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89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧1、2

2005-05-06 | 政治/歴史
目次

 1)問題点の所在

 2)事件の概要

 3)中国共産党政権崩壊説の破綻

 4)「虐殺」と称すべき事態が発生したのか

 5)戒厳部隊の対立説について

 6)「民主化」要求運動の本質

 7)思い入れ先行の「研究」の危険性

 8)エピローグ



 1) 問題点の所在



 1989年6月23日から24日にかけて北京で開催された中国共産党第一三期中央委員会第四回全体会議についてのコミュニケは、同年4月以来の中国国内の情勢分析を行い、「ごく少数の者が学生運動を利用して、北京と一部の地方で計画的、組織的な前もって企まれた政治動乱を引き起こし、さらには北京でそれを反革命暴動にまで発展させたと指摘した。彼らが動乱と暴乱を策動した狙いは、ほかでもなく中国共産党の指導を覆し、社会主義の中華人民共和国を転覆させることにあった。この厳しい政治闘争において、党中央の行った政策決定ととった一連の重大な措置はいずれも必要かつ正しいものであり、全党、全国人民の支持を得ている。全体会議は、小平同志を代表とする古参のプロレタリア革命家が今回の闘争で果たした重要な役割を高く評価し、首都の反革命暴乱を平定する過程で中国人民解放軍、武装警察部隊、公安部門の幹部・警察が行った極めて大きな貢献を高く評価した」(『求是』89年第13号)との評価を下した。

 この評価は92年10月12日の中共第一四回全国代表大会における江沢民の報告でも「1989年の春から夏にかけて発生した政治風波に、党と政府は人民に依拠し、旗幟鮮明に動乱に反対し、北京で発生した反革命暴乱を平定し、社会主義国家の政権を防衛し、人民の根本的利益を保護し、改革開放と現代化建設が引き続き前進するのを保証した」(『求是』92年第23期)と変わっていないし、今日にいたるまで89年6月に北京で発生した事件を「反革命暴乱」と規定する中国共産党、中国政府の評価に変化は見られない。

 しかし、軍隊を投入しての同事件への処理について、アメリカ政府を筆頭にした先進諸国は、自由と民主を願う学生・市民の自発的運動を軍事力で鎮圧し、人権を無視した非人道的措置であるとして、中国政府非難の合唱と経済制裁の発動などを行い、今日にいたるまで同事件についての評価は中国政府・中国共産党のそれと真っ向から対立している。

 国内の紛争に警察・軍事力を投入することは、歴史上よく見られることである。ことに米ソ両超大国による世界支配の構図が消滅するに伴い世界各地で頻発しており、何も中国だけの専売特許ではない。なかでも93年10月3日にロシアにおいて、エリツィン大統領が議会に勢力を持つ反対派にたいして、中国と同様に軍隊を導入し、モスクワの通称「ホワイトハウス」(最高会議ビル)に立てこもった反対派に対して、戦車を用いた砲撃をしかけて鎮圧、投降させるという、中国以上に手荒な手法による「問題解決」を行った。しかしエリツィン大統領のこの措置について、アメリカ政府は極めて理解を示し、支持の態度を直ちに表明したことは人々の記憶に新しい。日本政府やマスコミ、あるいは研究者のロシアへの対応も、89年の中国への対応とは明らかに異なっている。

 本来、国内問題はそれぞれ国内の事情というものが主たる要因となって発生しているのであるから、それら内部要因について熟知せず、ただ自国もしくは個人の狭隘な知識や価値観に基づいて他国の内政問題に口を挟むことは慎むべきことである。対象となる国の政治動向や社会情勢を熟知している人々、例えば外交官、商社等の駐在員、大学等研究機関での研究者等が、それぞれの専門的見地から見解を発表することがありうるし、現実にさまざまな国際問題について、多くの研究者が専門的知識をもとに専門家として社会的啓蒙を行っている。専門家が専門家たる所以である。

 しかるに中国についてとなると、遠くは日本が中国への侵略戦争をした時代から、近くは文化大革命にいたるまで、中国研究者による冷静で客観的な情勢分析や研究というものがなされてきたとは言いがたい過去がある。とりわけ1989年に発生したいわゆる89年天安門事件をめぐっては、事件の展開そのものについての認識、さらにはこの事件が処理された後の中国の政治や経済の展開をどう評価するかという点についても、日本の中国研究者の一部には、現実とは大きくかけ離れた見解を発表しているのが見受けられる。

 それらは中国で発生する事態を、客観的な研究対象として事実に基づいて研究・分析するのではなく、自己の思い込みや根拠薄弱な情報(多くは香港や台湾などから流される政治的意図の込められたガセネタ、元駐中国大使の中江要介の表現を用いれば「玉石石石混淆」の情報〔中江要介著『残された社会主義大国中国の行方』KKベストセラーズ出版40頁〕)を元に、その内容について吟味することをせずにただ受け売りするとか、心情的にいわゆる「民主派」勢力への肩入れ・宣伝をするのみで、研究者としてなすべき作業を放棄した失格の対応がかなり見られた。本論では89年6月の北京への戒厳部隊投入による「問題解決」についての、日本の中国研究者の対応を検討することで、ささやかながら日本人中国研究者の現代中国認識の問題点の根源に迫ってみたい。



