英語教師のひとりごつ

英語教育について考える。時々ラーメンについて語ることもある。

インプットやアウトプットとはそもそも何か

2013-12-14 23:39:35 | 日記
そもそも「インプット」や「アウトプット」が何を指しているのか。最近これらの用語があいまいに使われているために、なかなか議論がかみ合わないような気がするのです。もっとも簡単な用語のように思えますが、これには少し考えなければいけない問題が潜んでいるように思います。ここでは外国語学習(あるいは第2言語学習)の中でどのように定義されているのか、を概観したいと思います。


まず「インプット」について。「インプット」といえば、学習者が目標言語を聞いたり、読んだりすることすべてを指します。ここでは学習者が理解していようがいまいが、まったく問題ではなく、とにかく目標言語が聞こえている、あるいは読んでいる、ことを指します。しかし、母語の習得とは違い、理解していない文をいくら聞いたり読んだりしたところで習得は進まないことが分かっています。そこで「理解可能なインプット(comprehensible input)」を与えることが重要だといわれています。この理解可能なインプットをそもそも持ち出したKrashenという研究者は、「インプット仮説」という仮説を打ち立てました。Krashenの研究は批判されている部分も多いですが、特にこの「理解可能なインプット」に関しては、現在でもほとんどすべての研究者が必要だと考えています。ただし、「理解可能」という言葉の定義は少しあいまいです。どの程度理解したことで「理解可能」だといえるのでしょうか。このことに関して、私の知る限り言及している文献はありません。ぜひ知りたいものです。一応、私はpre-listening taskがあれば大まかに内容理解できるものであれば学習者への「理解可能なインプット」となりえるのかな、と思っていますが。かなりあいまいですね。

また、英語教師の間では、教師による言語の説明(統語的・あるいは意味や形態的説明の中で、目標言語を用いないもの)もインプットとして扱っている人がいますが、目標言語を用いないかぎり、それはインプットには成りえないことは認識しておくべきでしょう。教師によるこのような説明は、明示的指導(explicit instruction)とよばれ、生徒に明示的知識(explicit knowledge)を与えるものです。


アウトプットに話をすすめる前に、「インテイク(intake)」という言葉を知っておかなければなりません。これは、明示的知識やさまざまな学習活動(音読やパターンプラクティスなど)によって気づき、理解されたインプットのことを指します。インテイクは一時的記憶に保存されますが、場合によっては中間言語(学習者の言語体系)へ取り込まれるといわれています。これは一時的記憶から長期記憶へ取り込まれる、といってもよいでしょう。しかしどのような場合に中間言語へ取り込まれるのかははっきりとはわかっていません。一応、Ellis(2008)は、現在の自分の中間言語と取り込まれたインテイクとを、明示的知識をもとに比較することで、自分の中間言語に取り込まれる、としています(p.423を参考)が、議論がかなり抽象的なのでいまいちはっきりしません。またインテイクについては、さまざまな定義上の問題があることが白畑(2011,p.147-8)に示されていますので、気になる方は参照してください。


最後に、アウトプットについてですが、これもなかなか定義しにくい部分があるように思いますが、要は目標言語を学習者が書いたり、話したりすること、といえます。しかし、こう表記するには少し問題があります。つまり、日本の英語教育で行われているような音読活動はアウトプットに含まれるのか、という問題です。これに関しては、外国の研究者は特に問題にはしません。というのは、単純な音読という活動自体をあまり行わないからだと思います。しかし、日本ではこれは大きな問題です。日本では音読は授業内で頻繁に行われ、音読がアウトプットだと思っている教師も少なくありません。それは無理もなく、定義上は音読も「話す活動」なので、アウトプットのように感じてしまいます。しかし、教師のリピートをするような単純な音読活動はアウトプットにはなりません。なぜなら、ただリピートするだけなら、生徒の中間言語はほとんど介在しないからです。このような活動は、インテイクを促すための活動ではあっても、アウトプットにはなりえません。アウトプットとは、自分の伝えたいことを発話する(あるいは書く)ことが主な役割です。

しかし、私はそれだけがアウトプットの役割ではないと思います。私のイメージでは、アウトプットとインテイクは、やや境界のあいまいなファジー集合だと認識しています。つまり、「これはアウトプットらしいアウトプットだ」とか「これは典型的なアウトプットではないが、アウトプットに含んでよい」というあいまいなものである、ということです。たとえば、単純な音読はアウトプットではありませんが、日本語を英語に直す活動はどうでしょうか。これは「自分の伝えたいことを発話する」という定義からは外れていますが、中間言語を介さないと文は作れないので、アウトプットには当てはまることになります。しかし、日本語から英語にするのでも、何度も音読している文を発話するのはどうでしょうか。これは単純に音を覚えていれば、中間言語に取り込まれずとも発話可能である可能性があります。そうだとすればこれはせいぜいインテイクを促す活動、ということになるでしょう。アウトプットには少し難しい問題がありそうなので、もう少し調べてみたいと思います。


最後に、あまりメジャーではありませんが、「アップテイク(uptake)」という言葉があります。この用語はインテイクと間違って使っている人もいるので注意が必要です。アップテイクはアウトプットされた文を、教師などが修正フィードバック(言い直したり、学習者の間違いを説明したりするフィードバック)を与えることで、学習者が発話を言い直す(ばかりでなく、書きなおす、あるいは頭の中で言い直してもかまいません)ことを指します。これによって中間言語に取り込まれやすくなりますが、必ずしも取り込まれるとは限りません。以上のことを簡単にまとめるとこのようにいえるでしょう。

インプット→インテイク→中間言語→アウトプット(→教師による修正フィードバック→アップテイク→中間言語)

もちろん、必ずしもそうならない場合があります。これをスムーズに右の段階へ向かわせるのが教師の役割です。教師は明示的知識を与えたり、タスクを活用したりして、右の段階へ向かうのを促すわけですね。ただし、研究者によって上の流れは変わってきますので、上記のものは私が現時点で考えるものです。(たとえばEllis(2008,p.423)などを参考)

なんとなく、教師間の会話がかみあわないときには、そもそもの言葉と定義に戻って考えることも大事だと思う今日この頃です。


【参考文献】
Ellis Rod.(2008).The Study of Second Language Acquisition. Oxford.
白畑知彦・冨田祐一・村野井仁・若林茂則.(2011).『英語教育用語辞典』.大修館書店.



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