この夏、少年期の3年間(小学2年から4年)を過ごした島へ行った。
天気がよくとても暑い夏らしい夏に、ぼくは独り自分で自分を楽しんだ。
自分の人生における最初の礎石(今となっては、煌めく)のひとつは、この場所にあったのではないかと気付いたのは、
20代の半ばだったけれど、ぼくの中で過ぎ去ったもののうちでもっとも懐かしい場所がここ。
そんなわけで、多少の冗長さをみとめて、たくさん写真を載せてみたいと思います。
ただ、そういった場所はひとそれぞれのもので、誰もが持ちうるものだし、また、瀬戸内海にはこんな場所はざらにあるので、
とくに場所は特定しないでおきます。どこにでもあるだろう、単に個人的な追憶の場所であるに過ぎないので。
*
午前10:25 8月某日、出港
航跡 : 常に変化し泡立つそれをじっと見ていると眩暈をおぼえる。子ども時分には周りの景色にではなく、これに見とれていた。
まず、島の小学校に行った : 数年前に一人いた児童が卒業し、今は廃校となっている。ぼくが通ったのは昭和40年代初めころで、ぼくのいた学年の生徒数は21人だったのだが、、。ぼくがいた当時に校舎は木造から写真の鉄筋に建て替えられた。工事中の数カ月間は、海辺にあった公民館で授業が行われた。
二宮金次郎 : これは当時のまま。この銅像の前で撮ったクラス写真がある。
路地 : 現在、島民の平均年齢は約80歳。いちばん若い人で40代後半だとか。この日、外を出歩く人をぼくは数人しか見かけなかった。屋根が、ギザ、ギザ、ギザ、、
廃屋も何軒か目についた。緑にのまれ透明化(純粋化?)する仕草は魅力的だ。
*
ぼくが愛する海岸へ向かう : 港や集落は、島の南面。ぼくのお気に入りの場所は、集落の東にある緩やかな坂道を越えたさきの海岸。
坂道の入り口付近にも廃屋が、
蛸壺が置いてある空き地の横を過ぎ、
ひと気の全くない坂道を越えていきます
山からの湧水が道路を濡らすここは、アゲハ蝶の水飲み場になっている。
下り道になると徐々に視界が開けてきます。
浜が少し見えてきて、離れ小島がひとつ。 ぼくはこの景色が好きだ。
島の東側の浜に出ました。
ぼくの目的の場所は、さきの小島が見える方角とは逆の方向。
途中休憩 : この三角の標識を、子どもの時からなぜだかぼくは気に入っていた。
*
ここ、ここなのだ。ぼくの"美しい隠れ場”は! 堤防の上の木蔭。
まったくの独りきりの場所で、着ている服を全部ぬいで(汗でびしょびしょに濡れてもいるので)、お昼の弁当を食べ、酒に酔い、そして、ウォークマンで、
Origamibiro の shakkei remixedのアルバムに入っている - Ballerina Platform Shoes なんかを(まあ、これはぼくの場合はだけど)聴いてごらん、
”タウマゼイン!”と叫びたくなるよ。
* * *
午後には、島のあちこちを追憶に浸りながら歩きまわり、そして夕方、東の裏のこの海辺に戻りテントを張った。
しかし、順調なのはここまで。
夕食にカップラーメンを食べ、体内アルコール濃度も増しだいぶ気持ちよくなっていた夕凪のころ、蚊の大群が襲ってきた。(ある程度は予想していたのだが、、)
当然、テントの中に急いで避難した。しかし、テント内の温度が外気よりもかなり高い。テントを上写真の場所に張ったからだ。日中の太陽熱を目いっぱい吸収した石の塊が、放射熱をじわじわと床暖房のように発してくる、、、
結局、暑くてテントから出るしかなく、持参していた蚊取り線香を自分のまわりの半径1メートルに10個並べてバリアをつくり、
その圏内で、小さく膝をかかえて横になるしか睡眠の取りようがないのだった。
