聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

聖堂の詩その486―夜明けと朝

2010-07-10 10:14:48 | Weblog
     朝焼けの琵琶湖に赤き比良比叡    紅日2008年10月号
 朝焼けは夏の季語。農林水産業に従事する人々には観天望気の知識は必須条件である。最近では高齢者登山が増えているのであるが、天気を変化を察知する登山者にも観天望気の知識が必須条件である。観天望気をする人々からは昔から「朝焼けは天気が悪化する前兆である」と言われる。低気圧が接近しているからである。地表からの水蒸気の蒸発により大気中に水蒸気が拡散する。太陽光が水蒸気により乱反射して東の空が真っ赤になる。
 掲句は朝日で真っ赤になった琵琶湖が比叡山と比良山を照らす景色をスケッチした。鈴鹿山脈に上る真っ赤な太陽が琵琶湖をこれもまた真っ赤に染めている。その真っ赤な琵琶湖が比叡山と比良山とを赤く染めているのである。鈴鹿山脈の空、琵琶湖の湖面、比叡比良の山並み、これら三つが揃って真っ赤である。近江全体が琵琶湖を含めて朝日に赤い。これは昼頃からは雨だと思った。
 聖書には朝焼けも夕焼けも発見できない。聖書地域に於ける乾燥地方から半乾燥地方にかけての独特の気象がその様な言葉を誕生させなかったのであろう。夜明けと朝には大きな違いがある。これも聖書地域の風土を表しているのであろう。一旦夜が明けると灼熱の太陽が降り注ぐ砂漠または半砂漠地方であり、冷涼な夜明け前と朝とでは大きな大気の違いがある。人間の大気への対応の違いが生じる。人間の生活行動の違いが発生するのである。聖書には夜明けが19回出て来る。巻別の分布表は下記の如くである。
●創世記では1回で、次の章節で発見できる。32-24
●出エジプト記では1回で、次の章節で発見できる。14-27
●ヨシュア記では1回で、次の章節で発見できる。6-15
●サムエル記上では2回で、次の章節で発見できる。9-26
●サムエル記下では2回で、次の章節で発見できる。2-32、17-22
●列王記下では1回で、次の章節で発見できる。7-9
●ネヘミヤ記では1回で、次の章節で発見できる。4-21
●ヨブ記では1回で、次の章節で発見できる。38-12
●箴言では1回で、次の章節で発見できる。4-18
●イザヤ書では1回で、次の章節で発見できる。8-20
●ヨナ書では1回で、次の章節で発見できる。4-7
●マタイ伝では1回で、次の章節で発見できる。14-25
●マルコ伝では1回で、次の章節で発見できる。6-46
●ルカ伝では2回で、次の章節で発見できる。12-38、24-1
●ヨハネ伝では1回で、次の章節で発見できる。18-26
●使徒行伝では1回で、次の章節で発見できる。5-21
 そして聖書には「朝」が198回と言う高頻度で出て来る。朝は夜明けよりも遥かに高い頻度で出て来る。眠りから目覚めて活動に入るのが朝であり、頻度が高くなる。聖書の「朝」の分布表を作成してみると次の如くである。
●創世記では19 回で、次の章節で発見できる。1-5、1-8、1-19、1-23、1-31、19-2、19-23、20-8、21-14、22-3、24-54、26-31、28-18、29-25、31-55、40-6、41-8、49-27
●出エジプト記では22回で、次の章節で発見できる。7-15、8-20、9-13、10-13、12-10、12-22、15-7、15-8、15-12、15-13、15-19、15-20、15-21、15-23、15-24、18-13、18-14、32-6、34-2、34-4、34-25、36-3、
●レビ記では7回で、次の章節で発見できる。6-9、6-12、6-20、7-15、9-17、9-13、24-3、
●民数記では10回で、次の章節で発見できる。9-12、9-15、9-21、14-40、22-13、22-21、22-41、28-4、28-8、28-23、
●申命記では4回で、次の章節で発見できる。16-4、16-7、21-23、28-67
●ヨシュア記では5回で、次の章節で発見できる。3-1、6-12、7-14、7-16、8-10
●士師記では13回で、次の章節で発見できる。6-28、6-31、6-38、7-1、9-33、16-2、19-5、19-8、19-9、19-25、19-26、19-27、20-19
●ルツ記では3回で、次の章節で発見できる。2-7、3-13、3-14
●サムエル記上では16回で、次の章節で発見できる。1-19、3-15、5-4、9-19、15-12、17-16、17-20、19-2、19-11、20-35、25-22、25-34、25-36、25-37、29-10、29-11
●サムエル記下では6回で、次の章節で発見できる。2-27、11-14、13-4、23-4、24-11、24-15
