。ことに5月20日に北京市の一部地域に戒厳令が発布された後、葉飛、張愛萍ら7名の軍元老が軍隊の北京入城を控えるよう呼びかける書簡を出した、とするビラがまかれ、軍内部で戒厳令の実施に抵抗する傾向が強くあるような印象を学生側は意図的に醸しだした。おそらく党内、さらには軍内にそのような見解を持つ人々が存在したことは事実であろう。しかし北京軍区を始め、主要な党、軍、地方政府、機関がすべて戒厳令支持を表明した時点で、すでに軍内部での戒厳令執行への抵抗というのは、学生側の夢物語に過ぎないしろものになってしまった。

 にもかかわらず6月4日以降、盛んに日本を含む西側のマスコミは戒厳軍の動きについて、軍隊内部での武力衝突が発生した、北京の南郊の南苑付近で砲撃音が聞こえた、というような情報がまことしやかに流された。また解放軍の派閥対立について、軍事問題に詳しいとする研究者がテレビに出演してあれこれ解説を加えていたが、それらの解説を聞いていると、中国があたかも軍閥混戦時代に舞い戻ったかのような印象を一般人に与えるものであった。中国の軍隊が共産党の強固な指導下にある、という基本的常識をまったく無視した解説を中国問題の専門家が平然と行っていることに、筆者は信じがたい気持ちでテレビを見ていた。

 戒厳部隊の内部対立という情報の発信源はアメリカの情報筋であったが、時間の経過とともに、どうやら軍隊内部の対立はなさそうだ、という方向に大方のマスコミや研究者の見解は固まっていった。

 しかるに事件から9ヶ月も過ぎた90年3月の段階にいたっても、加々美光行は学陽書房発行の『現代中国の黎明』(25頁)で「六・四虐殺事件の前後には、いずれも北京軍区に所属する部隊である二七軍と三八軍との間に対立があり、相互の交戦があったと伝える情報もあった。私は当時、そうした情報にはある程度の信憑性があると感じ、少なくとも軍内部に対立矛盾があるとの見方を示したが、この点は現在も変える必要はないと思っている」という見解に固執している。ただしそう主張する具体的根拠を彼は一向に明示せず、さまざまな憶測によってのみ文章を書いている。

 現実には6月4日のすぐ後の6月9日、小平は首都戒厳部隊の軍団以上の幹部を接見している。なおこの日に天安広場で国旗を再度掲揚する儀式が行われているので、基本的に6月9日をもって北京市の暴乱の平定が完了し、それを慰労する意味で小平の会見があった、と見るべきであろう。

 6月9日の小平の講話はこの事件の本質を研究する上で、非常に重要な内容を含んでいるが、当時の西側マスコミはむしろ戒厳部隊を慰労した小平の発言を捉え、彼が事態を掌握できていないかのように報道したし、加々美を始めとする多くの研究者がこの時の小平講話の持つ意味を重視しているとは言えない。

 小平は戒厳部隊の幹部を前にして、次のような話をする。「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものである。これは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定づけられたものであり、必ずやって来るものであり、人々の意思では変えることのできないものであり、ただ遅いか早いか、大きいか小さいかの問題でしかない。しかも現在やって来たことは、われわれにとってより有利なことである。最も有利なことは、われわれには多くの古参同志が健在であり、彼らは多くの風波を体験しており、事態の利害関係を理解しており、彼らは暴乱にたいして断固たる行動を採ることを支持していることである。一部の同志にはまだ理解しないものもいるが、最終的には理解するはずだし、中央のこの決定を支持するはずである」(『求是』89年13期)。さらに今回の事件の処理が難しかったのは「一撮みの悪人があれほど多くの青年学生やそれを取り巻いて見守る群衆の中に紛れ込んでおり、敵と味方の境目が明確に区別のつかない時があり、そのためわれわれは採るべき行動に着手することが難しかったことである。もしもわが党の多くの古参党員同志の支持がなかったなら、事件の性質すら確定することが出来なかったであろう。一部の同志は問題の性質を理解せず、ただ単純に大衆に対処する問題である、と見なしたが、実際には先方には是非のはっきりしない群衆だけでなく、一群の造反派と大量の社会のクズも存在したのである。彼らはわれわれの国家を転覆しようとし、われわれの党を転覆しようとしている。これが問題の実質であ。この根本問題を理解しないと、事態の性質ははっきりしない」。そして今回の事件の核心は「共産党を打倒し、社会主義制度を覆すものである」と規定した。

