集英社(新書) 2006年 ★★★★☆
日曜日は以前いっしょに働いていた人の結婚式でした。披露宴に出席するために乗った電車は「北総開発鉄道」というローカルな路線。初乗りがなんと300円!結局10分乗っただけで570円も取られました。しかも電車は20分に一本しか来ないし。「これが第三セクターか・・・」と妙に感心してしまいました。その後は二次会もあったんですが、そちらは欠席して自宅で久しぶりに爆睡。日付が変わる頃に目が覚めて、仕事をしてました。それもようやく終わって、久々に更新です。
さて姜尚中先生の新著の表題は、なんと「政治学入門」(そんなに易しくないと思うんだけどなあ)。アメリカ、暴力、主権、憲法、戦後民主主義、歴史認識、東北アジアという七つのテーマを、著者が読者に語りかけるような筆致で解説している。そして全編を通じて引用の頻度が高いのは、ネグリとハートの『帝国』と『マルチチュード』、そしてホッブスの『リヴァイアサン』である。このあたりからは著者の最近の関心の所在が容易にわかる。
私自身は中盤の「憲法」のあたりから熱心に読んだ。「昨今、憲法に関するもっとも基本的な原則を、多くの政治家やジャーナリスト、さらには評論家までもが理解していないように感じられることが多い」(80p)と著者は記す。それは「近代的な立憲主義に基くならば[中略]またそのあるべき趣旨からすれば、憲法の目的は国民の信託に基いて権力を行使する国家機関を制約することにある」(98p)という原則が、改憲論議において全く無視されていることへの「怒り」とも読める。
このあたりは最近読み終わった愛敬浩二氏の『改憲問題』(ちくま新書、2006年)でも声を大にして言及されていたことである。日本近代史から言えば、大日本帝国憲法の成立過程において議論されたのも、神格化とされた天皇をいかに国家内に位置づけるかが一つの論点であった(この意味で美濃部達吉の「天皇機関説」は限りなく正しい)。しかし昨今の改憲論議や教育基本法の改正論議をみると、まず最初に「愛国心」が強調され、さらには「自由の制限」、そして「国民の義務」を拡大することが保守派の口から叫ばれ、議論の根本となる「憲法のあり方」にはまったく議論は及ばない。アクロバットな「解釈」を振りかざして憲法から乖離した「現実」を作り出し、そして憲法を「現実的ではない」と非難する。そんな保守派の言論に耳を傾ける価値はかけらもない。
「歴史認識」の章では、直接の言及はないけれども、「靖国問題」が背景に横たわっている。そしてこの章と、最終章「東北アジア」とは密接に関わりを持っている。著者は「[歴史]認識のすれ違い」について、「戦争や支配の陰惨な歴史をふまえながらも、その大切な隣人との関係性を未来に向けてどのように構築していくべきか、という、大きな政治構想をもつこと」と、「ナショナル・ヒストリーに回収しきれない内部の矛盾やさまざまな相克を、相互に認識しあう努力をしていくこと」を強調する(138p)。私はこれらに加えて、「同じ歴史を共有しているという自覚を強めること」を挙げておきたい。
不幸なことではあるが、日本は韓国と(もちろん北朝鮮とも)、植民地支配/被支配の過去を共有している。また中国とも戦争という過去を共有している。なぜ「靖国問題」が東アジアの国家間の問題たりえているかといえば、自国の来歴の中に共通した過去が厳に存在しているからである。瑣末な例だが、ナポレオンをいかに評価するかが東アジアの国々の問題になりえないのは、自らの歴史との関連が希薄だからである。しかし「靖国問題」をはじめとする、アジアの近代と深く関わる諸問題は、たとえそれが真っ向から対立する歴史認識の過程にあろうとも、共有する過去があってこそ語りえることである。そしていったん共有された歴史は未来を束縛する。
現今の段階は、いわば裁判の過程にある。加害者は自らの犯した過ちに対して反省の弁を口にするが、被害者はその反省を口先だけのものとして糾弾する。和解の道のりは一見険しく見えるが、そう遠くはない。なぜなら加害者と被害者は、摩擦や温度差はあろうとも、長い年月をかけて築かれた利害関係に基く大切な隣人だからである。加害者の誠意が被害者の寛容を呼び起こしたときには必ずや和解に至る。
以前も少し触れたことだが、「東アジア共同体」よりも「東北アジア共同体」に私がリアリティを感じるのは、かなり逆説的な言い方ではあるが、歴史認識が問題として顕在化していることにある。第二次世界大戦の被害は東南アジアにも広がっているが、現在は地理的な面や国家間の権力の差によっても、過去を直視しようという声は広がりをみせていない(これはこれで問題だが)。それに対して東北アジアでは、摩擦が今も激しい。しかし摩擦が起こるのは、近しい関係があるからこそ起こりえることなのではないだろうか。そしてその摩擦とは償却してしまうものでは決してなく、共に抱え続けるものではないだろうか。私も著者と同様に、「ナショナリズムの実在よりは、東北アジア共同体の虚妄に賭けるべき」(162p)だと考えている。
う~む、どうにも上手く書けません。4時頃から書き始めて、本を読み返したりしているうちに、あっという間に2時間もたってしまったのに。とりあえず24日は有給休暇です(笑)その他の読み終えた本はまた今度。GWあたりで全部一気に紹介したい思ってます。
