カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

新しい「ミサ司式」の批判的研究 ー 3ミサの目的

2019-03-09 22:13:29 | ミサ
新しい「ミサ司式」の批判的研究

3ミサの目的 

 では、今からミサの目的について見てみよう。
(1) 究極目的:至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえ
 キリストの御托身それ自体の第一目的についてキリストご自身が言っている。「世に入りつつ彼は言った『御身はいけにえも捧げものも望まれなかった。しかし御身は私に体を備えて下さった29』」と。そして、このキリストが明らかに宣言された言葉に相応しく、ミサの究極の目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえである。
 「新しい式次第」では、この目的は消え失せてしまっている。
まず、奉献の祈りから"Suscipe, Sancta Trinitas"の祈りが取り除かれたことによって。またミサの終わりにあった"Placeat tibi Sancta Trinitas"の祈りが省略されたことによって。
さらに序唱から以前は日曜日ごとに唱えていた「至聖三位一体の序唱」がもはや日曜日には唱えられず、ただ三位一体の祝日にだけに限定されてしまったことによって。これによって、将来を「至聖三位一体の序唱」を耳にするのは一年に一回になってしまうだろうからである。

(2) 通常の目的:ミサの通常の目的は償いのいけにえである。
 罪の償いのために、ミサという犠牲が捧げられるという、ミサの通常の目的は、脇道にずらされている。ミサが、生けるものと死せるものとの罪の赦しを得るためにあるのに、その代わりに、今ここに集う人々を養い聖化することに強調が置かれている(54番)。キリストは確かにご自分をいけにえの状態として最後の晩餐の時に秘蹟を制定された。それは私たちをこの状態において主と一致させるためであった。しかし、主の犠牲はいけにえを食する前に既になされ、[聖体拝領なしでもそれだけで]流血のいけにえの完全な贖いの価値を含んでいる。このことはミサに参列している信者が必ずしも秘蹟的に聖体拝領をする義務をもたないと言うことからも明らかである30。

(3) 内在的な目的:
いけにえの本性がいかなるものであれ、これが天主によみされ受け入れられるものでなければならない必要が絶対にある。原罪を犯した後には、それ自体で天主に受け入れられ得るいけにえは、キリストのいけにえ以外に何も存在し得ない。
「新しい式次第」は奉献の祈り31の本性を変えてしまっている。すなわち、奉献の祈りは、人と天主との間の贈り物の一種の交換に変えられている。つまり、人はパンをもってきて天主はそれを「生命のパン」に変えて下さる、人はぶどう酒を持ち寄り天主はそれを「霊的飲み物」に変えて下さる、ということになってしまっているからである。
 「主よ、あなたは万物の造り主、ここに捧げるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。32」
 この「命の糧33」そして「霊的飲み物34」という言い回しの全くの曖昧さについて何の注釈もする必要がない。この言い回しでは何でも意味しうる。ミサの定義の中であったように、ここでも全く同じ重大で曖昧な表現が繰り返されている。ミサの定義の中ではキリストはただ単に霊的にのみ主の弟子らの間に現存なさると言い、ここの奉献の祈りではパンとぶどう酒とはただ単に「霊的に」のみ変化し、決して実体的に変化するとは言われていない35。
 奉献の準備において二つの素晴らしい祈りを廃止したために同じような曖昧さが生じている。「天主よ、御身は人間の実体の尊厳を素晴らしく創造し、また、これを更により素晴らしく改新され給うた。36」という水を祝福する祈りは、人間の原初の罪のない状態に言及し、キリストの御血によって贖われた現在の状態を描写している。この祈りはアダムから現在に至るまでの、いけにえのすべての計画を素晴らしくまとめたものである。
 カリスを捧げるときの最後の奉献の祈り37は、贖罪の祈りであり、この同じ計画を再確認していた。なぜなら、そこでは、この供え物が「芳しい香りと共に38」私たちが御慈悲をこいねがう、その天主のみいつの御前に立ち登らんことを祈っていたからだ。天主について絶えず言及しているこのような感謝の祈りを廃止してしまったために、もはや「天主的ないけにえ」と「純粋に人間だけによるいけにえ」との間にある明らかな差違が無くなってしまった。
 角の角石を取り除いてしまったために、典礼改革者たちは足場を備え付けなければならなかった。つまり、ミサの本当の目的を廃止してしまったために、改革者たちは自分自身で作った架空の目的を代用させなければならなかった。だからこそ、しぐさによって、司祭と信者との一致、また信者同士の一致が強調されるようになった。
 だからこそ、「犠牲として屠られるためのいけにえであるイエズス・キリストという捧げもの」に、「貧しい人々と教会のためにされる捧げもの39」ということが重ね置かれている。これによって、ミサが見るに耐えないものに崩壊してしまうだろう。
 犠牲として捧げられるいけにえ(すなわちイエズス・キリスト)が唯一であるという重大なことが完全に破壊されるだろう。そして、いけにえであるイエズス・キリストが屠られることに参与するということが、人類愛の集会あるいは社会福祉のパーティーに成り下がってしまうだろう。


29 詩編40:7-9、ヘブレオ10:5
30 原注6: 「感謝の祈り」(日本語では「奉献文」)と言われている新しい3つの典文は、やはり同じように、強調される部分がずれている。驚くべきことに死者の記念が取り除かれ、煉獄における霊魂の苦しみに関する言及が一切ない。しかし、償いの犠牲は、煉獄で苦しむ霊魂に適応されなければならない。
31 新しいミサのなかで、日本語では「供え物の準備」と言われている。
32 "Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate acceptimus panem (vel vitis) quem offerimus, fructum terrae (vel vitis) et manuum hominum, ex quo nobis fiet panis vitae (vel potus spiritualis)"(このラテン語を日本語に直訳すると次のようになる。「主よ、宇宙の天主よ、御身は賛美せられさせ給え。そは、我らが御身に捧げ奉るパン(或いは、ぶどう酒)は、御身の御恵みによりて我ら受け取り奉りたるがゆえなり。そは大地(或いは、ブドウの木)と労働の実り、そこから、我らのために命の糧(或いは、霊的飲み物)となるものなり。」)
原注7: パウロ6世の回勅Mysterium Fideiを参照せよ。この回勅の中で、パウロ6世は象徴主義の誤謬と同時に「意味変化transignificatio」や「目的変化transfinalizatio」という新説を排斥している。
33 Panis vitae
34 Potus spiritualis
35 原注8: 教父や教導職の文章に、確かに言葉としては見いだされる、言い回しや言葉使いが、それらが持っていた意味や文脈、また教義全体から離れ、それに言及されずに絶対的かつ新しい意味で再び使われている。(例えば、霊的糧spiritualis alimonia, cibus spiritualis, 霊的飲み物potus spiritualis)しかし、このようなことは、パウロ6世の回勅Mysterium Fideiの中で充分に摘発され排斥されたことである。
36 "Deus qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condidisti et mirabilius reformasti"
37 "Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam: ut in conspectu divinae majestatis tuae, pro nostra, et totius mundi salute cum odore suavitatis ascendat. Amen."(主よ、我らは御身に救いのカリスを御身の憐れみをこいねがいつつ捧げ奉る。そは、我らと全世界の救いのために、御身の天主の御稜威の御前に、芳しき香りと共に立ち上らんがためなり。)
38 cum odore suaviatis
39 総則49「感謝の典礼の始めに、キリストの体と血になる供え物が祭壇に運ばれる。…教会のため、また貧しい人のために信者が持ってくるか、あるいは道内で集めるかした献金または他の捧げものも奉納される。」

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