 そして善人と悪人が混在しているなかで暴乱平定を行わねばならない、という対処が非常に難しい問題にたいして、「今回の事件の処理はわが軍隊にとって深刻な政治的試練であったが、実践が証明していることは、わが解放軍は試験に合格したということである。もし戦車で押しつぶしでもすれば、全国に是非がはっきりしない事態を生じさせてしまったにちがいない。だから私は解放軍の将兵諸君が今回のような態度で暴乱事件に対処したことに感謝したい。〔将兵の〕損失は心痛むものではあるが、人民の支持をかち取ることができ、是非のはっきりしていない人々の観点を改めさせることができる。解放軍とは一体どんな人々なのか、天安門を血で洗うというようなことがあったのかどうか、流血したのは結局のところ誰なのか、ということを皆に見せるがいい〔ここで小平は当時すでに巷間で流布していた「天安門広場の虐殺」説への反論を行っている〕。この問題をハッキリさせれば、われわれは主導権をかち取ることになる。多くの同志を犠牲にしたことは非常に心の痛むことであるが、客観的に事件の過程を分析すれば、解放軍が人民の子弟兵であるということを、人々は承認せざるを得ないであろう」として、戒厳部隊が暴乱平定にあたって自制的対応をとり、その結果として軍に多数の死傷者を出してしまったことの積極面を述べている。戒厳部隊への慰問会見であるので、民衆の側についての死傷者についての言及はまったくない。そして今後は二度と他人に武器を奪われることがないようにすべきである、との教訓を指摘している。

 小平のこの講話を分析する限り、戒厳部隊に対立が存在しなかったことは明白であり、戒厳部隊は事件を平定するにあたって、可能な限り武器の使用を控え、自制的対応をとったこと、その結果として武装していながら民間の倍以上もの多くの負傷者や死者を解放軍側に出してしまったことが伺える。

 もし仮に加々美の見解が成り立つほど、当時、戒厳部隊内部の対立が深刻なものであったなら、そもそも小平が戒厳部隊幹部を接見することすら実現できなかったであろう。また中央軍事委員会主席としての小平がまったくでたらめな講話をしていることになり、軍隊を掌握できていないことを意味する。小平は自己の主張する通り、中央軍事委員会主席の地位をその後、江沢民に譲り渡したという事実は、彼が軍隊を掌握していたことを示すものであり、加々美の主張が根拠のないものであることを立証している。

 6月4日に広場から学生たちを排除した後も、北京市内はしばらくの間、安定していなかった。むしろ戒厳部隊の発砲をも含む予期せぬ「鎮圧」ぶりを目の当たりにして感情的になった一部群衆の、軍隊に対する報復が各所で盛んに行われた。この点は国務院スポークスマン袁木が6月6日の記者会見において指摘している。また6月5日、6日に「北京市人民政府および戒厳部隊指揮部の緊急通告(6~8号)が、暴徒たちによる殴打、破壊、略奪、焼き打ち、殺人などの破壊活動が止んでいないことを明示し、市民にそれら犯罪分子の摘発、告発に協力するよう呼びかけていることからもわかる。群衆の側からの攻撃があったからこそ、戒厳部隊や武装警察による摘発や反撃が発生し、戦車の移動など戒厳部隊のさまざまな動きが見られたのである。西側報道関係者は6月4日以降、取材行動を極端に制限されていたので、北京市の東側、建国門外周辺のことしか取材できず、戒厳部隊の動き全体を正確に把握することはできないまま、さまざまな憶測に基づいて(というよりもアメリカや香港から発せられた意図的なデマ情報に乗せられて)北京からリポートを送っていたのである。実際には戒厳部隊同士の対立はなかった、と見るのが常識というものである。