日曜日は以前いっしょに働いていた人の結婚式でした。披露宴に出席するために乗った電車は「北総開発鉄道」というローカルな路線。初乗りがなんと300円!結局10分乗っただけで570円も取られました。しかも電車は20分に一本しか来ないし。「これが第三セクターか・・・」と妙に感心してしまいました。その後は二次会もあったんですが、そちらは欠席して自宅で久しぶりに爆睡。日付が変わる頃に目が覚めて、仕事をしてました。それもようやく終わって、久々に更新です。
さて姜尚中先生の新著の表題は、なんと「政治学入門」(そんなに易しくないと思うんだけどなあ)。アメリカ、暴力、主権、憲法、戦後民主主義、歴史認識、東北アジアという七つのテーマを、著者が読者に語りかけるような筆致で解説している。そして全編を通じて引用の頻度が高いのは、ネグリとハートの『帝国』と『マルチチュード』、そしてホッブスの『リヴァイアサン』である。このあたりからは著者の最近の関心の所在が容易にわかる。
私自身は中盤の「憲法」のあたりから熱心に読んだ。「昨今、憲法に関するもっとも基本的な原則を、多くの政治家やジャーナリスト、さらには評論家までもが理解していないように感じられることが多い」(80p)と著者は記す。それは「近代的な立憲主義に基くならば[中略]またそのあるべき趣旨からすれば、憲法の目的は国民の信託に基いて権力を行使する国家機関を制約することにある」(98p)という原則が、改憲論議において全く無視されていることへの「怒り」とも読める。
このあたりは最近読み終わった愛敬浩二氏の『改憲問題』(ちくま新書、2006年)でも声を大にして言及されていたことである。日本近代史から言えば、大日本帝国憲法の成立過程において議論されたのも、神格化とされた天皇をいかに国家内に位置づけるかが一つの論点であった(この意味で美濃部達吉の「天皇機関説」は限りなく正しい)。しかし昨今の改憲論議や教育基本法の改正論議をみると、まず最初に「愛国心」が強調され、さらには「自由の制限」、そして「国民の義務」を拡大することが保守派の口から叫ばれ、議論の根本となる「憲法のあり方」にはまったく議論は及ばない。アクロバットな「解釈」を振りかざして憲法から乖離した「現実」を作り出し、そして憲法を「現実的ではない」と非難する。そんな保守派の言論に耳を傾ける価値はかけらもない。
「歴史認識」の章では、直接の言及はないけれども、「靖国問題」が背景に横たわっている。そしてこの章と、最終章「東北アジア」とは密接に関わりを持っている。著者は「[歴史]認識のすれ違い」について、「戦争や支配の陰惨な歴史をふまえながらも、その大切な隣人との関係性を未来に向けてどのように構築していくべきか、という、大きな政治構想をもつこと」と、「ナショナル・ヒストリーに回収しきれない内部の矛盾やさまざまな相克を、相互に認識しあう努力をしていくこと」を強調する(138p)。私はこれらに加えて、「同じ歴史を共有しているという自覚を強めること」を挙げておきたい。
不幸なことではあるが、日本は韓国と(もちろん北朝鮮とも)、植民地支配/被支配の過去を共有している。また中国とも戦争という過去を共有している。なぜ「靖国問題」が東アジアの国家間の問題たりえているかといえば、自国の来歴の中に共通した過去が厳に存在しているからである。瑣末な例だが、ナポレオンをいかに評価するかが東アジアの国々の問題になりえないのは、自らの歴史との関連が希薄だからである。しかし「靖国問題」をはじめとする、アジアの近代と深く関わる諸問題は、たとえそれが真っ向から対立する歴史認識の過程にあろうとも、共有する過去があってこそ語りえることである。そしていったん共有された歴史は未来を束縛する。
現今の段階は、いわば裁判の過程にある。加害者は自らの犯した過ちに対して反省の弁を口にするが、被害者はその反省を口先だけのものとして糾弾する。和解の道のりは一見険しく見えるが、そう遠くはない。なぜなら加害者と被害者は、摩擦や温度差はあろうとも、長い年月をかけて築かれた利害関係に基く大切な隣人だからである。加害者の誠意が被害者の寛容を呼び起こしたときには必ずや和解に至る。
以前も少し触れたことだが、「東アジア共同体」よりも「東北アジア共同体」に私がリアリティを感じるのは、かなり逆説的な言い方ではあるが、歴史認識が問題として顕在化していることにある。第二次世界大戦の被害は東南アジアにも広がっているが、現在は地理的な面や国家間の権力の差によっても、過去を直視しようという声は広がりをみせていない(これはこれで問題だが)。それに対して東北アジアでは、摩擦が今も激しい。しかし摩擦が起こるのは、近しい関係があるからこそ起こりえることなのではないだろうか。そしてその摩擦とは償却してしまうものでは決してなく、共に抱え続けるものではないだろうか。私も著者と同様に、「ナショナリズムの実在よりは、東北アジア共同体の虚妄に賭けるべき」(162p)だと考えている。
う~む、どうにも上手く書けません。4時頃から書き始めて、本を読み返したりしているうちに、あっという間に2時間もたってしまったのに。とりあえず24日は有給休暇です(笑)その他の読み終えた本はまた今度。GWあたりで全部一気に紹介したい思ってます。