 2) 事件の概要



 89年の4月から5月半ばまでの学生の対話要求運動の顛末については、筆者はすでに90年の段階で詳細に検討し、論文を発表しているし、6月までの運動の流れについても、大事記を作成しておいたので、ここでは簡単に概況を紹介しておくに留める。詳しくは矢吹晋編『天安門事件の真相』(下巻)所収の拙論「一九八九年春の中国学生運動--対話要求顛末記」および村田忠禧編『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』(いずれも蒼蒼社刊)を参照していただきたい。

 1989年4月15日の胡耀邦逝去に端を発した北京の学生運動は、胡耀邦の名誉回復を要求するなど、当初から政治的性格を帯びていた。中共中央の機関紙『人民日報』が4月26日に動乱への警戒を呼びかける社説を発表し、強行姿勢を示したことに威圧を受け、学生運動は5月4日の五四運動七十周年記念デモでもって一先ず授業ボイコットと街頭デモの戦術を転換し、正常化するものと思われた。しかし朝鮮訪問から帰国した中共中央総書記趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行総会代表団一行と会見した際に、それまでの党中央の方針とは異なる、学生運動に理解ある態度を示す発言をしたことから、学生たちは運動の再構築に一縷の望みを抱くようになった。また同時期に発生した上海『世界経済導報』発禁処分に抗議する報道関係者など知識人層が「報道の自由」を要求して、学生運動と歩調を合わせる動きを見せた。このため退潮期に向かっていた運動は、一部の強硬派学生が「対話要求」を旗印に掲げ、天安門広場を占拠しハンガーストライキに突入するという強行路線を取り運動の再構築を図った。この戦術は一般市民の関心を集め、ハンスト学生への同情とともに、インフレへの不満や「官倒」に代表される権力層の不正・腐敗現象への憤りなど、改革・開放政策の進展のなかで発生していた諸々の歪みへの民衆の鬱積した不満が、洪水のごとく沸き上がった。

 ことに共産党内に学生運動への対処の仕方をめぐって、対話に応じて穏健に処理すべきとする非主流派(趙紫陽に代表される)と、4月26日の人民日報社説の方針通りに毅然たる対処をすべきとする主流派(小平・李鵬に代表される)の対立が存在することが明白になり、各機関・組織の党組織のうちの非主流派が、公然とそれぞれの所属単位の人員を動員して、ハンスト学生支持の行動の立ち上がった。当局内部でも、統一戦線工作部部長閻明復らは、学生との対話に応じてゴルバチョフ訪中前に事態の打開を図ろうと必死の努力をするが、党内では孤立した動きとならざるをえなかった。また学生側でも運動の主導権をめぐっての内部対立と、野次馬のごとく地方から上京した学生たちの下からのより強硬な要求の突き上げにより、理性的対話による解決は実質的に不可能な状態に陥っていた。おりしもゴルバチョフの訪中という、中ソ関係にとって歴史的出来事で世界各国からマスコミが北京に集結したが、中ソの歴史的和解劇は完全に天安門広場のハンスト学生の動向に左右され、学生運動指導者は世界のマスコミの寵児となった。

 北京の主要な党組織・機関は学生の対話要求への対応をめぐって実質的に分解し、組織として機能しなくなった。しかも北京の学生運動の動きはVOAなど海外の報道に助けられ、全国に波及する勢いを見せていた。一方、学生運動の指導者層も、地方や外部から次々と新参の勢力が入り込む予想外な発展ぶりに、広場からの撤退かハンスト堅持かをめぐって統制不能な状態に陥っていた。

 5月16日、趙紫陽がゴルバチョフと会見した際に、小平こそが中国の最高意思決定者であるという事実を意味ありげに公表したことにより、行き詰まりを見せていた運動は、憤懣のはけ口を小平に向けることとなり、小平の引退、李鵬打倒の要求を公然と掲げ、現政権打倒を目指す反政府運動へと性格を転換していった。

 しかしそれは本質的に見れば党内の意見対立の反映であったため、小平・李鵬ら中共内部の主流派(学生たちの掲げる要求をブルジョア自由化要求と見なし、強硬な態度で対処すべきとする見解で一致している)は、北京市に戒厳令を発動し、当局側の統制から外れた報道機関や発電所など保安部署への戒厳部隊の進駐を決定し、実行に移した。趙紫陽はこの時以降、党総書記の地位を実質的には解任された。戒厳部隊は当初、部隊の出動は学生に向けたものではない、として、学生への説得活動に重点を置き、彼らのバリケード等を築いての阻止行動にたいして、直ちに強行手段を用いて入城しなかったため、事態は膠着状態に陥った。

