原爆と戦争責任

なぜ核兵器はなくならないのでしょう?なぜ日本人は非常識なのでしょう?

共同通信社のインタビュー記事 1998年7月29日

2007-07-14 15:28:35 | 原爆
東京新聞 1998年年7月30日(共同通信社のインタビュー配信記事 1998年7月29日)
http://www.gevata.com/D9808.HTMより転載

(1)本文
◎見出し=原爆落とされるべきだった/本島前長崎市長が発言/被爆者団体は猛反発= 98.07.29

◎本文=昭和天皇の戦争責任について発言したことで一九九○年一月、右翼の銃撃を受けた本島等前長崎市長(76)は二十九日、共同通信社の単独インタビューに応じ、第二次世界大戦末期に米国が広島と長崎に原爆を投下したことについて「落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの)十五年間にわたるあまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」と語った。

 本島氏は九五年四月の市長選に落選後、各地の講演会などで原爆について「投下を許し、日本はアジア諸国に謝罪することが必要」と説いて回っていた。しかし、「落とされるべきだった」という表現で、原爆投下の「容認」まで踏み込んだ発言は今回が初めて。広島、長崎の被爆者団体などは猛反発している。
 本島氏は第二次世界大戦について「南京大虐殺、三光作戦、七三一部隊などは残虐の極致。日本人の非人間性、野蛮さが出ている」と強調。「中国などにとっては原爆は救世主だった。(日本は)一度戦争に引きずり込んだのだから、最初から覚悟していたのではないか」と述べた。
 現在、世界に配備されている核兵器と、投下された原爆との関係については「あの当時の原爆はおもちゃのようなもの。当時の考え方からすれば通常武器の一種だったと考えざるを得ない」とし、原爆による被害は現在の核兵器による被害とは単純比較できないとの認識を示した。
 昨年の「長崎原爆の日」に伊藤一長現市長が読み上げた平和宣言文の中から初めてアジア諸国への謝罪の文言が消えたことについて、本島氏は「謝罪のない宣言文なんて日本以外はだれも相手にしない。逆に悪意を抱く」と指摘。「宣言文は年々後退している。憂うべき問題だ」と述べ、日本の加害者責任があいまいなままの現状を厳しく批判した。

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山田拓民・長崎原爆被災者協議会事務局長の話 加害と被害を単純に対立させており、基本的に間違った考えだ。本島さんの論理では際限なく報復が続いていく。原爆をおもちゃと言っているそうだが、本島さんはあれだけ市長を務めていながら、原爆による被害をどの程度認識したのかも疑問になる。

下平作江・長崎原爆遺族会長の話 市長時代に被爆者の立場で平和を訴えていた本島さんの発言とは思えない。原爆投下は無差別に人を殺し後遺症を残したもので、到底容認できない。確かに今の核兵器の方が比較にならないくらい威力があるが、だからこそ被爆地から核のない世界を求めていく必要がある。 築城昭平「長崎県平和・労働センター単産被爆者協議会連絡会議」議長の話 被爆地の市長経験者として避けてほしかった発言で、抗議したい。本島氏にはこれまでも原爆を容認するかのようなそぶりがあり、予想はできた。いろいろな考え方はあるが、今日の核時代をもたらした原爆投下を認めるべきではない。

伊藤一長・長崎市長の話 本島さんはこれまでさまざまな発言をされており、今回の発言も被爆者らの反響も含めて、いろいろと組み立てをした上でのものだろう。重大な意味を含んだ発言であり、この段階でのコメントは差し控えさせていただきたい。

舟越耿一長崎大教授(憲法)の話 本島氏の発言の真意は、日本が原爆被害を特別視する姿勢を改めなければ、日本に侵略されたアジア諸国との間に核兵器をめぐる認識のギャップは埋まらない、というところにある。インド、パキスタンの核実験強行で、半世紀にわたる反核の訴えにまったく影響力がなかったことが分かった。本島氏は、原爆被害を強調してきた既存の反核運動に全面的な見直しを迫っており、被爆地広島、長崎は感情的に反発するのではなく真っ正面から受け止めるべきだ。


(2)解説記事
◎見出し=加害、被害の問題浮き彫り/ 深まる被爆者との溝

◎本文=「原爆は落とされるべきだった」との考えを示した本島等前長崎市長は昨年四月、原爆ドームの世界遺産登録を批判する「広島よ、おごるなかれ」と題する論文を発表。「大戦への反省があれば遺産登録はなかった。被害だけを強調する広島は自己中心的」と主張、被爆者団体などから激しい反発を受けていた。
 今回の発言は原爆による被害を過小評価する行動とも受け取れ、被爆者たちとの溝は深まるばかり。日本による加害と被害の問題の難しさを浮き彫りにした格好だ。
 かつては「原爆投下はユダヤ人大虐殺と並ぶ罪」と発言した本島氏が「原爆容認論」にまで思想を転回させた直接のきっかけは、一九九五年に東京で米国人記者から受けた質問だ。
 「戦争終結を早めた原爆とユダヤ人大虐殺が同じなら、トルーマンとヒトラーは一緒か」。この質問で、敬けんなクリスチャンでもある本島前市長は「投下を許し、アジアに謝罪することが必要」と考え直すようになったという。
 この原爆投下を許す思想に対し、被爆者の多くは「肉親を失い、死の苦しみを味わった被爆者に責任があるのか」「被爆者の苦しみが分かっていない」などと反発。
 ある関係者は「本島氏一流の計算だろう」と話し、反発が起こることを十分予想した上で、論議を巻き起こす戦略ではないかと指摘している。


(3)一問一答形式
◎見出し=当時は通常武器の一種/南京大虐殺も残虐と本島氏/一問一答
◎本文=本島等・前長崎市長のインタビュー要旨は次の通り。
―米国の原爆投下をどう考えるか。
「落とされるべきだった。(満州事変から)十五年間にわたるあまりに非人間的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」
―原爆の持つ非人間性は。
「原爆による死には『極限の残虐』という言葉が使われるが、拷問で死ぬ前の隠れキリシタンの恐怖は、いかばかりだったか。南京大虐殺や七三一部隊も残虐の極致だ。日本人の非人間性、野蛮が出ている」
―現在の核兵器をどうとらえるか。
「今、核兵器では何千万という人々が死ぬ。おもちゃのような原爆は、当時の考え方からすれば通常武器の一種だったと考えざるを得ず、核兵器廃絶を考える基礎になるものでない。被害の大きさが違い比較にならない」
―今の認識に至ったのはなぜか。
「日本人の持つ原爆観が世界に通用しないことを痛感するようになった。原爆は中国など侵略を受けた国々にとって救世主だった。市長を十六年間続けている間、被爆者問題について考え続けたが、日本人の野蛮は計り知れない。日本人全員が謝罪する義務を負っている」   
―被爆者団体の反発が予想されるが。
「撃たれた時もそうだったが、この発言を緩めるつもりはない。間違っていると思った時に声を上げるのが、われわれの任務だ。今年いっぱいかけて、これらの考えを論文にまとめたい」