 6) 「民主化」要求運動の本質



 胡耀邦の死をきっかけに始まった学生のいわゆる「民主化運動」には、それが発生すべき社会的、政治的、思想的根源があったし、それについては今後も研究課題とすべきであろう。ことに57年の「反右派闘争」の拡大化と、今回の事件関係者への対処の異同を比較することは興味深い問題である。少なくとも中共中央は過去の経験から教訓を汲んで、今回の事件を処理するにあたっては、人民内部の矛盾を拡大解釈して批判の対象を拡大化することを避けるよう慎重に対応しているように思われる。いずれ両者の比較をきちんと行ってみたいと考えている。

 それは今後の課題として、今回の学生運動そのものについて言えば、いわゆる「対話」を要求してハンスト戦術を行った5月中旬ですでに方向性を見失っていた。この点については『天安門事件の真相』下巻で「一九八九年春の中国学生運動-対話要求顛末記」で明らかにしたつもりなので、本論では詳しく論じない。

 拙論を発表した後、項小吉とともに「対話代表団」の主要メンバーであった沈トウ(丹+彡)の回想録『革命寸前 天安門事件・北京大生の手記』(草思社 92年)を読み、この運動を担った学生がどのような意識で運動に関わっていたのかを、かなり明確に知ることができた。沈トウ(丹+彡)のように、一方でアメリカへの出国のためのビザ取得申請をしつつ、もう一方で対話要求運動のリーダー役を務めるという二足の草鞋を穿くような運動では、本当の意味で中国の大地に根ざしてその民主化実現のために戦っている、という評価はできない。米国行きに有利な条件作りをするのためのパフォーマンスをしているという側面があると思わざるを得ない。

 89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。そもそも自分たちの要求を実現させるために「ハンスト」という、生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を飲ませる方法であって、一種の脅迫である。

 例えば、私自身が体験した日本の1968年~69年の東京大学における全共闘運動において、学生側(当時は私もその一人であった)は七項目要求を掲げ大衆団交を求め、全学バリケードストライキを行ったが、当時、要求した大衆団交の実質は、対等・平等・民主的な交渉ではなく、一方的に学生側の要求を大学当局に承認させることであり、大学側に全面屈伏を要求することを意味していた。今回の北京の学生たちがハンストという非常手段で対話を要求したのも、政府当局に自分たちの要求を全面的に認めさせようとするものであって、文革期にも行われた極左行動に他ならない。それを「平和的」「理性的」な行動であった、と持ち上げるのは、あまりに「お人好し」な評価といえる。



 7) 思い入れ先行の「研究」の危険性



 確かに六・四はショッキングな出来事であった。とりわけテレビを通じて全世界に映像を含むさまざまな情報がほぼリアルタイムに流しこまれたので、旧来の中国像、人民解放軍や中国共産党にたいするイメージ・ダウンを誰もが感じた。映像情報というものは文字情報と異なって、一過性のものであり、印象として人々の脳裏に焼き付くと、その呪縛からなかなか抜け出せないものである。とりわけテレビ映像は一日に何回も同じ映像および音声情報を繰り返し放映するので、知らず知らずのうちに人々の脳裏に刷り込まれてしまい、安易にそれを信じ込んでしまう。映像情報はたいへん魅力あるものだが、もう一方では非常に危険なものとなりうることをよく知っておく必要がある。そのような性質を持った、しかもショッキングな情報が、突如として89年6月にわれわれの世界に飛び込んできたので、われわれの中国革命像や人民解放軍に持っていたイメージと、六・四の軍隊の行動を合理的に理解することができない事態が生じたのは当然のことと思われる。

 しかし印象で事件を語ってはいけない。ましてや中国を研究対象とする人は、客観的・総合的に事態を分析する必要がある。「民主化」を要求した学生や知識人の主張に耳を傾ける必要もあるが、同時に、彼らの発言の背後にあるものをも読み取るしたたかさも必要であって、彼らが掲げ、主張するスローガンや発言の、表面的なものだけに依拠することはできない。

 とりわけ今回の事件に関連して書かれた日本の中国研究者の各種書籍に見られる傾向は、当局側の言動や発表した資料(公開・未公開を問わず)を分析・検討する作業を怠り、意図的に無視し、デマ扱いする対応が見受けられることである。前述した小平の戒厳部隊幹部と会見した際の講話のような、第一級の公開資料を分析することを放棄する、あるいは表面的な分析しかせず、安直な批判で片づける、という傾向は問題である。当局側の発言を何ら分析することなしに100%鵜呑みにすることが正しくないのと同様に、それに充分な分析も加えず無視するのは研究者として失格である。

