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奥邨五百子女史

2011-09-17 15:33:52 | 偉人碑
唐津市内、唐津城の近く、二ノ門交差点の緑地帯に立っている。



奥邨(=奥村)五百子(いおこ)(1845~1907)の銅像。

佐賀生まれ。社会運動家。生家は真宗の寺院。幼時から父兄の影響を受け、尊王攘夷運動に加わる。初婚の夫とは死別、水戸藩浪士と再婚したが、のち離婚した。その後朝鮮に渡り、光州に実業学校を設立。明治33年(1900)北清事変がおこると皇軍慰問使に加わり、北京、天津を歴訪。34年(1901)将兵慰問、遺家族援護を目的とする軍事援護団体・愛国婦人会を結成。全国を遊説し、会員の拡大に努めた。(出典:国会図書館HPより)

台座の正面には「奥邨五百子女史」と彫られたプレート。



台座の裏には、以下の文字が彫られたプレートがはめ込まれている。

愛は平和なり
昭和三十四年三月再建
唐津市婦人連絡会




傍らには、唐津市が設置した案内版がはめ込まれた石塔があり、以下のように記されている。

奥村五百子刀自
弘化二年(一八四五)
   唐津市中町高徳寺に生る
父・左大臣二條冶高公の孫で増千
  代と称し、九才の時京都より
  高徳寺に養子に入り、十二世
  奥村了寛となる勤皇の志が厚
  く維新倒幕に活躍した。
母・小笠原藩士山田円太夫の娘で
  浅子といい、非常に物やさし
  く、慈悲深く子女の教育に特
  に熱心であった。
兄・十三世奥村円心父に劣らぬ勤
  皇家で、国事に奔走した。

 明治維新前国家動乱のさなか一九才のとき
父に代って男装し、長州に入り志士の間を奔
走、勤皇の国事に力を注ぐまた、国会運動、
旧松浦橋架設、唐津鉄道、港湾開発等に大き
く貢献、明治三十年韓国の光州に渡り実業学
校開校、同三十三年南京で北清事変にあい感
ずるところあって帰国、ただちに上京、閑院
宮殿下、岩倉公爵夫人や陸海軍省や外務省に
出向いて時世を論ず翌三十四年には愛国婦人
会を創設、全国を駆け巡り世界屈指の婦人団
体を結成(婦人会員数は、明治末期に70万
昭和九年頃に二百数十万の大組織となった)
するなど国際的な女丈夫といわれた。
 六十二才の時健康すぐれず帰唐、明治四十
 年二月七日京都大学病院で六十三才の生涯
を閉す。
 銅像は昭和五年城内二ノ門広場(現ロータ
リー)に建てられたが、大東亜戦争に供出、
戦後三十四年三月唐津市婦人連絡会の手で再
建された。墓所は市内中町高徳寺にある。
唐津市



【DATA】
奥邨五百子女史
佐賀県唐津市大名小路3-12付近
建立:S34(1959)年3月
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