●列王記上では3回で、次の章節で発見できる。3-21、17-6、18-26
●列王記下では7回で、次の章節で発見できる。3-20、3-22、6-15、10-8、10-9、16-15、19-35
●歴代誌上では3回で、次の章節で発見できる。9-27、16-40、23-30
●歴代誌下では5回で、次の章節で発見できる。13-11、20-20、29-20、31-3
●エズラ記では1回で、次の章節で発見できる。3-3
●エステル記では3回で、次の章節で発見できる。2-14、5-14、8-18
●ヨブ記では6回で、次の章節で発見できる。1-5、4-20、7-18、11-17、24-17、38-12
●詩篇では9回で、次の章節で発見できる。1-1-3、1-1-5、1-1-5、1-1-16、1-1-8、1-1-14、1-1-8、1-1-3、1-1-147、
●箴言では1回で、次の章節で発見できる。27-14
●伝道の書では1回で、次の章節で発見できる。11-6
●イザヤ書では10回で、次の章節で発見できる。5-11、17-11、21-12、28-19、33-2、37-36、38-12、38-13、50-4、60-2、62-1
●エレミヤ書では2回で、次の章節で発見できる。20-16、21-12
●哀歌では1回で、次の章節で発見できる。3-23
●エゼキエル書では7回で、次の章節で発見できる。12-8、24-18、26-16、33-22、46-13、46-14、46-15
●ダニエル書では3回で、次の章節で発見できる。6-19、8-14、8-26
●ホセア書では2回で、次の章節で発見できる。7-6、13-3
●アモス書では2回で、次の章節で発見できる。4-4、5―6
●ヨナ書では1回で、次の章節で発見できる。3-6
●ゼパニア書では2回で、次の章節で発見できる。3-2、3―5
●マタイ伝では1回で、次の章節で発見できる。21-18
●マルコ伝では5回で、次の章節で発見できる。1-35、11-20、15-25、16-2、16-9
●ルカ伝では2回で、次の章節で発見できる。21-38、24-22
●ヨハネ伝では3回で、次の章節で発見できる。8-2、20-1、21-12
●使徒行伝では3回で、次の章節で発見できる。2-15、4―3、28-23
 聖書には以上の如く旧約聖書新約聖書通じて200回近くの高い頻度で出て来るのである。朝に対する意識が高かったことの表れであるともいえる。それは夜明け以上に朝に対する人々の意識が高かったと言えよう。朝に関して更に「朝焼け」を考えつつ分析を加えてみたい。聖書には朝焼けは発見できないと既に指摘したのであるが、それに近い語彙を探してみてその語彙が朝をどのように描写しているのか考えてみたい。
  (朝日)
 聖書には朝焼けが無いが「朝日」を発見することが出来る。聖書の「朝日」は旧約聖書に於いて2回であり、その回数は少ないが朝日を描写している部分がある。
●イザヤ書60-2に於いて「貴方の上には主が朝日の如く上られる」と朝日を描写している。朝日が仏教彫刻の後光の如く描かれている。●イザヤ書62-1に於いて「シオンの義が朝日の輝きの如く現れる」と朝日を描写している。この部分に於いても。朝日はシオンの義に対して朝日が後光の如く描写されている。
   (朝の光)
 朝日は朝の光とその意味が同じであるが翻訳者の好みであろうが、聖書では別々に扱われている。「朝の光」は聖書には一箇所にだけ発見できた。
●サムエル記下23-4に於いて次のように朝の光を描写している。「朝の光のように、雲の無い朝に、輝き出る太陽のように」とあり、未だ夜明けの冷涼感を残した朝の爽快感を描写している。
   (日の出)
 日の出は朝の光であるが、光そのものではない。日昇のことである。なお、聖書には日照という言葉は発見できない。聖書には「日の出」は13回出て来る。日の出は次のように描かれている。
●民数記2-3では「日の出る方向に宿営する者はユダの司となる」としている。朝日そのものは描いていない。
●民数記34-15では「二つの部族は日の出る方向で嗣業を受けた」としている。ここでも朝日そのものを描写していない。
●ヨシュア記1-15では「日の出のある方に貴方の土地がある」としている。ここでも朝日そのものを描いていない。
●ヨシュア記12-1では「日の出のほうで滅ぼした国は次の通りである」としている。ここでも朝日そのものを描いていない、征服地が東方であることを示している。
●ヨシュア記19-2では「サリデから日の出のほう核に曲がり」としている。日の出は光ではなく方角を示しているに過ぎない。
●ヨシュア記19-13では「其処から東の方、日の出のほうに進んで」としている。ここでも日の出は方位を示す言葉であり、朝日ではない。●詩篇1-1-1では「全能の神は日の出るほうから日の入る方に至るまでの人々が」としている。これも朝日そのものではない。