 裏付けも定かでない伝聞情報を恰も真実であるかのごとく扱うことは、マスコミがよく犯す過ちであるが、同様なことを研究者が行って、しかもその後、誤った判断をしたことが明白になっても、自説に固執し、改めようとしないことは、研究者として恥ずべきことであり、過去の過ちに固執せず、誤った判断をした原因を究明し、是正する姿勢がぜひとも要求される。89年6月の事件を契機に社会主義中国の崩壊を予測した研究者は、その後の中国の経済発展を整合的に説明することができず、政治面での改革を棚上げしたまま、ただ経済面での改革・開放を推進している、と述べて現状分析をしているつもりでいるようだが、それでは本質的解明にはならない。もし本当に民心に反した血の弾圧が行われたのであれば、民衆の怨恨は長いこと深く残り、さまざまな形でのサボタージュが行われ、経済発展の足を引っ張ることは間違いない。現実にはそのような事態は発生していない。93年12月に北京を訪れ、学生運動のリーダーであったウルケシの出身大学である北京師範大学の某先生(彼は別に共産党の代弁者ではない)と雑談した際に、話がウルケシのことにまで及んだが、その先生はもう彼(ウルケシ)は完全に過去の人物ですね、と平然と述べていた。北京には「六・四後遺症」のようなものは見当たらなかった。このような現実を踏まえ、89年の事件にたいする日本人の認識を再検討することがぜひとも必要である。



 8) エピローグ



 本論は93年10月23日に神戸商科大学で開催された「日本現代中国学会」の全国学術大会で自由論題として報告した内容を踏まえている。

 筆者としてはその報告で二つの問題提起をしたかった。一つは中国研究者の「六・四」以降の対中認識の問題であり、それは本論で述べたような内容であった。この報告にたいして、天安門広場での虐殺の有無の問題は決着済の問題であって、いまさら取り上げるまでもないことではないか、というような主旨の反論を受けた。しかし筆者はとてもそのように楽観的に考えることはできない。まだまだわれわれは脳裏に刷り込まれた「虐殺幻想」を払拭できていないのである。

 もう一つ、筆者が問題提起をしたかったことは、学術報告の方法についてであった。あえて同業研究者の著書を取り上げ、論議を挑もうとしたこともその一部であるが、もっと大きな問題提起を狙っていた。それは従来の学会報告のスタイルがレジュメを配付し、口頭で報告する、というパターンに終始しているのをどうにか変革できないか、ということであった。ことに報告内容が映像に関することなので、映像を見せながら報告し、納得してもらうスタイルを取りたかった。そのために具体的にはパソコンとビデオを活用し、それらの画面をテレビで表示する、というプレゼンテーションの改善を試みた。筆者はこれまでにもOHPを使用して学会報告を試みたこともあったが、周囲を暗くしなければならないし、動きが表現できないという点でいささか物足りなさを感じていた。幸いなことにそのような目的に合致するマルチメディアパソコンとそれで動くByHANDというソフトウエアが存在していたので、未熟ながら新しいスタイルの学術報告を行うことができた。この点で、大型テレビ2台を用意してくださった神戸商科大学と、マルチメディアパソコンFM-TOWNSII一式を貸与してくださった富士通株式会社のご協力があったことをここに記して感謝の意を表したい。今回の経験で、事前に作っておいた報告主旨を、報告内容に合わせてパソコンのマウスをクリックさせながら順次、テレビ画面に表示させてゆく方法は、OHPのように部屋を暗くする必要もないし、報告を聞く人に問題点を集中させることができ、非常に有力な学術報告の仕方であることが判明した。報告内容の改善も、フロッピーに保存されているデータの一部を書き改めればよいだけなので、難しくない。今後、学会報告のみならず、大学の教育と研究の場においても大いに活用できるものとの確信を持てたことは、コンピュータと中国研究との結合を願っている筆者にとって大きな収穫であった。


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