が、熟睡できるはずもなく(30分くらいはうたた寝しただろうか)、朝までやり過ごせるほどの蚊取り線香もなかったので、思いあぐねた結果、夜中の2時ころ、この場から撤収することに決めた。(テントをたたみ荷物をまとめるのに約1時間。月夜だったので明りには困らなかったのは幸いだった) そういえば、―――深夜、好かったこともあります。幻想的というか。 満潮時には、上写真のテントを張った堤の側面の 色の濃い部分まで潮が満ちて来たのですが、静かにゆれる海面の波が上空の月の光を小さく砕いて目の前まで運んでき、そして、波の当たる水際には、ときどき夜光虫の数々が発光し それに混じるのでした。
*
とくに行くあてもないまま、真っ暗闇の林道を越え集落のある南側に抜け、とりあえず蚊のいなさそうな港へ。(夜中の3時半ころ)
港のベンチで寝ようとしたものの、やはり蚊が多少はいて、(蚊取り線香の最後のひとかけらをつけていたのだが)刺されてしまい痒くて目が覚めたので(10分、15分は寝られたか)、夜が白んできたころ暇つぶしに港の写真を撮った。
*
最初の計画では、一泊した翌日もこの島で自分で自分を楽しみ、夕方の船で帰るつもりだったのだが、この年齢だしほとんど寝てもいないのでは体力的にキツイと判断し、始発(05:59)の船に乗船した。(ここから乗った客は、ぼく以外にはひとりだけ。)
レーダーの向こうに、大根の薄切りのような月
船上から朝陽を見るのは初めてだとおもう。(子供の頃に見たかもしれないが記憶にない。)
海上で潮風をうけながら、自分以外に誰もいないデッキでぼくはずっとそれに見とれていた。(思い通りにならない中にも楽しみはあるものだと、自分を慰めつつ)
* * * * * *
今回の島での滞在は、家(今では誰も住む者のいない愛媛の実家)からの行き帰りを含めても全行程は25時間くらいのものだった。けれど、そのほとんどを寝ないで過ごしたせいもあってか、濃密な1日だった。一瞬一瞬、見るものすべてが、ぼくの奥深いところと回路が通じているように、微かな何かを伝えてきたように感じた。
少年期のおよそ1000日間を過ごした思い出の場所なのだから、それはそうなのかもしれないけれど、しかしそれは、
年をとったからこそのぼくが、この今の感性で初めて感じたものだったかといえばそれは違うとおもった。
それは、子供時分のぼくが、そのときこの島というひとつの小さな世界で生きて(おそらく今より透明な眼差しを通して)感じていた、
言葉以前の世界感覚の部分的な反芻ではなかっただろうか。(子供は大人とは違うやり方で、意識することなく
より多くの何かを受け取るレセプターを備えていたのではなかったろうか。)
だから、ぼくの追憶は、文字通り 少年期の自分自身の感受体験を”部分的”に、追って憶い出していただけなのだろう。
今感じていることは、少年期に感じていたものを越えることはできない。そんな気がする。追憶だから追いつけない。
・・・ 子供が無意識に感じたことの”一部”を人は大人になってやっと僅かに意識するのだろうか。
* *
人生全体からいえば、島でのこの1日は、”暫時(しばし)”だったろう。暫時は一時的なものだ。だから永続的なものに比べれば、まったく重要とは言えないのかもしれない。
でも、短いたった1日の”全体”がこの日、 「追憶」(繰り返されない、戻ってこないものへの部分的ではあるが深度のある接近)のエーテルに浸されていた(大袈裟にいえば、1000日の空気を1日で呼吸しようとした)のだから、普段の無感動な大人の生活に戻った今の自分にとっては、現在の1000日にも値する1日だったといえる気もする。 ― 自分で自分をめいっぱい楽しんだ。