●イザヤ書45-6では「日の出る方の人々」としている。これも日の出の光そのものではなく方位を示すだけである。
●イザヤ書59-19では「日の出るほうから」としている。これも朝日そのものを指していない。
●マラキ書1-11では「日の出るところから日の入るところまで」としている。ここでも朝日の日の出ではない。
●マルコ伝16-2では「日の出頃に墓参りをした」としている。これは朝日そのものではなく時刻の日の出である。
●黙示録7-2では「御使が日の出のほうから上がってきた」としている。これも方位を示す日の出であり朝日そのものではない。
●黙示録15-12では「日の出の方から来る王達」としている。これも日の出の光そのものではなく方位を示す日の出である。
      (あけぼの)
 聖書には朝日や朝焼けそのものではなく「あけぼの」と言う語彙も出て来る。あけぼのとは日の出の状態を示す語であるが日の出より太陽光の状態を示す語である。あけぼのは東雲とも言うが、東に見える黄を帯びた紅紫色の空であり「朝焼け」に一番近い語彙ではなかろうか。但し聖書には「東雲」も「曙光」と言う語も発見できなかった。その「あけぼの」は聖書に5回出て来る。中には意味不明の翻訳もあった。
●ネヘミヤ記8-3には「水の門の前にある広場であけぼのから正午まで」とある。この場合のあけぼのは時刻を表しているものと考えられるが、「日の出から」と翻訳すべきではないのだろうか。それの方が日本人に分かりやすい。日本では「あけぼのから正午まで」と言うより「日の出から正午まで」と言う場合の方が多い。何故あけぼのと翻訳したのかその意図が分かりにくい。
●ヨブ記3-9には「あけぼのの瞼を見ることが無いように」とある。この翻訳は全く印に不明であり日本語になっていない。どうしてこのような翻訳が横行するのか分からない。酷い翻訳である。同じ箇所をもう一つの聖書で読むと「あけぼのの瞬きを見ることが無いように」とある。これなら分からないでもない。しかし、この翻訳もいい加減である明瞭な日本語にするのには「あけぼのの空に星の瞬きを見ることが無いように」と翻訳すべきであろう。朝日でたなびく雲が赤く染まっている。その様な東雲に星が瞬いているのであるがその星を見ないうちにと言う意味であろう。これらの二つの翻訳は誤訳ではなかろうか。
●詩篇1-1-0には「あけぼのの雌鹿鳴き声に」とある。あけぼのは時刻を示している。これも「夜明けに鳴く雌鹿」とするほうが日本語として通じやすいのではないか。
●詩篇1-1-9には「私があけぼのの翼をかって海の果てに住んでも」とある。これも意味不明である。
●アモス書4-13には「主は山を造り風を創造し、人々に主の思いを示し、またあけぼのを変えて暗闇となし」とある。これも翻訳が意味不明である。もう一冊の聖書には次のような翻訳をしている「神は山々を造り、風を創造し、その計画を人々に告げ、暗闇を変えてあけぼのとし」と翻訳している。こちらの方が遥かに分かりやすいのである。前者の翻訳「あけぼのを変えて暗闇となし」は逆である。夜が明けて明るくなるといっているのであるから翻訳者全く逆に解釈しているようである。誤訳である。尚これも「あけぼの」よりも、時刻を示すのであるから「夜明け」とした方が明確である。聖書には汚い日本語訳も多いのであるが、このような誤訳はどうして横行するのか訳が分からない。日本のキリスト教界では聖書に対する大きな誤解があるのではないだろうか。
    (聖書には「朝焼け」は発見できなかった)
 聖書で朝焼けを探したが発見できなかった。それに近い言葉も検証してみたのであるが朝焼けは発見できない。冷涼な夜明けよりも日の出以降の朝に対する意識が強いことがわかった。また、聖書には朝早く行動する傾向も見られた。太陽が登りきってしまえば急激に気温が上がり人間の活動が緩慢化するからであろう。「日の出」は方位を表すことが多く、朝日の太陽光を示すことは余り無かった。「あけぼの」も日の出の時刻を表す言葉であり、早朝の太陽光を示す言葉では無さそうである。
 朝焼けの赤い空を表現する言葉として聖書で敢て指摘するとすればそれは「朝の光」と「朝日」の二語であろうか。これら二語には神々しさを伴う表現箇所が幾つか発見することが出来た。
   朝焼けの琵琶湖に赤き比良比叡
 遣唐使は仏教を日本に齎した。遣唐使船を操るには高度な航海技術が求められた。琵琶湖を持つ近江の国は高度な航海技術を保有していた。安曇川下流の三角州の神社の殆どが古代に創建され航海安全を祈願する神社である。航海技術が高度な人々が仏教伝来に大きな役割を果たしたのは当然であり比叡山が日本の仏教の源流となったのはその様な必然性があった。朝焼けの比叡山を眺めていてその様に感じ生まれた作品である。聖書の「朝日」や「朝の光」にそれを感じるのである。