 学生運動の指導権は地方からやってきた新参グループに握られ、運動指導者内部での対立も発生した。労働者の中でもこれを期にポーランドの自主労働組合「連帯」のような在野組織を作ろうとする勢力が公然と活動を開始した。香港や台湾でも北京の学生を支援する集会等が組織された。北京の交通の要衝にバリケードが作られ、市内は無政府状態に陥った。各地で市中心部の指定された守備拠点に進駐しようとする戒厳部隊と、それを阻止しようとする群衆との衝突が発生するようになり、6月に入ると軍の武器・弾薬を積んだ車が群衆に包囲される事件まで発生し、公安の自動車や軍用車のナンバープレートが学生側に盗まれる事態も生じた。

 もはや事態の打開を説得工作によって理性的に解決できる状況にはなく、政府当局側としては強行手段を採るしかなくなっていた。5月末までに全国の中共各省委員会、省政府、軍区党委員会、中央重要機関は戒厳令発動支持の態度表明をしており、学生らが掲げる李鵬政権打倒の可能性が無に等しいことは明白であった。5月31日に小平は李鵬、姚依林にたいして、趙紫陽に代わって江沢民を中核とする新指導部の組織化を命じ、動乱平定後も改革・開放政策を実行すべきことを伝えた(『小平文選』人民出版社93年10月第3巻310頁)。全国7大軍区のうち成都、蘭州以外の軍区から北京への部隊の動員令が出された(矢吹晋著『天安門事件の真相』上巻、蒼蒼社90年6月、125頁の表による)。6月3日になり、天安門広場の清場を目的として北京郊外の東西南北すべての方向から戒厳部隊が出動した。主力部隊は西側マスコミ等大方の予想に反して西から進軍してきた。西長安街の革命軍事博物館を中継地点とし、天安門広場の東側にある人民大会堂のなかに戒厳部隊の指揮部が設けられた。

 6月4日未明の段階で、天安門広場には約3000人ほどの学生、市民らが居残っていた。そこにはそれまでに鹵獲した武器や自分たちで製造した火炎瓶や煉瓦や石ころなどの抵抗用の武器が用意されていた。戦車・装甲車などを動員した戒厳部隊が広場の学生たちを強制排除する際に、学生たちが用意したそれら武器類は、数や質の面からすればとるに足らぬものであったが、それでも彼らが手持ちの武器で応戦した場合には、戒厳部隊からの反撃を受けて死傷者が出る危険性があった。現に西長安街では戒厳部隊の進軍にたいして石や煉瓦が雨あられのように投げつけられ、トロリーバスやバス、車道と自転車道を隔てる柵などがバリケードとして使われ、しかもそれらに火が放たれた。戒厳部隊の進軍には投石などによる激しい抵抗が行われ、部隊のなかに死傷者、ことに多数の負傷者が出た。戒厳部隊はやむなく催涙弾、さらには銃弾を発砲することで、定められた時間内に天安門広場に集結するよう、強行突破の措置をとった。その過程で民衆の側にもかなりの数の死傷者が出た。街路上で空に向けて発砲して警告した際に、周囲のビルに実弾が当たり、無辜の民が死傷するといった事態も発生した。また逆にビルの上から鹵獲した銃などで戒厳部隊の兵士にたいして狙撃がなされることもあった。

 このような激しい戦闘が西長安街で展開されているとの情報は、天安門広場に居すわる学生たちにも伝わってきた。柴玲ら学生運動指導者は、戒厳部隊の全面進駐を前にして、無用な抵抗をしても勝ち目がないことは明白なので、広場での武器を放棄して無抵抗のすわり込みを堅持することを主張した。

 一方、当時広場でハンストをして居残っていた4人の知識人(劉暁波、周舵、高新、侯徳健)は、学生たちに武器を放棄させ、広場から撤退すべきことで意見が一致し、周舵と侯徳健が戒厳部隊の現場の指揮官との交渉に当たり、劉暁波らが広場の学生たちへの説得に当たった。この時すでに広場周囲は戒厳部隊によって完全に包囲された状況下にあったので、実際のところ他に選択の余地はなかった。戒厳部隊は広場東南の方角に学生の逃げ道を当初から用意しており、そこから学生たちはインターナショナルを歌いながら隊列を組んで退去していった。いわゆる天安門広場での虐殺とか、テントで寝ていた学生たちが戦車にひき殺された、と当時のマスコミで騒がれたような事態は発生しなかった。事件はこれで落着したわけではないが、ひとまずここまでで概況説明を終える。そして以下、本論で89年天安門事件として問題にする時には、6月初旬の戒厳部隊が天安門広場に向けて進軍し、いわゆる暴乱を平定する期間に限定し、問題を「虐殺」の有無ということに絞って検討することにする。




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